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小説「美しきこの世界」 九

 輪郭のハッキリとした夏の雲。丘を掛ける午後の風。いつも賑やかなおばあさんの家。
「どうだったの?」
 昼食が用意された卓袱台に付いたみんなが「いただきます」と手を合わせた直後の事でした。おばあさんにそう話し掛けたオッカは、先日喫茶店で話した介護の事やケンシの事が気になっていたのです。箸を置いた夢も同じようにおばあさんに目をやり、ケンジとフミは手にした箸を止めました。
「そうさね、自分の部屋の事は考えがあるから、この部屋はこのままにしといてほしいとさ。決まったら決まったで言うから、この部屋はみんな自由に使っていいって、まるで自分の家みたいに言ってたよ」
「ハハ、そうかい。ほんとかい。良かったよ。ならこのままにしとこうかね。それと今日はどうだったんだい? 今日お医者さんに診てもらったんだろ? どうだったの?」
 オッカがおばあさんと夢交互に目をやりそう聞くと、病院に同行していた夢が「ベッドのレンタルをする事になったの。看護師さんも少しずつ入るわ」と答えました。訪問看護が始まると聞いて安堵したオッカは笑みを浮かべると、「なんだ、良かったじゃないのさ。姉さん、任せるとこは任せないと」と陽気な声を上げ、そして仕切り直すように手を合わせると、茶碗を片手に食事を始めました。
 そんな三人の会話に頷きながら聞いていたフミは、それでも心配な表情を残したまま、おばあさんに話し掛けました。
「ばあちゃん最近外に出れないだろ。顔を見れないのは寂しいけどさ、今のままでも心配なんだよ。俺達でも何でも手伝うからさ、元気出してよ」
 そしてフミはおばあさんを勇気付けるように大きな笑みを向けました。豊かな感受性を持つフミはとてもセンシティブで、だからこそ持てるありのままの優しさをいつも与えてくれます。それを知るみんなは、そんなフミが大好きです。
「そうさね。ありがとね。あんた達がいれば怖いものなんてないのさ」
 おばあさんはそう言うと、フミに力強い笑みを向けました。
 今年の夏は気温の高い日が例年よりも長く続いていました。シルバーカーを使ったとしても外に居る時間は長くなるので、熱中症になる事を心配した夢が、もし外出する事に不安を感じているのなら買い物や用事は代わりに行うので家に居た方がいいのでは、と聞くと、おばあさんは安心した表情を浮かべ頷きました。おばあさん自身も外の暑さと体力に少し不安を感じていたのです。そういった事もあり、夏に入ってからのおばあさんの外出時間はほとんどなく、それでも夢は、夏が終わればまた一緒に外へ買い物に行ける、そう思っていました。
 ただ、生じていたのはそれだけでなく、しかもそれ以上に残酷な現実がおばあさんを悲しませていました。それは、おばあさんの話す言葉が徐徐に伝わりづらくなっていた事でした。ALSの影響は例外なく舌へも及ぶので、意識をしないと発音が曖昧になってしまうのです。幸いその兆候は直ぐに気付く事ができたので、その状態を補おうと使い始めたのが文庫本サイズのホワイトボードでした。夢とオッカがそれをプレゼントすると、おばあさんは「木の枠が可愛いね」と気に入り、いつも側に置くようになりました。サイズや重さも丁度良く、ホワイトボードなので少ない力で書けるのです。用件を伝える時や、最近では会話にもホワイトボードを使い、伝わらない部分を補っています。
 そうして今でこそ側にある事が普通になったホワイトボードも、初めはやはり見るだけで辛い気持ちになっていました。玄関に置かれたままのシルバーカー、使い始めたホワイトボード、ALSの進行が目に見える形で分かるからです。ただ、少し救いだったのは、おばあさんとの会話は夢達となら問題なく行えた事です。そんな時間が少しでも長く続けばいい。夢達はそう願っているのです。
 カタッ。おばあさんは卓袱台の上のホワイトボードを手に取りました。
 この夏に訪れた沢山の出来事。そして日日の生活に影響し始めた病気の進行。世界が変わって行くその中で夢達の想いに触れたおばあさんは今、どんな未来をも受け入れた、そんな最後の覚悟を抱いた笑みを浮かべていました。もちろんそれは何もせず受け入れるという意味でもなく、覚悟を決めたからといって恐怖が消えるというわけでもありません。「フミ、みんな」
 そしておばあさんはマーカーペンを握り締めると、ゆっくりと文字を書き始めました。
 それは、以前とは違う文字を書く姿。ペン先を安定させるために握り締めて持つので、達筆だったおばあさんの今の文字は角張っています。兄達には厳しく末っ子であるミロクおばあさんには優しかった父が綺麗な字を書くようにと子供の頃に教えてくれた、おばあさんは以前そう話していました。でも、今は違うのです。自分の全てを受け入れ、変わり行く自分を見つめ、強く生きているこの文字こそ美しく輝いているのです。
「みんな。ありがとうね」
 ペンを持つ手を止めたおばあさんは夢達に感謝を伝え、文字が書かれたホワイトボードを卓袱台の上に置きました。
 何を書いたのだろう。そう思いホワイトボートに目をやった夢。大好きなおばあさんの字。その瞳に映ったおばあさんの言葉はやがて涙でにじみ、そして頬を伝いました。それは悲しい気持ちではないのですが、夢は涙を隠そうと視線を落とし、我慢するように唇を固く閉じました。それでも頬を上げて何か言おうとしたのですが、言葉と一緒に涙が溢れてしまいそうで声を出す事ができませんでした。
「ありがとうね。ばあちゃん」
 朗らかな笑みをおばあさんに向けたフミが、みんなの話し出す切っ掛けを作りました。それに合わせて夢達は頷くと、「ありがとう」と言葉を掛け合い、自然と笑みを浮かべました。この時夢は気付いていなかったのですが、みんなも同じように瞳に涙を溜めていたのです。夢は指で目元を拭うと、今日の報告を始めました。
「ケンシさんは後二か月ほどで来てくれるわ。私は会った事がないから。でもみんなは知ってるみたいだから良かったわ」
 おばあさんの介護に関して、クイナの町で決まった事は夢がケンシへ報告することになっています。
「今度みんな集めるからさ、夢に説明お願いして、しっかりこの後の事も決めていこう」
 フミがみんなにそう声を掛けると、夢は笑顔で「うん」と頷きました。
 これから夢達が歩むのは本格的な介護の世界です。外に居る人達から見れば別の世界に思えるほどにです。ただ、そう言いながらも介護は寧ろ普段の生活に近づけることが大切で、その中で生まれた介護の生活と普段の生活のギャップを何で埋めるのか、どう埋めるのか、更に試行錯誤してどう近づけるのか、その生まれた隙間に心を寄せて行動することがQOLの維持や向上に繋がるのです。
 今日の報告の最後に夢は、ビデオカメラを使う事を提案しました。介護に関して説明が必要になった時、口頭や文書だけでなく映像があればより正確で簡単に伝わると夢は考えたからです。しかし、夢の心にあったのはそれだけではありません。これからの生活の中で、得るものだけでなく失ってゆくものもある、夢は記憶の中だけでなく映像の中にも残しておきたいと切に思っていたのです。
 そんな夢が、何よりも残しておきたかったもの。それはミロクおばあさんの笑顔でした。ただ、その事を言葉にするのはとても辛く、夢は話しませんでした。次第に機能を失ってゆく筋肉。それはもちろん体だけでなく表情も作れなくなるという事です。しかし、動かなくなるのは筋肉です。表情の奥にある心は何一つ変わりません。たとえ体が動かせなくなったとしても、心は変わらず色鮮やかに彩られ、夢達に向けられているのです。そんなキラキラ輝くミロクおばあさんの姿を、夢はどうしても残したかったのです。
 そして夢はその想いを、そっと胸の奥に閉じ込めました。ビデオカメラの中のみんなには、悲しみのない笑顔であってほしいと想ったからです。
「それなら家にもあるさね。ケンシが来た時に、いらないからって置いてったのさ」
 おばあさんはそう言うと、部屋に置かれた茶箪笥に目をやりました。
「なんだかケンシさんの事少し分かった気がするわ」
 夢は柔らかな笑顔を浮かべ、そう言いました。
 もちろん常に不安を抱えているけれど、みんなと居ればこんな笑顔や優しさが不安を中和するように混じってくる。夢はこの瞬間、心のままに笑える理由がここにあるんだと気付いたのでした。
 
 部屋を後にしたみんなが玄関で談笑している時、家を出る支度を遅らせ一人部屋に残った夢は、卓袱台に置かれたままのホワイトボードを見つめていました。
「夢、行くよ」玄関からオッカの声。
「あ、はい!」
 そう返事をした夢は、ホワイトボードを手に取ると、リュックから取り出した携帯電話でおばあさんが書いた言葉を撮影しました。
 写真にして、私の最期の時に見よう。頑張って生きて褒めてもらおう。その時夢は、ふとそう思ったのです。
 夢は携帯電話の画面を見つめました。
 おばあさんの字は角張っていて、とても優しい字でした。

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