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宮本輝「湾」

連載の一回目。小説の舞台になる舞鶴湾の形状、歴史。登場人物たちの説明、関係が語られる。物語は殆ど動かない。人物の関係性は一度読んだだけでは頭に入らない。なんだかやたら登場人物が多い。途中で何度か読み返しても頭に入らないんで、諦めて読み進める。電子書籍だと、人物がわからなくなると、すぐ前ここで出てきましたよ、と遡れるので便利である。が、今回は紙で読んでるので、もし続けて読むとしたら、難儀である。ましてひと月にいっぺんしか続きは読めない。確実に忘れる。私はさっき読んだ人の名前さえすぐ忘れる。例えば、山田克也という人を検索するのに、山田はおぼえてても、克也を忘れる。克哉だったか克矢だったか勝弥なのか、もしかして克史だったかもと、数秒で忘れている。こんな複雑な人間関係など頭にはいるわけがない。
しかし、昔はそれが普通だった。読んだことないが「白鯨」は、鯨捕りの歴史が冒頭延々と語られるし、これは読んだがスタインベックのある小説では舞台になる町の歴史が延々と語られる。
自分の人生になんの関わりのない捕鯨の歴史や見ず知らずの町の歴史を延々と読まされて、昔の人は退屈しなかったのだろうか。

こないだ石田衣良さんのYouTubeを見てたら、小説の冒頭ですぐ事件を書け、一番盛り上がるとこをすぐに書け、みたいなことを仰っていた。短編の場合だったかも知れないが。今は映画も倍速で観る時代、ダイジェスト版がネットに溢れる時代、こんなゆっくり町や人物の紹介をしていて、大丈夫なのだろうか、と思いながら読んだ。

しかし、物語が動き出せば、物語作りに定評のある宮本輝であるから、退屈はさせないだろう。その自信があるから、こんなに鷹揚と小説が始められるのだと思う。

宮本輝と言えば「流転の海」という作品がある。何十年もかけて書き継がれた小説だ。第一部だけ読んだ。なんかやたらバイタリティ溢れる爺さんが出てきて面白かった。映画では森繁久彌が演じていた。ジジイなのにやたら女好きな奴だった。

それはどうでもいい。ここで問題にしたいのは、宮本輝通俗説である。わたしは別に通俗であって何が悪いと考える方だが、輝は常に通俗の批判に晒された。芥川賞の時は、時代性がないと批判された。「優駿」では、途中まで読んで、この小説を読み終えればきっと感動する。だがその感動の質はもう知っているものだから先は読まない、などとよくわからない叩かれ方をした。冒頭の小説の入り方から見ても、確かに宮本輝の小説の書き方は古風なのかも知れない。最初に文句を言ったが、実は私は古風な小説の作りは嫌いではない。時間があって、ゆっくり向き合うことができれば、こんな至福の時はないと思う。
古風は通俗と言い換えてもいい。スタンダードとしてもよい。宮本輝は自分の小説の書き方に自信を持っていると思う。だから、それでいいのだ。
宮本輝は、若い時、雑誌に載っている小説を読んで、こんなものが雑誌に載るのか、俺ならもっと上手く書ける、と会社を辞めて小説家を目指したという。しかし小説で食えるようになるのに10年かかる。
その10年は無駄ではなかった。宮本輝はいい小説を常に書く。その安定感は頭抜けている。小説書きには常にフロンティアを目指す一群の人たちがいる。その人たちが、常に小説世界を撹拌し新しいものを生み出してくれなければ、小説は死ぬ。死なないまでも古典芸能になる。
と同時に、スタンダードな、これが小説の味わいだという老舗の味を守る人もいて欲しい。老舗だからって同じものばかり作っているわけではない。作者の重ねた年齢や書き継いだ作品の数々が、老舗の味を日々微妙に変えていく。その変化の味わいを味わい尽くすこともまた小説を読む醍醐味なのだ。

宮本輝は今年77歳だというが、まだまだ頑張って欲しいと思う。

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