連載小説 約束の地①

 今書いている小説。たぶん5回ぐらいで完成します。


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 「お父さんは衰弱して厳しい状態です。ずっと寝たきりのため、もともと体力が低下しています。いつどうなっても、おかしくありません」
 かすみとお母さんは主治医から呼ばれてムンテラ——医師が患者さんや家族に病状や治療についての説明を受けた。
 「積極的な治療をしても効果は期待できないでしょう。ご本人のためとも限りません。かえって苦しい思いをするかもしれません。治療を続けることで少しでも長く生きることを望むか。それとも、このままなにもせず穏やかに看取るのか。選択する時期に来ています」
 白髪のおそらく七十前後であろう医師はこたえる。口調は穏やかで、社会的立場の高い人物にあるような高圧的なところはない。かすみもお母さんも担当になった医師に好感を持っている。
 「お父さん」
 かすみやお母さんが声をかけると目線を合わせることが稀にある。意思的なものかどうか判断つかない。聴覚が刺激された脳の単なる反射かもしれない。どちらにしろ言葉によるコミュニケーションは脳梗塞で倒れてから、ずっとできない状態のまま。あまりにかわいそうで、かすみは医師に聞いたことがある。
 「お父さんは話せないだけで、こころは変わってないのじゃないですか?」
 「そうかもしれませんが、それを現代の医学で証明することはできません」
 医師は困惑して、こたえた。
 お父さんは意識が改善することはなく、ただ10年が経過した。
 ずっと同じ状態だった。永遠にこのままのような気さえしていた。
 なのに。
 「父は身体が痩せて小さくなりました」
 「肺炎を起こして肺や身体に水がたまっています。身体は痩せているのに手足は浮腫んでいるのはそのためです。呼吸状態も悪く、酸素投与や点滴治療をしたけど改善しません」
 「もともとの体力がなくなっているからですか?」
 「そうですね。今後も効果は期待できないでしょう」
 つまり寿命。生物としての。
 どうしようもない。
 医師の説明は、そういうことだ。
「治療を続けるとすれば、どのような方法があるのですか?」
 かすみとお母さんは質問する。
「中心静脈という太い血管に高カロリーの輸液をしたり、気管切開という喉に穴を開けて高濃度の酸素を投与するなどがあります。あるいは機械を使用した人工呼吸。出来ることは限られていますし、治療を続けたところで根本的な解決には至りません」
 本人の意思と関係なく、生かされているだけ。
 もちろんそれでも生きることを選択することがある。
 家族がどうしても生きて欲しいと望んだとき——
 たとえ本人と意思疎通ができなくても。
 否定することは、だれにもできない。
 「わたし自身が同じ立場であるならば、いのちが尽きるのも自然の摂理かと。治療を続けることが本人のためになるとは限りません」
 医師はかすみとお母さんをまっすぐ見て伝えた。
  「延命は望みません。母もわたしも同じ意志です」
 かすみは決意を短く伝えた。
 お父さん、これでいいよね。きっとお父さんも同じ意見のはず。
 「急変しても、当院で自然なかたちで看取る——それでよろしいですか?」
 「はい。なるべく苦しまないようにお願いします」
 「わかりました」
 お母さんは涙をこぼした。かすみは涙が出なかった。お父さんとは10年間も意思疎通ができなかった。もちろん哀しみもあるけど、混乱したというか、名付けようのない感情だ。よくなる見込みはないことは、とっくに覚悟はできていた。お父さんの最後のことをお母さんと幾度となく話し合っている。わたしとお母さんの意見はほとんど同じだ。
 「お母さん、いいよね?」
 お母さんはなにも言わず、うなずいて同意した。


 病状説明のあった夜、かすみはさとしと待ち合わせていた。
 さとしは車を運転して家の近くまで迎えに来た。はじめて車に乗せてもらったとき、乱雑に扱われた古い車にギョッとしたかすみを見て、さとしは「中古だよ、金がないからね」と屈託なく笑った。そういう飾らないところがかすみは好きだ。車の外装もなかも掃除されていない。細かいことを気にしない性格。おおらかなさとしがいまは心地よかった。あれこれと気を使わないといけない神経質なタイプは、わたしには合わないだろうと、かすみは思う。
 ふたりは夕食がまだだった。食事へ行くことにした。
 「どうだった? 先生の説明は?」
 さとしは運転をしながらたずねた。顔は前を向いたままだから、お互いに表情はわからない。車のヘッドライトの反射では表情がわかりにくい。そのほうが話しやすかった。お父さんの病状は、もう末期で助かる見込みはなく時間の問題。どのように話せばいいのだろう。自分の家族の死。相手を困らせるかもしれない。自分の感情をうまく表現できる気がしない。
 「状態は厳しいって。希望するなら延命処置もできるけど……」
 「効果は期待できない?」
 かすみはうなずく。ゆっくり息を吸って、言葉を探す。こんがらがった感情を整理するように。
 「もうこれ以上の治療は、お父さんも望んでいないと思う」
 「お母さんは? どう言ってるの?」
 「わたしと同じ意見」
 かすみは病院から帰り道での、お母さんとの会話を思い出す。お母さんは言葉少なく「これ以上は、お父さんも苦しいだけよね」と言った。わたしも同じ気持ちだと伝えると、なにも言わなかった。
 「変化があれば、なんでも伝えるよ。おれはいつでも病院にいるから」
 「うん。ありがとう」
 さとしはお父さんが入院している病院に勤めている。男性の看護師。お父さんが入院した当初から勤めている。
 かすみがさとしと知り合ったのは、お父さんが入院したからだった。
 はじめてさとしに出会ったとき、かすみはまだ高校生だった。
 さとしは看護助手で病院に就職したばかり。
 お父さんは危険な状態は脱したけど、ことばを話すこともできず、自分で食事もとれない寝たきりの状態のまま。かすみは病室に行って、お父さんの様子を見に通っていたとき、年齢の近かったさとしと話を交わすようになった。
 「進学も辞めたほうがいいのかな」
 かすみはさとしに相談した。教師になりたいと考えていた。だけど、高校を卒業したらすぐ働いたほうがいいのかもしれない。
 「どうして?」
 さとしにきかれた。
 「お母さんに負担をかけてまで勉強を続けることが大事なのかな」
 「お父さんは勉強を続けて教師になれって、きっと言うよ」
 「たとえ教師になっても——お父さんは治らないし、わたしの家族は壊れたままで元には戻らないよ」
 あのとき、わたしははじめて泣いた。
 お父さんが病気になってから我慢していた。
 そのことさえ忘れていた。
 ずっと緊張状態だったのかもしれない。
 さとしの前で泣いてから、こころの重さが解けるようだった。かすみは大学に進学して小学校の教師、さとしは看護学校を病院で働きながら卒業して看護師になった。

 ファミレスにふたりは入る。店内は平日の夜のため席は空いている。
 お父さんのことをどう言えばいいのだろうか。さとしは適切な言葉を選ぶことは難しかった。「お父さんに今まで充分なことをしてきたよ」と慰めるのも安易な気がするし「お父さんはきっと満足して感謝しているよ」などと気安く言われるのも違う気がする。お前になにがわかるのかって詰められたら答えようがない。きっと家族にしかわからない迷いや気持ちがあるはず。いまの自分にはあれこれ言うような立場にはない。なにかあれば、いつでも職場にいるのだし、相談にも乗れる。
 「仕事は変わりない?」
 食事の注文を終えて、さとしは話題を変えた。
 「実はちょっと問題があって……」
 かすみは小学校の教師で、小学4年生の担任をしている。
 「クラスに夏休みが終わってから不登校になった子がいるの」
 「不登校?」
 「うん。わたしたちが子供の頃はあまりなかったけど、最近の小学校では不登校になるケースはすごく多いの」
 「そうなんだ」
 さとしには、子供と接する機会の少なく、実感がわかない。
 そういえば、テレビや雑誌でもよく報道されている——
 「不登校になった原因は?」
 「わからない」
 かすみは吐息をつく。表情が青白い。家族のこと、仕事のこと、いろいろなことに一気に襲われるように苦労が絶えない。
 「でも——その子のお母さんが病気で自宅療養しているらしくて」
 「自宅療養?」
 「そう——もしかしたらそれが原因なのかも」
 「お母さんの介護をしているのかな」
 子供が? 違和感しかない。
 「そうじゃないみたい。わたし一度お母さんと電話で話したけど、お母さんは自分のことは出来ているし、生活に介護が必要だとか、病気で家で伏せっているわけではないのよ」
 「ふーん。だったら、なぜ学校を休むのだろう」
 「たぶんお母さんを心配して学校に来れなくなったのじゃないかって。過剰に心配してと言ってはダメだけど」
 さとしは考えをまとめようとした。母親が病気で子供が心配して学校に行けなくなった。やさしい子なのだろう。母親は病状的には落ち着いているみたいだけど、実際のところはわからない。
 「話してみた?」
 「え?」
 「じかに、さ」
 かすみは首を振る。
 「まだお母さんとしか話せてない」
 「話してみたら?」
 かすみ窓ガラスをとおして外を見た。迷っているように。
 「繊細な問題だから、ずかずか行くのもどうかな? 嫌がられたり、刺激すると余計に学校に行けなくなるのかもしれないって」
 タイミング。
 むずかしい。
 だけど——それを言い出したら前には進まない。
 「そんなことないって。話してみないとはじまらないよ。とにかく、その子がどう思っているのか、もう少し詳しくわからないと」
 「……うん」
 「はやいほうがいいよ」
 「そうだね」
 たしかにそうかもしれない。さとしから言われて、いろいろ考えすぎていたかもしれない気がした。迷いが消えたわけではないけど、動き出してみよう。とりあえず、明日電話してみようと、かすみは決めた。

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