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長編小説『テセウスの肉』第12話「31日目/165日目」

 三十一日目

 暗闇に光るそれは、パソコンモニターの明かりに掻き消されることはなかった。男がそれに気づいたのは、トイレに行こうと扉の方を向いたときだった。

「な、なんだ……?」

 大量のごみ袋や雑誌の隙間から、煌々と光る赤いそれは、不思議と男の心を引き寄せる。まるで灯りに焦がれる虫の如く吸い寄せられた男は、床に散乱する汚物を掻き分け、光源を探した。
 それはすぐに見つかった。
 ぬいぐるみ。少女を模った、ヴィンテージ調のぬいぐるみの腹の中が、まるでかぐや姫の入った竹みたいに明るく光っている。だが、それは赤く、まるで少女の内臓が透けて見えるようだった。
 男はそのぬいぐるみに心当たりがあった。フリマアプリでたまたま、アニメの推しに似ていたぬいぐるみを見つけたので買ってみたものの、いざ届くと興味がなくなって放置していたものだ。もちろん、アプリの購入画面でも、商品が届いたときも、光ってなどいなかったが。
 時刻は深夜一時。
 男はひとまずトイレで用を済ますと、自室のデスクの上にそのぬいぐるみを置いた。数カ月ぶりに、デスクライトを点ける。

「……汚っ」

 ぬいぐるみに付いた埃を軽く払い、その埃にくしゃみをして、男は言った。そして、デスクの引き出しから、カッターナイフを取り出す。光っている中身を取り出せられればと思い、カチカチと刃を出す。
 ぬいぐるみの腹に、刃を添える。
 少女の腹に、刃を添える。
 得も言われぬ背徳感に若干の興奮を覚えながら、男は手に力を込めた。古い布が切り裂かれる鈍い音がして、綿が出てくる。男は切り口をもう少し広げ、その綿をほじくり出した。煌々と赤く光る手元なので、まるで本当に解剖をしている気分だった。
 中から光るものの正体が、ついに姿を現す。
 それは、一枚の木の板だった。
 木の板が、光っていた。
 手触りも、においも、重さも全て、普通の木の板。かまぼこ板のような。ただ一つ、赤く光っていることだけが普通ではなかった。

「なん、だ……これ」

 男はそれをまじまじと観察する。すると、光って判りにくかったが、表面に文字が彫ってあることに気づいた。

「……え、と………………『あの子になりたい』……?」

 意味がさっぱり分からない。男は、ため息を吐く。板を裏返すと、何やら紋章のようなものが彫られているのを見つけた。
 それは、今まで見たことのない、変わった紋章だった。家紋のようではあるが、少し歪で、なんとなく気味が悪い。真円の中に、言葉で形容するには難しい、手遊びで作ったかのようなシルエットが描かれている。

『あの子になりたい』

 男はもう一度、表の文字を見た。

「……ま、真希チャン、俺が、海原雅人になったら、ああ……愛してくれる、かな?」

 呟き、パソコンモニターの画面を見る。
 デスクトップの壁紙は、様々な真希の写真で埋め尽くされていた。

 一六五日目

 雅人の体は、未だ元には戻っていない。それどころか、また違和感が増えたような気がする。
 大学帰り。駅に向かって私と雅人は歩いていた。

「……ねえ雅人。あんた、そんなに猫背だったっけ」

 私は疑問を素直に投げかけた。もう、自分の中で違和感を押し殺すのはやめた。明らかに雅人はおかしくなってきている。今度は違う病院に連れて行ってみようか。内科? 外科? ……分からないけど、とにかくそうしよう。

「うーん、なんか今朝から突然だったんだよね。そういえば、また変な夢を見た気がする」

 夢。
 そうだ。少し前に、そんな話があった。足を取られてしまう夢。

「え、もしかして」

「うん。今度は、なんか、背中かなあ。背骨? よく分かんないけど、引き剥がされちゃう! って感じだった気がする」

 ……足を取られる夢の翌日に、足のサイズが変わった。
 今回は、背骨。そして急に猫背になった。

「ねえ、もしかして、夢が関係してるんじゃない?」

「ええ~でも夢だよ?」

 雅人は笑いながら言う。

「耳の日とか、目の日とかは夢、見なかった?」

 私は雅人に詰め寄って、背伸びをし顔を近づけながら訊く。

「……あ、言われてみれば、目のとき夢見てたかも!」

 手を叩き、合唱の状態で雅人は言った。たった今思い出した! といった顔で、天を仰ぐ。それでも、背中は丸い。

「そんな重要なこと忘れんな!」

 私にどつかれた雅人は「ウェッ」と唸ってさらに背中を丸めた。
 ……でも、やっぱりそうなんだ。夢で誰かに体の一部を奪われて、現実ではその部分に変化が生じている。

「雅人。その夢に出てくる、奪ってくる人ってどんな顔か分かる?」

 雅人は顎に手を添え、宙を眺めた。

「うーん、覚えてないなあ……見えてなかったかも」

 ダメか。
 いや、まだ憶測の域を出ない。でも、怖い考えが浮かんでしまった。
 雅人の体に、誰かが何かをしている……かもしれない。
 でも、だとしたら何だろう? 体の一部を変えるなんて、魔法? 呪い? 未知の科学? ……考えたって分かりっこない、か。

「真希ちゃん?」

「え」

 気づけば、雅人が私の目の前で手を振っていた。

「最近、疲れてない? ……もしかして、俺のせい?」

 子供みたいにしょぼくれた顔で、雅人は言う。

「いや、気にしないで! まあそりゃあこれだけ変なことが起きてるんだし、少しは疲れるけど、大したことないから!」

 確かに、疲れた。
 雅人の体。ストーカー。それに、昔のことを思い出してしまった。
 今日はゆっくり休もう。早く帰って、眠りたい。

   *

 私は疲れ果てた顔で、自宅アパートの前まで辿り着いた。雅人も一緒にいる。今日は泊っていくことになったからだ。
 部屋の扉を開ける。すると、郵便受けに大きな茶封筒が入っていることに気づいた。

「……なんだろ」

 手に取ると、少しだけ厚みがあるのが分かった。
 私たちは手を洗い、荷物を置いたあと、その封筒を開けてみることにした。ハサミで封筒の上部を切り取る。斜めにすると、中から大量の紙が出てくる。

「……これって、写真?」

 私は、大量の写真の中から一枚を手に取る。そこに映っていたのは、紛れもない、私だった。身体中に緊張が走る。震える手での写真も物色すると、それらの写真も全てに私が写っていることに気づいた。

「嘘……」

 雅人は写真を二、三枚手にしながら声に漏らした。そして、ある一枚を見て、目を見開く。

「俺も、写ってる」

 それは、私と二人でデートをしている写真だった。ただ、その写真には黒の油性ペンでこう書き足されている。

『↓ぼく』

 その矢印の先には、雅人が写っている。意味が、分からない。
 雅人はその写真を裏返した。すると、真っ白な裏面に、同じペンでこう書かれていた。

『もうすぐ、全部入れ替わるよ。真希チャン』

 入れ、替わる……?
 全身の毛が逆立つ。私は、ゆっくりと雅人の方を見た。以前の靴が履けなくなった足。ホクロの消えた右耳。眼帯を着けた右目。曲がった背骨。……もしかして、これは変化ではなく、置換――?

「何? どういうこと?」

 雅人はまだ、気づいていない。これは、言うべきなのか。本人が気づいてしまったら、どうなってしまうのだろうか。言わない方が、いい?

「ねえ、真希ちゃん。これって俺、誰かと少しずつ、体が入れ替わってるってこと?」

 ……ああ、そうだ。
 雅人はこう見えて、意外とちゃんと賢い。ここまで来れば私と同じくらいの察しだってつくだろう。やっぱり、私はまだまだ雅人を知らないなあ……。

「あれ、これって」

 私は文末の『真希チャン』という表記に見覚えがあることに気が付いた。
 なんだろう。なんだっけ。
 最近見た、この絶妙に気持ちの悪い呼び方。

「……インスタのストーカー」

 閃くのと同時に、声に出た。
 そうだ。これは、つい先日インスタのダイレクトメッセージに現れたストーカーと同じ呼び方である。明らかに特徴的な、おじさん構文的呼び名。

「インスタ? ストーカー? これの送り主が?」

 聞いてないよと言わんばかりの雅人に、私は桃の一件の後にもネットストーカーがいたことを説明した。雅人は自分に相談しなかったことに少しだけ怒ったが、すぐに落ち着いてくれた。

「……つまり、そいつがこの写真の送り主で、もしかしたら俺の体を取っちゃってるってこと?」

 雅人が言う。言葉にするとやっぱり荒唐無稽で、まだどこか疑いの余地があるように思えた。

「たぶん、そう」

 私と雅人の間に沈黙が下りる。さっきつけたばかりのエアコンが、九月の残暑を部屋から取り除こうと重労働をしている。

「とりあえず、警察に通報した方がいいんじゃない?」

 雅人が私の写る様々な写真を見ながら言う。明らかに家の前の風景もある。

「……そうだね、少なくとも写真の件は」

「俺の体のことは……話しても信じないかなあ……?」

 そう言って、雅人は眼帯を摩った。その手は右耳にゆっくりと移り、ぎゅっと引っ張る。

「いて」

「何やってんのよ」

 私は呆れ声で言った。このとき、ずっと自分の体に力が入っていたことに気が付いた。

「真希ちゃん、大学には? 伝える?」

 そうか、こういうのって、大学にも――。

「待って、だめ」

 半ば反射的に、声が出た。雅人の体がビクっと動く。

「大学にこんなことバレたら、学祭のベストカップル出れなくなるかも」

 雅人は私の顔を見る。どんな感情なのかは分からない。
 でも、分かってる。馬鹿げた提案だと思っているのだろう。こんなことになって、もしかしたらとんでもなくヤバい事件の中にいるかもしれない中で、たかが学祭の一イベントに出るために、こんな判断をするなんて。だけど。私にとっては、違う。

「雅人、私――何言ってるの? って思うかもしれないけどさ、この大学のベストカップルは憧れで、その、もし素敵な恋人が出来たら絶ッ対出たいって思ってたの」

 雅人は、うん、と頷いた。口元は、少しだけ微笑んでいる気がする。

「私、そのために……いや厳密にはベストカップルのためってだけじゃないけど、でも、毎日お肌や髪の手入れとか、メイクとか、服買ったり、体型も維持したり、頑張ってきたの!」

 雅人の表情の奥が見えない。

「可愛いって言われたくて、綺麗って言われたくて、性格だって頑張って可愛くなろうとして……雅人とも出会って……その、えっと……」

「……そのために、俺と付き合ったの?」

 ちが――ッ
 ……言葉が、出なかった。
 雅人は、いつもの優しい声。優しい微笑み。

「……真希ちゃん?」

 違う。違う。
 違う、違う、違う。ちがう。ちがう。

「………………わからない」

 あ、これ、もうダメなやつ……かも。
 雅人がスッと立ち上がる。ああ、別れよう、かな。何も言わずに出ていくのかな。あああ、なんで……なんでこんなこと……。

「もしもし」
 スマホを取り出した雅人は、どこかに電話を掛けているようだった。

「はい。ストーカー被害に。彼女が。はい」

 私は、雅人を見上げた。視界が歪んで、顔が見えない。目頭が熱くて、鼻の奥が湿るのを感じる。雅人はどんな表情で、そこにいるんだろう。

「……はい、ありがとうございます。よろしくお願いします」

 電話が、終わった。
 雅人は再びしゃがみ込み、私と目線を合わせる。

「警察。今から来るって」

 私には、雅人の感情がまったく分からなかった。

   *

 しばらくして、警察が私の部屋にやってきた。事情を聞かれたり、証拠として写真を見せたりと色々していたら、すっかり日は沈み、外は暗くなっていた。その間、雅人は私と一度も口を利かなかった。
 送られてきた封筒や写真には、私と雅人の指紋しか残っていなかったらしい。手掛かりは、インスタでダイレクトメッセージを送ってきたあいつだけだが、同一人物である証拠がないので、どうにもできなかった。

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