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敦賀高校創生部昆布探索日記1「昆布の歴史ってなぁーに?」

初めまして!
私達は福井県の敦賀高校の「創生部」という地域密着型の部活動の生徒です。 

今回はご縁がありまして、この一連の記事を書くことになりました!
この記事では地元の私たちでも知らない敦賀と昆布の関係を知ることができる記事となっています!是非最後まで読んでください!

昆布の歴史

現在昆布は、料理の味を際立たせるだしや昆布巻きなどのすごく美味しい料理と姿を変えるようになっています。蝦夷地では古くから昆布を食べる習慣があり、昆布を乾燥させて折りたたむ保存の知識があったとされています。

しかし、日本で初めて昆布が登場したのは奈良時代。昔はとても貴重なものであり、朝廷への献上品として扱われていました。実は昆布はかつての日本では「金」と同等の扱いを受けるほど貴重なものだったんです。さらに、当時、昆布は細かく削って薬として利用されていました。しかし、次第に昆布は薬だけでなく、食文化を支える一つの柱として成り立っていったのです。

平安時代の文献「延喜式」(律令の施行細則をまとめた法典)では昆布が租税であったことや、神事や仏事での昆布の調理方法などが記載されています。また平安時代の百科事典である「和名類聚抄」の「食用藻類」で、20種類程度ある中でも最初に記されていることから昆布の「薬」から「食」への変化が分かります。

なぜ昆布が大切にされたの?

日本では、大陸から伝わった精進料理(主に動物系を使用禁止材料としたもの)が継承されていたため、ごま油で素揚げした昆布などのように、お寺の料理として応用のきく昆布が重宝されていました。また戦国時代には武士の兵糧として「醤油で煮た昆布を携帯しろ」と言われており、勝利の縁起物でもあったのです。

他にも、富裕な武士の間で茶の湯が嗜まれるようになったため、その際のお菓子としても昆布は重宝されていました。

昆布と敦賀の繋がり

平安時代のある文献では、昆布が特産物として京都の貴族に知られていたことが記されていたり、教科書には、都へ向かう若狭(現在の福井県南部)の昆布売りが登場するなど、若狭経由で大量の昆布が運ばれていたことが分かります。その後、昆布が家庭に普及したのは江戸時代の頃で、この普及に深く関わっていたのが、私たちの地元である福井県の敦賀市なんです!

江戸時代には、北海道から大阪までを運ぶ船が「北前船」と呼ばれ、昆布も大量に安く、早く、安全に運ぶことができるようになり、昆布は庶民の家庭にも並べられるようになりました。

北前船

昆布とビジネスとの結びつきって?

敦賀の発展

蝦夷地は寒冷で、日本の経済の通貨でもあった米をつくることができなかったため、松前藩には漁場の権利が与えられ、家臣はその漁業権を近江出身(現在の滋賀あたり)の商人に売り渡すことで収入を得ていました。その商人たちは昆布などで交易をしようとしましたが、近江には港がなかったため、近くの敦賀を中継地として活用しました。

近江商人の存在をはじめ、北前船で財をなした船主たちにより、敦賀では輸送のコストの削減を目的として商品の加工も済ませることなり、昆布の加工技術が発達しました。そうして敦賀はものすごい勢いで発展し、町衆の文化は城下町のそれを凌ぐほどになったのです!

「昆布ロード」の開拓

財政が逼迫していた薩摩藩は財政回復のために昆布に目を付けました。当時、薩摩藩は中国と密貿易をしており、中国では病気を伴う患者が大勢いてカルシウム、ミネラル豊富な昆布を欲していました。そのため薩摩藩は多くの昆布を入手し、中国へ本格的に売ろうという策に出ました。しかし、地理的にも遠かったため、昆布を容易に入手することはできませんでした。そこで、その解決策として薬売りの1つのグループであった薩摩組に対し、領内での営業を認める交換条件として蝦夷地の昆布の提供を求めました。交渉は成立し、双方が莫大な利益を上げることとなり、昆布を運んだ航路は「昆布ロード」と呼ばれ、大きく開拓されたのです!

薩摩藩はその資金でルイヴィトンのトランクを買うほどまでに発達したり、洋式の技術を取り入れることで銃や大砲を生産したりと、倒幕の礎ともなったのです!

倒幕資金は昆布だった

密貿易の主役は常に昆布であり統計によると積荷の86%が昆布、多いときは94%を占めていました。さらに択捉航路の開拓で、より大量の昆布が市場に出回り薩摩藩の財政はますます潤うこととなります。

そして洋式の製鉄所を建設し、ガス灯、ガラス、陶磁器、紡績の生活用品や火薬、弾薬、小銃、大砲などの武器の製造に至り、倒幕の武器にも用いられました。つまり昆布で得た莫大な利益が倒幕資金となり明治維新を迎えたのです。

昆布の利益が近代産業資本の基礎!?

北前船で利益を挙げた敦賀の船主や薩摩藩たちはその資金を活かして敦賀に保険会社や銀行などを設立するまでになりました。

たとえば海上保険業への進出を図り「日本海上保険会社」を設立しました。これはかつての北前船の難破や破損事故から保険を切望した経験があったからこそのものだと考えられています。そうして、昆布で得た利益は保険料のみならず銀行業、電力業、米穀、肥料業などを設立する資金となり、今日の日本経済社会の基礎となったのです。

※参考文献『昆布と日本人

おわりに

今回は昆布の歴史を「昆布と日本人」という本を読んでまとめてみました。敦賀市民の僕でも知らないことばかりでした!昆布という普段何気なく食べている食べ物にこんなに歴史がつまっているなんてびっくりしました!
この記事を書くに当たって得た知識をこれからの創生部の活動で活かしたいと思います!

次回の昆布探索日記は奥井海生堂に行き、そこで体験したことをまとめた記事となっております。ぜひ読んでください!

本記事の内容は福井県の公式な見解ではなく、 わかさはっくつパートナーたちによるひとつの思いであり願いです。
読者の皆様には、本記事を通して嶺南というまちを自由に感じ取っていただければ幸いです。




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