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決意の先に

(あぁ、そっか。俺は無理だったんだ。全部どうでも良くなってきた。サッカー、やめるか)

半年が経った。いつもと同じ時間が流れる。授業が終わってそのまま家に帰っていつものようにベッドに寝っ転がる。ゲームをするわけでもなく、YouTubeを見るわけもなくただ夜ご飯になるまでぼーっと窓の外を眺める。部屋にはボールとスパイクが散らばっていてもうただガラクタになっていた。
同じような日が続く。生きているという実感を忘れるほどの退屈さと虚無感。俺、何してんだろうな。

学校ではサッカー部の活躍が表彰され、全校生徒の誇りだった。俺はどうだろう、チームを辞めひとりぼっちになった俺は誰にも期待されない。当たり前だ。自分の親ですらもうサッカーを辞めた俺にもう期待などしなかった。これが俺の人生か。つまんねえなって。ただその道を選び歩んでしまったのは他でもない自分だった。

でもなんだろう、嫉妬してるんだよずっと。

なぜかとても悔しくてとてつもない憤りと自分への惨めさにいてもらってもいられなくなった。
ちょっくら公園でボール蹴ってくるか。その日から、また俺のサッカー人生が始まった。

子供達が遊んでいるので端っこでリフティングをひたすらやって少しのスペースだけどドリブルも。半年以上のブランクはさすが厳しくて正直ジョグだけで苦しかった。そのくらいまでどん底に落ちていた。やっぱダメなのかなって負の言葉が頭によぎる。けど、今度は違う生き方をしたい、もう辞めたくない。もう惨めになりたくない。その思いだけできついトレーニングを自分に科すようにした。ダッシュも長距離もシャトランも。サッカー部にいた時のランメニューも全部。肺が破れそうになるくらい吐きたくなるくらい視界がぼやけて頭痛もするくらいにやって、地面に寝っ転がった。泣きたくなったけど達成感で心がいっぱいだった。今度は笑えていた。

同じような日が続く。授業が終わり家に帰り手を洗って鞄を置いて、すぐに運動着に着替えてボールとスパイクを持って公園に向かった。段々と苦しいことも楽しいって思えるようになった。
チームに入ることもなく、家の近くにあったフットサル場の個人参加型フットサルに行くようになり沢山の年代の方と触れ合いサッカーをして次第にサッカーの楽しさを思い出すことができた。ただエンジョイ程度だったけどそれでも心が満たされていった。そして着々と準備をして2年後のセレクションを受けた。

「ねえとし、大事な話があるから覚悟して聞いて。」
ショックだった。まだ、18手前になる自分にこんなにも重く辛く悲しい出来事が起きた。
それは自分の弟のように親しくしていた友達に癌が見つかったのだ。受け入れられない現実にそしてまだ幼いその子に。余命宣告がされていた。
けど自分は助けられない。医者でもない自分に彼を救うことはできない。どうすればと考える日々が続いた。そして、ある面会で自分の覚悟が決まった。彼が俺に自分の夢を託してくれたこと、サッカーがもうできない自分の代わりに思う存分プレーをしてとの言葉を力がもうすでにこもっていないその手で書いてくれたこと。
もう一度、あの夢を思い出させてくれた。ずっと夢にまでみた憧れていたその存在に。
”サッカー選手になる“という夢を。
そしてその数年後、もう会うことができなくなった。それでも思いは背負っている。この決意の先に必ず彼の見たかった景色を見せる。

そして18歳になった自分は茨城県にある社会人チームに入団することになった。また現役としての選手生活が始まった。練習や試合、メンバーに入れなかった悔しさ、沢山の厳しさを教わり時には怪我をして病んだ時期もありサッカーを辞めそうになっても今度は応援してくれる方々がいる。個サルで知り合った皆さん、家族や友達。そして彼の存在。前の自分とは違うことがわかった。嬉しかったんだ本当に。ただやはりレベル差があり、追いつくのに必死だったけど悪い気はしなかった。少しずつだけど上手くなっている気がした。

そして年月が経ち、2022年。僕の日本最後の年に、素敵な出会いがあった。発足して間もないまだ歴史も浅いが1からJリーグを目指すこのチームに。

−NAGAREYAMA F.C.−

次回: 日本での最後の一年。新しくできたチームで出会った仲間たち、怪我や困難を乗り越え香港でサッカー選手として目指すことになった過程を語ります。是非お楽しみに!



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