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小説「美しきこの世界」 十

 重く唸る機械の音。リズムに乗って噴射する水の音。工場内に響く男の声。只今三ツ星鉱泉所はジュースを製造中です。
「親父、アップルの用意できたわ」
 工場内のロフトの中で作業をしていたカッチは顔を外に突き出すと、一階で作業をしているジフィにそう声を掛けました。ジフィはベルトコンベアに流れる洗浄された空瓶の状態を見ていて、そこから視線を外すことなく「ああ」とだけ返事をすると、綺麗になった瓶をケースに詰め始めました。
 そうしてロフトでの作業を終えたカッチは、勢いよく梯子から下りると次の作業へ移るためジフィの所へ戻り、ジュースを瓶に充填するための準備を始めました。
「そうや親父! ケンボウ行ったか?」
「トイレ」
 ジフィが瓶の詰まったケースを持ち上げながらそう答えると、キョロキョロ周りを見渡していたカッチは苛立った感情を顔に出し、急いで工場の奥にあるトイレに向かいました。
「おいケンボウ!」ガチャッ。カッチはノックもせずにトイレのドアを開けました。
「何しよんねん!」
 そう声を上げて振り向いたケンジは、和式の便器にしゃがみ込むところでした。それでもカッチはドアを閉めず、逆に怒り出しました。
「お前まだおったんか! もう生まれるんちゃうんか!」
 そんなカッチの苛立ちが移ったケンジは「大丈夫や! 早よ閉めろ!」と言い放ち、カッチにドアを閉めさせました。ケンジの態度が腑に落ちないカッチは「早よ行けよ!」とドアに向かって声を投げたのですが、ケンジがそう言う以上言い合っていても仕方ありません。カッチは苛立つ気持ちを抑え、ぶつぶつ文句をこぼしながら仕事の続きに戻りました。
「ほんまにあいつわ。変わらん。腹立つ」
 文句を言えば言うほど腹が立つ。そうして口の止まらないカッチがアップルの充填を始めようとした、その時でした。
「電話!」
 事務所の近くで作業をしていたジフィがそう声を上げたのです。それを聞いたカッチは慌てて事務所に駆け込み、ほんの数秒すると、今度はそれ以上に慌てて事務所から飛び出してきました。
「産まれた! おいケンボウ! 産まれた! 救急車!」
 感情に喜びが混じってよく分からなくなったカッチは、思わずトイレに向かってそう声を上げました。トイレを終えたケンジは手を洗っていたのですが、カッチの喜ぶ声が聞こえた瞬間トイレから飛び出し、手を拭かないまま全速力で病院へと駆けて行きました。

 長男であるリッキーの出生時の体重は三七三〇グラムと大きかったのですが、分娩時間は短く安産でした。今日生まれた女の子も三四五〇グラムとリッキー同様大きく、それでも初産の時以上に早く出生できたので、当然マイペースなケンジは立ち会い出産に遅刻しました。ただ、今のハツエには、ケンジが居ようが居まいがそれはもうどっちでもいい事なのです。よく頑張った赤ちゃんの顔。毛布に包まり見え隠れする手や足や後頭部。横顔。私の全てが同じ世界に生まれてきてくれた。ハツエの心はそんな幸せな気持ちで一杯なのです。
「ばあちゃん。夢」
 自分達を呼ぶ声が聞こえ二人が振り向くと、病院の廊下を息を切らして歩いて来るケンジが居ました。工場から病院までは数百メートルあるので、走ってきたケンジの半袖から見える焼けた肌は汗で光っていました。
 おばあさんと夢は出産に合わせ分娩室の前で待機していて、おばあさんは車椅子に、夢はその横に立っていました。どうせケンジは遅れて来るだろうと話していた二人はデリカシーのない人を見るような薄目でケンジを迎え、更に意地悪っぽい笑みを向けた夢は「中に入るのはもう少し待ってって、看護師さんが。で?」と逃げ道を塞ぎました。そんな夢が可笑しくて思わずニカッと笑ったケンジは、そのまま分娩室に視線を寄せ、ドアの向こうに感じる二つの命を見つめました。
「赤ちゃんの声聞こえた?」
 二人にそう話し掛けたケンジはソワソワとした笑みを浮かべていて、今はもう駆けてきた時の動機は消え、ずっと残っていた胸の高まりだけがケンジの体を打っていました。
「ハツエも、赤ん坊も。二人ともよく頑張ったよ」
 おばあさんの声はとても温かく、色んな想いで溢れていました。
「強いやろ。ばあちゃんみたいやろ」
 ケンジが顎を上げて自慢げに言うので、思わずおばあさんは「フフフ」と笑いました。
 それから少しすると分娩室のドアがガララッと開き、中から女性の看護師が出てきました。走ってきた様子のケンジに気付いた看護師はその場を理解したのか、三人に軽く会釈しました。
「ケンジさんですか?」
 看護師に名前を呼ばれ、自然と背筋が伸びたケンジは「ハイ」と返事をしました。
「おめでとうございます。ハツエさんが待っています。入る準備をするのでどうぞ」
 そう声を掛け頬を上げた看護師が軽く会釈をすると、ケンジは小さく頷きました。
「じゃあ、ちょっと行ってくるわ」
 そしてケンジは固まっていた表情を無理矢理緩め、二人の所へ向かいました。

「みんな居てくれたんだね」
「ばあちゃんがよう頑張ったなって」
 ケンジはハツエにそう伝えると、ベッドの上の赤ちゃんを見つめました。ミーナは穏やかに眠っていて、体を包んでいる布の腹部の辺りがプルプルとしています。可愛く膨らんだその場所には、二人を繋いでいたへその緒があるのです。それはこの宇宙で唯一無二、母と子の間にしか存在しない命の絆。そして、生まれた命の源は父と母の命そのものです。そうして沢山のものを受け取り生まれたミーナは、一年前の丁度この場所で見たリッキーと同じように皺くちゃで、誰に向ける事もしない心を持っていて、でもそうあるのは本の僅かな間だけ。ケンジは子を育てるという事の尊さを胸に刻み、柔らかく眠るミーナをそっと抱き寄せました。
「よぉ。わかるかミーナ。おとうさんやで」
 ケンジの声はいつものように頼もしく、いつもと違って繊細でした。
 そんな思っていた通りのケンジの表情と、無事生まれてきたミーナを目にすることができたハツエはやっと心から安心でき、幸せな気持ちを零すようにクスクスと笑いました。
 生まれたばかりのリッキーとミーナ。二人はこれからクイナの町で育ってゆきます。
 一番最初に愛してくれて、一番最初に愛した人と、永遠に。

「怒ってたろ?」
 分娩室から出てきたケンジにそう声を掛けたのは、ニヤニヤと笑うオッカでした。オッカはケンジが分娩室に入った直ぐ後に到着していて、ケンジが立ち会い出産に遅刻した事ももちろん知っています。オッカと同じように頬を上げたケンジは「怒ってへんわ」と小声で言うと、改めた表情で三人の前に立ちました。
「どうしたんだい? 行かないのかい?」
 ケンジが意外な表情を見せたので、オッカは笑顔のままそう聞きました。
「三人とも入ってくれへんか」
 ケンジは柔らかく頬を上げ、夢達にそう伝えました。
 しかしそれは、夢達にとって思ってもしなかったケンジの言葉です。去年と同じようにハツエの出産だけを見守るつもりでいた夢達は、その言葉を耳にした瞬間驚いてしまいました。
「大丈夫。先生には言っといたから。これはハツエのお願いやねん」
 ケンジが頬笑みそう言うと、顔を見合わせた三人は驚きや嬉しさが混ざったような表情になり、緊張の鼓動が体を打ち始めたのを感じました。そんなみんなの気持ちを緩めようとケンジは一人一人に目をやると、「大丈夫」と声を掛けました。
「ありがとう」
 夢はケンジに笑みを向けてそう答えると、おばあさんにそっと視線を寄せました。おばあさんはハツエとミーナの方を見つめていて、ふと夢の視線に気付くと頬を上げ、二人は眩しい笑顔を零しました。

 今日という日が訪れるまで沢山話したミーナの事。ベッドの前で立ち止まったおばあさんと夢とオッカは言葉を発さず、心を通じ合わせるようにハツエとミーナに笑顔を向けました。いつものように優しい笑顔で見つめるおばあさんはとても落ち着いていて、それとは逆にこういった場面に慣れていない夢とオッカは途端に照れ出し思わず頬を上げました。
「ハツコ。おつかれさま」
 そんなこそばゆい気持ちを乗せ、囁くように響いた幼馴染の声。ケンジとは少し形の違う、懐かしい愛情をハツエは心に感じました。でもそれは昨日や今日だけでなく、きっと明日もこれからも。そんなみんなの沢山の優しさを受け取ったハツエの心は今、まるで光に包まれたような安心感で満たされていました。
「ありがと。抱っこしてあげて」
 ハツエはオッカを真っ直ぐ見つめ、そうする事が当然だと伝わるように力強くそう言いました。その気持ちに気付いていたオッカはハツエの言葉に笑みを向けると、顔をクシャクシャ動かすミーナを抱き寄せました。腕の中の赤ちゃんは夢中で指を舐めていて、この世界に全てをゆだね生まれてきた、そんな命の重さをオッカは感じました。
「おばさんにもお願いね」
 ハツエがおばあさんに笑みを向けてそう言うと、その言葉を心のどこかで待っていたオッカは今の気持ちを零すように満面の笑みを浮かべ、小さく何度も頷きました。
 もちろん、おばあさんもオッカと同じ気持ちでとても嬉しいのですが、心配な気持ちもありました。おばあさんは嬉しい笑みを残したまま、その気持ちを正直にハツエに伝えました。
「大丈夫かい? ここは家族だけが入れるんじゃないのかい?」
「だから入ってもらったの」
 返って来たのはハツエの真っ直ぐな言葉でした。ハツエは決めていたのです。今日という日を迎えることが出来たなら、おばあさんに自分の想いを話そうと。
「おばさんは家族なのさ。何があっても。頑張るからさ。おばさんは一人じゃないから。だから一緒に頑張ろうね」
 ハツエの声には、涙が少し混ざっていました。ハツエの心がおばあさんへの想いで溢れたのです。そしておばあさんも、ハツエの優しさで胸が一杯になり、手元にあったホワイトボードにポトポトと涙を零しました。
 そんな二人の様子を小さく頷きながら感じていたオッカは、抱いていたミーナをおばあさんの腕の中へそっと寄せました。笑みを浮かべたおばあさんは柔らかくミーナを受け取ると、全てのものに等しくある、命そのものを感じました。
「夢。あんたもだよ。抱っこして」
 ハツエは夢にそう声を掛けました。
 それぞれの思い遣りを側で感じていた夢は、涙が伝う唇をギュッと閉じ、ハツエに笑みを向けると「うん」と小さく頷きました。
「夢。あんたはいつも辛い事を話さない。それはだめだよ」
 ハツエは友のように母のようにそう強く伝えると、おばあさんからミーナを受け取った夢は幸せな笑みを零し、「うん」と小さく頷きました。
「そうそう、オッカ。この子はミーナっていうんだ」
 ハツエがいつもの調子でそう話すと、オッカもいつもの笑顔を見せました。
「オッカ。リッキーもこの子もアンタの子だよ。クイナの町に、この子達のお母さんは二人なんだ」
「なんだい急に」
 ハツエが伝えようとしている想いに気付いたオッカは思わず涙の声になり、そして頬にそっと、溢れたハツエの気持ちを零しました。
「もしこの子達が悪さなんてしたら、怒ってあげて」
「うん。わかった」
「頑張ったら、褒めてあげて」
「うん。わかった」
「ありがとね。オッカ」
「バカ。あたしのセリフだよ」
 そして幼馴染みの二人はまた、いつものように頬笑み合ったのでした。

「分かった。スーパー寄るからまた連絡するわ! おやすみ」
 電話の相手は夢でした。いつものように今日の報告を受け、少しだけおばあさんとも話をしました。元気そうな声を聞けてケンシは安心したのですが、最近おばあさんの言葉を聞き取ることが難しくなってきている事に焦りや恐怖を感じていました。ただ、側に居てくれるのは夢達です。そしてケンシは夢を知っています。深い悲しみも生きる喜びも知る夢は、おばあさんにとって心強い人なんだとケンシは知っています。
「夢がいてくれてよかった」
 小さく深呼吸したケンシは、夕食を買いに商店街へと走り出しました。

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