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小説「美しきこの世界」 五

 ガタン、ガタン、ガタン、ガタンガタン。電車の揺れに身を任せ、おばあさんはロングシートの端に座り眠っています。
 ガタン、ガタン、ガタン、ガタンガタン。おばあさんの隣に立つ夢は、ドアにもたれながら外の街並を眺めています。この場所から見える景色は夢にとってとても馴染み深いもので、チクリと胸を刺すような懐かしさを感じ、夢はそっと瞳を閉じました。

「帰りにおば様が言ってたお店、クイナの駅のすぐ側のお店、行きましょうおば様! そこのパフェが美味しいって聞いてから私ずっと気になってたの」
 診察室に呼ばれるのを待っているミロクおばあさんに、夢は笑顔で話し掛けました。するとおばあさんは笑顔になり、「いくつ新しい約束を作るんだい」と明るく答えました。何を話せばおばあさんの心が軽くなるのか悩んでいた夢は、その表情が嬉しくて、唇をギュッと閉じました。今この瞬間がおばあさんにとって楽しい時間であってほしい、作る沢山の約束がそうさせてくれるのだと夢は信じているのです。
 その後二人はぽつりぽつりと会話をし、そのまま病院の予約の時間が半時間ほど過ぎた時、ミロクおばあさんの名前を呼ぶ女性の声が聞こえました。二人はまるで心臓を掴まれたかのように、そこでピタリと会話を止めました。逃げることのできない現実に意識を奪われた夢は動揺を隠すことができず、そっとおばあさんに視線を寄せました。心の強いおばあさんは平常心を保っていたのですが、高まっていた夢の鼓動は更に強く体を打ち、心の力を奪ってゆきました。すぐにまた女性が名前を呼んだので、二人は腰を上げ、呼んだ事務員の所へ行きました。
「はい」
「ミロクさん、それと付き添いの方ですね?」
 夢が「はい」と頷くと、それを確認した事務員は「どうぞ」と声を掛け、診察室の方へ歩き始めました。二人は心を前向きにし、そして歩き出したのですが、前を歩いていた事務員は他の患者が入る診察室には入らず、そのまま通り過ぎて行ってしまいました。何が起きているのか分からない二人は何も聞けないまま付いて行くと、事務員は大きな銀色の扉を開き、奥に入って行きました。これは普通ではないと二人は気付いたのですが、言葉にしたくありません。何も話さないまま二人は事務員について行き、簡易的な治療スペースを抜けると、小さく空間を区切ったような半個室の診察室にやってきました。心の整理が付かないまま二人が診察室に入ると、年配の男性医師が椅子に座り待っていました。診察室には患者と家族用の椅子が用意されていて、振り向いた医師は「どうぞ」と声を掛け、二人はそこに腰を下ろしました。
 今居る場所も、今のこの状況も、前向きになれるようなものではありません。それ以上に、この場所で話すという事は覚悟を持って診断を聞かなければならないのだと、感じざるを得ませんでした。たとえ医療現場の知識がなくてもこの場所の雰囲気に触れてしまえば無理矢理にでも伝わってきます。それでも夢は不安を跳ね返そうと抗いました。夢は普段通りの冷静な自分の姿を、隣に座るおばあさんに見えるように前のめりに座りました。『大丈夫。怖くない』おばあさんにそう伝わってほしいからです。夢は、隣に居るおばあさんの方にそっと視線を寄せました。医師の言葉を待つおばあさんの表情は、いつもと変わらない様に見えるのですが、夢だけはおばあさんの心の表情に気付けました。それは、恐怖と不安に捕らえられたおばあさんの姿でした。『大丈夫。大丈夫。大丈夫』夢は心の中で何度も繰り返し叫びました。心の力がおばあさんに届くようにと夢は力強い眼差しをおばあさんに向けました。『大丈夫。大丈夫。大丈夫』夢は心の中に芽生えた恐怖や不安をその奥底へと必死に押し込めてゆきました。『おば様を絶対悲しませない。絶対つらい思いをさせない。何があっても絶対治してみせる。絶対大丈夫。絶対死なせない』夢は全身全霊を捧げた決意を心の中で叫びました。
 そして医師から診断結果を告げられました。やはりおばあさんの病気は、とても重いものでした。きっと多くはないけれど、長い医師の人生の中で幾度となくしてきた診断結果の説明なのでしょう。医師は深刻そうな心苦しそうな表情を二人に向けると、初めて来院した日から今日の結果までの経緯を話し始めました。
 ゆっくりと深呼吸をした夢はおばあさんに視線を寄せました。おばあさんの表情は変わらないままでした。夢は数日前に初めて知ったことなのですが、おばあさんが検査を行ったのはこの病院が初めてではありません。おばあさんはいくつもの病院へ通い、そのたびに検査を行ってきたのです。しかし病名は明らかになりませんでした。それはつまり、自分の体で何が起こっているのか分からない不安と恐怖を抱えながら日日過ごしてきたという事です。一人で検査に耐えてきた姿。一人で診断を待つ姿。夢は心の中に映し出されたその姿があまりにも鮮明で、どうしようもない辛さに体を握り潰されそうになりました。それでも夢は『大丈夫。大丈夫』と強く想い、それほど悪い結果ではなかったと思える未来を切り開こうと必死になりました。今の夢には願う事しか出来ないのです。
 医師は次に、この病気が判明するに至った経緯を話し始めました。
 夢は心の中で『ALSって言わないで。ALSって言わないで』と強く願いました。
 医師は寿命や延命も含めたこの病気の予後を話し始めました。
 夢は心の中で『ALSって言わないでALSって言わないで』と叫び、心に巣食う恐怖から視線を逸らしました。
 そして、これはとても重い難病だという事を、医師は二人に話しました。
『ALSッて言わないでALSって言わないでALSって言わないで小脳何とかとか別の病気もあるALSって言わないで大丈夫大丈夫おば様は大丈夫』
 そして医師は最後に、検査の結果を告げました。
「筋肉が衰えていく病気です。ニュースとかで出たりするのですが、筋萎縮というのは聞いた事がありますか? 病名を筋萎縮性側索硬化症、ALSと言います」

「どうしよう怖い」

 それは、隠す事の出来なかったミロクおばあさんの声でした。
 夢は、涙が溢れ落ちそうなミロクおばあさんの顔を見た瞬間、自分が今日一緒に来た本当の意味を知りました。この瞬間のためだったのです。
「大丈夫。大丈夫だから」
 夢の言葉が聞こえた途端、ミロクおばあさんの涙はスッと消えてゆきました。
 そしてこの瞬間から、ミロクおばあさんの弱い姿を見る事は二度とありませんでした。

 コト、コト、コト、コト、コト。静寂を生むようにやかんの音が響いています。朝の台所でのゴタゴタは元通り綺麗に片付いています。
 コト、コトコト、ゴト、ゴトゴトゴトゴト。やかんの音が変わると、夢が台所に駆け込んできました。夢は素早く火を止めると台ふきんで熱い取っ手を包み、粉の入ったカップに湯を注ぎました。コーヒーを淹れ終えた夢はカップをお盆に乗せ、また足早に台所を出て行きました。
「どうぞ!」
「ありがとうね」
 夢はお盆をテーブルに置くと、いつもの椅子に座りました。家を出た時よりも穏やかな笑みを浮かべた二人は、静かにコーヒーをすすりました。喉を温めたコーヒーは騒がしかった胸の奥に染み込んでゆきました。
「いつも出るね、このお菓子。こういうのも好きなのかね」
 おばあさんが見つめているのは、夢の家に来るといつも出てくるお菓子です。
「うん! ホープさんに会いに行く時はいつも持っていくのよ」
 自然な夢の笑顔と声に、おばあさんは嬉しさのあまり笑みを零しました。
「でも私、この話した事あると思っていたわ」
「聞いた事ないと思うねぇ。なら日記に書いておきなよ、今日ばあさんにのろけたって」
「書かない! もうやめてよおば様!」
 照れた夢は口元を隠すようにコーヒーを一口飲みました。
「そういや何か話があったのかい?」
 おばあさんがそう尋ねると、夢は「うん」と頷きました。
「とても大事な話なの!」

 病院からの帰り道、二人はオレンジ通りを歩いています。
 俯いていた夢がそっと隣に視線を寄せると、おばあさんの横顔が目に入りました。夢はしっかりと呼吸をし、胸の奥から込み上げてきた熱い涙を抑えました。
「これから帰ってコーヒーでもどうかしら?」
 そんな夢の誘いにおばあさんは「食事の話もね」と笑顔で返事をしました。
「良かった。それとね、話したい事もあるの」
 俯いた夢がポツリとそう言うと、おばあさんは笑みを向け、「わかったよ」と頷きました。安心した夢は顔を上げ、白く続くオレンジ通りに目をやりました。
 余計なお世話でお節介で嫌われるかもしれない、そんな怖さもあったのですが、それでもいいと夢は思いました。『おば様が笑顔でいてくれるなら私は存在しなくてもいい』夢は揺らぐことなくそう想えたからです。

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