見出し画像

"The LEPLI" ARCHIVE 118/ 『アーチストとファッション・デザイナー、その差異の根幹とは??』その壱、;

文責/平川武治:
初稿/ 2014年9月 1日:
写真/ エスキース・スケッチ by M.M.M. :

プロローグ−1/
『現代世界は反倫理的な構造によって支配、管理されている。
この根幹を世界システム化したのは白人たち。
そんな白人たちに未だ、コンプレックスを埋め込まれてしまっている
従順な多くの日本人若者たちよ。』

1)前回の眼差しのデジュメは、 /
『若者たちは”東京オリンピック”までに自分たちのこれからの立ち居場所を、その学んだ知識とスキルと技術を持って自分の世界観を現実化出来うる可能性を現実社会で探し、事を為す
ことが今の時代の一番の面白さである。
 即ち、これから、2020年までが今後の人生において大いなる可能性を直接的に見つけ出せる
タームオブチャンスである。これを意識した生活行為によって仕事も、金儲けも人生までも
決まるであろう。この5年間でどのような自分未来の世界が見つけ出せるか?
 ”カジノ”と言う新たな都市構造が構築される東京がどの様に変貌し、”オリンピック”と言う
国家イベントが今後の東京をそして、日本をどのように変革させるか?
 ここに関われるか、関わらないか、無知であるか?の選択チャンスの時代が現代の面白さ
であると言う視点。
 建築やインテリア、ファッションの世界も同じであり、それらのクロスオーバーな、
パラサイト発想が新たな商業形態を生み、東京を変貌させるであろう。』
 追記;/結果、突如として細菌によるパンデミックが2018年始めに発生し、
「コロナ/covit-19」が世界中に約3年半に渡って蔓延したことによって、僕のこの”妄想”の
時間軸は見事に急変、若い世代と子どもたちに大きな精神的影響を与えてしまった。

プロローグ−2、”イメージ”とは?/ 
昨年読んだ本の中の1冊、「新-幸福論」/内山節著から、
「大事なはずの様々なものが遠い存在になって行く。
リアリティという物質的なる豊かさは、その豊かさ故に持つことが出来る
イメージの世界でしかない。
遠い存在になって発生するイメージの世界と、
それゆえに自分が関われると感じられるイメージの世界。
こうして自分の生きる世界のイメージ化が進んで行く。」 

 戦後の豊かさによって、
「何が変ったのか?イメージである。
なぜなら、人はイメージによって作られた先入観に従って物事を認識するからである。
そうすると、戦後の豊かさという作らされたイメージによって与えられたイメージは
虚像で在り、その虚像という先入観によって物事を認識するという図式が
僕たちの戦後日本の高度成長後に一般社会化されてしまった。
イメージ/虚像に包まれて物事を認識し、その認識を正しいと感じる事が
自由も平等も手に入った。」
/「新-幸福論」;内山節著/新潮社刊:

2)昨今、”自分アーティスト”が急増している。
巷に溢れる“文化系”輩たちは、「自分デザイナー、自分アーチストそして私フォトグラファー」
云々がより多くなったようだ。
 この傾向の根幹は彼らたちの生まれた世代観即ち、戦後日本版”豊かさ”が生み付けた
「自分が関われると感じるイメージの世界。」の選択の結果であろうか? 
或るいは、逃避でしかないだろう。
 そして、「イメージ/虚像に包まれて物事を認識し、その認識を正しいと感じる事によって
自由も平等も手に入った。」世代のジュニアたちが彼らたちである。
が、以前から僕が発していた”豊かなる難民”たちの所謂、日本的『族』化でしかない。
あのヤンキーたちでさえも“ユルキャラ化”し、”マイルドヤンキー”なる新たな『族』へ
進化した時代性と同類のアーチストと言う名の『族』化であろう。
 そんな”族”の輩たち、多くのファッション人間や自分アーティストたちは無造作、無節操
そして、無価値に『イメージ』という言葉を使う。
彼らたちが一同、一辺倒に使っているそれら『イメージ』という言葉の意味は、真意は?
彼らたちはその本意を何処まで理解して使っているのだろうか?

 彼らたちが使う『イメージ』という言葉自体も彼らそれぞれのレベルでのイメージであり、
それらをイメージ的に使っているのが現実だろう。
ここには“イメージのコピーによる上塗りがイメージ?”という
彼らたち独特の軽い空気感なのであろうか?
その根幹は『虚像しか知らない虚像者による虚像のための虚像』と言うイメージであろう。
従って、この言葉の本意を知らずとも、個々によって意味様々に使われている可能性が高い。
 これも”豊かさ”が蔓延した結果の現代日本社会のリアリテのワンシーンであり、
その様な多くの“自分アーチスト”たちの立ち居場所は彼ら自身が“創造者/作り手”と感じ、
”自信と自心”無きユルイ、イメージの“族”の世界なのであろう。

 ちなみに辞書で『イメージ』を引くと、以下の様に出て来る。
 image(名)/
① 心の中に思い浮かべる姿や情景。心象。形象。イマージュ。「美しい―を描く」
「インドは暑い国という―がある」
② 心の中に思い描くこと。「―していたものと実際は全く違った」
③ 〘心〙 目の前にない対象を直観的具体的に思い描いた像。「視覚的―」
松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』より:

3)”アーチスト”と”デザイナー”の違いとは?/
この双方の”根幹の違い”を現在の日本の教育機関は正直に教えてい無いだろう。
従って、彼らたちは大いに自分勝手に自由と言う名で勘違いを愉しむ。
そこで、それぞれが”自由”という合い言葉と”平等”という彼らたちレベルでの自己肯定に
於いて、浅薄かな表層に戯れ、「自分が関われると感じるイメージの世界。」へ
観光客よろしく彷徨い始めた豊かなる難民たちの自称、"自分アーチストたち"。
 此の様な日本のファッションの世界の人たちも自薦他薦によって“アーチスト”になりたい
輩が急増して来た。これも“表層平和”のユルキャラの一つであり、
直接的には、最近の川久保玲の仕事の影響であろうか?
或いは、モードのリアリティをリスクとコストを張って経験-体験していない嘗ての、
インドを知らない仏教気触れたちの“オーム真理教団”的、自薦教養人の”ファッション論評
ゴッコ”の悪影響であろうか?

 最近の東京ファッションにおける彼らたちの行為に僕は嘗ての あの“教団”の矛盾を
感じてしまう。ファッションを言葉だけで論じている傾向は実際、着る服と向かい合わず
頭だけで論じているセンスの悪い輩たちの自己満足的なる行動の原型と見てしまった。
 彼らたちが『ファッション学』と言う新たなジャンルを構造化する、リスクがはれる『族』であれば、その役割が見えてくるであろう。
 この分野は従来の日本文化に於いて遅れていた分野でもある『被服学』や『衣装学』
そして、『服飾史』が女子大系で教え込まれていた『服飾学』の進化であろう。
だから、日本におけるファッションを文化の領域へ広げられる迄の新たな『ファッション学』が構築されれば彼らたちの学んだ知識と活動が役立ち初めて”教養”となり、その社会的な役割も存在化するだろう。

 では、アートティストとデザイナーの違いとは何なのだろうか?
互いにモノを作り出すことを立ち居場所とする彼らたちの相違は?
 その結論は、 それぞれの立ち居場所による“A source of the inspiration”の
「差異と位相」である。
“アーチストと”デザイナー”の立ち居場所の違いとはそして、その作品の違いとは
何なのだろうか?
 この発端は後述する、最近の”川久保玲の仕事”に誰も辛辣な直言をしていない事にも
由来するだろう。
 その根幹は当然であるが、それぞれの立ち居場所で何らかの”モノを作る”という行為を
仕事としている職業人である。では、彼らの“モノを作る”為の閃きや発端は同じなのであろうか?
 そう、「両者の“A source of the inspiration”が何処に由来し、所在した作品であるか?」
というところに尽きるのではないだろうか? 
 ”アート/芸術”と言われる世界で活動して、優れた作品を残した人たちの創作の発端、
彼らたちの作品の“A source of the inspiration”は
“自心のこゝろの有り様”そのものからである。
“自心のこゝろの有り様”と言うカオス/混沌からのイメージやゆらぎ。
即ち、自分自身の日常性とそこから築いた”世界観”から、その為の教養と経験と美意識や
問題意識と関係性を自分らしく調和させ、醸造醗酵させた結果の創造世界である。
そして、彼らたちはこれが肉体の欲求と同調/シンクロした時に緊張感あるエネルギィイが
生ま得れる世界でそれなりのリスクを張って生き、創造している人たちである。

 では、デザインの世界を立ち居場所にしてモノをデザインしている彼らたちの根幹、
“A source of the inspiration”は所詮、何処かで見た事やモノ、または見慣れたモノ、
誰かがやっていた事などからの発端や閃きでしかない。
何処かで、何かで見た、聞いた、知っているというレベルの、
最近では溢れれんばかりの“情報の世界”からの”イメージ”も含めた
“A source of the inspiration”が彼らたちの根幹である。
このデザインの世界では却って、この発端レベルが次にはビジネス的に”ウケル”という
表舞台が待っている。
従って、その“A source of the inspiration”を見てしまった、知っている人たちからは
“パクった”と言われる迄の、何処かに “ネタ”がある世界が
所詮,”デザインの世界”の根幹なのである。
従って、”パックっても”その結果がお金に成る世界やメディア化される世界が待っているから彼らたちはそこを”下心”としていつか、何処かでもしくは、誰かがやった事を自分たちの
”A source of the inspiration”として”ネタ”を選択しアレンジする事を
イメージングしている世界の人たちである。

 例えば、人は誰でも旅をする。
時たま、自らが体験や体感する事によって自心のリアリテの領域を広げる旅もある。
その結果としての”こゝろの有り様”の衝撃や動揺やパッションが創作への発端になる。
これを”精神世界或いは肉体世界への旅”と言う。

 他方、鎌倉に住んで街中へ出ると”観光客”の人ゴミである。
他人や情報が美しい、美味しいと宣伝された“ネタ”を拠り所に、名所と言う場所、
土産物というモノそして、ご当地グルメと言う食べ物に群がる。
そして、写メをとる。
彼らたちを”旅人”とは言わない、ただの“観光客”である。
 
 この違いである。
極論を言えば、アートを立ち居場所にする人とデザインを立ち居場所に
する人の根幹の違いがこの”旅人”と”観光客”の違いであると考えられる。
 もう一つ、金銭的に裕福な人たちの旅の仕方というものもある。
金が有るから為せる旅というものである。
このような時代になれば金さえ有れば宇宙へも行けるから何処へでも行ける。
 最近の川久保玲のコレクションを見ていると感じるのが
”金が有るから為せる旅”でしかなく、
その金を使った”旅”は、”金看板”を今後もどのように持続継続させるか。
の為の、このブランド特有の現実肯定と定義の為の変らぬビジネス中心の
自己防衛的なる処方でしかない。
 
4)ここも『表と裏』の娑婆世界。/
ファッションの世界の輩たちや広告代理店と絡んで仕事をして来た輩たちの
「作品=モノ=商材」にはやはり、その根幹に深みが無く、軽薄さと表層が身上でしかない。
モノの根幹やリアリテを熟知している者にはそれぞれの”ネタ割れ”が当たり前である。
 ここでの、その手法の殆どは所謂、理化学研究所が”STAP細胞疑惑”騒動を起こした
「小保方さん」方式でしかない。
(蛇足であるが、物理化学の、”仮説—実証実験—結果”と言う世界で
彼女がこの方式を用いた事自体が問題であり、そこから本当の結果が生まれ得るのか?
が世間で騒がれ、問題視されたのだろう。
 建築界にこの手法を堂々と持ち込んだのが安藤忠雄の存在だった。)

 やはり、近年の「ファッションの世界」で”真の創造”を見せたのは
僕の長年のキャリアを持って見ても、あの”M.マルタン・マルジェラ”唯一人であろう。
 彼らたちはわずか、14年ほどで新たな「ファッション・パラダイムシフト」をカッコよく
構築したからだ。

文責/平川武治。
初稿/ 2014年9月 1日。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?