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小説「美しきこの世界」 三

 賑やかだった町も住人も光も今は静まり返り、時計の針さえもコクリコクリと揺れています。家事を終えた夢は食器棚から一冊のノートを取り出すと、丸いテーブルの上に置きました。夢は毎日同じ時間にノートを広げ、触れてきた今日の事を記してゆきます。そしていつかの日の事を読み返し、懐かしさや新鮮な感動で心を満たすのです。
「よし」
 動き始めた夢のペンはスラスラスラと今日も軽快に進んで行きます。「南の国」そう呟いた夢は商人から聞いた話を書き始めました。
「あ、そうだった」夢はテーブルに置いていた小さな冊子を手に取ると、広げたページの上で指を走らせ書かれた文字を凝視しました。「商人さんのお名前聞くの忘れちゃった」知りたい事が沢山あった夢はつい商人の名前を聞くのを忘れてしまっていました。夢は小さな冊子の新しいページを開くと、明日ミロクおばあさんに商人の名前を聞くようにとメモをし、また、今日の事を書き始めました。
 夢が夢中になった世界の話。夢にとってそれほどこの世界は魅力的なのです。今日聞けた遠く南にある国の事もその一つで、そこでは自然や動物そのものが色鮮やかに彩られていて、まさに夢が見とれてしまったあの飲み物の色達の様だと教えてくれました。さらに夢の瞳を輝かせたのは、赤道付近で太陽の光を一杯に浴びた生き物達は、この町では考えられないような進化をしていると自慢げに話した時でした。何百年も何千年も続く生命の糸。それは、その瞬間その時代を歩んできた物達の生きた結晶です。一人の人間の時間では到底見る事の出来ない変化。しかし自分自身もまた、繋がれ紡いで来た命なんだと感じた夢は、愛を捧げてくれた父と母を想い、温かな涙をぽろぽろと流しました。ノートを書く時の夢はこんな調子なので、いつも途中でペンが進まなくなります。けれどもしっかりとその気持ちをも記してゆき、決して迷子にはさせません。夢にとってはこのノートもまた繋ぎ紡いで来た命そのもので、全て抱きしめていたい世界なのです。
 そうして夢はノートの上を楽し気に走り出しました。昼に会ったミゲロとオッカの事や経営する雑貨店の事、書きたい事を書きたい分だけ最後まで記してゆきました。

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