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「私の場合は」を知る

noteを書くとき、「私の場合は」と言う言葉を無意識に付け加えていることに気づいた。おそらく、世の中は人の数だけその人なりの常識があると思っているからだ。

「私の場合は」の反対側にあるのは「普通は」「世間では」「一般的には」「常識では」なのだろう。それは法律以外の、「何か」。

それがマナーの場合もある。

以前は、学生が就職の際に好印象を持ってもらうためのマナーを教えていたが、それがだんだん違和感になってきて、今はその仕事はしていない。

多分手段の一つが目的のように感じられてしまう、受け取られてしまうことを違和感と感じていたのだろう。その代わりに最近は「接遇」の研修依頼を受けることが時々ある。

その時私が教えているマナーや接遇というのは、相手との信頼関係を作りやすくするもの、と言う手段を相手側の心理とともに伝え、実際にロールプレイをやってもらうと言うことで、「体感」してもらうと言うものだ。

理屈で人は動かないし、自分が納得すれば自然と動く、と言うのを知っているので、必ず体感してもらう研修にしている。

ただ、このマナーや接遇というのは、いわゆる「世間の常識」を持ち出すと違う方向にいく。

あるホテルの社員研修をしていた時に、ブライダル担当の人が言った言葉で忘れられないものがある。それは、「お客様の数だけ常識がある」というものだった。
ブライダルと言うセクションは、その土地の風習や、その家の常識が入り混じるところであり、それをお互いに言い張っていては、何事も進まない、とても神経を使う仕事だと、お話を聞いていて思った。

ブライダル担当の人は、両家、または両者の間に立ち、時に仲介をし、仲裁をし、自分たちができることは最大限に出し、できないことはできることでカバーしていき、最終的に一生に一度の心に残るお式、披露宴にしていくのだから、すごい仕事だ。
その人が「お客様の数だけ常識がある」と言ったのは、「自分たちが持っている常識は、一旦脇に置いて置く必要がある」という意味だったと思う。
そうすることで、お客様の常識を受け入れ、理解することができる。お客様をジャッジせず、それぞれの要望を最大限取り入れようと努力できるからだ。

私たちが持つ常識とは、幼い頃からの環境によって培われたものだ。だから、人の数だけ常識がある。それを同じものにしようとするのも、無理だし、異常なことだ。
もちろん、人をコントロールしたい人たちからすれば、この「常識」とやらを同じにした方が楽なのだろうし、この常識をもとにして、SNSで人を叩く人たちもたくさんいる。おかしなことであり、時間の無駄だ。
「常識は多数決ではないから」だ。ここで「多様性」という言葉が浮かぶだろう。

私たちが知らない組織や団体に入っていく際には、相手がどんな常識を持っているのかを知っておくと良い。相手を知るということだ。
そして、もう一つ大事になるのが「私の場合は」だ。自分を知っておくことだ。

相手の常識はわかっても、そこで違和感を感じたら、相手に合わせるか、妥協するか、去るしかない。相手が自分の常識に合わせてくれればいいのだが、力関係で相手が上の場合は、自分に合わせてくれることはないからだ。
新入社員がすでに退職をしている、というニュースが流れたが、これも「常識が違う」と感じて辞めた人も一定数いると思う。
私たち昭和世代ならば、「我慢して」「無理して」合わせていくのが当たり前とされていたので、そんなことが理由で辞める人は少なかっただろうが、今は「我慢」
「無理」はしない時代であり、しなくていい時代なのだ。
それを企業側が理解している会社は、きっと採用もうまくいっていると思う。

働く側の人は入社する会社の常識を知り、自分の常識と照らし合わせる。
それにより、「ミスマッチ」を減らすことはできるのではないか、と思っている。

「私の場合は」という言葉は、「私はこう思っているけど、誰にも強要、強制しませんよ、ただ、私はこう考えています」と相手からの強要も強制もされたくない、と言う意思表示だ。

自分を守るプロテクターのようなものであり、相手に自分がどんな人かをわかりやすくわかってもらうためのリトマス試験紙のようなものだろうか。
多くの友達や、多くの知り合いがいた方が有利な仕事もあるだろう。
ただ、私には多くの友達も知り合いも必要ない。それよりも、違和感を感じずに済む人たちが数名いてくれればいい、と「私の場合は」考えている。

人間関係で苦労しないために大事なのは、同じ方向を向いている人と一緒にいることだろう。同じ方向を向いている人たちとは、一緒にいて居心地がいいし、その中でも少しづつ違いがあるだろうが、大元が同じなので嫌な感情は湧きにくい。
これは、血縁であっても同じだ。

遠慮せずに「自分はこう思う」と言うのを表現していけば、きっといつの間にか自分の周りには心地いい人ばかりが集まってくるだろう。
私は「常識に正しいとか間違っている」はない、と思っている。

なぜなら、「人の数だけ常識がある」からだ。

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