見出し画像

小説「美しきこの世界」 十一

 秋の終わりを感じる今日は、いつもと違う朝になりました。毎朝自宅からおばあさんの家へ手伝いに来る夢も、今日はおばあさんの家で夜明けを迎え、いつも通りではないこの状況に落ち着けないでいました。
「おはようございます」
 そんな中、予定通りの時間に玄関の方から女性の挨拶が聞こえてきました。訪問診療や訪問看護等の介護サービスに関する人には、予定の時間であればインターホンを鳴らしてそのまま玄関から入ってきてもらう事にしているのです。
「あ、おはようございます」
 玄関へ迎えに行った夢がそう挨拶をしたのは、今日の担当である二十代の女性のヘルパーでした。夢は朝の日課として昨日から今日までの事をヘルパーに伝えました。
「今日はいつも通り手浴足浴で大丈夫です。でも、昨日から体調が悪そうで」
 おばあさんは昨日の夜から体調を崩していて、その看病をするため夢はずっと側に居たのです。今は夢が来た時よりも落ち着いているように見えるのですが、むしろ落ち着き過ぎているようにも思えて、逆に心配になってきていました。
「すいません、やっぱり今日はキャンセルしていいですか?」
 夢は今日の介護サービスをキャンセルする事にしました。
「あ、はい。分かりました。明日はどうしますか?」
「一応通常通りでお願いします。もし何かあったら、変更があったら電話します」
「分かりました。じゃあここで失礼します」
「ありがとうございました」
 夢はそうして玄関を出るヘルパーを見送ると、急いでおばあさんの所へ戻りました。
「おば様大丈夫?」
 おばあさんの呼吸は浅く早くなっていて、さらに呼び掛けに対する反応も弱く、今朝目覚めた時よりも明らかに状態は悪くなっていました。怖さや焦りが胸の奥でジワリと焼けるように広がったのを感じた夢は、居ても立ってもいられず直ぐ様受話器を取ると急いで救急車を呼びました。
「分かりましたお願いします」
 夢は受話器を置くとおばあさんの側へと駆け寄り、「すぐ来てくれる、おば様」と声を掛け、おばあさんの手を握りました。
「大丈夫。大丈夫」
 今自分に何が出来るのか、夢はそれが分からず混乱し、それでもなんとかしようとおばあさんの背中を擦りながら声を掛け続けました。
「大丈夫。大丈夫」
 そうして夢はおばあさんの顔を見つめながら、判断が遅くなった自分自身を責めました。自分で何とかしようと考えてはいけない。特におばあさんの場合は前提としてALSがあるのです。相談できる地域の窓口を事前に調べておき、判断に迷いが生じた時でも迅速に対応出来るようにしておく必要がありました。しかし、それらも常に万全というわけではありません。予期せぬずれが生ずる事で、前に進めなくなる場合もあるのです。
 数分すると救急車のサイレンの音が聞こえてきました。思い出したように立ち上がった夢は茶箪笥に駆け寄ると、事前に用意しておいたお薬手帳や必要な証明書を引き出しから取り出し、リュックサックに詰め込みました。そして部屋の暖簾をずらして通る道を空けると、家を出てサイレンの方へ目をやりました。遠くで響いていたサイレンの音はもう直ぐ側です。
「大丈夫かい?」
 突然背後から声が聞こえ夢が振り返ると、隣に住むユアおばあさんが立っていました。
「あ、はい、体調が悪くて」
「そうかい。ミロさんを頼んだよ」
「ありがとう。ユアさん」
 夢は安心してもらえるようにと頬を上げ、冷静さを作ってそう言いました。
 そうしている間に救急車は家の前で停車し、サイレンが鳴り止むと三人の男性隊員が降りてきました。夢は「こっちです」と声を掛け、玄関のドアを開け放すと、そのまま隊員達を導いておばあさんの居る部屋へ入りました。
 無駄の無い動きで夢に続いて部屋に入った隊員達は、おばあさんの姿を確認するや否や声を掛け、おばあさんの反応を確かめました。すると、辛さを堪えるように目蓋を固く閉じていたおばあさんは部屋の騒がしさに気付いて目を開き、隊員達に視線を向けました。いつもであればおばあさんは、人の姿が目に入れば必ず何か反応を見せていたのですが、隊員を目の前にしても表情の変化は全く無く、そんなおばあさんの姿を見つめていた夢は、事態の深刻さに心を握り潰されそうになりました。それでも夢は消えない焦りや恐怖を抱きながら、今の状況や病気の事、搬送先はALSの診断を受けた病院へ向かってほしいと隊員に伝えました。そうして状態の確認が終わると直ぐにおばあさんはストレッチャーに乗せられ、隊員達によって救急車まで運ばれてゆきました。最後に家を出る夢は慌てて用意していたリュックサックを手に取ると、おばあさんに続いて救急車に乗り込み、それを確認した隊員は救急車のバックドアを閉めました。ただ、この状態になったからといって直ぐに発車出来るわけではありません。搬送先が決まるまで隊員達の確認作業は続き、夢もおばあさんの情報と現状をより詳しく説明してゆきました。
 それから数分後、希望していた病院から受け入れ可能の返事をもらい、直ぐ様搬送は開始されました。

 そして三十分後。搬送先の病院の救急外来受付前に夢は居ました。そこで待機するよう言われた夢は長椅子に腰を下ろし、目蓋を閉じて心を落ち着かせようとしていました。しかし、瞳に焼きついたおばあさんの姿が、医師に連れられ離れて行くおばあさんの姿が映し出されてしまい、心が水の中に閉じ込められているような不安は消えず、寧ろ冷静になろうとすると考える余地が増えてしまい、おばあさんは今一人で怖い想いをしているのかもしれないと、更に不安になってしまうのでした。
「ごめんなさい、おば様」
 次第に夢は、自分の無力さに目を向け始めました。自分は一体何が出来るのか。考えれば考えるほど後悔は強くなり、周りの人達の声や存在は薄れ、やがて自分の心の中へと沈んでゆきました。
「どうしよう」
 夢の前に次次に現れるおばあさんの表情。抱いていた不安はいつしか、大切な人を失うかも知れない、そんな恐怖へと変わってゆきました。
「頑張れ……おば様は大丈夫……ごめんなさい……私のせいだ」
 そうして言葉にもしたく無い恐怖心が、夢の心を掻き乱してゆきました。

 待機し始めてから一時間が過ぎました。その間、事あるごとに医師から経過の報告を受け、おばあさんの体に何が起きているのか少しずつ見えてきました。更に医師が持ってきたのは報告だけでなく、検査や治療に関する同意書も幾つかあり、その中には、状態に急変があった場合はどこまで何をするか、つまり心肺蘇生法に関する処置の話もありました。この事については搬送後にケンシと電話で話し、出来る限りの事はしてほしいと聞いていたので、医師から説明を受けた夢はその形でサインをしてゆきました。

 それからしばらくすると再び医師が夢の所へやって来ました。おばあさんの状態を悪化させた原因となりうる疾患を見つけたそうなのです。
「石?」
「はい。動いた時の激痛だけではないですね。尿路が塞がると更に状態は悪化します」
 それは、おばあさんの腎臓に形成された結石でした。更に医師は、対応する科が救急科からALSでおばあさんの担当をしている神経内科へ代わる事を伝え、そこから話はALSに関わる問題へと繋がってゆきました。
「全身麻酔を行うと気管挿管が行われます。その後人工呼吸が始まります」
「はい」
 この話は以前説明を受けていたので夢は把握していました。とても大事な事なので、おばあさんとの話し合いも何度もありました。勇気を出せなかった夢が直接的な言葉を避けてしまい、真意が伝わりづらく時間が掛かってしまったのですが、そのおかげで見つけたものもありました。それは、明るい未来を想った時のおばあさんの笑顔でした。未来を想い描くだけでキラキラとした笑顔になれるということは、おばあさんには触れたい未来があるんだと、生きたいんだと、夢達は想うようになりました。そして夢は気付きました。生きたいという気持ちに対して後ろめたさがあるとするならば、その原因は人工呼吸器を付けた後の介護の生活にあるという事を。
「人工呼吸が始まると、手術が成功したとしても、術後、場合によっては自発呼吸が出来なくなっている事があります。その場合は抜管、気管チューブを抜くことは出来ません」
「はい」
 以前夢はケンシと電話で話している時、人工呼吸器を使うことについてどう思っているのか聞いたことがありました。その時ケンシは迷う事なく使う道を望み、そして例え夢がいなくても、自分がおばあさんと共に生きると言い切ったのでした。その言葉を聞いた夢は、心の奥に隠していた、おばあさんとの未来をケンシに打ち明けることが出来ました。
 その日ケンシは最後に、おばあさんとも話をしました。
『病気治ったらまた喉塞いで喋れるようになるし心配せんでええから。俺がずっと面倒見るから。呼吸器つけたら息も楽なって大丈夫やから』
 ケンシは声が震えないように堪えながら自分の気持ちを伝えました。ベッドの上で座っていたおばあさんは俯きながら頬笑むと、『ほんと』と小さな声で返事をしました。
「自発呼吸が確認出来ない場合、そのままにする事は出来ません。人工呼吸器の使用が始まる事になります。つまり、今回の手術をするという選択は、人工呼吸器の使用と処置の同意も含まれる事になります。もちろん、自発呼吸が再開されれば必要ありません。もし必要になった場合、人工呼吸をせずにという事は出来ません」
「はい」
 ケンシとおばあさんが話した数週間後の検診で、おばあさんの脳の萎縮が確認されました。要因は多岐にわたり断定出来ないのですが、認知症の可能性があるそうです。
「成功率は高いですが、このまま手術をしないという選択肢もあります。どうしますか」
「はい。大丈夫です。手術をお願いします。必要な時は、人工呼吸器を使います」

 救急外来受付前の長椅子に腰を下ろした夢は目蓋を閉じ、今までとは違う不安や恐怖と向き合っていました。おばあさんの手術が間もなく始まるのです。
「大丈夫。大丈夫」
 そして夢は、深く呼吸をしました。
「大丈夫。大丈夫」
 あれからもうどれほどの時間が経ったのか。夢はふとそう思い顔を上げると、担当の女性看護師が向かって来ていました。手術の準備が整ったそうで、夢は手術についての説明を受けながら看護師に付いて行き、来院した患者が簡易的な治療や待機のため一時的に利用する広い部屋に入りました。何処へ何のために向かっているのか、夢は分からないまま後に付いて行くと、ベッドに横になっているおばあさんの姿が瞳に映りました。
「あぁ」
 思わず夢は涙の滲む声を漏らしました。やっと会えたおばあさん。会いたかったおばあさんの口からは気管に繋がる直径二十ミリほどの硬いプラスチックのチューブが出ていて、何が起こっているのか分からない不安や恐怖が入り交じった表情で、必死に誰かを探すように視線を動かしていました。言葉を失った夢は、心を無数の針で刺されたような痛みを感じ、握りしめた手を胸に押し当てました。認知症の症状が現れ始めていたおばあさんには、この状況を理解する事はきっと難しく、いつも側に居た夢だからこそ分かるおばあさんの恐怖が見えたのです。
「おば様。大丈夫。大丈夫」
 おばあさんの側に歩み寄った夢は、いつものトーンでそう声を掛け、安心してもらおうと大きな笑みを向けました。大丈夫。大丈夫。すると、そんな夢の想いが届いたようで、おばあさんの顔に現れていた叫ぶような恐怖はゆっくりと解けてゆき、時間と共に落ち着きを取り戻してゆきました。

 それから数分後、打ち合わせを終えた担当の看護師がもう一人の看護師を連れて戻って来ると、手術室への移動が始まりました。その間も夢は、自分の姿がおばあさんの視界に常に入るように側に付いていました。そして、ベッドの移動や検査で乱れてしまったおばあさんの髪の毛が目に入らないように整え、安心するよう手を握り、膝を擦り、「大丈夫。大丈夫」と声を掛けて笑顔を向けました。
 そうしてベッドはそのまま来院した人達が居る場所を抜けて更に行き、数分ほどで手術を行う部屋の前に着きました。
「では、この待ち合い場所で待っていて下さい。終われば呼びに来ます」
 看護師がそう言うと、夢は「はい」と答え、おばあさんに目をやりました。
「頑張ってね」
 夢は溢れそうな涙を堪え、なんとか笑顔を保ちました。ただ、夢を見つめていたおばあさんの表情は強張っていて、側を離れたくない気持ちが夢の心を強く握ったのですが、今は治療が最優先です。夢は看護師に「お願いします」と声を掛け、もう一度おばあさんに笑みを向けました。
 おばあさんを見つめる夢に会釈をした看護師はカードキーでドアを開け、ベッドを押して手術室へと進んで行きました。そうしてまた、夢から遠のいて行くおばあさん。夢はドアが閉まったその後も、見えなくなったおばあさんを見つめたまま動けなくなり、次第におばあさんに伝えたい事や話したい事が心から溢れ、頬を伝いました。
「大丈夫。大丈夫」
 自分の中に響かすようにそう呟いた夢は、近くの長椅子に腰を掛け、ゆっくり深く肺に空気を送りました。そして、大丈夫、大丈夫、心の中でそう響かせ、良くないイメージを一切入り込ませないよう無理やり頭を前向きに働かせ、おばあさんの未来を想いました。大丈夫。大丈夫。絶対大丈夫。そう願う事しか今の夢には出来ないのです。

 そうして呼吸を整えた夢はふと顔を上げ、まだ誰も居ない自分の周りを見渡しました。十脚ほどの長椅子が用意されているこの場所が待ち合い場所だということは分かるのですが、病院のどの位置に居るのか、何階なのか、おばあさんから視線を離さないようにしていた夢には分かりませんでした。ただ、おばあさんのことだけを想いたい夢は一人になる事ができ、大切な時間を作る事ができました。
 深く呼吸をした夢はもう一度、熱くなった目蓋を閉じ、ジンジンと痛む瞳を癒しました。そうして時間が経つに連れ、穏やかな不安や恐怖だけが残った時、ふと夢の心の中に現れたのは未来のおばあさんの姿でした。車椅子で買い物をしている、そんな何もない日常のおばあさんの姿です。またおば様の肉豆腐が食べたいな。そう、ソース焼きうどんもおいしいわ。いつも作ってくれる料理がおいしいの。
「夢!」
 静かになってゆく夢の心に突然響いたその声。顔を上げた夢が振り返ると、小走りに向かって来るオッカの姿がありました。夢はその瞬間、心の緊張が解け、涙しそうになったのですが、今自分がしなければいけない役割を思い出し、唇を強く噛みました。
「少し調子が悪いのは聞いてたけど、どうしたんだい」
 状況が分からないオッカは間を置かずにそう聞きました。夢はこれまでの事を詳細に説明し、その間オッカは動揺することなく静かに聞いていました。
「ありがとう夢。呼吸器の話は大まか分かってたからさ。後は姉さんの気持ちだよ」
 オッカの言葉をしっかりと受け取るように、夢は何度も小さく頷きました。どんなに話をしてきたとしても、選択するその時になると気持ちが揺さ振られてしまうのです。
「長く生きたいおば様の気持ちだけは曇らせたくない。でも」
 夢はそこで言葉を止め、震える唇を強く閉じて俯きました。直前まで一緒に居たおばあさんの顔が目の前に浮かんできたのです。夢は呼吸を乱したまま、言葉を続けました。
「でも、悲しそうな、苦しそうな顔を見ると、おば様にとって良くなかったんじゃないかって」
「姉さんの生きたい気持ちは嘘じゃないのさ」
 オッカが静かにそう言うと、俯いたままの夢はおばあさんの心を想いました。人工呼吸器の選択は、どの道を選んだとしても恐怖や不安がおばあさんには見えてしまいます。隠す事も無くす事も出来ません。それでも夢は、どの選択をしたとしても幸せになってほしい、そう強く想い準備をしてきました。そして、その気持ちは今でも変わる事はないのです。
「私、おば様が帰ってきたら笑顔になってくれるように頑張るわ。笑顔の人生になってくれたら、それは良い人生だと思うの」
 介護の生活が始まってから夢は、どうしてこんな想いをさせてしまったのか、どうしてもっと予防してこなかったのか、そうやって自分自身を責めることが増えていました。しかし夢はそんな自分の弱さから逃げず、その度に強くなる事を決意し、問題や困難を具体化させて解決してきました。センシティブで弱い夢をそれほどまでに突き動かしてきたもの、それが、今夢の瞳の中にある、おばあさんの笑顔でした。

 手術が始まってから一時間が経ちました。
 長椅子に腰を下ろしていた夢とオッカは、言葉で未来を呼び込むように、おばあさんの無事と手術が成功した後の生活を話し合っていました。
「オッカ、夢」
 そんな二人の背中に、今到着したミゲロが息を切らしながらそう声を掛けました。
「どうだ?」
 ミゲロは呼吸を整えながらそう聞くと、手に持っていたレジ袋からペットボトルのコーヒーを取り出し、腰を上げた夢とオッカに渡しました。ペットボトルを受け取った夢は解けない緊張で顔を強張らせたまま、これまでの事を説明し始めました。
「ありがとうミゲロさん。今まだ終わってないの。石がね」
 しかし夢はそこで話を止めました。ミゲロが歩いてきた廊下の奥に、フクとフミの姿があったのです。
「ありがとう、夢。側にいてくれたって聞いたよ」
 フミはそう声を掛けながら、手に持っていたレジ袋からミネラルウォーターを取り出すと、夢とオッカに渡しました。沢山の思い遣りに心が温かくなった夢は、おばあさんのために来てくれたみんなに「ありがとう」と頬笑みました。
「ケンジももう来るよ。手術はどう?」
 壁の時計に目をやったフミが夢にそう聞きました。
「おば様は今頑張っていて、もしかしたらこの手術で気管切開、人工呼吸器を使う事になるかもしれないの」
 そう答えた夢の声は緊張で力んでいて、その不安がぎこちなく閉じた手のひらにも伝わり、薄らと汗をかいていました。腕を組んで話を静かに聞いていたミゲロはそんな夢の動揺を察し、「そうか」と返事をすると、希望を込めて力強く言いました。
「まずはおばさんが元気にならねぇとな。やれる事もやりたい事もまだある」
 この人が話せば自ずと周りの人は元気になる。そんな人が居るとするならばそれはミゲロなのです。みんなは頬を上げて頷きました。ただ一人、俯いたままの夢以外は。
「私、みんなに謝らないと、」
 このままではいけないと顔を上げた夢が話し出した瞬間、廊下の奥に現れた作業着姿のケンジにみんなは気付き、そして目をやりました。ケンジは長靴をドンドンドンと言わせながら、手に持ったレジ袋をカチャカチャと鳴らしながら、騒がしく歩いてきました。
「ばあちゃん大丈夫か?」
 ケンジは間を置かず夢にそう聞きました。
「まだ分からないの」
「そうか」
 ケンジは長椅子にドンと座り、持ってきたレジ袋をガチャッと隣に置きました。
「夢、お前はよう頑張っとうからな」
 夢に目をやったケンジが突然そう言葉を掛けました。すると、ずっと黙っていたフクも続けて話し出したのでした。
「なあ夢、さっき謝ろうとしただろ? ばあちゃんの事だろ? お前だけは謝るな」
 その言葉に思わず俯いた夢は、気付いてくれていたみんなの優しさが嬉しくて、辛くて、口をギュッと閉じて涙を堪えました。そんな夢の姿をみんなと同じように見つめていたオッカは、誰よりも厳しく想いを伝えました。
「自分を責めるんじゃないよ」
「ごめんなさい」
 オッカは、謝る夢の正面に立ちました。
「あたしはそんなあんたが嫌いなのさ」
 想像もしなかったオッカの言葉に夢は俯いたまま、固まってしまいました。
「あたしは夢が大好きなんだ。大好きなあんたを責めるあんたが嫌いだ」
 そしてオッカは優しく夢の肩に手を添え、夢はそっと涙の顔を上げました。
 話し出したオッカの言葉はとても厳しく、とても優しい声でした。
「あんたは全ての事が出来るのかい? 全ての事が分かるのかい?」
 夢は小さく左右に顔を振りました。
「そらそうさ。世の中に全てが出来る人なんていないよ」
 オッカは優しく夢を見つめました。
「夢はその時、出来る事をしたかい?」
「でも今なら私」
「今のあんたが過去に戻れば出来ただろうね。もっと未来のあんたがここに来て、今のあんたを否定するように。今の夢が正しいと思ってやり直したい事も、もっと未来の夢が現れてそれを否定するかもしれない」
 夢は、言葉が出なくなってしまいました。
「夢。どこまでいっても、変わらないんだよ。一番大事なのは、あんたはどの瞬間も、頑張り続けている事だよ。頑張って来た人を、結果で否定しちゃいけないんだ」
 オッカはそう言うと、夢を強く抱きしめました。恐怖に思考が捕らわれていた夢の心は一気に解かれ、緩んだ瞳からぽろぽろと涙が零れ落ちました。みんなの深い優しさとおばあさんの手術と、そんな色んな気持ちが夢の心から溢れてきたのです。
「頑張り続ける事は大変なんだ。ハツコが前に言っただろ、一人じゃないって」
「うん」
 そんな二人の会話に心を寄せていたフミが「夢」と声を掛けました。夢は少し鼻をすすり、顔を上げました。オッカは夢の横に立ち、背中を優しく撫でました。
「俺達は、夢の事もばあちゃんの事も大好きなんだ。だから一緒に頑張ろうよ。良かった事もダメだった事も分け合って、全部一緒に頑張ろうよ」
 フミがいつもの笑顔でそう言うと、ケンジも続けて話しました。
「そうやで。一人で頑張りたい気持ち分かるけど、これじゃあまるでわしら、ばあちゃんの側におらんみたいで寂しいねん」
 ケンジの言葉に夢は衝撃を受けました。夢は気付いていなかったのです。おばあさんのために頑張ろうという気持ちが、知らず知らずのうちに色んなことを一人で背負い込み、その結果みんなを遠ざけてしまっていたという事に。もちろんみんなに負担を掛けないようにと想っての事なのですが、それが逆におばあさんに何も出来ない寂しさをみんなに抱かせてしまっていたのです。
 夢は「うん。うん」とみんなの言葉に頷き、涙の声で話し出しました。
「私、みんなと一緒に介護をしていると思ってた。けど、みんなをおば様から遠ざけてしまっていたのね。みんながこんなにおば様の事を想ってくれていて、本当に嬉しい」
 夢は溢れた気持ちを言葉にしました。
 涙を堪えていたオッカも、夢に想いを伝えました。
「夢、あんたは間違ってないよ。あんたはいつだって誰かのために、心から頑張ってるんだ。みんなは、そんな夢と一緒に頑張りたいんだよ」
 夢はとても温かい気持ちになり、何度も「うん。うん」と頷きました。そして、みんなに向かって話しました。
「おば様へのみんなの想いが嬉しくて。今おば様は本当に頑張っているの。手術が成功して、人工呼吸器を使う事になったら、」夢は「ううん」と顔を横に振りました。
「何があってもおば様と、これからの人生ずっと、みんなと笑顔でいたい」
 幼い子供のように真っ直ぐな夢の言葉に、みんなは温かい笑顔で返事をしました。
 そんなみんなの優しさが、頑張っているおばあさんの所へ少しずつ届いて行きました。

 手術が始まってから四時間が経ち、誰も居なかった待ち合い場所にも人の姿が見え始めました。夢達と同じように他の家族や関係者もこの場で待機をしているようで、みんなはとても落ち着いて見えました。手術は成功するので不安にならず普段通りでいい、そうして気持ちを強く持とうとしているのかもしれません。
「ケンボウ、何を持って来たんだい?」
 そう声を掛けたオッカが見ていたのはケンジが持って来たレジ袋でした。その事を思い出したケンジはレジ袋を開き、中に入っている七、八本の瓶のラムネをみんなに見せました。
「兄貴が持って行けって」
「ミロクさんのご家族の方! ミロクさんのご家族の方!」
 ケンジがラムネを出そうとした瞬間、夢達を呼ぶ女性の声が待ち合い場所に響きました。夢達は直ぐに立ち上がり、呼んでいる看護師の所へ駆け寄りました。
「はい」
 夢がそう返事をすると、看護師はそのまま案内するように歩き出し、そうして簡単な状況説明が始まりました。
「おつかれさまです、手術は終わりました。呼吸が戻ったので。ミロクさんは今ICUにいます。面会は少数に出来ますか? それと面会の時間は通常よりも短いので」
 突然だった看護師の話にどうすればいいのか分からず夢が立ち止まると、ケンジがこの場を仕切りました。
「夢とオッカが行ってくれ。わしらは下で待つ。状況が分かったらオッカが来て、夢はばあちゃんの側におってくれ」
「分かった」
 オッカがそう返事をし、夢達は直ぐ様おばあさんの元へ向かいました。

 状態が安定せず変化の激しい患者が入るICUは、迅速に現状を把握し治療するため、視界や動線の妨げになるものは可能な限り排除され、見通しの良い場所になっています。それぞれの患者はその中で自身のプライバシをー守りながらも治療に専念しなければいけないのですが、寝た切りであるおばあさんには出来ません。それは他の患者も同じで、家族や知人や誰かが来ない限り、病室のあの白い壁や天井をただ見つめる一日が続くのです。ただ、おばあさんには夢達が居ます。入院する事の辛さに気付き行動を起こす夢達が居るのです。
 夢とオッカは看護師に案内され、ICUの中に入りました。看護師は歩を緩めることなく卵色のカーテンで区切られたベッドの前をいくつか通り過ぎて行き、少しして一つのベッドの前で足を止めました。夢達もそれに合わせて立ち止まり、そして目にしたのは、ベッドで眠るおばあさんと、見た事もない沢山の医療機器でした。夢とオッカは溢れる気持ちを堪えながらベッドに歩み寄り、そっとおばあさんの手を握りました。夢は目に涙を浮かべ、おばあさんの頭を優しくそっと撫でました。
「よく頑張ったね、おば様。すごいわ。よく頑張った。よく頑張った」
 囁くような夢の声は、涙で微かに揺れていました。オッカは安心したような笑顔でおばあさんを見つめ、夢の話す言葉と一緒に何度も何度も小さく頷きました。
 おばあさんに会えて少し冷静になった夢は、髪や服装が乱れている事に気付きました。夢はおばあさんの目に沢山掛かっていた髪を整え始め、それに合わせてオッカもおばあさんの姿勢や患者衣を綺麗にしてゆきました。基本的に病院では、術後の患者の着衣や体は雑に扱われます。もちろん患者自身が動けるのなら問題ないのですが、体が不自由な人やコミュニケーションを取る事が難しい人には、看護師の業務の忙しさや資質により、そういったしわ寄せがくるのです。
「すいません。先生が来られましたので、どなたか来てもらえますか?」
 その声に夢とオッカが振り向くと、看護師と担当の医師が立っていました。
「おば様をお願い」
「分かった。そっちも頼んだよ」
 オッカが笑顔でそう返事をすると、夢は「うん」と頷き、部屋を後にしました。
 そうして夢を見送ったオッカは他に何かする事はないかと周りを見渡し、ふとおばあさんの顔に目をやりました。
「姉さん」
 オッカは静かにそう声を掛けると、サイドテーブルのティッシュを一枚取り出し、おばあさんの口元に付いていた血を拭い始めました。辛かったのかもしれない。痛かったのかもしれない。オッカはそんな想いを癒すように口元の血を綺麗に拭い取りました。温かく緩んだオッカの目から、涙がぽろぽろと溢れてきました。
「よく頑張ったね。よく頑張ったね。もう大丈夫だよ。よく頑張った」
 そう何度も言葉を掛けながら、今度は優しく撫でるように顔を綺麗に拭いてゆき、そうしていつものような姿に戻ったおばあさんをオッカはしばらく見つめていました。
 ほんの少しの間、日常に似た穏やかな時を感じていたオッカは、何気無くおばあさんの左腕に目をやり、そっとその左腕に触れました。少し痩せて細くなったおばあさんの腕。少しずつ変わって行く自分の体を感じていたおばあさんの気持ちはどんなだろう。そう想えば想うほど胸の奥がジワリと痛くなり、オッカは目蓋を強く閉じました。そんな、晴らすことができない悲しい気持ちの中にいると、近付いて来る夢の足音に気付きました。
「オッカさん。救急病棟に移るみたいなの」
 顔を上げて笑みを向けたオッカは「分かった」と返事をし、ベッドの移動をするため、夢と一緒におばあさんの着ていた衣服や自分達の荷物をまとめ始めました。
 おばあさんが次に移るのは救急病棟です。ICUから出た後でも、まだ高度な医療を必要としていたり、一般病棟に移るにはまだ早いと判断された場合に入る場所です。救急病棟はHCUとも呼ばれ、中の環境は病院によって様様違いがあります。
 そうして三十分後、救急病棟への移動は何事もなく終えることができ、おばあさんの入院生活が始まりました。
「おば様をお願いね」
 病棟の移動を終えるや否や看護師に呼び出された夢はオッカにそう声を掛け、これからの事を話し合うため部屋を後にしました。
 元気よく立ち上がったオッカは腰に手を当て、麻酔で眠ったままのおばあさんに笑みを向けました。
「よし。姉さんちょっと待ってておくれ」
 オッカはおばあさんにそう声を掛けると、持ってきた荷物を適当な場所に置いてゆき、ここでの生活を考え、部屋の中の整理を始めることにしました。しかし、何から片付けようかと周りを見渡したオッカはある事に気付き、そこで手を止めてしまいました。病院というのはもっと清潔で整頓された場所なのだと思っていたオッカのイメージとは違い、個包装のアルコール綿や様様な医療品を収めているケースの底や、ベッドのサイドレールや部屋の所所に埃が溜まっていたり汚れが残っていたりと、とても衛生的とは言えない光景が目の前にあったからです。次次変わる状況に清潔さを維持し続けることは難しいのかもしれませんが、その余裕のなさは患者や家族に、重要な何かを見落とすのではないか、と不安にさせてしまうのです。
「オッカさん」
 思わず考え込んでしまっていたオッカの頭の中に夢の呼ぶ声が響きました。
「話しは終わったのかい?」
 振り向いたオッカは、おばあさんに寄り添った夢にそう聞きました。
「うん。手術は大丈夫みたい。ただ今後、口から食事を取るのが難しくなるから、胃瘻の手術をする事になりそうなの。でもそれは今じゃなくて、退院した後もう一度来て、その日もこれから決める事になりそうなの」
 そう話した夢の声はとても落ち着いていて、それを静かに聞いていたオッカも寧ろ安堵した表情でおばあさんの寝顔にそっと目をやりました。夢達は日頃から誤嚥による肺炎や、食欲減衰による栄養不足という問題に対して懸念していたのです。特に食欲減衰は、筋力低下で食事を取る事が辛くなったり誤嚥を恐れ消極的になったりした事が原因で、夢達はどうしたらいいのか分からず難しい問題になっていたのです。
 だからこそ夢とオッカはその問題の解消に最初は安心していたのですが、時間が経つにつれ色色な過去を想い出し、悲しい気持ちが心の中を染めてゆきました。
「避けては通れない道だね」
 オッカは複雑な表情を浮かべ、囁くようにそう言いました。
 胃瘻を造るという事は病気の進行を意味し、実際にその現実に直面すると、心が後ろに引っ張られるような、そんな気持ちに二人はなってしまったのです。そして、一歩一歩進む病気からおばあさんを遠ざけたいと、夢達の心は揺らいだのでした。
 二人は言葉を発さず、それから少しの静寂が流れた後、オッカが心配していた事を夢に聞きました。
「呼吸は大丈夫だったのかい?」
「うん。今回は大丈夫だったんだけど、いずれ、ちゃんと人工呼吸器のためだけに準備したいと思うの」
 力強く穏やかにそう話した夢は、選択を迫られるような形で人工呼吸器の使用を始めたくないと思っていました。それに、ただでさえ苦しい入院の中で、いくら事前に決めていたとはいえ短時間でその事を受け入れなくてはいけない、それはあまりにも残酷だと夢は思ったのです。
「賛成だね。ミゲロ達にも話しておこうかね。姉さんも目覚めたら話しがしたいね。話したい事が一杯あるよ」
「ほんと」
 通じ合える気持ちと信頼できる仲間。夢とオッカの顔からやっと、いつもの陽気な笑みが零れました。希望ある未来を感じた二人はしばらく時を忘れ、眠るおばあさんを見つめていました。
「あ!」
 そんな中、突然夢がそう声を上げ、オッカの方に振り向きました。
「みんなのこと忘れてた!」
「ほんとだ。じゃあ夢が下に行ってくれるかい? みんなも聞きたい事一杯あるだろうし」
「分かったわ。みんなを安心させてくる。おば様をお願いね」
「分かったよ」
 そして夢は小走りで部屋を後にしました。
 頬笑みながら夢の背中を見送ったオッカは、ベッドの横の椅子に腰を下ろしました。
 ゆっくりと呼吸をするおばあさん。優しく丸まった手。
 見つめていたオッカはそっと両手で丸まった手を包み込み、おばあさんの顔を見つめました。すると、おばあさんは手の感触に気付いたのか目蓋をうっすらと開き、新しい朝が始まったかのような表情を浮かべました。痛みを乗り越え目覚めたおばあさんは、何も変わらずいつものように穏やかでした。
「起きた? よく頑張ったね。姉さん」

 今日の日は、みんなにとって始まりの日になりました。
 道を決めたその先には、見たことのない世界が広がっています。
 おばあさんは夢達の愛に包まれ、夢達はおばあさんの存在に包まれ歩いて行くのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?