歪んだ認知の話

やさしい言葉、肯定の言葉、割とみんながみんな求めているもののように思う。
これは個人の感想だし、思想だし、書き散らしだし、チラシの裏だけど、読む人が居て、読んだ人が俺のことをそういう人なのだと認識し、構成する要素の1つだと思考し、忌避するかもしれない。
はたまた、同じような人で安心や同調を得るのかもしれない。

俺は「やさしい言葉」や「肯定の言葉」ほど適当に言えるものはないように思う。

「がんばったね〜」や「えらいね」「すごいね」みたいなふわっとした単語、言葉、文字。あまりにも無価値が過ぎる。
無価値は言い過ぎだけど、具体性も何もなく、ただ中身のない言葉だとは思う。
プレゼントの箱だけ渡されたような、そんな感じ。嬉しいけど空虚。
ただ「貴方のフォロワーですよ」という表明で使うこともあるし、そういうのが大事なのは分かっています。
具体性が欲しいという欲望が鎌首をもたげている。
俺の中の承認欲求が満たされない。
「こいつは本当に作品を読んでくれているのか?」
そんな最悪な不信感を感じてしまうこともある。
これはただの人間性の問題なので、俺が終わりの人類という話。

それと比べると「きつい言葉」「否定の言葉」というのは、キツいけれど具体的なことを言ってくれるので欲望を満たしてくれて、承認欲求が満ちる。卑屈が極まる。
「ここ誤字ってるよ」そんな細かく読んでくれてるのか、有り難い。
「ここの表現なんかおかしくない?」それはこういう意図で書いたんだけど、使い方が違ったかな、なにかいい単語ないか。
「文章が稚拙」そんな事言いながら読んでくれたのか、可愛い奴め。精進します。

「つらい言葉」や「否定の言葉」をいうのは、相手からの期待の現れなのかも知れないと歪めて考えてしまう。
関係が悪くなる可能性があるのにそういう事を言ってくれているのだと思ってしまう。

でもまぁ、辛い辛いだと死んでしまうこともあるので水をやるつもりで「やさしい言葉」も掛けてほしいとか……都合が良すぎる話ではあるけどね。

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