才能という言葉に逃げないことにした

自分にできないこと、力不足なことがあると分かったとき
「僕には才能がない」
「あの人はいいよな、才能があって」
ついそんな言葉を口にしそうになってしまう。
しかし、その「才能」は便利な逃げ口上でしかないことを実感している。
だから才能という言葉に逃げないことにした。

数年前、友人らと「将来こういうアニメ作ろうぜ!」と企画を立ち上げて絵を描いたり物語を考えたりしていた。
その時に友人の一人G氏から言われたのが
「お前の物語はつまらない」
だった。
盛り上がりに欠け、テンプレも押さえきれておらず、奇をてらおうとして階段を踏み外している印象だと。
正直、物語を作るプロではないその友人の言葉に反発を覚えていた。
しかしながら「実は物語を作る才能がないのかもな」とも不安になっていた。
結局その企画に関しては、基幹的なアイディアを僕自身が別の企画への転用を行った時点で立ち消えとなってしまい、G氏とも疎遠になってしまった。

そしてここ数日、コミケの原稿作りの最中、転用後の企画にも助力を続けてくれているもう一人の友人K氏からいくつか質問された。
「敵の組織の目的は?」
「なぜ敵の組織はそのアイテムを使うのか、現代兵器ではダメなのはなぜか?」
「なぜ主人公がその行動に出るのか?」
その質問のいずれにも答えるだけは答えたが、K氏は「物語が頭に入ってこない」と腑に落ちない様子だった。
その時に口にしてしまった。
「分かった、もうやめよう。僕には物語を作る『才能』はない」と。
その時はどうしても物語の続きを考えるのも絵を描くのも嫌になり、解散してすぐに不貞寝した。

不貞寝の最中に夢を見た。なぜか日本語とドイツ語が混ざっていた。
内容ははっきりとは覚えていないが、どこかの入場口みたいな所で名もない係員に止められて
「Ich bin alt genug.(十分な年齢だ)」と答えたが
「君はまだ幼い」と返されたと思う。
まだ年数を重ねていない、不十分だと。

その通りだった。

K氏は、彼自身の物語を作っている。小説家になろうとしている。
まだ、形にはなっていないし、組み立てながら試行錯誤している最中だけれども、とても魅力的な物語が彼の頭の中にあることを知っている。
K氏とは高校時代から二十年もの付き合いになるが、彼の物語はそれ以上前からK氏の頭の中にある。二十余年の蓄積が、彼の物語をサグラダファミリアのような壮大なものにしている。(それもあってなかなか完成しないという側面もあるのだが……早く完成品が見たい)
対して、僕の考えた物語はたった数年、転用後の新しい物語に至ってはほんの数か月、まるでテントのようなものなのだ。
蓄積が足りていない。
どうすれば面白い物語になるのか、どうすれば人に興味を持ってもらえるのか、どうすれば魅力的なキャラクターになるのか、考える量が足りていなかった。
思考量に関しては、僕はまだ圧倒的な「赤ちゃん」だったと気づかされた。

今、勉強のためにメンタリストDaiGo氏の切り抜き動画をYouTubeでよく観ている。
その中のうち彼が述べたこんな言葉を思い出した:
「才能とは、努力が嫌いな人たちの言い訳だ」
才能という言葉は逃げである、努力や工夫によって超えていこうとする意思のない愚者が発する言い訳であると。

K氏の物語を面白いと感じる理由、深みを感じる理由、それは二十年以上の蓄積からくるものだった。
彼は二十年以上も物語について考えている。
片や僕の物語にはまるで蓄積がない。
考える努力もしていない、面白くしようと工夫もしていない、なんとなく「こんな感じの話にしようかな」とふわっとした状態でキャラクターを添えてあっただけのもの。
それを「才能がない」の一言で終わりにしてしまうのは、違うんじゃないかと、そう考え直した。
僕だって、絵を描くことに関しては、世間一般に言われるような「才能」は無いかもしれないが、二十年以上の歳月を費やしてきた蓄積、そして尊敬する人たちに追いつくためにどうしたらいいかを考える工夫を日々続けている。

だから才能という言葉には逃げない。
努力が足りない、ならば努力すればいい。
工夫が足りない、ならば工夫すればいい。
考える頭を持っている人間なのだから。



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