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みゃくらくのない苦しい思い出

なぜ私がそのシーンを思い出したのかはよくわからない。そこには“みゃくらく”らしき“みゃくらく”は見当たらなかった。

それを思い出したのはノルマンディーとブルターニュ旅行からパリに戻ってきた夜のことだった。夜9時ごろにモンパルナス駅に到着し、家の最寄駅に着いたのは夜10時少し前だった。きちんと夕飯を食べておらず変に空腹だったので、近所の中華料理店で何か食べようと思ったが、お気に入りのお店はすでに閉まっていた。ファストフードの気分ではなかったので、家に着いた私は、とりあえずパスタを茹で、ジェノベーゼソースと混ぜて取り急ぎその夜をしのいだ。

ジェノベーゼを食べ、少しだけ荷物の整理をして、ひと息ついたときだった。私は母に関するとあることを思い出した。


一昨年の秋口のこと。伊勢丹新宿店で行われる「Salon de Parfum」にçanomaとしてはじめて出展することになったり、立て続けにポップアップが重なったり、と、私はあれこれと忙しくしている時期だった。

そんな中、母から「腰が痛くて歩くのに苦労する」と連絡が入った。原因はよくわからないが、多分ヘルニアではないか、と電話越しの母は口にした。

すぐに家に行くことができなかったので、とりあえず杖を家に送った。数年前から患っていた肝臓がんのための定期的な通院も難儀する状態だったので、病院に行くタイミングで私が休みを取って付き添うことにした。

そんな状態がしばらく続いた。その間原因究明のための検査も何度かしたが、結果的によくわからず。そして痛みはひどくなる一方だった。

最終的に彼女はほぼ歩けない状態になってしまった。私はAmazonで車椅子を買った。レンタルという手もあったが、手続きが煩雑だったし、とにかく今すぐ必要だったので、購入を決意した。思っていたよりもだいぶ安かったのでホッとしたのを覚えている。


車椅子を買って数日後、母から電話がかかってきた。通常電話をかけるのは私からなので、それはあまりいい“しるし”ではない。

「腰の痛みね…あれ、がんの骨転移なんだって…」

その母の声は、楽しみにしていた遠足が雨でキャンセルになったときの、子供のあの落胆した時の色を帯びていた。その事実そのものも重たかっただろうが、さらにそれを私に伝えることも、きっとまた重荷だったはずだ。


冒頭で「シーン」と書いたが、それは情景ではなく、その母の落胆した声のトーンだった。彼女の身体をゆっくり蝕んでいく病巣を前に、なすすべもなく佇んでいる私たちの無力さが、その声色には滲み出ていた。

母は骨転移の判明から半年後に旅立った。


今思うと、数年の肝臓がんの後に、それがどこかしらに転移することは想像に難くなかったはず。腰が痛いと告げられた医者は、骨転移をその可能性のひとつにすぐにいれるべきだったのではないか、と思わないではない。

もちろん、今更そんなことをいってもしょうがない。骨転移が早期にわかっていたところで、結局無力な私たちの状況は変わらなかっただろう。どんなに医者の“怠慢”(それを怠慢と呼ぶのなら、だが)を責め立てたところで、私たちに残された時間はさして変わらなかったように思う。


ただ、ヘルニアだと思っていた腰痛が、がんによるものだと知ったときの母の心の痛みを想像すると、私はひどくいたたまれない気持ちになる。そしてその彼女の心の痛みの片棒を、私も担いでしまっていたような、そんな気がしてしまうのだ。


“みゃくらく”のない思い出の表出により、“みゃくらく”なく心が締め付けられた私は、ただひとり、パリの片隅の小さな部屋に閉じ込められたままだった。


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