ああ。憂鬱だ。でも、それでいい。

ああ。今日も憂鬱だ。


夏休みがあけて、別にやりたくもないけどやらなければならないことに向き合って、5月でもないのに五月病を患ってるような気分の皆さん。


どうも、こんにちは。

五月病みたいな多くの人が経験したことある病みたいにこの時期の憂鬱も名前がついてしまえば、いっそ気が楽なのに。(それとも、台風の低気圧による偏頭痛といえば、憂鬱な気分から逃れられる?そんなことないな笑)そんなことを考えながら、今日も憂鬱だ。

人生の半分くらい憂鬱なんじゃないかって思うほど、ふと何がなんだか急に生きることが嫌になる。

好きなものに囲まれて、感性を逆立てて、幸せな気分に浸れば、憂鬱な気分が紛れるときもある。
でも、台風が秋をつれたからお気に入りの紺色のコートを引っ張り出しては、泉まくらのふちどりを聞きながら、金木犀の香りなんか感じじゃって、ふらふら歩いてみても、憂鬱なときだってある。

ああ、やっぱり憂鬱だ。

そりゃ、人生の大半、良いこともあれば悪いこともあると思うんだ。
でもさ、なにも理由もないのに、ただただやる気がわかなくて、責任感や義務感になんだか自分自身押し潰されて窒息しそうになる。

何だか生きづらい。
理由なんてないのに。

憂鬱な気分になると、どこかでそうなってしまう理由を探してる。いっそ理由が他人によってつけられてしまえばいいのに。それが公になってしまえばいいのに。

でも、他人任せにするのに自分の立場が脅かされそうな気がしてなんとなく憂鬱な気分を隠して、笑顔で偽ったりして。だから、自分自身で理由探すしかなくなって、何だか思考がずっと暗いままループしてる。なんて、冷静な自分もいる。

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それでもいいんじゃない?

憂鬱と半生を共にしている私は、(まだ人生そんな生きてもないが)最近思うことがある。憂鬱な気分のままでもいいんじゃない?

憂鬱な気分になる理由を探して、理由があったら自分の今の状況を認められるような気がしていた。

そもそも、理由を探してるのも誰かに理由をつけてもらいたいのも。自分の自覚していないどこかで、そんな私でも生きていていいんだよ、そんなことを確かめたいだけじゃない?

ああ、憂鬱だ。でも、それでいい。

自分に憂鬱な気分が溢れ出したって、そのままでいい。

私たちは、どこかで前向きに生きなきゃ、負の感情を持ち続けてはダメだ、だとかどこかしらも分からない受け売りを鵜呑みにして生きている気がする。
そうなってしまう自分にバツをつけて、勝手に自分を生きづらくしていないか?


前向きじゃなくたって、負の感情にうめつくされたっていい。
でも、そんな自分を認めてあげること。
そしたら、少しは生きやすい。


今日も何かするわけでもなく、私は憂鬱とともに生きていく。

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