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彼女が寝ゲロしたら彼氏が愛情に目覚めた話

こんにちは、たわら(https://twitter.com/kt_mdch)です。

彼女が寝ゲロをして、それによって俺が愛情に目覚めた話をします。

何か日常生活に苛つきを感じる。
人生に対して無力感を抱えている。
どうせ自分なんて使えない、価値がない。
私はもう変われない。
過去の延長線の未来しかない。

と思っている方には、響くものがあると思います。

基本的に、恥ずかしい話になります。

ただし俺はあなたに本気で伝えることになります。
恥ずかしい笑い話に聞こえるかもしれないけれど、
俺の心、感情、内的世界の変化は本物です。

読み終えたあなたは自分の現在に対して
何かしらの気付きを得て、新しい行動をするかもしれない。
そうなってくれたら、俺はとてもうれしい。

それでは、はじめます。

体験談

1日目まで

彼女とは付き合って同棲して約3年だった。
彼女は30歳で、俺は33歳だった。
寝ゲロしたときはスナックで彼女は働いていた。
ずっと昼職で正社員だったけれど、人間関係で疲れて体調を崩し気味になった。
何度か転職を繰り返したが、そのたびに体調を崩した。
だから次に向かうための回復期間としてのアルバイト生活のはずだった。
とりあえず次が見つかるまで時給のいい夜職を彼女は選んだ。
酒には強く、飲みの場にも慣れていたことも理由だった。

彼女はこれまで2度、寝ゲロをしたことがある。
俺はそれを怒った。
臭いし、人としてありえない、と強く裁いた。
「3度目は別れるよ」と強く念を押し、彼女も2度としないと誓った。

3度目の寝ゲロをした当日の1週間前から、彼女は37度を超える微熱が続いていた。
欠勤をすすめたが、それでも「お金がないから」と週4で彼女は働いた。
彼女の貯金は、ある事情があってかなりの額を親に明け渡していてゼロだった。
そして俺も貯金が10万円もなかった。自己投資にお金を使っていた。
お互いに貯金がなく、金銭的な余裕のなさにお互いにイライラに似た焦燥感を抱いていた。
彼女の肌は荒れ、咳き込み、だんだんと体調を崩し、心身が乱れていた。

1日目

その日の彼女は、はや上がりして24時に帰ってきた。すでに酔っていた。
帰って来てしばらくすると、トイレに移動できないほど気持ち悪さに襲われ、ベッドで寝ゲロをしはじめた。
一度で収まるものではなく、時間を置いて何度も何度も苦しい声を上げている。
ほぼ何も出ずに、から吐きをただ続ける。
顔や髪に吐瀉物がついてしまっている。
人間ではない、動物のようなうめき声。

タオルやビニール袋を用意して「大丈夫か」と
声をかけても反応はない。

夜中の2時、3時までその状態が続いた。

こういう日に限って朝早く起きる用事が俺には入っている。
どうして目の前の現実はこうなっているのだろうか。
彼女の苦しんでいる様子を見て、何かが切れた。

「ここまでしないといけないのか」
「俺はこれから彼女の寝ゲロを何度処理しないといけないのか」
「彼女は回復して人生をやり直す気があるのか」
「この面倒を受け入れることが優しさなのか」
「そんな優しさは俺の器ではない」
「俺が仕事で芽が出ないのは彼女という悪縁のせいなのか」
「俺の何かが彼女を損なってしまっているのかもしれない」
「だったら別れた方がお互いのためだろう」

俺の心は彼女から離れていた。
どう接していいかわからなくなった。

そして思ったことをLINEでその場で送信した。
彼女は翌日にメッセージを見て、自らの繰り返す愚行に打ちのめされるだろう、とそのとき俺は思った。

この現実はお前が引き起こしたんだからな、と。

2日目

翌日の夕方まで俺は用事があって家を出ていた。
高校の同期達と会う用事だった。
共通のお世話になった知人が若くして亡くなった。墓参りだった。

手を合わせてレストランで昼食を取った。
事情を話すと、寝ゲロした時点で即別れた方がいい、と言われた。
「ありえないでしょ。ふつーに。きっとまたあるよ」

一般的な感覚はこうなのか。俺が優しいだけなのか、と思い、
やはり別れるほうがお互いのためなのだろう、とひとりごちた。

帰り道の電車で、

「2度と酒をやめます。もう1度チャンスをください」

とメッセージがあった。
愛憎の気持ちが湧き出た。

だったらなんで、酒を飲むような仕事をするんだよ。
お前が選んで就いた仕事だろう。
記憶がないから反省のしようがないじゃないか。
酒癖は治らない、一緒にいると互いに不幸になる。

そう伝えたら彼女は強く悲しむだろう。
彼女に言うのが怖い、俺が悪者になるのか。
それでも伝えた方が二人のためだ。

と思っていると胸にこみ上げてくるものがあった。
3年間の結末がこれなのか、と。

「別れる気持ちは変わらない」と返信した。

夕方に家に着き、俺は彼女に直接伝えた。
彼女の表情は死んでいて、魂はそこにはなかった。

「やりなおせないかな」と、小さく震える声が聞かれた。

別れたほうがいい、と言葉にしたときに、体に熱が溢れた。
そして思っていることを伝えた。

俺の何かが君を苦しめているのかもしれない。
だから会社で働くこともできなくなってアルバイトで働くことになった。
そしてアルバイトでも心身の体調を損なっている。
俺達は二人でいると、悪影響になる。

「だって、お前全然回復する気ないじゃないか。つらいよ。
好きな人が目の前で何時間も苦しんでいるのは」

この言葉が出たときに俺は少し泣いた。声が裏返り、呼吸が乱れた。

言い切った。

お互い貯金がないから、いくらか貯めて、同棲しているこの家から出る。
それまでは一緒に過ごすことにする。詳細はまた今度。そういう着地となった。

3日目

翌日になって広い寺に朝から向かった。
一緒の空間にいるのが気まずかったから。
彼女とは1度も目が合うことはなかった。

広い寺にある広い休憩所は静かで人もいない。
そこでもう一度考えた。
このままでいいのだろうか、と。
この選択に納得しているのだろうか、と。

2時間ほど顔を手を覆って、考えるでもなく心に浮き出る感情を見つめた。

まずは強烈な寂しさが訪れた。
3年間も一緒に過ごした女性が生活から消える。
触れることもできない。食べ物の感想も言い合えない。
軽い冗談でじゃれ合うこともできない。
1人には広い家で感じる寂寥感に耐えれるだろうか、と。

でもこれはエゴじゃないか。
別れることを選ぶ代償として仕方のないもの。
自らが引き受けるべきものだ。
そして新しい恋人ができればいずれ埋まるものだろう、と。

果たして新しい恋人ができるのか。
果たして新しい恋人と今のような親密な関係になれるのか。
わからないけれど可能性はゼロじゃない。
だからいま気にすることではない。

彼女と別れても人生に別の展開があるだろうことは頭では理解できていた。
しかし、理解しても寂しさは収まらない。
むしろ強く、鋭くなり、体を2つに裂きそうなほど強烈だった。
体が寂しさを猛烈に感じている。心も引きずり回されている。
かけがえのないものをいま失おうとしているという感覚。
この状態が続いた。

そして気付いた。

俺は彼女が好きなんだ、と。

しかも

めちゃくちゃ彼女が好きなんだ、と。

その程度じゃない、

彼女を愛している、と。

そして、

俺は彼女にそのことを一切伝えてない、と。
むしろ伝わらないように振る舞っていた、と。

この自覚で心の底から涙が出てきた。

どれだけひどい人間なんだ。
どれだけ罪深い人間なんだ。
なんて不誠実な人間なんだ。

愛だけ奪ってきた畜生じゃないか。

彼女の愛をどれだけ無下にしてきたか。
向けられた愛をドブに捨てて、踏みにじってきたことか。

正直な愛情表現ほど恥ずかしいものはない、と彼女を軽蔑さえしていた。
心を開くことで損することを知らない愚か者だと見下していた。

言葉にならない想念が体を何度も貫いた。
申し訳なさ、恥ずかしさに身を切られた。
3年間だ。3年間、向けられた愛を踏みにじってきた男なんだ、と。
とんでもなくクソ野郎だ。
そんなクソ野郎に3年間も愛情を向けてくれた彼女の偉大さ。

日常生活での踏みにじってきた無数の場面、彼女を諦めさせていた場面が脳裏に浮かんだ。

「どこに住もうか、この物件は?」「まあ、いいんじゃない」
「今回の手料理は美味しい?」「うん、まあ、普通」
「新しい服買ったら?」「服興味ないし、まだ着れるし」
「ここ行きたい」「段取りしてくれるなら」
「長期休みどうする?」「考えてない。家にいる」
「何食べたい?」「なんでもいい」
「クリスマスケーキは?」「コンビニでいいでしょ」
「どうこの服」「着れたら何でもいいんじゃない」

手をつないだり、腕を組んでくるのを面倒くさがったり、
スキンシップやじゃれ合いをうっとうしがっていた。

それらのひとつひとつの記憶がエネルギーを放ち身も心も貫いた。
皮膚を裂き、内蔵を抉り、血液が熱くなった。
すべての場面で、どうでもいいやと思っていたのだ、と。

そしていますぐに彼女に謝りたくなった。
俺が悪かった、と。
俺がお前の愛を無下にしていたことがすべての原因だ、と。

俺の幸せへの道とは彼女を悪縁として別れるのではなく、
彼女を幸せにして、そして俺も幸せになる道なのだと深く自覚した。

と、同時に自分が他人を愛することができる人間なんだ、という自覚があった。

愛情を持った人間なんだ、ということが腑に落ちた。
他人を好きだ、と感じ、愛していると口にしたいと願う人間なんだ、と。
このことにも涙した。自分には相手に向ける愛情があるのだ。

そしてなぜ愛することをしてこなかったのかを自覚した。

責任を取る、ということから逃げていたからだ。

愛していると伝えても、相手を失う・裏切られると信じていた。
記憶にないくらいの原体験でそのように頭にセットされたのだろう。

だから先んじて愛そうとしない。関係に責任を取ろうとしない。
好きになられたら、好きの気持ちや愛は受け取る素振りは見せる。
だけど決して心を許さない。失うのが怖いから。

恋人との関係に責任を負わない、ということは他にも当てはまることも見えた。

仕事、友人、そして自分の人生に責任を負わない。
世間で推奨されていることに自分を合わせる。

こうしとけばいいんでしょ。
こういう反応をしとけば無難でしょ。

平凡でつまらない人間になっていた。

そしてそこから脱する努力をしようと思っても、
どうせ無理だ、がんばるのはダサい、などと
自分を無下に扱い、白けて、無気力になっている。

俺は彼女に好きだ、とはっきり伝えたことはない。
「なんで付き合ってるの?」彼女に聞かれたら「面白いから」と答えてた。

好きとか愛しているとかの気持ちがわからなかった。
わからないから、そのような気持ちを素直に表現している人を見下していた。

ずっと斜めに構えて、愛を受け取る素振りをしたり、受け流していたりした。
あるいは冗談でごまかしていた。

相手に対して本気で向き合ってこなかった。
それが正しいとさえ思っていた。

何度も涙を流した。
そして家に帰り、思ったことを彼女に伝えようと思った。

家の扉を開けると嫌な予感がした。
彼女はいなかった。
そして置き手紙がテーブルにあった。

震える字

ーーー
本当にすみませんでした。
私のせいであなたの人生がめちゃくちゃになって
なるべくきれいに終わられるようにがんばります。
いままで本当にありがとうございます。
ーー

これを読んだとき、文字通り膝から崩れ落ちて嗚咽した。

俺こそが彼女の愛情を無下にしてきた。
彼女への態度が積み重なった結果、
彼女にこう思わせるまで追い詰めてしまったのだ、と。
内臓が震え、体の芯から涙が出た。

ここまで追い詰められている彼女は、
それでもまだ俺のことを思って作り置き料理をしてくれている。
ここでもまだ彼女の愛情は俺に向けられている。
その愛情を思うとまた胸が締め付けられる。

コールスローを食べながら涙を流した。

そして彼女に、やっぱりやり直したい、とメッセージをした。

彼女に再び会うまでに、ときおり涙を流した。

愛情を心から向けたいときに、相手がいない恐怖。
1人で過ごすときにふと思い出す、2人のじゃれあい。
自分の彼女への愛情のない振る舞い。
自分が彼女を大好きで、愛情を持っていることの自覚。

それらが不意にフラッシュバックするたびに涙を流した。

ご飯を食べているとき、散歩しているとき、
カフェで1人考えているとき、家でも外でも人がいてもいなくても。

4日目

そして彼女が家に戻ってきて、二人で話した。

正直に話すと決めていた。素直に言葉にすると決めていた。

いままで、ずっと愛情を受け流していたこと。
彼女に向き合ってこなかったこと。
彼女が大好きで、愛している、ということ。
彼女にも改めて欲しいことがあること。

それらを素朴に伝えた。
彼女も素直にあやまってくれた。
そして仲直りすることになった。

僕は彼女にハグをして、本当に泣いた。
ほんとうにごめんね、大好きで愛している、と伝えた。

子供が泣くように、無様に泣いた。わんわんと泣いた。
無様に泣くことのできる瞬間の、そのすべてに対して有り難みを感じて、さらに深く泣いた。

私のほうこそごめんなさない、という彼女の言葉を耳元で聞いた。
謝らせてしまうほど追い詰めてしまった自分の行為を思って、身が切られるように泣いた。

大好きで愛している、と口にすることに恐怖があった。

もうすでに彼女を深く傷つけてしまったから拒絶されたらどうしよう、と。
別れようと切り出したのは、そっちで、私はもう腹が決まっているから別れよう、と言われるのではないか。

本当の恐怖があった。全身全霊を賭けた。
受け入れられたときに、安心感に満ちた。よかった、と声に出して泣いた。

人生の転機になる、と自覚した。

愛している、と言葉にしたこと。
無様に涙を流したこと。
二人の関係に責任を負った発言したこと。

これはずっと避けて生きてきたことだった。
責任から逃れるほうに舵を切って生きてきた。
責任を取るフリをして生きてきた。

責任と取る、という行動をくぐり抜けた。

この体験の瞬間から、体がとても楽になった。
世界の見え方がまったく違って見えるようになった。

ストーリーとしてはここで終わる。
とにかく彼女との関係をやり直せる結末を迎えられて本当にうれしかった。

その後の変化

その日から世界が見違えて見えるようになった。
自分でも別人になったような気分だ。

この日を堺に、印象が変わったと言われることが多くなった。
喋りやすくなった、人間味を感じるようになった、柔らかい印象になった、と。

いま振り返ると、次のような効果があった。

深い自己承認を得た

まずは、人を愛せる気持ちがあることの自覚。
そして愛情を表現し、相手に気持ちを伝えた、という恐怖を乗り越えて行動したこと。
この2つによって、俺も生命としての人間なんだ、と深く自己承認ができた。
人と深く関わりたい欲望を持つことの許可が自分に対して降ろせた。

人間を含む存在の起点が愛情だと気付いた

すべての行動に愛情が含まれている。
愛情があるから一緒にいて、愛情があるから話をする、ということに気づいた。
おはよう、という声にも、体調や気分を気にかけてくれる愛情がある。
醤油かけたら、という一言にも、より美味しく食べて欲しい、という愛情があるのだ。

そしてどんな商品にも愛情が込められている。

基本的に、何かの不便を解消したり、快適に過ごして欲しいという意図がある。
太陽、海、風、土にも意図があるのかもしれない、とさえ自然に思える。

世界はひたむきに愛情を向けてくれている、と腑に落ちると
ものごころついたときから抱いていた不安や恐怖や怯えがなくなった。
「世界に敵が満ちているっていう世界だね」と指摘(※1) を受けたことの意味がようやくわかった。

愛情を向けられたら、ありがとう、と返すことは自然だ。
自然に言えるようになった。
以前の世界では、ありがとう、と表明することが
「負け・損」につながっていた。クソ野郎だ。
ありがとう、と口にしても、極めて薄い「ありがとう」だった。クソだ。

人間を含めた存在を「見れる」ようになったという感覚がある。
なぜこういう動作をするのだろう、このデザインに込められた意図は? など。

いかに世界を粗雑に扱ってきたかを思い知らされていたたまれなくなると同時に、まだまだ世界を楽しむ余地が膨大にある、ということにわくわくもしている。

人間関係のストレスが大幅に減った

いかにストレスを抱えていたのか、が鮮明につかめるようになった。
家族・恋人・友人との会話も心の底では

「もっと一言でまとめろよ」
「何が言いたいのかさっさと言えよ」
「うるせえな」

と反射的に心に言葉が浮かんでいた。態度にも出ていただろう。クソだ。

いまではどんなことを言われても、
どんな愛情の意図があるのだろうか、と思考できる機会が増えた。
一旦立ち止まって思考するので、言葉に余計に引っ張られない。

非難の言葉も、「仕事をよくしたいのだな」などと考えられる余地が生まれた。
俺を攻撃したいのだ、という被害者意識を持たないのでストレスが減った。

自分の意見や考えを伝えたくなった

愛情とは責任である、と教わった。(※2)

相手が間違った方向に向かっているときに指摘することは責任ある行動だ。
いままでは愛情がなかったから、「ま、いいんじゃん、好きにしたら」とレスポンスしていた。
あらゆる場面で、どうでもいい、と思って責任放棄していたからだ。

愛情を自覚したので、責任を持って、耳に逆らうことを伝えたい。
敵対心から出る言葉ではないから、安心して伝えることができる。
そして相手に届くように会話の技術を磨きたい。

肯定的な欲望を持てるようになった

自分に向ける愛情がなかったから、「自分なんてどうでもいいや」と振る舞っていた。
死ぬ勇気もないので、「最低限の生活」に執着していたとも言える。
衣食住にこだわりがなかった。
そんな自分を守るために、自分が「正しい」と思うために、
こだわりを持つ人間を見下していた。クソ野郎だ。(※3)

だけど、愛情を持っていることを自覚すると、
自分にも愛情を向ける許可が降りて、自然と欲望を持ち始めた。

自分と合う服、食べ物に触れたい。
自分を自分で形作っていきたい、という欲望だ。
他人に向けて心を開いた結果、自分に対する心の扉も開けたことになる。

自分と他者を比較することが減った

いままでは、常に自分は「今の自分ではいけない」と思っていた。
向上・改善・成果を出すのは誰かの要求を満足させるためであり、自分のためではなかった。

家族における親、学校であれば教師・先輩・友人、会社であれば上司。
彼らの満足させるために、自己否定によるエネルギーで事にあたっていた。

だから成果が出ても喜べない。いっときの解放の安堵があるだけ。
「これで否定されることはないかもしれない」と。

しかし、要求はとどまることはない。
「それができたら、次は難易度の高いコレができなきゃいけない」という声を聞いて、内面化する。

また自己否定でがんばる。繰り返し、繰り返し。
誰の道を歩いているのかわからなくなる。誰かの道具としての生命だった。

自分は自分でいい、という自己承認を得たからだろう。
自分は自分のままでいいのだ、と自然に思える。
もちろん、だから何もしなくていいわけではない。
伸ばしたいスキルもあるし、欲望も湧くようになった。

ただ道を歩くエンジンが変わった。
自己否定ではなく、未来への意志。

自分が望む未来のために、自分の足で歩く。
風景を楽しみながら、難所を工夫しながら。
そのような心持ちになっている。

同時に、これまでの道を否定気味に見る気持ちも薄くなった。
その道を苦しみながら歩いたことで身についた大切なスキルや縁を得られたのだから。

気付きに導いた教え

俺は虎さん(@tiger_stlv)に出会ってから彼が運営するコミュニティに入って人間の心理構造やマインドセットを教わっている。

セッションやセミナーや懇親会でいままで様々なことを教えてもらった。

その中で今回の気づきをもたらしたものを振り返って2つピックアップする。

人生はやったことが返ってくる

人生に起こるトラブルは必ず自分の振る舞いに原因がある。
因果応報だ。これをことあるごとに虎さんは切実に伝えている。

彼女が会社で働けなくなっていくこと。
彼女が体調をどんどん崩していくこと。
人生に希望が持てない、つらい、と彼女が言っていること。
彼女が3時間苦しんで嘔吐したこと。

これは俺の何かが彼女を損なっているのだ、という視点を持ち続けられた。

なんで俺がこんな弱っていく彼女に付き合わないといけないのだ、という反応に持っていかれそうになる。
俺の人生は損なことしか起きないじゃないか、と。
被害者意識の声は正当に聞こえる。

しかしこの声に従ってはいけない、と自制することができた。

そしてひたすらに、俺の何が彼女を損なっているのかを必死に考えた。
自分が彼女を攻撃してしまっているのではないか、と。

いつも裁きのコミュニケーションをしていたことに思い当たった。
(裁きのコミュニケーション以外を知らないんだね、と虎さんに初めて会って言われた)

お前のここが悪い、ということを指摘し続けるコミュニケーション・態度・素振りだった。
3年間も同じ家で毎日、攻撃されていたら体調を崩すのは当たり前じゃないか。

そこで唐突に、思い当たった。
彼女の愛情を無下にしていること、その蓄積のことを。
それが本当のことなのかどうかは涙が流れたことが教えてくれた。

やったことが返ってくる。
大切な彼女が奪われる・損なわれるのは、
俺が彼女から愛情を与えることなく、奪っていたからなのだ。

責任を取ること

責任を負うことの重要さは、繰り返し教えにあった。
仕事では現在マネージャーポジションだし、それなりに責任を取っている、と思い込んでいた。

責任とは相手のために、損をしてでもリスクを背負って恐怖を覚えることでも先にすることだ。
愛情がないと責任を取れない。親が子供を育てるのは、単なる義務ではなく、愛情があるからだ。

彼女が損なわれていくのは、どんな責任から逃れていたのか、を寺で考え続けた。
何を与えることをしなかったのか、という疑問を繰り返し自分に投げかけた。

そして、ああ、愛情かもしれない、と思い当たったのだ。
愛情を向けて、その相手や対象を失うことで傷つくことを恐怖していた小心者だったのだ、と。

そして愛情に責任を取ってこなかった自分は
きっと他の分野でも責任を取ってこなかったことに思い当たった。

仕事、友人関係、家族関係、自分の夢ややりたいこと、日々の生活などの場面で。

家族にプレゼントを渡すこともしない、誕生日も祝わない。
(子どもの日に何もしてくれないのに、母の日になぜ行動する?)
洋服ひとつ選ぶのも、どうでもいい、面倒だと思っていた。

全方面で責任を放棄していることに気づいた。
これからは責任を取っていく人生を歩む。

最後に

ここまでの文章を読んでくれた方がいたら大変感謝したい。
そして何か気づきを得たのであれば、
とんでもなくうれしいし、ぜひ感想を聞きたい。

もし、この文章を読んで自分のマインドを改めたい、
もっと深く学んでみたい、という方がいるかもしれない。

その方たちに向けて最後に、コミュニティを紹介したい。

俺と同じように
何か人生に見えない天井に頭をぶつけていたり、
どうも自分の人生にわだかまりや、
これじゃないだよな、という感覚があったり、
もっと気持ちよく生きたい、
人生を諦めきれない

そのような人にはぴったりだと思う。

無明会だ。(https://twitter.com/mumyokai0201

虎さん(https://twitter.com/tiger_stlv)、
永世豊さん(https://twitter.com/yutaka_nagase

が主催している。

概要を知りたい方はウェルカムコンテンツを見て欲しい。

ここからは参加者として生の声をお届けできればと思う。

無明会では仏教の教えをベースに
お二人のビジネス・コーチングなどの経験を落とし込んだ
コンテンツが提供される。

それらを日常に活かしたり、ワーク(宿題)をやって実践する。
実践する中での自分の考えや行動に対して
フィードバックをオフラインでもらえる機会がある。

特にフィードバックがありがたい、そして俺は大好きだ。
自分に対するものはもちろん、参加者に対するフィードバックも耳をダンボにして聞いている。
切れ味が鋭い見えない刃で心を抉られる経験・場ほど得難いものはない。

参加者が人生の問題を持ち寄る。
最近の問題かもしれないし、何十年も抱えていた問題かもしれない。
そこに悩みを茶化したり、笑ったりする人間はいない。
真摯に耳を傾けて、誠実に受け取る。
そんなオフラインの場は現在ではとても少ないはずだ。
血の通った問題に、世間一般の尺度による当たり障りのない回答はない。
一種の清浄さを俺はそこに感じる。

真摯に問題を語り合う、受け止め合うメンバー同士の交流もはじまっている。
みんな悩みを持ち寄っているので、仲は深めやすい。

運営(https://twitter.com/mumyokai0201)、
虎さん(https://twitter.com/tiger_stlv)、
永世豊さん(https://twitter.com/yutaka_nagase

の投稿をぜひ見て欲しい。

ひとつの言葉でも心に残るのであれば、アカウントをウォッチすることをおすすめする。
どこかのタイミングでお二人に会える機会がつかめるかもしれないからだ。

もし無明会に入ったら声をかけてもらえるとうれしい。
「あの寝ゲロの人ですか」と。

(了)

※1「世界に敵が満ちているっていう世界だね」と指摘(※1) を受けた

無明会の最初のフィードバックで虎さんに言われて頭に残っていた。
自分で自覚していない価値観などをフィードバックもらえる例。

※2 愛情とは責任である、と教わった。

ちょうど5月にシェアされた無明会でのコンテンツの内容に含まれていた。
シンクロニシティや縁を感じる。

※3 そんな自分を守るために、自分が「正しい」と思うために、
こだわりを持つ人間を見下していた。

正しさについても過去に教えを知っていた。

知っていても、実際に実行できることの差には雲泥の差がある、という教えももらっていても、やはりできていなかった。

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