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長い旅路の中で

中学2年生になりスカウトを受け初めて香港のローカルチームに入団した。それまで香港に住む日本人のためのサッカースクールのメンバーだったが、香港屈指の強豪・傑志のサテライトチームへ入団することになる。生まれて初めての感覚だった。こんなにも技術でも体力でも仕上がっている選手が沢山いる。試合に出れるのか?そもそもメンバーに入れるのか?不安と恐怖が襲う。ただ、このサテライトチームが当時内部分裂を引き起こしあるチームへと引き渡されることになった、そのチームこそ僕にとってサッカーの転機だったと今になって思う。
設立した2年とまだ若く浅いチームでチームメイトも決して上手い選手はそういない。ただ、人一倍努力できるチームだった。技術で追いつかなければ体力で補う。監督やコーチ、トレーナーの話を聞いて質問をして自分なりに工夫できる選手ばかりだった。そんなチームに僕も自然と動かさられていった。
そこからシーズンを通して香港のプロクラブのジュニアユースチームに次々と勝利することになる。前代未聞のジャイアントキリングを起こした僕らは次第に当時のジュニア世代のニュースになっていった。また、香港代表に選ばれる選手も現れた。
僕はシーズンを通してリーグ最多得点を記録。その功績が讃えられ後に香港代表候補に名前が挙がるも国籍上の問題で辞退した。とはいえ、小学生6年生からサッカーを始めて約3年で僕のサッカー人生は変わりつつあった。

ただ一つ、もしこうしていたらどんな未来だったのだろうと思うことがある。今僕が所属している”HongKong Football Club”だが過去に何度も対戦していた。当時のHKFCはもうそれこそ最強と言われ正直手をつけられないほどの強さを誇っていた。現に世界で活躍していった選手は多く実績もある。そしてある試合で僕はスカウトされた。

「驚いた、HKFCだよパパ」と焦りながら言ったのを覚えている。あの時のHKFCに入団していたらどうなっていたんだろうか、日本にいなかったのだろうか、人生が変わっていたのか?なんて考えることもあったがこのオファーを受けなくて自分は良かったと思っている。自分を成長させてくれた「日本」の存在がなければプロの夢をこんなにも追い続けることはなかったのだから。
そして不思議なことにHKFCに数年越しで入団した。

偶然なのかそれとも必然なのか。

2015年、入試の年。サッカーを休止せざるおえない状況になった。自主練等はしていたが塾が忙しかったためクラブチームでの活動は参加できずにいた。
そしてある高校の入試に合格し期待と胸を躍らせながらその門を叩いたが待っていたのは理想とは別の現実だった。千葉県名門校、全国優勝をも果たした”流通経済大柏高校“だった。香港と日本とのレベル差に技術そして体が追いつけずサッカーに対するメンタルも無くなっていった。

初めてサッカーを嫌いになった。

本当ならばここで諦めずに立ち上がらなければならなかったけど、そんな余裕がなかった。

僕が一番今嫌いな「諦める」という選択肢を当時の甘い自分は選んでしまった。

-サッカーを初めて辞めた日-

次回は、日本での7年間のサッカー人生について。
大きな挫折からどう乗り越えて今に至ったのか。多くの人の出会いや嫉妬心、亡くなった友との約束が自分の今につながっている物語を語ります。

本日も読んで下さりありがとうございました。
次回もお楽しみに!

現在HongKong Football Club に所属

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