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小説「美しきこの世界」 八

 キラキラキラ。夏の香りに満たされたクイナの丘を子供達は駆け回り、空から見下ろす太陽は、キラキラキラ、エネルギーを与えるようにクイナの全てを輝かせます。
「おば様!」
 買い物をしていた夢はおばあさんの姿を見つけるとそう呼び掛け、笑みを零しながら駆け寄りました。
「こんにちは!」
 いつも元気な夢の挨拶。白色のロングスカートは風に揺れ、涼しさを感じさせました。
 笑顔で「こんにちは」と挨拶を返したおばあさんは、今日もお気に入りのシルバーカーを使いこなし、買い物をしていました。以前よりも楽に外出が出来るようになったので、おばあさんはいつも沢山の買い物をします。だから収納ボックスもいつも一杯で、買い物終わりに座面が綺麗に閉じていることの方が稀なのです。
「晩ご飯の買い物かい? 今日はコロッケと、ニラと豚肉で肉野菜炒めにするよ」
 おばあさんがそう話しながらシルバーカーの座面を上げると、材料の詰まったレジ袋と瓶のラムネのジュースが中に入っていました。すると、それを見た夢は手に持っていたレジ袋の中からガチャガチャと音をさせながら同じラムネを取り出すと、「私も買ったの、ほら!」とおばあさんに見せました。瓶の中で陽気に踊る泡達はとても涼しげで、見ているだけで喉が求めてしまいます。このラムネはケンジの父の代から続いている三ツ星鉱泉所で作られている商品で、他にはアップルやソーダ等のジュース、一番の売り上げを誇る年末限定の甘酒があります。父と兄弟の親子三人、作っては配達、作っては配達といつも活気よく働いています。
「一緒に買い物に行きましょう!」「そうさね」
 おばあさんが頬笑みながら頷くと、二人はまた別の店へと歩き出しました。
 コツコツコツ、石畳の上を陽気に歩く夢は、隣を歩くおばあさんにそっと視線を寄せました。コロコロコロ、おばあさんと一緒に歩くシルバーカー。それはみんなと一緒に作ったプレゼントです。そんなシルバーカーを当たり前のように使ってくれているおばあさんの姿を見るだけで、夢は嬉しくて堪らなくなるのです。
「そうだわ! 晩ご飯一緒にどうかしら!」
 突然立ち止まった夢は、思い付いたような笑顔でそう聞きました。
「そうさね。でも言うと思ったよ」
 おばあさんが見抜いたような笑みを向けると、夢ははにかみ頬を上げました。
「何にしようかね?」おばあさんがそう聞くと、夢は「魚?」と思い付いたまま答え、そして今日の献立が一つ決まりました。
「真あじ、鱚、太刀魚。おば様は焼き魚、だから」
 二人が歩きながら魚の話をしていると、その会話の中にオッカの声が差し込んできました。夢が声の方に目をやると、オッカは店先でスーツ姿の男性の客人と話をしていました。その男性は丁度買い物を終えた所で、小銭を受け取ると会釈をして店を後にしました。夢はそれを見届けると、二人に気付いたオッカに手を振りました。
「来たね、いらっしゃい。それよりもさ、のど渇いたね」
 何の前触れも無いオッカのその言葉が合図となり、涼しい所で話をしようと喫茶店へ行く事に決まりました。その会話が耳に入ったミゲロは店先に出てくると、「暇だからそうしてくれ」と追い出すように言いました。オッカ達の会話が盛り上がり出すと、ミゲロは耳と頭が痛くなるのです。そう、煩いのです。

 丘に敷かれた石畳は午後に入ると熱気を放ち始め、そんな逃げようのない暑さに包まれながらも歩き続けた三人は、花梨という名の喫茶店に辿り着きました。
「ミックスジュース三つ」オッカは店のドアを開くや否や声を上げてそう注文しました。三人が注文したミックスジュースは果物をどろどろに砕いて混ぜたフルーツのジュースで、同時に砕いた氷の食感と清涼な喉ごしがクセになります。特に子供や学生に人気で、夏はこれを目当てに住人達はやって来ます。
 数分後、男性の店員が大きなグラスに入ったミックスジュースを運んできました。この瞬間を待っていたオッカは店員が去るのを待つことなくグラスを手に取ると、ジュース半分を一気に流し込みました。
「カァーッ! これなのさ、これが良いんだ! ケンボウのラムネと良い勝負だよ」
 思わずオッカは心のままを表現しました。笑みを零しながらそんなオッカを眺めていた夢は「うん」と頷くと、ミックスジュースを二口、三口飲み込んで、キンと冷えた果物の甘さに味覚を澄ませました。
 ここは喫茶店『花梨』。眠りに落ちてしまいそうになる程ガンガンに効いた冷房と、体の中心から冷やしてくれるミックスジュースが人気の店です。特に夏になると、まるで昆虫採集のトラップが仕掛けられているかのように人が店に吸い込まれて来ます。カランカラン。そしてまた花梨のドアが開き、暑さから逃れようと新たな客が入ってきました。
「そういや姉さん、ヘルパーさんの方はどうなの?」
 すっかり落ち着いたオッカがそう聞くと、おばあさんはストローから口を離して「まだ大丈夫だから呼んでないよ。看護師さんもまだだよ」と答えました。話の終わりに合わせて「うん」と頷いた夢は「今はまだ大丈夫なの。必要な時は必ず言ってもらうようにしてるの」と続けると、おばあさんに笑顔を向けました。
 するとおばあさんは言おうと思っていた事を夢の言葉で思い出し、胸に手を当て話し始めました。
「そういやあ最近横んなる時が息苦しいんさね。ペンギンのぬいぐるみを、こう、抱いて座って寝ると少し楽なんだよ」
「ペンギンって昔ケンシが貰ってきた景品だろ? へぇ、覚えてるよ。祭りの日だ」
「ちょうど良いのさ」
「姉さんが抱えてんならもうペッタンコだね」
「あんた失礼だね」
「冗談さ」
 リズム良く軽快に話すおばあさんとオッカ。他の人から見れば日常的な会話に聞こえるのですが、おばあさんの話を聞いた夢はトクントクンと自分の鼓動を感じるまでに心が内向きになっていました。夢は分かっていたのです。分かってはいたのですが、それでも生まれる恐怖心に夢は飲み込まれ、心が鈍り出していました。
「おば様。私、今日泊まっても良いかしら?」
 夢の唐突な話におばあさんとオッカはキョトンとしてしまいました。そんな二人の様子に気付いた夢は急に恥ずかしくなり、慌てて「ストレッチ!」と付け加えました。しかし、それでも話が見えない二人は「ストレッチ?」と呟くと、どう話そうか考え出した夢に笑みを向けました。
「上手に筋肉を動かすと、出来るだけ長く維持が出来ると思うの」と夢。
「リハビリみたいなものかい?」
 オッカがそう言うと、夢は「うん」と頷きました。
 人は全身にある様様な機能を働かせ、健康な状態を維持しています。しかし、筋肉や神経や関節等それらを機能させなければ衰えてしまい、その状態を維持させることは難しくなってしまいます。更にベッド上の生活が長くなると衰えるスピードも想像以上に速く、それらの状態を悪化させず維持するためにはリハビリが重要になってくるのです。
「一度病院へ行って相談しましょ! 準備は準備の時に、よ!」
 そう提案した夢は真剣な眼差しをおばあさんに向けました。
 もちろん夢はリハビリの事を話そうとは思っていたのですが、それは今ではなく夕食時にと考えていました。それでも唐突なこのタイミングで切り出したのは、血が引くように広がった胸の奥の恐怖心に前向きな話で抗おうとしたからです。しかしその力は深く、そして夢は、海の中に居るような、そんな上も下も無い暗闇に囚われてしまいました。
『どうしよう』
 夢が心の中で弱音を吐いた、その時でした。恐怖を帯びた夢の瞳に、笑顔で話しているおばあさんの姿が映ったのです。そしてその瞬間、恐怖に縛られ思考や行動が停止してしまっていた自分の気持ちの無意味さに気付き、更にそれらが解けてゆくのを感じました。
 今はまだ進行を止める事が出来ないALS。だからこそ周りに居る夢は恐怖ではなく、現実を真っ直ぐ見つめなければいけないのです。なぜなら、恐怖はもうおばあさん自身の心の中にあるからです。おばあさんにとって何が一番大切なのか、夢は自分自身を停止させずにおばあさんを見つめました。呼吸の苦しさを感じ始めた事、これからの事、おばあさんの笑顔。そうして、失いたくない未来が広がり迷いが消えた瞬間、夢の瞳を曇らせていた霧が晴れ、突然目の前にミロクおばあさんが現れました。その姿は今まで感じた事のないくらい鮮やかでハッキリとしていて、生きている姿を真っ直ぐ見つめる事ができました。
「おば様! あ、私、私もう一杯ジュースを飲むわ」
「まだ半分残ってるのにかい?」
 オッカは突然慌て出した夢の姿が可笑しくて、笑いながらそう言いました。夢自身も、気持ちが空回りし続けている自分に気付きはにかんだのですが、今の心の中は前に突き進む意力で一杯です。だから夢はその勢いのままグラスに残っていた分を飲み干すと、ミックスジュースを新しく注文しました。
「お腹は大丈夫かい?」
 おばあさんが心配してそう言うと、夢は笑顔で頷きました。
「少しずつ飲むわ。ありがとう。そうだおば様、はっちゃんの事聞いたかしら?」
「リッキーが生まれた時は大っきかったからね。兄妹揃って大っきくなると良いね」
 もうすぐ生まれてくるケンジとハツエの子供の話になると、おばあさんは赤ん坊を抱くように両手を広げそう言いました。今ケンジとハツエの間には長男のリッキーがいて、生まれてくる子は二人目で長女になります。「年子なので慌ただしくなりそう」と二人とも張り切っています。
「本当。はっちゃんもうすぐって言ってたわ! ね、オッカさん!」
 声を高くして喜ぶ夢。夢は、リッキーが生まれた時も嬉しさのあまりバタバタとあっちこっちへ手伝いに走り回っていました。その時夢は感極まって涙しながら町を駆けていたので、その後の数日の間は恥ずかしさで町へ出ても誰にも会わないようにしていました。
「言ってたね。もうすぐだって、あの人も楽しみにしてるよ」
 落ち着いた声でポツリとそう答えたオッカは、優しい顔をしていました。
「ミゲロさん子供が大好きだものね」
 頬笑み掛けた夢がそっと気持ちを寄せると、オッカも笑みを見せて頷きました。
「あんた達が時時世話してくれるから喜んでたよ」
 おばあさんは温かな眼差しでオッカにそう伝えると、夢の方へ振り向き「あんたもね」と声を掛けました。子供達と一緒に遊ぶ日を想像した夢達は、とても嬉しくなりました。
「そうだ、名前は何だろうね?」
 オッカはそう呟くと、女の子の名前を考え始めました。
「はっちゃんがもう決まってるって言っていたわ。生まれてからね、って」
 夢がそう言うと、テーブルに片肘を置いて宙を見つめたオッカは「あの子なら可愛い名前を付けそうだね」と、生まれてくる子供を想い笑みを浮かべました。
 人は誰でも赤ん坊の時があり、無垢なその瞬間は命そのものを感じさせてくれます。そして子供は一人で生きて行く事は出来ないので、生きるために必要な行為を子供の代わりに行う事で、同じように行為を受けて自分も生きてこれたのだと気付かせてくれます。ただ、それは言葉だけで伝わるような簡単な事ではありません。子供を産むという事は育てるという事。つまり出産の覚悟ではなく、心と環境を整え育て切る覚悟が必要なのです。そしてそれを行うのは、どこまで生きても未熟であり続ける人間です。
 その後も三人の会話は止まる事なく続き、いつの間にか壁の柱に掛かった振り子時計は午後の五時前を指していました。三人は急いでミックスジュースを飲み干すと、一人一人会計を済ませ、回復し切った笑みを零しながら店を出ました。
 モワーッ。夢がドアを開けて店を一歩出た瞬間、一気に夏の空気が全身を包み込んできました。冷房で冷えていたおかげで初めは暖かく感じたのですが、それも束の間、今まで何処に居たのか忘れるほどの現実に引き戻されてしまいました。二の足を踏みながらもようやく店を出たおばあさんとオッカはうんざりした表情をして見せたのですが、先頭を切って出た夢だけは違いました。この季節だけにある、涼しい場所から暑い外へ出た時に受けるこの感覚、それはどこかへ冒険に出かけるような、そんなワクワクとした気持ちに夢はいつもなるのです。
「オッカさんありがとう! また一緒に話しましょう!」
 夢は大きく手を振りました。振り返ったオッカも笑みを浮かべて手を振ると、ミゲロのいる家へと帰って行きました。
「帰ろっか。おば様」

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