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小説「美しきこの世界」 二

「ゲロゲロゲロゲロミゲェロー!」
「何おぅ!」
 新鮮な魚を並べる体付きのよい中年の男、魚屋の主人ミゲロが店先に現れた夢の呼びかけに苛立ちながら反応しました。夢に気付いたミゲロはまた視線を手元に戻し、しかめっ面で魚を並べ始めました。意地悪っぽく笑った夢はミゲロにまた話し掛けました。
「フフ、素敵な名前」
「ガキ達にはしっかり教育しねぇと」
 どうやらこの呼び名は子供達が勝手に付けた名前のようです。「もうそう呼ぶんじゃねぇぞ」と夢にしっかり注意したのですが、夢はニコニコしていて届いていませんでした。
 夢が訪れた魚屋があるのは丘の真ん中を横ぎる広い通りで、オレンジの木が植えられている事からオレンジ通りと呼ばれていて、道には白い石畳が敷かれています。町を横断するこの通りは学校の通学路になっていて、自動車はあまり通りません。丘を正面にして左にしばらく下ると住宅街があり、その先には市場や港や駅があります。右に上ると様様な店が並び、その先に保育園、小学校、中学校、高校とあり、さらに先に行くと広場に繋がります。毎日通る子供達には染みがあり、また、長期間勉強するために通ううんざりする通りでもあるのです。クイナの町はこの丘を中心に広がっています。オレンジ通りや大きな道路は賑やかで華やかですが、そこから広がる町は区域ごとに特徴があり、とても穏やかです。
「悪りぃけど仕事の前にまた見てくんねぇか? 無理ならオッカに言ってくれ。諦める」
「うん、分かったわ。でも、難しいと思うわ」
「そうか」
 ミゲロは魚の入った大きなプラスチックケースに突っ込まれたホースを引き抜いて手を洗い、腰に着けたタオルで手を拭うと、夢に笑顔で言いました。
「もしそうなったらオッカと一緒に買いに行ってくれねぇか?」
「分かったわ! でもチャレンジしてみるわ!」
「おう、頼む!」
 満面の笑みとグッと握った拳をミゲロに見せた夢は、靴を脱いで店の奥の部屋に入って行きました。
 ミゲロは丸い椅子にドカッと腰を掛け、今日の魚の値札作りを始めました。商品を並べ終え、値段を決めてゆくこの時間はミゲロにとって楽しみな時間です。「あのおばさんはきっと」「あいつはこれで」その日訪れる客とのやりとりを想像しながら値札を作ってゆくのです。ミゲロはこの仕事が大好きです。それはこの町の住民達が大好きだからです。だから仕事が大好きなのです。

 夢が入っていった奥の部屋は売り場と繋がっていて、膝上ぐらいの高さがあります。その部屋で夢は今、ノートパソコンのキーボードを打っています。隣にはミゲロの嫁のオッカがいて、夢のために淹れてきたお茶をテーブルに置かず片手に握ったまま、画面に釘付けになっていました。このパソコンはミゲロ夫婦が仕事や私用として使っていたのですが、最近動作がとても遅くなってしまいとても不便でした。エラーが起きている原因を調べながら夢は色色試していたのです。
「ごめんなさい、きっと丁寧に使ってきたから現れた症状だと思うの。メーカーに送れば多分、」「どうしてあんたが謝るのさ?」オッカはニコニコ笑いながらそう言うと、持ってきたお茶を夢の手元に置きました。
「物なんだから、いつかこうなるのさ。ここまで使ってもらえればこの子も満足さ」
 オッカは冗談混じりにそう言うと、パソコンを閉じて優しく撫でました。そしてオッカは少し考え、壁に掛かった時計に目をやりました。
「今日の仕事はうちの店だけだよね? もうそっちは良いからさ、ちょっと買い物に付き合ってくれないかい?」
 オッカがそう話したのと同時にミゲロが部屋に入ってきて、そのままズンズンと二人の前を横切ると、タンスの中から封筒を一つ取り出しました。「ほら。用意しといた」そう声を掛けたミゲロはオッカの前に封筒を置き、また部屋を出て行きました。
「なんだいあの人は」
 オッカは封筒を手に取り中を覗き込みました。夢はオッカに視線を移し聞きました。
「新しいの買いに?」「みたいだね。時間はあるかい?」「もちろんよ! ミゲロさんが大丈夫だったら行きましょう!」仕事に少し必要で、プライベートにも少し必要で、だから何となく必要で、そんなパソコンを二人で買いに行く事にしました。
 オッカがミゲロに帰宅時間を伝えると、「上手いこと買えよ」と注文が入りました。オッカは夢に向かってムッとした顔を見せると「行こうか」と声を掛けました。二人はミゲロに聞こえないようにクスクスと笑いながら店を後にしました。
 二人の後ろ姿をチラリと見たミゲロはまた手元に視線を戻し、「誰の小遣いだと思ってんだまったく」と小さく呟くと、また目玉商品の切身の盛り合せを作り始めました。ミゲロの魚屋の盛り合せは分厚く綺麗で毎日必ず売り切れます。値段も高くありません。それ以外の生き甲斐を住人から貰っているからです。だからミゲロは毎日沢山の盛りを作ります。それは客が多くなる夕方まで、休憩を挟みながら準備を続けます。
 今日の作業が一段落するとミゲロはホースの水で手を荒い、右耳の補聴器を取り外しました。外すとピーッという音が鳴るので電源を切って音を止め、テーブルの上のティッシュを一枚引き取りました。補聴器に付いた汗を丁寧に拭き取ると、ティッシュをゴミ箱に投げ入れ、テーブルにある綿棒をカップから一本取り出しました。ミゲロは耳をクルクルと掃除し、綿棒をまたゴミ箱に投げ入れると、「ふぅ」と清清しいため息を付きました。そして耳に風を送るように手でパタパタと扇ぎ、爽快な笑みを浮かべたミゲロは、ふと店の外に目をやりました。爽快な春の光が通りに射し込んでいました。少し陰った店内と外の光のコントラスト、これから訪れる夏の季節を感じさせました。心が軽くなったミゲロは補聴器をしっかりと装着すると、盛り作りを再開しました。
 キラキラ、キラキラ。店先にぶら下がっている札には『昼盛り』と太い文字で書かれていて、風になびくと黒のインクがキラキラと光ります。準備は出来てるよ、と。

 夢とオッカは港近くのビルにある、大きな家電量販店にやって来ていました。二人はそこで、お洒落な四角いメガネを掛けた男性店員と一緒にパソコンを選んでいました。
「それもいらない。持ってるもの以上のものは要らないから安いのはどれだい?」
 売りたいパソコンを勧める店員と安く買いたいオッカの攻防はこの最初の一言で終わったようです。キリッとしていた店員のメガネは、夢とオッカを見つけ走って来た時よりも元気がないように見えました。
「今お持ちになっている製品はどういったものですか?」
 店員は気持ちを切り替えたのか、落ち着いた声で二人に尋ねました。オッカの代わりに夢が分かる限りの症状を伝えると、店員は腕を組んで考え、そして話し出しました。
「もし当店に持参出来るのでしたら調べる事が出来ますがどうしますか?」
 オッカは夢に目をやり「どうしようか」と相談しました。夢は考えをまとめる材料がもう少し欲しかったので、気になる点を店員に質問しました。
「簡単な作業で治りますか?」
「おそらくバッテリー交換とディスクの整理で少し改善されます。ただ本体自体の製造日が古いので、ウイルスの心配やサポートの停止も近いですし少し大変になると思います」
 店員の話を聞いた夢は、申し訳ない気持ちになってしまいました。その様子に気付いたオッカは夢の背中にポンポンと触れ、明るい笑みを向けました。
「新しいの買っちゃいましょ! どうせ、ね?」
「いいの?」
 夢が小声でそう聞くと、オッカは両手を広げて遠慮なんて一切無い笑顔で言いました。
「だって、あたしには痛くも痒くもないもの!」
 すると、その様子を見ていた店員が二人の会話にスッと入ってきました。
「交換費用とか色色考えると損な買い物ではないと思いますよ」
「そうさ、そのつもりだったしね。あの人の小遣いなんて楽しむ程度の酒が買えりゃ良いのよ!」
 オッカの言う事もよく分かるので、夢は思わず笑ってしまいました。
「これで困る事はなくなるさ」
 オッカが晴れ晴れとした笑顔でそう言うと、夢は人差し指をピッと立てて目を細め、「ここからが大変なのよ!」と意地悪っぽく笑いました。
「どうしてそんなに楽しそうなのさ?」
 笑みを浮かべたオッカがそう聞くと、照れた夢は唇をギュッと閉じました。
「遊びに行ける口実ができるもの」
 それを聞いたオッカは大きく笑いました。
「バカだねぇ。いつでもおいで」
 すると夢は照れた顔のまま、「うん」と小さく頷きました。

 購入の手続きもスムーズに終わったので、どうせならと夢の買い物も一緒に行う事にしました。夢は目的の商品がある売り場を店員に確認し、ビル内に設置されたロッカールームで荷物を一時預け、二人は上りのエスカレーターに乗りました。
「運動でも始めるの?」オッカはエスカレーターの手すりにもたれながら、一段上にいる夢に訪ねました。少し視線を落とした夢は首を横に振りました。
 エスカレーターが三階に着くと、夢は周りを見渡し「あったわ」とオッカに声を掛けました。
「私じゃないの。おば様に良いものないかなと思って」
 夢の声は少し元気がありません。
「ミロクばあさん?」
 オッカがそう聞くと夢は頷き、商品が並んだ棚の前で立ち止まりました。そして陳列されている膝のサポーターを手に取ると、どういうものなのか確認し始めました。
「おば様、右足の調子が悪そうで。足に疲れが溜まってつらいのかもしれないと思って。後シナモンも探してるわ」
 腕を組んで眺めていたオッカは右手を顎に持ってゆき、何度も小さく頷きました。
「確かに姉さん、夫さんと母親、続けて、ね。そうだよ、ショックが大きくて体に出たのかもしれないね」
 オッカの言葉を聞いた夢は自然とその時の事を想い出し、悲しい気持ちになりました。夢は持っていたサポーターを元の位置に戻し、別のものを手に取りました。
「うん。辛いと思うわ」
「ならあたしにも協力させてもらうよ。半分ずつだ! どんなものを探してんだい?」
 すると夢は慌てて手を振り、急いでオッカに言いました。
「大丈夫よオッカさん! 私が勝手にやってる事なの」
 夢らしい反応に笑みを浮かべたオッカは静かに話し出しました。
「いいんだから。ばあさんの誕生日も近いしちょうど良いんだよ。それにね」
 オッカは夢に笑みを向け、強く優しい声で話し掛けました。
「夢にとって大切な人。でもさ、あたしにとっても大切な人なんだよ。出来る事は何だってやりたいんだよ」
 そんな温かなオッカの言葉に夢の心は嬉しい気持ちで一杯になりました。
 オッカは夢の持っていた商品を手に取ると、どういう物か凝視し始めました。
「これは重いね。あのばあさん、これは嫌がるね!」
 そんなオッカの明るい声に、夢の不安は少し和らぎました。
 二人は沢山の商品を見て回り、おしゃれなミロクおばあさんに喜んでもらおうとデザイン性も考慮して一つ選び出しました。会計時には、料金の端数は私が払うと押し問答になりましたが、「あたしに付き合ってくれたお礼だよ」ともっともらしい理由をつけたオッカが少し多めに出すことになりました。
「ありがとう、オッカさん」
 夢が囁くようにそう言うと、会計をしていたオッカは夢に笑顔を向けました。
「あたしも、ありがとう」

 買い物を終え、オレンジ通りを歩く二人は、パソコンの値段を言ったらミゲロはどういう顔をするか、という話で盛り上がっています。
「文句あんだったら始めから金を渡すんじゃないよ」
 そう声を上げたオッカの手にはカフェ・オ・レソフトクリームが二つありました。ミゲロの封筒を限界まで薄くしようとしているようで、オッカはその一つを夢に無理やり渡しました。夢は笑いながら「ありがとう」と受け取ると、二人は食べ始めました。時時みんなの話題に上がっていたカフェ・オ・レソフトクリームはとても美味しく、喉を甘く潤しました。でも夢の頭の中はその甘さだけでなく、オッカにどんなお返しをしようか想いを巡らせ上の空でした。オッカはオッカでソフトクリームの山を崩すのに夢中で、数秒でその山を食べ終えると、幸せな笑みを浮かべ宙を見つめる夢に話し掛けました。
「今日は会いに行ったのかい?」
 すると夢は頬をほのかに赤らめ俯くと、小さく「うん」と頷きました。そんな夢を見たオッカは大きく笑いました。そして夢の瞳を力強く見つめ、ハッキリと言いました。
「恥ずかしがる事じゃないよ。大好きな人なら、毎日会ったって足りないさ!」
 夢は思いもしなかったオッカの言葉に目を丸め、耳を赤らめました。ただそれは夢だけでなく、自分の言った言葉に気付いたオッカ自身も顔を真っ赤に染めていました。
「ミゲロさん?」
 夢が意地悪っぽく笑いながらそう聞くと、照れたオッカはミゲロの名を掻き消すように「バカ」と言い返しました。夢は「ンフフ」と笑い、オッカの顔を覗き込みました。
「ミゲロさんきっと喜ぶわ」
「違うったら! あの人に言うんじゃないよ!」
 オッカは無理やり視線を逸らすと、怒るように夢にそう言いました。
「エヘヘ、はーい!」
 そんな夢の返事にオッカは目蓋をグッと閉じると、きっとミゲロに言う、そう確信し、残っていたカフェ・オ・レソフトクリームをコーンごと一気に口に放り込みました。しかし、図に乗ったミゲロの笑みが頭の中をグルグル回ってオッカを苦しめます。オッカはそこから開放されようと目蓋を開いたのですが、今度は夢の笑顔がありました。
「素敵な事よ!」
 夢がそう言うと、オッカはまた目蓋をグッと閉じ、「あぁ」と声を漏らしました。
「ンフフ、分かったわ、言わない! そのかわり今日の事はちゃんとお礼をさせて!」
 すると夢は持っていたリュックサックの中から一枚の新聞の切抜きを取り出し、オッカの前で広げました。
「ミロクおば様が持って来て下さったの! 人気のお店でとても美味しそうなメニューが沢山! ごちそうしたいから三人で行きましょう!」
 夢は幸せに満ちた笑顔でそう言いました。

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