ヴィパッサナー瞑想と只管打坐の比較 方法とは何か

 只管打坐をしていたことがある。その流派では徹底的に「ただ坐る」ということが強調されていて、「元々解脱しているのだから、坐るだけ」と指導された。「正しく坐れているか」というのが悟れるかの境目になるので、正しく坐れているかどうかのチェックを定期的に受けていた。「正しく坐れているか」は老師にしか分からないので、自分が正しく坐れているのかは悟れるまで分からないので不安だった。

 只管打坐の人は、瞑想を嫌うことが多い。禅の人には只管打坐は「テクニックなしで坐ること」であり、瞑想とは「テクニックで意識状態を変えること」だと認識されている。これは藁人形論法だと思う。瞑想というのは一つのテクニックだけれど、最終的には全くの努力なしで瞑想状態に自動的に入ることになる。テクニックが落ちる。只管打坐は「結果と方法が同じ」という点で純粋だけれど、実際は、ヴィパッサナー瞑想とやっていることは変わらない。瞑想を「気づき」や「禅定力」を培うテクニックだと定義すると、只管打坐も「ただ坐る」ことによって、気づきや禅定力を培うことを「実際には」している。
 
 なんで只管打坐は「修証一等」、つまり修行と悟りは等しいと主張するのかと言うと、修行をし始めた人も、悟った人も「今しかない」という点では同じだからだ。「今しかない」ということが腑に落ちれば悟りなんだと思うけれど、修行をしなければ、腑に落ちない。状態としては全員「今にいる」のだけれど、修行をして自我を滅さなければ「今しかない」ということが実感できない。だから「今にいる」という点では1回目の坐禅の人も1000回坐禅した人も変わらないが、「今しか存在しない」ということが腑に落ちているのは1000回坐禅した人だけだ。
 誰しも「今しか存在しない」という点では「修証一等」だ。けれど「実感」には差がある。
 この辺のパラドックスな状況を、禅の人は格好つけて逆説的に言う伝統がある気がする。中国の唐や宋の禅は確かに格好いいが、今はもう普通に修行の階梯を言語化したほうが人はやってくれると思う。

 只管打坐とヴィパッサナー瞑想の比較は、クリシュナムルティとラジニーシの比較とほぼ重なる。クリシュナムルティは「真理に至るための道はない」と言って「方法」を完全に拒絶した。一方ラジニーシは「本来はテクニックは必要ないが、凡人には方便として必要」として、古今東西の修行方法を紹介しまくった。ただラジニーシは「いつかは技法も捨てなさい」と言っている。「技法」に執着すると、それが新しい煩悩になるからだ。それが今の仏教界隈に起きていることだと思う。

 禅の老師はマインドフルネスを否定する。只管打坐の人は公案禅を批判して、公案禅は只管打坐を批判する。
 マインドフルネスの流派にも様々にあるが、マハーシ式はゴエンカ式を批判するし、パオ式はマハーシ式を批判する。
 アーチャン・チャーは、瞑想のやり方などには全く拘らず、しかも「公案禅は優れた方法だと思う」とも言っていた。結局「自我」が落ちればなんでも良い。

 「人は方法に執着するので悟る方法を探すのをやめなさい」とクリシュナムルティは口を酸っぱくして言っていたが、僕もそう思う。みんな喧嘩している。ただ、方法がないと途方に暮れてしまうので、方法も必要だと思う。方法は「効果があれば」「なんでもいい」と思う。それがお釈迦様の態度だ。
 釈迦は森を歩いている時に落ち葉を拾って、弟子に「森の中にある葉っぱと自分が持っている葉はどちらが多いか」と聞いた。弟子は「森にある葉っぱの方が計り知れないほど多い」と答えると「自分が認識したことは森の葉っぱのように多いが、説くことはこの一枚の葉のように少ない。そしてそれは苦しみを滅することに関することだけだ」と言った。

 方法論で党派心を燃やして「執着」するのは仏教の原理に反している。「執着が苦しみを生む」というのが仏教の核心なのだから、方法に執着してはいけない。「どれが正しいのか」「誰が正しいのか」「本当の悟りとは何か」ではなく「苦しみが減るのか」という基準が大切なように思う 

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