細田守『竜とそばかすの姫』(の、寓喩と演出についてのメモ)


とかく細田守は誤解されやすい作家だとおもう。前作『未来のミライ』など顕著な例だったが、映像的な技巧によって観客の解読を惹起する側面がこと細田作品については「なぜかいつも」おしなべて閑却され、おおむねリアリティや蓋然性の側からのみ評価されがちなのだ。これには徴候的なものさえ感じられてしまう――とはいえ実際のところ、この作り手がいつも寓話性とリアリティとの折衷に苦心しているようにみえるのもまた事実で、正味この夏の新作『竜とそばかすの姫』についてもその印象はまったく変わらない。あまつさえ現実と対照されるヴァーチャル空間の映像がどこまでも茫漠とした印象をしかあたえず、そこへ物語の立ちあがりの遅滞や諸要素の不活性がかさなりあうと、なるほどこと本作に関しては蓋然性の問題ばかり指弾されてもむべなるかなという気はする。反面、細田のもくろみがあくまで寓話の構築にあった点をつよく意識して画面をおもいおこしていくと、たしかに演出の理路がしっかりと噛み合っていた――あるいはそれは「成功しかけていた」だけだったかもしれないが――諸々の細部も、ありありと浮かびあがってきはしないか。以下はそれらを積極的に汲みとってみる試みの、現時点でのひとまずの備忘録めいたものだ。


(以下、ネタバレ多含)


『竜とそばかすの姫』が一貫してえがきだそうとするのは「中心」と「周縁」の緊張関係をめぐる寓話だろう。それは第一に、中心=栄誉にあたいするアイドル的存在と、それをとりかこむ者たちの「マス」=周縁――というかたちでまず取りだされる。仮想世界「U」(「あなた=Youの鏡像/再編成」という意味性をかたどると同時に、「As」とかさなって「Us」=わたしたちを形成し、あるいは「U」の字形そのものが、ある対象をいまにもとりかこもうとする、円になる直前の湾曲運動をもかたどっている)の中心で歌姫・「ベル」がクジラのオブジェクトに乗りたからかにテーマソングを歌いあげ、彼女の歌に聴き入るモブたちの圧倒的な群像が立ちあがる冒頭シークエンスはその中心-周縁構造の第一のすがたをしめす。以降、ベルの正体=顔にそばかすのある内気な少女・すずのリアルがあらわされ、彼女がベルになるまでの過渡が徐々に明かされていく現実パートでは、仮想空間で強調された中心-周縁という力場が、今度はスクールカーストに軸足を変えて変奏される。学校のマドンナ=吹奏楽部のサックス担当・ルカが中庭=中心で演奏するすがたを/あるいは美的なルックスと卓越した運動神経のためにルカと同様カースト最上位を占めるバスケ部の忍を、ともに周縁=校舎側から見下ろすすず(と、彼女の親友・ヒロ)――という、明確な対比が敷かれ、ここで中心と周縁をめぐる政治的な力場の存在が早々に呈示される。


他方で中心とはたんに個の栄光だけをあらわすものではなく、孤立・疎外の状況もまた同時にしめしうる。現実世界においてそれを象徴的にしめすのは、たとえば(「部活の中心」でもあったルカや忍に対して)「部員ひとり」のカヌー部部員・カミシンであり、むろんほかならないすず自身もまたそうだった。現実のすずは「歌えない」ことによってまず疎外をこうむる(カラオケでクラスの女子たちから一緒に歌うよう同調圧力をこうむる――「U字形に」マイクが差しだされていく一連――もすずは断固拒絶、逃走した果てに苦しげに声をしぼりだし、歌声の代わりにむなしく吐瀉物をはきだす場面が、その典型だった)。それで「生体認証をおこない」「個人のかくされた特性を引き出す」「U」を媒介して歌唱をとりもどし、あまつさえ絶唱の歌姫として仮想世界の中心に躍り出てしまったわけなのだが、このとき設定された仮想世界内でもちいられるアバター=「As」に、学校の中心的存在だったルカの容姿があてがわれてしまう――という顛末があった(集合写真の中心=ルカが第一に抜かれ、周縁=すずが追随を余儀なくされる一連がなお寓喩的)。結果、うつくしく成型されたベルの顔に付与された「そばかす」だけがすずの現実の身体からもたらされた換喩的表象となる――これで晴れて歌声を獲得したかたわら、すずの現実の身体そのものは同時に疎外をこうむるという、中心と周縁のはざまで二重化された構図までもができあがった。


作品は中盤から後半にかけ序盤で中心にいたとおもわれた者たちに「周縁性」を少しずつ付与していく(つまり後述するが「周縁とは中心が多数化された別のすがたにすぎない」という思惟が内在するのではないか)。そこでもちいられるのが「並列した人物を横からとらえた同一ポジション」。これが第一に人物間の並列=周縁関係をかたどる。その恩恵にまず与するとおもわれるのがすずの幼馴染――すなわち「隣接関係」――に当初からあった忍だが、ここには微妙なフェイントが付随する。以下、順番に場面をおもいだしていく――忍からすずが声をかけられる主要な場面はおおまかには三度あったはずで、たしか一度目は学校の廊下だった。すずをおもんぱかる忍と、その忍にあわい恋心を寄せるすずという対比が呈示されたのち、その場では関係の内破が起こることもなく、すずは一度はその場を後にする。直後、縦構図で画面奥の廊下に取り残された忍をとらえた画面が右方向へパンすると、画面手前、廊下の角に身を隠すように背をもたせかけたすずのすがたがしめされ、やがて、意を決したようにいまいちどすずが廊下側へ出る(=さきの運動をなぞりかえすように画面は左方向へパン)と、こんどは画面奥の忍がルカと談笑しているようすがすずの背中越しにうつしだされる。すずの表情――「邪推」。いまいちど疎外をこうむるのだった。これで隣接関係によってゆるやかに形成された周縁性を中心性が剥奪する運動が、パンによる往復を利用した横からの並列構図→垂直構図の変遷によってあらわされたことになる。


二度目は夕方の川べりを歩んでいたすずがふいにハミングしだす場面だった。すずは現実でもひとりなら――つまり、周縁=オーディエンスがいなければ――難なく歌える。すずを演じる中村佳穂の「艶がありながら同時にどこか凡庸さを帯び(=つまり生身の凡庸さのうちに美が内包される逆説を所与としていて)」「それでいて平時の発声がふいに音楽へと生成しかねない予感をつねにまとった」声はなるほどすばらしく、このシーンなどとりわけその特異性がきわだっている。むろん先述の廊下シーンと同様、画面は横からの同一ポジション。粒立ってはずみだす歌声に歩行カットが付随し、カメラもまたはずむような「揺れ」をかたどり、画面ぜんたいが甘美なハレーションを帯びてあわく夢幻化しはじめる。背景の川面が乱反射する光の粒子もまた音楽的組成をもつ。ふと歌声がやむ。画面奥=水上にカヌーをひとり漕ぐカミシン(稠密で写実をきわめた作画に一瞬、驚愕が起こる)の介入があったためだ。これも並列→垂直への推移とみえる。直後、やはり廊下場面を反復するように忍が画面右側から登場。横構図でいまいちど隣接関係が強調されるが、すずが告白に踏み込もうとした瞬間、画面左側から練習を終えたカミシンの、こんどは直接の介入がある(=ふたりと同一軸の「横並び」になった)。それですずの告白はカミシンへの言葉へと「ずれ込み」、あまつさえすずによる、カミシンの大会出場にたいする(なかばは「愛想」だろう)応援の言葉を「イコール自分のことが好き」と短絡されるという、どこまでもずれた反応の応酬がなされる。反面、このことによって「ひとり」だったカミシンは横並びの関係性=「周縁」のなかへあっけなく取り込まれたことにもなる。


呼応するようにして(これまでは「中心」だとおもっていたはずの)ルカもまた「周縁」に合流する――これが第三の場面。ルカと直接に言葉を交わしあった結果、忍とルカの蜜月は案の定すずの勘違いで、むしろルカが好意を寄せていたのは「あの」カミシンだったという、ここでもずれの応酬によるギャグ=関係の連鎖がある。作中でも屈指の「清涼感」をもった、すずの家の軒先でふたり横並んで座り、フルーツティー片手に語らいあい、同形模倣のていでしずかな相互理解へといたるシーンがとりわけ印象的。そうして直後、駅でまさかのカミシン当人に出くわす――ここからは例の横構図で「擬似長回し」。すずを中心とした先程の川べりでの場面から、ちょうど忍がルカに変わったかたちで問答の反復とフレーム内への出入りを利用したギャグがつるべ打ちされる。この時点ですでにカミシン-すず-ルカの並列関係が成就したものとみえるが、問題はここから。ちょうどベル(=自分)の話題が出たところで気まずくなったすずが徐々にフレームアウト、駅の外へ出ると後方から(「突然現れた」ようにしかみえない)忍に声をかけられる。ここではじめてすず-忍間に「切り返し」が解禁される――それも車がせわしく往来する車道を差しはさんだかたちで。たがいに「点滅」しながら向きあうさなか、告白を身構えたすずに忍がかけた言葉はしかし、予想とは異なりベルの正体をすずだと断言する指摘だった。ずれの重畳――動転したすずはあわててその場を後にしてしまう。


この三度目の場面がしめすのはどのようなことか。つまり、「いつも中心を担っているとおもっていた」カミシンやルカが横並びの関係性=周縁へとつぎつぎに合流していく過程のさなか、一度目、二度目は問題なく横構図であらわされ、「(中心でありながら)自分のかたわらにつねにいるとおもっていた」忍が、にわかに垂直構図の向こうへと切り返されることで、端的にほんとうはそうではなかったことがまずあらわされているとみえる(ゆえにあの「擬似長回し」場面は、後続するその断絶のほうを際立たせるための「溜め」の役目を買っていたのだという事後的な理解もまたなされる)。忍とのあいだに生じる断絶は、なされた会話のレベルでは「告白」-「ベルの正体」という行き違い=齟齬にあてられるが、ルカやカミシンを隣接させていたのが「恋愛感情」ないし「青春」というトピックだった背景をかんがみると、忍とは「恋愛関係では(この時点では)隣接しえない」という峻拒の態度が、この切り返し場面には存しているわけだ。なぜか――ほかならない、恋愛対象でなければ忍は、ルカとの会話で示唆されていたとおり、すずを庇護する「母親」にむしろずっとちかい存在だったからだろう。


かなり遠まわりしたが、ここでようやく作品の核心部=「中心」に言及できる。すずにはいまひとつ、中心と周縁をめぐるオブセッションがあった――実母の喪失がそれだ。幼少期にすずの母親は、「氾濫した川の中州に取り残された子供を助けにいって」、そのまま還らぬ人となった。むろんこの中州に取り残された子供のすがたは、そのまま中心存在の疎外状況をあらわしていた点で、中心-周縁の問題系にありありとつらなる。他方「娘を残したまま(別の子供を助けに行き)逝ってしまった」母親は同時に実娘=すずをも結果的に疎外したとみえてしまう状況もあり、それで母親のその英雄的行為の是非がすずにとってなおも問いに付されたままなのだった。だから、川の中州=中心に取り残され疎外された孤独な子供とは、(結果的には無事に助けられた)あの子供であると同時に、「川べり=周縁に置き去りにされた」すず自身だったのでもあって、いわば現在のすずは中心-周縁間に身を引き裂かれ、自己存在を世界にうまく定位できなくなっているのだ(人の輪のなかで歌えないことはその寓喩でもあったはずだ――あまつさえサルトル的な実存とむすびつけられる「吐き気」を帯びていたことが、いかにも示唆的だった)。実の父親(=親という、もっとも自己に隣接しているはずの存在)とおもうように言葉を交わせないという現在の不調和もまた、その延長線上にある問題なのだった。


そこへタイトルのもう片翼をになう「竜」の存在が噛み合う。「U」ではおしなべて忌み嫌われる存在だった謎のプレーヤー・竜は、中盤から終盤にかけて、いわば「謎」として作品の「中心」を占めることになる。竜とはいったい何者なのか――それで彼の周縁のひとびとは連想=隣接方式で正体を割りだそうとするが、背中の傷や悪辣な内面、秘匿された身体性といった微細な換喩表象からはその本質を言い当てることが誰もできずにいた。すずとヒロによる調査網もまた空転するが、「U」内での竜との接触をかさねるにつれ、ベル=すずは徐々に竜の寓喩的な意味=本質へと接近するにいたる。解答を先に言ってしまえば、それは――「子供」。東京に住まう父親と三人暮らしの兄弟のうち、その兄のほうが竜として振る舞っていた――しかもそれは、容赦なく自分たちへDVを振るう父親にたいしての抵抗を第一にしめし、さらに弟へ英雄的な幻想をあたえてやるためだった――ことが、作品の終盤ではつまびらかにされるのだった。その解答へと到達するまでのプロセスでは、いまはディズニーの名作として人口に膾炙している『美女と野獣』の物語が、なかば無邪気といっていいあんばいで直截的にトレースされもする。ただし留意すべきなのは、本家『美女と野獣』の醜いけものがほんとうは魔法ですがたを変えられたうつくしい王子だったのに比し、本作ではけものと対峙する美女=ベルのほうが、「そばかす」に転移させたみずからの、ほんとうはまずしい実質を隠匿=変貌させた存在だという逆転ないしは(ここでも)ずれがあって、それでじつはベルと竜とは同形模倣なのではないかという予感が徐々にたかまってゆく。そうして竜が子供だったと素性が割れたとき、同様に過去に取り残された子供のまま現在にいたってしまったすずの現実とが、ゆるやかにかさなりあっていく機微をもつ――あの中州で泣いていた子供がじつは同時にすず自身でもあったのではないかという疑念を、まさに裏づけるように。


だからすずが現実の自己身体を「アンベイル」=仮想世界のなかでさらすことは、おのれの(この世界における)真の現在位置をたしかめる通過儀礼でもあり、同時にそれはあの取り残された子供から大人――そう、あの実母のような――へと成長するための第一歩ともなる。その瞬間をあらわしたのが、(作中もっとも感動的といえるだろう)終盤のライブシーン。この場面でとりわけ留意すべきは、「周縁」がつぎつぎともしていく粒子状の光がひろがっていくその光景だろう――それはユーザー個々=「多中心」が「周縁」と同定されていく過程で(かつての中心から零落したペギー・スーの存在がその側面を強意する)、あの川面の光のように音楽的動性をもつものとして描写されている点がまた重要だった。そうしてすべてをさらしたすずは、ほどなく母へと生成する――子供たちを手ずから救うことによって。モニタ越しの切り返しだけでは救助はなしえず(定点カメラのテクスチャー=デジタル特有のザラつきが、忍とのあいだにしめされた車道越しの切り返しと同様、超過不能な障壁の存在を際立たせていたはず)、あの時の母のようにすずはひとり――あたかも「そうしなければならないかのようにそうなる」ことが、この作品がどこまでも寓話だということを如実にしめしている――みずからの足で目的地へとむかうことになる。


最終局面もまた横構図、ただし現場は住宅街、坂の傾斜が加味して画面には斜めの線が横切るかたちとなり、横並びになるはずの関係に「微差」がきざす。それが作品の最終的な構図選択となる。横ならんで中心=中庭を「見下ろす」かたちでもなく囲繞された個のかたちでもなくそれらの中間態として、斜行+横構図がえらびとられたのだ。雨の降りそぼるなか、「母のすがたで」ふたりの子供を彼らの暴力的な父親から庇護する姿勢にかすかに『おおかみこども』の記憶もよぎる。子供が兄弟で「ふたり」いるのも偶然ではない――ただしそこには、すずがいま救おうとしている大文字の「子供」のうちに、過去の自分自身までもが内在しているという含意すらもあったはずだ。子供たちの父親がすずを引き剥がそうとするとき、すずの顔の皮膚をその爪がわずかに裂き、そこから赤く血がにじみやがてそれは雨にながれ頬をつたう。しびれをきらした父親はとうとう拳をかかげ襲いかかるが、立ちふさがるすずの毅然とした表情を見た瞬間、その場にへたり込み、おそれをなしたように弱腰のまま逃げ去ってゆく(まるで神を相手にしたか、それとも幽霊でも目撃したかのようなありさまで)。ようやく自己自身を定位した――つまり、自分の身体を再獲得した――すずの顔が、その血をながすヴァルネラブルな身体が、暴力を振るうべからず、とメッセージを発していたという、これはいわばレヴィナス的な帰結だったのだろうか。あるいは竜の背中につけられた傷の出自が、現実の「本体」が暗にこうむっていた父親からの家庭内暴力に起因していたことを考えるに、この父親ははじめてみずからの付けた傷を目にして、その「あらわれ」にこそ畏怖したのだともまたいえるか。アンベイル=顕現とは基本的に神的でしかありえない。あるいは可視性そのものが暴力を駆逐した――いずれにせよそれは、倫理だといいたいのだろう。


まだまだ汲めていない細部は数多くある。たとえばすずの顔の形象について――作中で強調されるのは「そばかす」の存在だが、作画的にはむしろ眉間の下部にわずかに浮かびあがる三日月型の陰影のほうが重要だろう。かりに瞳そのものを中心=(作中の比喩を借りれば)「太陽」だとするならば、この陰影がいまひとつの(影の)中心=「月」、そのまわりに「星」=そばかすという周縁が存する――という世界像が、すずの顔、とりわけ目元にはなから内在していた事実にふと気づく。これらを作中の描写と対照すればどうなるか(むろん人間に中心をすえるとしたら、最初におもいうかぶ候補はとうぜん「顔」ではないか)。あるいはその三日月型を(すずの家で飼っていた犬の前足のような、あるいはマグカップの欠けのような)「欠損」とみたら。月の欠損とは周知のように部分的な隠匿でしかなく、いうならばそれはあくまで「ヴァーチャルな」ものだろう。だが最終局面ではそこに「ほんものの傷」が付与される――このあたりはいかようにでも解釈がとおりそうな部分だが、追って精査が必要なところかもしれない。

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