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小説「天上の絵画」第二部

参列者が少しずつ帰路に着く中、会場の隅で途方に暮れていると、誰かが近づいてくる気配がした。
 「滝野さん…だよね?久しぶり」
 声のした方を振り返ると、なで肩で痩せ型の緊張した面持ちの男性が立っていた。視線が左右に揺れ、落ち着かない様子に見おぼえがあった。
 「えっ…渡井君?」
 「覚えててくれたんだ」
 数年ぶりに会った渡井蓮は、髪が伸び頬がこけていたが、立ち姿や髪を触るしぐさに昔の面影が残っていた。
 「まさか、英司がこんなことになるなんて…」渡井蓮が目線を下げ、下唇を噛んだ。「高校のクラスメイトが教えてくれたんだ。信じられなかったよ。あの英司が…そんな…」辛そうに顔を歪めた。
 彼の気持ちが痛いほど伝わってきた。中学の頃から、共に絵を学び切磋琢磨してきたと、英司が自慢げに話してくれたことがある。
 「蓮は天才だ!あいつほどの絵を描ける人間はそうはいない」
 知り合った当初から、口ぐせのように何度も聞かされた。英司と渡井蓮は、親友であり良きライバルだった。
 「そういえば、滝野さんは英司と婚約してたんだよね」
 どうしてそのことを知っているのかと疑問に思ったが、亡くなる前に、英司が蓮に久しぶりに会ったと興奮気味に話していたのを思い出した。「今度自宅に遊びに来る」と嬉しそうだった。「私も行っていい?」と訊くと「男同士で話したいから、優愛はまた今後な」と笑顔で断られた。
 「英司の自宅で二人で飲んだ時に教えてもらったんだ」渡井蓮の顔が曇った。「英司…幸せそうだったのに…」
 胸の奥がズキッと痛んだ。
 「あっごめん。滝野さんの前で、こんなことを言うのは不謹慎だね」
 「ううん。いいの」沈んだ空気を振り払うように言った。「二人で、どんな話をしたのか教えてくれないかな」
 渡井蓮の口から語られる昔の英司は、幼く愚かでどこにでもいる少年だった。でも無邪気で憎めないその性格は、大人になっても変わることなく、彼の魅力の一つとなっていた。英司の周りに人が集まる理由が、なんとなくわかった気がした。
 「その時英司は 僕に負けたのがよっぽど悔しかったみたいで、ずっと審査員の悪口を言ってたんだ。それも一ヶ月間ずっと。『あいつらはわかってない』『俺を評価しないなんてどうかしてる』絵を描くたびに言ってたから、美術部の先輩が顧問の悪口を言ってるって勘違いして、職員室の呼び出されたんだ。そのことを話したら『そんなの覚えてない』って、あいつ、とぼけてたんだよ。それにね―」
 身振り手振りで楽しそうに話す渡井蓮を見て、強張った心がほんの少し柔らかくなった。
 「滝野さんもまだ絵を?」
 「ううん。私はもう何年も描いてないの。画廊のスタッフとしての仕事が忙しかったし―」
 これから世界に挑む英司を影から支えたかった。仲間として、同志として、そして…妻としても。
 「そうなんだ」渡井蓮の瞳がわずかに揺れた気がした。
 「渡井君はまだ描いてるの?」
 「うん。この前もね、絵画コンクールに出した絵が、最終選考まで残ったんだ」
 「すごいね。おめでとう」
 「ありがとう」照れくさそうに鼻頭を指先でかいた。「今回はけっこう自信があるんだ」
 寒さのせいか、渡井蓮の頬が紅く染まっている。
 「あの絵はね、僕が今持っている技術の結晶なんだ。絵を描き始めた頃から、今まで培ってきた経験と努力の全てを詰め込んだ。渡井蓮の最高傑作だと思ってもらってもいい。あの絵を見たら、誰だって心を奪われる。これまでの自分の感性が全てひっくり返るはずだ。今まで見てきた絵が、下に思える。まさにあれは…『天上の絵画』だよ」
 話しているうちに声が熱を帯びてきた。絵を見たことがないから、いまいちピンとこなかったが、渡井蓮の並々ならぬ自信は伝わってきた。。
 「へえーどんな絵か見てみたいな」
 「最優秀賞に選ばれたら、テレビやネットで大きく取り上げられるはずだから、嫌でも目に入るよ。滝野さんの価値観も変わるはずだ。これまで評価されていた絵がどれだけ陳腐だったのか。時代の転換点を作るのは僕だよ」
 黒目が大きくなり怪しい光を放っている。狂気じみた雰囲気が少し怖かった。
 高校生の頃とは、どことなく雰囲気が違う気がした。昔は大人しくて、絵を描いているのが大好きな普通の学生だった。丁寧で繊細なタッチからは、絵に対する尊敬と優しさ、純粋な愛情が伝わってきた。そんな彼の絵が大好きだった。

 「でもよかった。英司君と心配してたんだよ。渡井君、高一の冬頃からクラブにも来なくなって、このまま絵を描くのやめちゃうかもって」
 渡井蓮の口元がわずかに反応した。まだあの時のいじめが尾を引いているのかもしれない。
 「英司君も渡井君の活躍を聞いたら喜ぶと思う」ふいに目頭が熱くなり、慌てて顔を伏せると、一筋の雫が落ちた。
 「…そうだね。英司もあの絵を見たら、喜んでくれたはずだよ」
 穏やかな口調の中に悔しさが混じっている。
 「英司は本当に外国に?」
 「うん」手の甲で目元を拭った。「今年から本格的に活動の拠点を海外に移す予定だったの。二月に開かれるニューヨークでの個展を、皮切りにカナダ、イギリス、フランスとどんどん範囲を広げていこうって。スタッフのみんなと計画してた」
 「知り合った頃からずっと海外に行くって、言ってたよ。冗談だと思ったから、真剣に聞いてなかったけど…。そっか。英司のやつ、本当に夢を叶えたんだね」
 正確には、夢が叶う一歩手前だった。
 「大学生の頃は英司はどんなだったの?」
 唐突な質問に、すぐに反応できなかった。
 「いや、ちょっと知りたくて…。でも滝野さんにこんなことを聞くのは不謹慎だったね。ごめん」
 「ううん」首を左右に振った。「そんなことないよ。逆に嬉しい。みんな気を遣って、英司君の話をわざと私の前でしないようにしてるから」
 その気遣いはありがたかったが、英司の存在自体が無くなってしまったようで、本当は寂しかった。みんなと英司の思い出話をして、笑ったり大いに泣いたりしたかった。
 「だから、聞いてくれて嬉しいよ。大学生の頃の英司君か―」
 英司は大学に入ってから、ますます絵にのめり込んでいった。授業中だけでなく、学食で昼食を食べている時も、デート時もずっと絵のことが頭から離れない。
 「二人で映画を見いに行った時もね、突然席を立ったまま、全然戻って来なかったことがあってね。心配になって追いかけたら、ロビーで真剣な顔でスケッチを描いてて『どうしたの?』って聞いたら『次回作の構図が浮かんだから、忘れないうちに描いておきたい』だって」
 「彼女を一人残して、自分はロビーで絵を描いてたんだよ。ひどいと思わない?」話しているうちにその時の情景が目の奥に浮かんできた。その後怒った私が、二、三日口を聞かなかったら、珍しく英司の方から謝ってきた。
 若い頃の他愛もない日常が、大事な思い出の一つになってしまった。あんな日常がもう戻って来ないと思うと、やり切れなさで胸が痛んだ。
 英司との思い出話を渡井蓮は、表情を変えず無言でじっと聞いていた。彼も英司のことを思い出しているのかもしれない。自分と同じ、いや、それ以上の時間を過ごしてきたはずだ。何も感じないはずはない。
 
 「滝野さんは、犯人が憎い?」
 
 「えっ?―」虚を突かれて、一瞬頭の中が真っ白になった。
 「噂を耳にしたんだ。英司は殺されたって…」
 英司の死因について、警察は捜査中であることを理由に、詳しいことを一切教えてはくれなかった。しかし「英司を恨んでいた人物に心当たりはないか」「何かトラブルはなかったか」としつこく聞かれたことから想像するに、事故や病気でないことは明らかだった。
 ネットには『将来有望の若手画家死亡。物取りによる犯行か』という見出しの記事もあった。

 英司は何者かによって殺された。
 
 「もし本当に英司は殺されて、その犯人がいるなら―」
 
 私はその人を絶対に許さない。
 
 自分でも意識していなかった本音を吐露した。暗澹とした気持ちが晴れることはなかったが、ほんの少し心が軽くなった気がした。
  
 「滝野さん、あのさ―」今にも泣きだしそうな顔の渡井蓮が言った。
 「優愛ちゃーん」振り返ると大学の先輩が手招きしている。
 「ごめん。ちょっと行ってくるね」
 当惑気味な渡井蓮を残して、踵を返した。
 「今の人、誰?」先輩が訝しげな表情を浮かべて、声をひそめた。
 「えっ?」
 「なんかヤバそうな雰囲気だったけど―」
 どうやら何か勘違いをしているようだ。
 「そんな人じゃないですよ」苦笑しながら、顔の前で片手を降った。「渡井蓮君といって高校の同級生で、彼も画家です。彼も素敵な絵を描くんですよ。最近も大きなコンクールの最終選考まで残ったって言ってました」
 「なーんだ」先輩が頭の後ろで両手を組んだ。「変な男が優愛ちゃんに絡んでると思って心配になっちゃったよ」
 厳かな葬式の場で絡んでくる人は、そうそういないだろうと内心呆れてしまったが、口には出さなかった。

 振り返ると、渡井蓮の姿はどこにも見当たらなかった。

(つづく)


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