見出し画像

小説「美しきこの世界」 七

 瓦の屋根が特徴的な平屋の家。クイナの町には珍しく和の色や形が広がっていて、住人であるミロクおばあさんの性質がそのまま表れているようです。更にここには同じ家一軒分ほどの庭があり、今日もまた降り注ぐ太陽の光、風にそよぐ樹木や雑草、そんな中で日光浴をする古い畳、そして賑やかな声が聞こえてきました。
「コラァ! 上だ上持て!」
「違うお前の足がグラグラしてんだろ! ちゃんと立て!」
 フクが支える脚立の上に立つミゲロは、新しい雨どいを設置しようとしています。
「うるさいねぇ! 壁ぐらいさっさと直しておくれ!」
 そう声を上げながら台所から出てきたオッカは卓袱台の上にお盆をドンと置きました。お盆の上の皿には小振りのお握りが四十個ほど並べられていて、言い合いをしていたミゲロとフクの意識を奪い釘付けにしました。しかし、空腹状態の男達への誘惑はそれだけではありません。そのすぐ後に台所の暖簾を潜り部屋に現れた小さな背の女性のハツエが、これまた大量のおかずを盛ったお盆を手に部屋に入ってきたのです。
「あ! ハツコの玉子焼き! 大好きなんだよ!」
 ハツエが部屋に入ってきた瞬間、庭で新しい雨どいの寸法を測っていたフミが走ってきて、縁側に膝を付きました。ハツエはお盆を卓袱台の上にトンと置くと、大きなお腹を擦りながら「そう」と自信を込めた笑顔で言いました。そしてまた暖簾を潜り、台所に入って行きました。
「あたしはこれだね! ハツコのは全然違う」
 オッカはハツエが持ってきた唐揚げを一つ摘んで口に運び込み、瞳を閉じて味わいだしました。すると、脚立の上に腰を落として見ていたミゲロが足をグラグラさせながら下に降り、堂堂と摘み食いをしたオッカに声を上げました。
「何でオッカが先に食ってんだ!」「あたしらが作ってきたんだよ!」「俺らが作業してんだ!」そうして始まった夫婦喧嘩。いつもの事でみんなは何とも思っていないのですが、とにかく騒がしいのです。それにわざわざ首も突っ込みたくありません。
「腹減った」そう呟いたフクとフミが、面倒臭い気持ちを顔に出して作業をし始めた丁度その時、庭の奥から夢の声が聞こえてきました。
「オッカさん見て!」
 庭に現れた夢はシルバーカーを前に持ち、ゴロゴロゴロと押して来ていました。以前とは違い既製品のように安定しているそのシルバーカーは、ミゲロのアドバイスによって完成したものです。ただ、ミゲロはアドバイスをするだけで夢の手伝いは一切しませんでした。その方が夢のためになり、ミロクおばあさんも喜ぶと思ったからです。
「ジャン!」
 夢が両手を広げて披露すると、ミゲロは庭に下りてきてシルバーカーを丁寧にチェックし始めました。まずは前面の収納ボックスのスペースを目で確認し、上がっていた蓋を下ろして収納ボックスを閉じると、上から手のひらで体重を掛けました。想像以上にミゲロが強く押したので、見守っていた夢の手には自然と力が入りました。ただ、これはミゲロに言われていた事なので、必要以上に慎重に丁寧に頑丈に作った場所でもありました。
「自分で乗ってみたか?」
「試してみたわ。長く座れるようにクッションで座り心地良くしてみたの。クッションは熱が篭らないように分けて入れてみたわ」
 収納ボックスを閉じる蓋は座面になっています。本体が動かないようにブレーキを掛けた状態でロックすると椅子として利用出来るのです。多くのシルバーカーがそうなっているので、夢はどうしても同じようにしたかったのです。
「そうか。耐荷重も大丈夫だろうしブレーキもちゃんと出来てる。安心だ」
「やった!」
 夢は両手を胸の前で握り締め、大きな笑顔になりました。杖を使い始めていたおばあさんが楽に歩けるようになるかもしれない、そう思っただけで心が躍りだしたのです。
 そんな夢の反応を見て安心したオッカが縁側から庭に下りてくると、「どれ」と声を掛け、夢の方へ歩き出しました。
「お前乗るのかい?」
 オッカに振り向いたミゲロは反射的にそう声を上げ、更に無意識の内にそっとその道を遮りました。
「なんだい!」
 ミゲロの意図に気付いたオッカは凄い形相でそう声を上げ、そんなオッカを目の当たりにしたミゲロは思わず重心を後退させ、慌てた夢はミゲロに助け舟を出しました。
「大丈夫なのミゲロさん! 椅子の部分はオッカさんがアドバイスをくれたの!」
 それを聞いたミゲロは表情を固めたまま、何も言わず縁側の方へ歩き出しました。
 すると夢は、そんなミゲロの背中へ向けて感謝の言葉を掛けました。
「ありがとうミゲロさん。ミゲロさんがいてくれて良かったわ」
「ん、おぅ」
 夢の真っ直ぐな言葉に恥ずかしくなったミゲロの声は上擦っていて、それが面白かったオッカは笑みを零すと「何照れてんのさ」と意地悪っぽく言いました。早くこの場を離れたいミゲロは振り返る事なく「うるせぇ」と呟くと、縁側を上って食事が用意された卓袱台に付きました。巻き込まれないよう存在を消していた男達もニヤニヤと笑みを浮かべながら卓袱台に付くと、待ってましたと言わんばかりに食事を始めました。
「座ってオッカさん! スゴく良い座り心地なの」
 大きな笑顔の夢に勧められたオッカは「そうだね」と答えると、シルバーカーにそっと腰を掛けました。もちろんオッカは夢がどんなに一生懸命だったのか知っているのですが、それ以上に感動したのは腰を掛けたこの瞬間でした。夢の作ったシルバーカーは、座っただけで夢の想いが伝わるぐらい、とても素敵な物になっていたのです。オッカは笑みを浮かべ「うんうん」と頷くと、立ち上がってシルバーカーを眺め始めました。
「綺麗な色、綺麗な模様だね」
「気付いてくれた! なでしこの花の模様なの! 綺麗な紺色の生地だったから、お店で初めて見た時絶対これにするって決めていたの」
 夢の話を頷きながら聞いていたオッカは「よくできたよ」と言葉を掛けました。そんな温かなオッカの言葉に照れた夢は視線を落とすと笑みを浮かべ、嬉しい気持ちを零したのでした。
「おおい! そろそろじゃねぇかぁ?」
 話を終えた夢とオッカが夕食の相談をし始めた時、ミゲロがリスの様に食事でほっぺたを膨らましながら二人にそう声を掛けました。それを聞いたオッカは夢の方に振り返るとニカッと笑みを向け、「これ、持っていくってのはどうだい? 早く見せたいだろ?」と提案しました。夢は体で大きく「うんッ」と頷くと、喜びと不安で瞳をキラキラ輝かせました。今家に居るのは夢達だけで、おばあさんは特定疾患に関する申請や様様な手続きについて相談をしに役所へ出掛けています。時間があれば歯科と眼科にも寄ってくると言っていたので、少し遅くなるかもしれません。しかし夢は思ったら行動なのです。悩みません。「駅まで押していこうか」オッカが楽しみを込めてそう言うと、夢は「行きましょ!」と声を上げました。大好きな人へのプレゼントは早く渡したくなるものなのです。
 そうして二人は男達に「サボるなよ」と釘を刺すと、ハツエにこの場を任せて駅に迎えに家を後にしました。

 青や白の石畳が広がるクイナの駅の前。広場になっているこの場所は沢山の人が訪れるオレンジ通りと繋がっています。シルバーカーを交互に押しながら駅にやって来た夢とオッカは広場の端でおばあさんが帰ってくるのを待つ事にしました。
「このブレーキは油を注す所を絶対間違っちゃダメだよ」
「ほんとだ。そうだわ! 私時時見に行くわ! 使い始めはどうなるのか心配だから」
「そうだね、その方がいいね。あたしも店に来た時は軽く調子を見ることにするよ」
「ありがとう。ねぇ、もうすぐかしら?」
 夢が駅の方へ振り向くと、オッカは通りの先に目をやりました。
「ケンボウのことさ。多分この道を、あ、来たね」
 オッカが通りの先を指差すと、平ボディの軽トラックが一台向かって来ていました。それに気付いた夢が大きく両手を振ると、軽トラックは徐行し始め、二人の前で止まりました。トラックの側面のあおりの部分には「三ツ星鉱泉所」と書かれていて、荷台には空のジュース瓶が入ったケースが五、六個積まれていました。
「おったんか」
「ケンちゃんお帰り、おば様どうだった?」
 夢は運転席の窓から顔を出したケンジには目もくれず、奥の助手席にいるおばあさんに話し掛けました。夢にからかわれたケンジは「やったな」と呟くと、あからさまに視線を逸らす夢に顔を近付け態とらしく睨み付けました。初めから企みの笑みを隠せていない夢は想像した以上の面白い反応を目の当たりにし、思わず声を上げて笑い出しました。
 二人が子供のようにふざけ出すと、そんな事を気にもしないおばあさんはシートベルトを外し、「ケンジ、ありがとうね。ここからは歩いていくよ」と声を掛け、トラックのドアを開けました。夢とのやり取りを楽しむケンジは夢を睨んだまま、「分かった。先行っとく」と答えました。
 助手席側に回っていたオッカはトラックから降りるおばあさんの補助を終えると、駅の時計に目をやり、ケンジに話し掛けようと運転席側に回り込みました。するとケンジは睨んだ顔を反射的にオッカに向けてしまい、オッカに小さなゲンコツを貰いました。
「イッタ何しよんねん!」
「いいからメシ食ってさっさと手伝いな! まだ終わってないよ!」
「玉子焼きは?」
 ケンジは頭をゴシゴシ擦りながら聞きました。
「もうないだろうね」
「ええ!」
 ケンジはしかめ面で抗議の叫びを上げました。朝食を食べ損ねていたケンジは空腹を我慢しながら食べたい物を想像し、勝手に口の中を整えていたのです。更にケンジは、そもそも自分の食事の分が残っていないのではないかと焦り出し、居ても立っても居られずトラックを走らせ、おばあさんの家へと帰って行きました。
 夢は遠くなってゆくケンジに向かって「ありがとう」と手を振ると、直ぐ様おばあさんに笑みを向けました。
「見ておば様!」
 そして夢はシルバーカーのハンドルを握り、おばあさんに見えるように正面を向かせました。もちろんおばあさんはトラックに乗っていた時にはもうシルバーカーに気付いていて、今は驚きよりも感謝の気持ちで一杯です。嬉しい気持ちを頬に浮かべたおばあさんは、夢から受け取ったシルバーカーのハンドルを握ると、前後にコロコロコロコロ動かしました。そして夢とオッカに教わりながら、手元と足元に設置されたブレーキを掛けてみたり解除してみたり、その力加減を試してみたりしました。
「凄いねこれは。あたしでも少しの力で止まるよ。杖だけだと怖いのさ」
 おばあさんが声を上げて感心すると、逸る気持ちを抑えられない夢は直ぐ様ハンドルの端に取り付けたフックを指差し「これは杖を掛ける所なの! それにほら」、更に座面を持ち上げ収納ボックスを表に出すと「ここはお買い物の時に使って! とっても大っきく出来てるからまとめてお買い物ができるわ!」と矢継ぎ早に説明しました。
「すごいね、これはあたし向きだね」
 おばあさんは腰に手をやると、夢とオッカに笑みを向けました。そして、本体はどうなっているのか、どこでどう使おうか、様様気になった事を質問し、夢とオッカは体の事を考えながら答えてゆきました。
 この時夢は、プレゼントした物を積極的に使おうとしてくれている、そんなおばあさんの姿が瞳に映り、心の底から嬉しくなりました。

「ただいま」
 先に家に着いたオッカは途中で買ってきた沢山のカフェ・オ・レソフトクリームを冷蔵庫の奥に隠し、洗い物をしていたハツエに話し掛けました。
「あっちは終わりそうかい?」
「二人が出てからもちゃんとやってたわよ」
 するとオッカは台所の暖簾から顔を出し、厳しい表情で庭の様子を確かめ出しました。そんなオッカを背中を見たハツエは手で口元を隠しながら「フフフ」と笑みを零すと、ちゃんとオッカに聞こえるように小さく呟きました。
「棟梁みたいね」「アンタそれはないよ! あたしはね」「そうそう卵なくなったから買っといたわよ。おばさんには栄養沢山摂ってもらわないと」
 ハツエはオッカの反撃を遮ろうと、冷蔵庫を開けて中を覗き込みました。オッカは不服な顔をして見せたのですが的確な言葉が思い付かず、またいつものように同級生のハツエに上手に扱われてしまいました。ただ、それはそれで二人は楽しんでいるのです。仕方なく諦めたオッカはブツブツと言いながら台所のゴミをレジ袋に集め始めました。
「あぁ、卵買ったって事はケンボウかい?」
「そう。お父さん食べるって言ったら聞かないから」
「ごめん、あたしが言ったんだ」
「やっぱり。でも何が良いのかしらね。普通の玉子焼きなのに」
 そう聞くとオッカも不思議に感じました。
「何だか分からないけど好きなんさね。出てくると嬉しくなるのさ」
「変なの」ハツエは嬉しくて笑みを零しました。
「オッカには今度唐揚げの作り方を教えるよ」
「本当かい! 全然美味くならないんだよあたしが揚げると!」
 するとハツエは得意気な笑みをオッカに向け、「任しときな」と頼もしく言いました。
「あれは簡単に出来るんだよ。今度魚買いに行った時に作ろう」
「ナイスだね! 材料も買っておくよ」
 そうして楽しい約束がまた一つ増えました。
 ただハツエの言う通り、特別な事をしているわけではありません。相手の事を想いながら作るので、自然とその人に合わせた匙加減が入っているのです。無意識にそうしているハツエ自身には分からない、そんな母のような優しい料理なのです。

 ガラガラガラ。
 玄関の扉の開く音が家に響き、おばあさんと夢が帰ってきました。おばあさんが押していたシルバーカーの収納ボックスはもう一杯です。
「なんだいまぁ」玄関に迎えにきたオッカが思わず声を漏らしました。
「えへへ、一緒にお買い物してきたの」
 夢がそう言うと、オッカは頷きながらシルバーカーに視線を下ろしました。
「そうかい。じゃあ台所に持ってくよ」
 笑顔を見せたオッカは二人にそう声を掛けると、収納ボックスからレジ袋を引き出しました。思っていた以上の重みを指に感じたオッカは「一杯だね」と声を上げると、レジ袋を開いて中を覗き込みました。
「出た! 肉豆腐だね!」中には牛肉の薄切りと木綿豆腐が沢山入っていました。
「そうさ。今日はみんなで夕食を食べていきな。御馳走させておくれ」
「私も手伝うわ!」
「ちょうどソフトクリームもあるし、いいね姉さん、やろう!」
 声高に賛同したオッカはレジ袋の重みを忘れるほど、突然訪れた楽しみに心を躍らせました。そうしてジッとして居られなくなったオッカが二人を急かすように「ちゃっちゃっと支度しよう」と声を掛け、おばあさんに続いて台所に入ろうとした時、側にやって来た夢から「これからお買い物に行く時は一緒に行くって約束したのよ」と、嬉しさ一杯の笑顔でおばあさんとした約束の報告を受けました。オッカはその瞬間、『もしこの子に何かあったらあたしが守らないと』ハッキリとそう思ったのです。不思議ではあったのですが、この事を生涯忘れないだろうと、オッカはこの時確信していました。

「ばあちゃんどうだったんだ? 役所は聞いてくれたか?」
 フクが豆腐を頬張ったまま喋りだしたので、オッカは母のように怒りました。正しい事を言われ言い返せないフクは、オッカに見せつけるように口を閉じてモグモグ食べ出しました。その顔が可笑しくて笑ったケンジは「大丈夫や」とフクに答えると、おばあさんの代わりに今日の事を説明し始めました。
「申請すれば通る話やったし、在宅の先生と、えーと、桂馬?」「ケアマネ。ケアマネージャー」とおばあさんがフォロー。「そう。それが今度家来るって。それは夢がおった方がええから来てな」
 ケアマネージャーとは、介護の申請に関わる書類作成の代行や、制度によって得られるサービスの種類や時間を調整してケアプランを作成する立場の人です。それらの事は介護を受ける本人や家族とのコミュニケーションのなかで構築していくため、おばあさんのような重い病気の方にはまさに、これからの人生を決めるとても大切な時間になります。
 そして、介護に関する事は夢が主体的に行うことになりました。介護の経験もある夢は、今後の病気の進行を考えれば大切な存在になるからです。更に、おばあさんの孫がクイナの町に戻ってくるので、家の環境も変わります。それに合わせて手続きや書類等の管理は孫にバトンタッチするのですが、おばあさんの介護についてはその後も引き続き夢達も行う事になりました。
 こうして沢山の事が変化して行くのですが、どんな時でも想いは一つ。人は、生かされるのではなく、生きるのです。そしてそれこそが、おばあさんのQOL(クオリティ・オブ・ライフ、生活の質)を向上させる大きな力となるのです。もちろん夢達も専門家ではありません。知識不足もあります。しかしそれ以上に夢達の存在はミロクおばあさんにとって生きる力になるのです。そして夢にとっても、ミロクおばあさんの存在は希望そのものなのです。
「じゃあ帰って来てからも夢も?」
 フミが、机に置かれたカフェ・オ・レソフトクリームを見つめながらそう聞きました。
「ええ。そうしたいの!」
 夢の真っ直ぐな言葉でした。
 おばあさんは、誰かに頼れる安心感や、ありのままで居る事のできるこの町やみんなの心の広さ、そして、病気になって失うものもあるけれど、見つけることができるものも沢山あるのだと気付き、胸の奥がジンと温かくなるのを感じました。
「ありがとう。みんな。ありがとう」
 おばあさんは感謝の気持ちを伝えました。
「ううん。私もありがとう」
 おばあさんにそう微笑んだ夢の胸の奥には、色んな想いがありました。

 おばあさんの家によく来ていた夢は、家の中の事をよく知っています。特におばあさんは家具の配置や物の位置を昔のまま大きく変える事はしないので、夢は当然のように奥の部屋の押入れからおばあさんの布団を引っ張り出すと、食事をしていた広い部屋まで抱えて持って行きました。夢は今日おばあさんの家に泊まる事になったので、来客用の布団も同じ部屋に並べて用意しました。
 そうして夢が枕の位置を整えていると、台所に居たおばあさんが冷えた煎茶の入ったグラスを二つ、お盆に載せて持ってきました。夕飯時には賑やかだったこの部屋は、もう綺麗に片付けられています。
「寝るにはまだ早いから、これ飲んで涼みながら日記書きな」
 おばあさんはグラスをコトン、コトンと卓袱台に置き、腰を下ろしました。
「ありがとう、おば様」
 夢は煎茶を一口飲み、暑さで乾いた喉をひんやりと潤わせると、リュックサックから持ってきていたノートを取り出し、後ろの方の頁を開きました。
「ノートも沢山になったんじゃないのかい?」
 おばあさんがそう言うと、夢は「エヘヘ」と照れながら頷きました。夢が広げたこのノートももうすぐで終わりです。
「おや、あたしの名前だね」
 おばあさんが目にしたのは卓袱台に置かれていたもう一つのノートで、新しいそのノートの表紙には「ミロクおば様」と綺麗な字で書かれていました。このノートは今日の夕食後の団欒中におばあさんが夢に譲ったもので、それが切っ掛けとなり、みんなで夢にノートを一冊ずつ渡そうという話になりました。
 はにかんだ夢は新しいノートを手に取って胸元に寄せました。
「どんな人がくれたのか、それが一番大切な事なの」
 夢は新しいノートをそっと抱きしめ「大事にするね」と呟くと、ノートを元の位置へ戻し、今日の事を書き始めました。
「あ、そうだわおば様、お孫さんはいついらっしゃるの?」
「ケンシっていうんだよ。半年したら来るよ」
 その事をメモした夢は顔を上げると「どうして半年後なのかしら?」と聞きました。
「仕事先が辞めた後の対応ちゃんとしないんだって言ってたよ。他の人に迷惑掛かるからって。やりたくない仕事なんだとさ、今の仕事は。そういえば夢と同い年じゃないかね」
 頷きながら聞いていた夢は、ケンシが自分と同い年だと知り、少し不安な気持ちが芽生えました。介護には体力が必要なのですが、もちろんそれだけではダメなのです。ケンシがどんな心を持っているのか、そんな夢の不安を察したおばあさんは「大丈夫」と声を掛けると、そのまま話を続けました。
「仕事は嫌いでもね、夢があるからずっと今まで残って頑張ってたよ。他人に感謝されるのも嫌いでね、あの子は人の見えないとこで誰かのために動くんだ。でもね、ちっさい頃から気にしいだったせいか人の顔色ばっか見て、そのせいか相手の気持ちもよく分かってしまうんだ。無愛想で人とは上手に話せないけどね、とても頭が良いんだよ。取っ付きにくいが心根の優しい子だよ」
 おばあさんの話を頷きながら聞いていた夢は俯くと、「そっか」と呟きました。おばあさんは適当に人を褒めません。だからこそおばあさんのその言葉が聞けた夢は何より嬉しかったのです。介護を経験してきた夢は、お互いを想い合う心、優しい気持ち、そして揺れながらもそれを貫き通せる強さが介護には必要なんだと感じていたからです。
 ケンシが来る日を想像した夢は、心がワクワクとしていることに気付きました。おばあさんにとって大切な人が、大切なものを持っている人だと分かったからです。

 星と月と町の光。暗くなった天井よりも明るいガラス戸の向こう側の、消えた電灯を見つめながら、夢は布団の中で未来を想いました。それは、環境の変化もまだ緩やかな少し先の未来。意思疎通が出来る今だからこそ、おばあさんの想いや将来の事を積極的に話し合わなければいけません。先の未来で使用するかもしれない人工呼吸器、その時にはもう声が出せなくなるのです。そしてその選択のタイミングも、時として突然やってくることもあるのです。
 夢はその時のおばあさんの姿を想像しました。もしこれから起こる事に対して知識がなかったら、気付けなかったら、おばあさんには一体どんな地獄が待っているのか。夢は想像しただけでとてもとても怖くなってしまいました。おばあさんがこれから選択しなければいけない人工呼吸器の選択は、それほど大きなものなのです。だからこそ夢はおばあさんの選択に、自分の気持ちを押し付けないようにと心掛けていました。たとえ人工呼吸器を使わない選択をしたとしても、それは決して諦めを選んだわけでも死を選んだわけでもないからです。使わない生き方を選んだのです。ただ夢は、もしも人工呼吸器と生きる選択を選んだ場合、それがいつでも出来るように環境を可能な限り完璧に調えておこうと考えていました。長く生きたいと願う事を遠慮しなければいけない世界なんてあまりにも悲し過ぎるからです。おばあさんには心置き無く人生を歩んでほしいのです。
 夢は、隣の布団で眠るおばあさんを見つめました。ふわりと乗った掛け布団が、ゆっくりと呼吸で動いています。病院に行ったあの日から側に居ることが多くなった夢は、おばあさんの強さを知りました。おばあさんは自分の病気の名前である筋萎縮性側索硬化症という文字を書いた紙を冷蔵庫に貼り、書物で病気の事を勉強し始めました。「この病気になると肌が綺麗になるらしいのさ」おばあさんが笑顔でそう言ったので、つい笑ってしまった時の事を夢は鮮明に覚えています。
 長く生きてほしい。夢は本当はそう願っています。大切な人がいなくなる恐怖の中、おばあさん自身の想いと自分の想いが交錯し、グラグラグラグラ揺れているのです。
 夢は、ガラス戸の向こうの空にある、綺麗に輝く星を見つめました。会えなくなった大切な人との想い出は、あの空に見えるどの星よりも遠い場所で輝いています。そっと頬を上げた夢の瞳は寂しさで輝いていましたが、前向きな気持ちにもなれました。
 夢がここまで想いを注げることができたのは、介護に対する価値観が大きく変わった母との生活があったからです。
 夢は小さい頃、母によく言われていた言葉があります。
「親孝行はしなくていいからね。あなたの生まれてからの数年間で、あなたの一生分の親孝行を私はしてもらったからね」
 子育ての時間は自分が何かを与えているのではなく、大切な子供の時間と眼差しを与えてもらっているのだと、夢の母は感じていたのです。愛に満たされていたのです。この価値観の違いだけで、子供の泣き声やおむつの時間、授乳の時間や色んな事の感じ方が違うのかもしれないと、夢は母の介護の中で気付きました。そして、母と同じ価値観が自分の中に芽生えていた事にも、夢は気付いたのでした。
 そして夢は、自分は一人の人間だという事を知りました。人の意識や行動に使える時間や力は百パーセントしかないのです。しかし介護は患者と自分の二人分の人生を生きて行く必要があります。ミロクおばあさんの場合、いずれ全身が動かなくなります。例えば排泄介助をする時、他に何かをしながら行うという事は出来ません。百パーセントの時間をそこに掛けるのです。例えば四十パーセントの意識で患者の様子を見ながら六十パーセントの意識で自分に時間を使っていたその時、突然排泄介助が必要になったのなら、その介助に百パーセントの意識を向けるのです。おむつを替える時間と自分の時間を合わせて百六十パーセントの時間を使う、それは人には不可能な事なのです。そのため、自分の時間が惜しくなれば、とても難しい介護生活になります。
 それと同時に二人分生きるという事は、受けた力も一人分以上の大きさになります。大切に思えば大切に思うほど、おばあさんに降り掛かるエネルギーは夢にも降り掛かってくるのです。その上で介護を健全に続けるため、おばあさんに降り掛かる悲しみや辛さやストレスをどう無くしていくか、どう解消していくか、それがとても大事になってくるのです。
 そしてやがて来るケンシという青年。責任感の強い夢は、彼の負担にならないように介護生活の環境を出来るだけ調えておこうと考えました。しかし彼もまた、強い信念を抱きクイナの町へやって来ます。おばあさんと夢達の心強い仲間として。
「そうだ」
 夢はおばあさんの方へ振り向くと、微かに動く表情を見つめました。映像でおばあさんの笑顔を残そう、そう思い付いたのです。でもなぜそう思ったのか、夢は分かっているけれど考えません。前を向く瞳にあるのは悲しみの涙ではなく、明るい未来であってほしいからです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?