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転んだおばあちゃんの心配より、どっちが悪いかをジャッジするおばちゃんたち

昨日ジム帰りに、少し遠出をするためにバス停でバスを待っていた。
一台のバスが乗客を乗せ終えるとドアを閉め、出発した。それとほぼ同時に、一人のおばあちゃんがそのバスの後部をトントンと叩いて「すいません」と、そのバスに乗り遅れていたようだった。しかし、バスは気づかず出発し始めた時、段差につまづいておばあちゃんは転んでしまった。バスの後部に車がいなかったのでよかったが、それを見た私を含め数名の人がおばあちゃんに駆け寄った。

「大丈夫ですか」
「救急車呼びましょうか」
と、様子を見ながら声をかける。意識はあるようだが、頬を擦りむいている。
後続の車の助手席からもおじさんが降りてきて、そのうちバスの運転手もバスを停めて降りてきた。「救急車呼びます」と言うが、おばあちゃんは「いや、大丈夫」と言い、「立ち上がらせてください」と言う。
三人がかりで立ち上がらせて、バス停の端っこに連れていった。
ちゃんと立てるし、意識もはっきりしているようだったが、「ここが痛い」と頬を指差し、「他にお怪我はありませんか」と聞いた別の女性の方には、ズボンをまくり上げ、膝を見せた。
膝も軽くすりむいているが、血は流れてはいない。
運転手は会社に報告の電話を入れながら「すいません。気づかなくて」と言う。
おばあちゃんは、「本数が少ないけん、乗らんといかんと思って叩いたんやけど」と言う。
するとそこに一人のおばさんが現れ、仁王立ちで「運転手さんは悪くないです。私はずっと見てましたけど、運転手さんは悪くないです」と突然言う。
「はあ?今そんな話じゃないけど」と、私の頭の中にはてなマークが10個くらい頭に浮かんだが、
「今そんなこと、この方も言ってませんよ」と、私もその人をにらんで言うと、スッとどこかへ消えた。

おばあちゃんに、「バス乗りますか」と聞くと、「ああ、乗れますか」と言い、「はい、バスは停まってくれてるから」と言うと、「乗ります」と言う。
買い物袋を持ち、「荷物はこれだけですか」と聞いて、一緒に停車中のバスに乗り込み、シルバーシートに座らせ、荷物を渡して「お気をつけて」というと、丁寧にお礼を言われた。

ほっと一息ついて、バス停で再びバスを待っていると、隣にいる、また別のおばさんと少し高齢の人が話しているのが聞こえた。

「そんなん急がんでも、またバスは来るのに」
「結局バスを停めて、みんなに迷惑をかけて、ねー」
と、あのおばあちゃんのことを言っているらしいのだ。

手助けをした私にわざと聞こえるように言ったのか、こちらを向いていないのでわからなかったから、それについて何も言わずにいたが、「転んで怪我をした人に、さらにムチを打つ人たち」が、こんなにいることを知って、愕然とした。

もちろんおばあちゃんを助けようとした人たちも、たくさんいた。
しかし、その半分くらいの人たちは、「誰が悪いか」「誰の責任か」をジャッジする、裁判官のような考えでいるんだ、と言うことを初めて知って、心から驚き、その後恐怖を感じた。

「自己責任」と言う言葉が言われ始めて久しいが、完全に弱者である人たちにも、自己責任を求める社会、いや、国になってしまったのだ。
裁判で証人として出廷したかのように振る舞う人たちだ。

もし、私に言われていたのであればきっと私はこう言い返しただろう。
「あなたには、足腰が弱った親御さんはいないのですか?いないのであれば、あなたはさぞ誰にも、一度も迷惑をかけずに生きてこられた立派な方なんでしょうね」と。

人は一人では生きていけない。家族はもちろん、時に他人の手を借りて助けてもらうことだってあるはずだ。
その時は、他人の手助けを最初から当てにしているわけでもないし、このおばあちゃんもころびたくて転んだわけでもない。
さらに怪我までしている人に、「あなたが悪い」と言うのか?
おばあちゃんだって、反省しているかもしれないのに。

物書きになりたいと思っている私には、この「現場」での人間観察はものすごく勉強にはなったし、そのような人たちが読者になる可能性もあると言うことも、知っていて悪くはない、と思った。

なぜこんな国になってしまったのか?
おそらく、マスコミ、そしてそれに習うかのようなS N Sの論調だろう。
国に対しても、芸能人やスポーツ選手に対しても、叩ける材料が出てきたら、徹底して誰が犯人か、と言う犯人探しをする。コロナ以降、これが顕著になった。
自分たちが「ジャッジできる」と思っている人たちだ。

正直、普段は他人のことにそこまで興味関心を持たない私からすると、「自分のことより他人のことをそこまで気にするなんて、暇なんだな」と呆れていたが、その弊害をこんな形でまざまざと見せつけられてしまった。
よほど、立派に人生を歩いていて、誰の手も借りずに生きてきた自信があるのだろうか。生まれた時は、誰かの手を借りないと生き延びることはできなかったはずなのに。

私も咄嗟のことだったが、言い返しはしたので一応撃退はしたのだろうが、それは私が見た目が怖いので向こうは引いただけで、自分は間違っていない、と今でも思っているだろう。
いや、どっちが正しいとか、を言いたいわけではない。
ただ、「自分よりも弱いものに対する優しさ」は、人道的に、つまり人として当然のことではないか、と思ったのだ。

その「当然」が壊れている。
今、私たちはそんな世の中に生きているのだと、実感させられた出来事だった。

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