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東京の椅子 清潔なハラッパ/新宿の土

駅前のビルにある二階のカフェから再開発が進む駅前をたくさんの人が歩いていくのをぼーっと見ている。

明るい時分はたくさんの生き物が蠢いているようだが、夕方・夜と暗くなっていくにつれて少なくなり、一人一人に目を向ける余裕が生まれる。

禁止されているのに低速なまま決して自転車から降りないおじさん。娘が二人の四人家族。無印良品の袋を下げる若者。ベンチでおにぎりを食べるおばあさん。眠そうな顔で鳩に黒糖パンのようなものをちぎってあげるおじさん。鳩を追い払うキャップを被った男の子。交通整理をする反射材をつけたおじさんがいるなー。よく市役所近くのベンチやマックにいるホームレスっぽいおじさんは駅前では見かけないなー。

作業をするつもりでお金を払ってカフェに入ったのに、ずっとぼんやりしていた。


清潔なハラッパ

先日原宿にオープンしたハラカドに家族で行ってきた。
田舎に普段いる父は上京してきたならと東京っぽいところ(建築学科出身中流階級の父は「アーバン」なところと形容する)に行きたがる。特に最新スポットに行きたい気持ちが強く、今回はハラカドをネット検索で知ったようだった。
私は人通りが多くなく価格帯も高過ぎないウラハラを中心に原宿が好きだが、ハラカドについての事前情報を持っていなかった。

家族旅行は大体にしておいしいものを食べすぎるためか、家族のうちの誰かが交代交代でお腹を下す。
ハラカドに入ってすぐ兄はトイレに駆け込み、兄以外の家族3人で4階で待っていた。


ハラカドの4階は、「ハラッパ」というテーマを持った空間設計がなされていた。

本当に有難くまた社会的にも意味があると感じたことは、たくさんの椅子があることだった。
おそらくすべての席が埋まりきらないほどの椅子がある。
いつも椅子を探している私にとっては有難い。
都市を歩くと疲れる。
しかもちょっと一休みをしたいときにお金を払わないと休む場所を見つけられないことが都市で生活をする中でもっとも嫌なことだった。
駅前のWITH HARAJUKUもそうだが、原宿の再開発では座れる場所が多く生まれた。なんならWITH HARAJUKUでは大きい座布団を借りることもできるため、天気のいい日は寝そべることだってできる。
私はそのことに感謝してもしきれないくらいに思っている。


しかし、4階の展示を中心にハラカドに対して違和感を感じたことも多くある。

ここにたくさんある誰でも座れる椅子は誰でも座れるのだろうか。

私は都市で椅子を見かけるたびにここにホームレスなどの臭い人が座れるかどうかを想像する。
私が住んでいる駅の再開発をした駅前と同じく、ハラカドの4階には臭い人が座れないと感じた。

この「ハラッパ」は国籍・性別・年齢にかかわらずボーダレスに体験できることを売りにしているが臭いものを暗黙裡に受け付けていない。
チルイ空間は大多数にとって居心地の良い空間を作ることを目指されているからだ。

「ハラッパ」は臭いがしなかった。
自然に還る素材で作られた花壇(?)にある植物は造花のようなプラスチックでできていないだけで、生きた感じがあまりしなかった。焚火を模した人工の太陽からは焦げたにおいや危うさがなかった。
それに何よりもどこからも土の臭いがしなかった。

はじめビルの中のチラシに「ハラッパ」を作るというコンセプトをみた時に、養老孟司・宮崎駿が語ったような、凸凹して土臭い場所を思い浮かべただけに落胆した。
同じ日に行った永田町の参議院すぐ横の道のほうが植物と土が混じった臭いがした。
さらに、遊びのあるエコな展示がたくさんあったが、そこで遊べるような設計にはなっていなかった。

つまり、ハラカドという空間は雑誌と一緒だった。
おしゃれなデザイン会社がつくったいい感じのものをそこに来た人がちらちらみるという作りだった。(たとえば、HYTEC.incが作ったパラオ島の没入型の展示はインタラクティブ性が設計されているのかもしれないが私は気づかずただの映像作品として受け取った。)

全体的にワクワクする空間ではあったが、せいぜい「すごいことをしてるね」を超える感想は生まれないんじゃないかと思った。

人間に限らないが私たちが何かを作るなどの活動をするとき、必ず何かを傷つけるようにできている。
私たちはその傷を過剰に考えすぎないようにしながら生活を営んでいる。
私はそのことが悪いことだとは思わないし、悪いと思っても仕方がない。
気にしすぎたら生活ができないし、多くの場合何をどのように傷つけるかは事前に予測ができない。さらには生活には傷つけるだけでなく癒すこともありややこしい。

ただ街づくりなどの大規模だったり、何を排除するか、傷つけるかがわかりやすい場合は別の話だと考えている。
人が集まるところには墓・寺院・博物館・美術館・パブリックアートなどの歴史を保持し記憶し、臭いものに時たまに向かい合うための装置が必要とされてきた。(作ることによって過剰な無視、過剰な思い込みをおそらく緩和できるのかもしれない。)
そのことを踏まえると原宿の再開発ではこれまでの原宿の歴史において排除されてきたことがあればそれが表現される必要を感じる部分もある。

もちろん「ハラッパ」においてすでに古着・木などのサプライチェーンを意識したエコなビジョンを空間で表現できていることはとても価値が高いことだ。しかし、多くの人が嫌がるような臭いものとしてあるようなホームレスや土などのものが表現されていないことはどうなのだろう。

もちろん無理難題をおしつけたいわけではない。
居心地の良い空間を望んできた私たちの多くに合わせて作られた空間だから臭いものを省いた空間が設計されたのだと受け止めている。
(皮肉なことに、ハラカドはたぶん少なくない人が今の時代に感じている清潔さゆえの居心地の悪さ、退屈さがどのように生まれてしまうかを示すとても良い例になっている。)

しかし、そのうえで原宿が多様性を特色に打ち出すような街でありたいのだとしたら、現実的にはまだ臭いものを置けないとしても、たとえば、「臭いものも未来では受け入れていきたい」が「今は臭いものに蓋をしている」というような、理想と理想に対しての現状の両方を表現してみる試みがあってもいいと思う。

その表現すら臭いことなのだろうか。至らない現状を受け入れらないほど理想を描けないほど私たちに余裕はないのだろうか。臭いものは未来であっても受け入れたくないのが私たちの本心なのだろうか。この場所の設計に関わった人の中には朝井リョウの『正欲』を読んだ人が十人に一人はいると思うのだが。

もしそういう臭い物に蓋をするみたいなことを示す表現を、今回ハラカドに普通に出展しているTENGAのようにとてもCOOLに表現できたとしたら、最高でなんとなく原宿的(?)でいいと思うけど、まだ難しいということだろう。
臭いもそうだが、性愛のトピックは一緒にいたい、いれないことに関わる、生理的で身体的なところをゆさぶる表現のため、論理的な解決はできない。
ただ解決策のようなものを浮かんでも試してみるほかなく、試す方法としてアートは優れている。ハラカドという商業施設、ハラッパという場所はそういった表現を試すのにはあまり向いていないのだろうか。

このハラカドの、パクチー以上の臭さを許容しないままに多様性を謳い罪悪感を吐露しないチルイ空間で長い時間過ごしていると、きな臭さをおぼえる時がありそうだ。次回以降のいつかの時点でこのきな臭さが開発のコンセプトに繋がっていって欲しい。

目の前に座っていた貯金はなさそうだがお洒落な若者が歪でエコな椅子に座っている姿に自分を重ねた。ちょうど私みたいな人にとってはとても手頃でいい場所だ。
なんなら見た目が臭そうじゃない私は地下一階の銭湯横のスペースにペットボトルの水を持ち込んでコンセントに充電器を指しながらPC作業をし合間に銭湯でリフレッシュできる。
なんて贅沢だ。良過ぎやしないか。

フロアが広い割トイレに大便器は一か所しかなくたくさんの人が並んでいたからか兄がトイレを終えるまでに長い時間が必要だった。

ハラカドの地下のトイレ

新宿の土

ずっと行きたいと思っていた場所に行けた。

それは新宿の新大久保に近いところにある WHITE HOUSEだった。

Chim↑Pomと関係の深いギャラリーだからか、去年の「Na-Lucky」の展示以降WHITE HOUSEを知り、instagramを定期的にチェックしていた。
現在やっている展示「とても静かだけど、あなたの声は聞こえる It’s very quiet, but I can hear you」(5月19日まで)の紹介を見て、羊文学や揺らぎなどのバンドの世界観が似ているように感じたことが決め手となって今回初めてWHITE HOUSEに行った。

そのなかで特に好きだった二つの作品についての思い出を書き残す。

「うさぎ1」(黒田零)
私は初めはできる限りタイトルや前情報を見ずに作品を見たい。
一週目はさーっとみて、二週目は気になるものをじっと見て、三週目はタイトルなどの情報を確認しながら見回った。
三週目でこの作品のタイトルも合わせて見た時に、うさぎだったのかと気づかされた。

なんか生き物っぽいのが映る写真だとは思っていたが生き物っぽい何か以上には感じていなかった。
タイトルを見て、「生き物っぽい何か」が「うさぎ」になった。それからもう少しじっと見ると、「うさぎ」が「生き物っぽいなにか」になった。
ただそれは以前の「生き物っぽいなにか」ではない「生き物っぽいなにか」に変わった。


これで思い出したのは目の前のものが崩れるような感覚だった。
古井由吉の『杳子』や、三島由紀夫の『命売ります』にはたしか地面や文字が崩れるような表現があるが、別に文学作品を例にしなくても私にとってはなじみ深い。

街を歩いているときにたまに感じること。
時々見ている世界がぼやけたり崩れることがある。
自分の調子が悪かったり災害の情報を頭に入れているときに起こりやすい感覚だ。

街を歩くのに限らず、普段目の前のものをじーっと、ぼーっとみていると目の前のものが違って見えてくることがある。
そういえば何かしら作品を鑑賞するときもこの崩れるなどして違って見える瞬間があるから自分にとって特別な作品として記憶に残るのかもしれない。


「ネズミの小部屋」(黒田零、片山佑香、渡邉早貴)
土に穴がたくさん開いている作品だった。
何か小動物が住んでいたのかもしれないと思っていたが、ただの土だと作家さんはおっしゃっていた。
また、穴は作家の三名が大切にしたいものをいれるためとして開けたけど最後の最後に大切にしたいものはいれなかったこと、そして、ギャラリーに来た人も新たに穴を開けても構わないということを伺った。
土をぼーとみていると、どこに穴を開けようかぼんやり考えていた。作品の真ん中にカルデラと聞いてイメージするくらいの大きい穴が開いているのに気づいた。私はその真横に右手の人差し指で小さめの穴を開けた。
人差し指に土がついた。



洗い流すのがもったいない気持ちになりながらトイレで手を洗った。作家の方に挨拶をしてギャラリーを出て電車に乗って最寄駅に帰る途中に、右手の人差し指を見た。
あの穴に自分だったら何を入れるだろう。
とりあえずあのカルデラほどは大きい必要がないし、あの大きい穴の横ならかえって誰からも見つからないだろう。

そういえばWHITE HOUSEの建物自体がネズミの小部屋なのではないか。コンセントが外れて空いた穴から外から中へ蔦が飛び出していたのを思い出す。




参考
「Na-Lucky」について過去に書いたのを。


P.S.
椅子、土、穴は都市が忘れているものや都市の中にあって都市の規律から逃れるものをリアリティを持って表現していると考えている。
今の時代に羊文学がメインカルチャーとも言えるところで活躍していること、ハラカドにTENGAなどのこれまで日の目を浴びなかった企業が出店していることは昔だと取りこぼすものが大事にされていることの証であり、喜ぶべきことだと考えている。
でも、日の目を浴びているのか浴びていないのかわからないような曖昧さを持ったものが減ってきているように思うし、今の時点の多様性は大衆に害を与えない範囲の多様性にすぎない。今の時点で受け入れられていないようなマイノリティ(やマジョリティの人にも内在するマイノリティ的分人)に対する風当たりは以前よりキツくなっている予感がある。というよりも多くの場合視界に入らず風すら流れなくなっていることも多い。

本来多様性を認めようとすることは臭くて不快を伴う体験である。
障害をなくすことを考えた場合は、ある程度のゾーニングは必要なのかもしれないが、それでもある種の臭さが行き交うことが必要であるように思う。

20240518
ホームレスの方の話をあげましたが、読み返してみて、あれなんかこれでいいのだろうかって思うようになりました。
正しいような間違ってるとも思う、曖昧な感じ。
ある種わかりやすい主張とも取られちゃう危うさというか。
ホームレスの方と一緒に過ごすようになる必要があるかって言われたらどの立場から見てもよくわからないですし。
ただそのわからなさ自体が表現されたらとてもいいことがありそうだと今でも思ったり。
都市に臭さがなさすぎることへの違和感の強さばかりが出ている文章だなって振り返って思います。

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