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書き下ろし原稿/ 私感雑感、世田谷美術館の「倉俣史朗展」を見て、改めて思い出すいろいろ。


文責/ 平川武治。
初稿/ 2024年01月10日。 
写真家/ Hirakawa Miquele-さん By hanayo.

世田谷美術館で行われていた「倉俣史朗展」
 パリへ来る前に、世田谷美術館で行われていた「倉俣史朗展」へ駆け込んだ。
まず、倉俣さんの人柄と彼が生み出した“戦後日本のモダニズム”そのものの懐かしさに襲われてしまった。そして、その懐かしさと共に、もう少し倉俣さんのミラノや巴里での活躍と戦後日本のデザインの”根幹”をそれなりに深く、しっかりまとめられなかったのか?と言う気持ちにもなりました。

 ただ、今回の展覧会は「石橋財団・コレクション」だけで構成された展覧会だったので、
「倉俣史朗の全体像とその仕事」の海外での素晴らしい大切な仕事のいくつかが抜け落ちて
しまっていたのが悔しく残念でした。
 でも、展覧会会場は多くの若い世代の人たちが熱心にお勉強するかの如く見入っている。
きっと、倉俣さんが亡くなられてからの世代の人たちのこんなに多くの入場は倉俣さんも
喜んでいらっしゃるだろうと嬉しくもなる。

僕の視点での「倉俣史朗の凄さ」とは、;
 
彼が「思慮深い哲学者のような、”創造者”」であったことだ。
それ故、倉俣作品から第一に感じられることの”凄さ”は、彼の作品には全てにある種の共通の
”想い”としての「根幹」が、彼の「思想と美意識」としての「哲学」が、
持ち得た繊細で柔軟な彼の「感性」と共に、烈しくバランスよく戦っていることだ。

 彼が早々に見出した、”創造者”としての物作りに対する「根幹」とは、
「モノは残らない、」という思想であり、主義であり、哲学であったからだ。
これは仏教的な発想でしかない。だから決して、外国人たちが持ち得ない”想い”であり、
”思想”であり、”哲学”である。この彼の「根幹」が後日の、『ドムス』の編集長だった
ジオ・ポンティとの関わりと外国での活動の原点にもなったであろう。

 彼が活躍した時代性も大いに影響しているであろうが、その後の多くのデザイナーたちは
”大衆消費社会”へ邁進すること、組み込まれることが”カッコいいデザイナー”であると、
「根幹」なき輩たちの群れへ急ぎすぎてしまったためにより、日本のデザイナーの多くが
この「根幹」が希薄になり欠如してしまった。
 故に、外国でも通用するデザイナーが少なかったのだ。
従って、余計に、”倉俣作品”のその「根幹」を”凄さ”として僕は強く感じる。
 
 例えば、「デザインはアートではない。」という彼の発言は、
では「デザインとは?」何なのか?を問いたくなる。
 「デザインは自由と感性によるコミュニケーションの手段である。」という「根幹」なのだ。
これは決して、他の多くの”デザイナーたちには発言できない彼自身の深いデザインに対する
”自信と愛”である。
 結果、彼の多くの作品からは”アート”以上に「愛あるメッセージ」を感じる。

 そのメッセージに「夢心地」がある。
彼が早すぎるその生涯に追求した、”こゝろの有り様”が「夢心地」であり、
日常空間における非日常としての「浮游感覚」によって彼の「夢心地」が作品化された。
ここで彼は、「アートとデザインの差異」を彼の”想いと根幹”によって熟知していたのだ。
 
 次に、倉俣曰く「商業デザインの魅力は、一回性、消滅性、実験性、つまり幕間劇」。
と言う、もう一つの彼の”こゝろの有り様”がある。
これは当然、「モノは残らない、」という倉俣の達観した仏教哲学の一端にもなる想いである。

 「モノは残らない」、「夢心地」、そして、「幕間劇」、
これらを繫げて行く先には、「映画」があり、倉俣さんは映画が好きな人であった。
そして、作品タイトルに多く使った。
 「映画」の世界はその”シナリオ”の練り込み方によって作品の善し悪しが決まる。
倉俣さんは映画が好きな分だけ、この「根幹」にも気がついていらっしゃった。
つまり、作品に造形を与える以前に、作品を”構想”しその”シナリオ”を練り上げる事と
”スケッチング”自体をも、大いに楽しんでいたであろう。
これは「映画」の世界も”現場”が楽しいことにも通じる。
 故に、彼は思い巡らせる”シナリオ”も、制作する”現場”における”プロセス”も、
重要な楽しみである事を熟知した創造者であった。
その結界として素材と技術に心を凝縮したものが、「倉俣作品」であった。

 達観した「モノは残らない」という彼の哲学が、”残らぬもの”であれば、残るまでの思いを込めて創るという姿勢を人一倍強く持った人だったのでしょう。
そして、彼にとっての「残るもの」とは、そのもモノが持つ”佇まい”であり、「想いと印象」
即ち、”イメージ”という「疑似理想」を思い巡らせた結果が彼の多くの作品に
「倉俣作品らしさ」として彼の”世界観”が強く感じられる所以でもあろう。
結果、”スケッチや写真”としてその多くを残した人でもあった。

 余談になるが、生前の倉俣さんと映画のお話を交わしたことがあった。
お互いに当時見た映画で気になるものに話が及んだ。
それが、A.タルコフスキーの「ノスタルジア」だった。
そして、倉俣さんは、あの映画のシーンの一つ、「激しい雨の中に佇む骨格だけが残った家(?)ともう一つ、やはり骨格だけの教会に、「空間」とは?を感じました。」と
ポツリとおっしゃったことが今でも深く印象に残っている。

 その後の僕は、倉俣さんが感じていらっしゃる「空間」を「疑似理想」として、
あの”雨の中に佇む家”が、倉俣さんにとっての「残るもの」だったのだろうと思ってしまう。

海外で高く評価を得られた時代が、;
 
例えば、81年の第1回ミラノサローネで華々しい登場を行った、メンディーニやソットサスたちが、“コモ木工家具組合“の依頼で創作された当時の新しいデザインムーブメントにまで
なった家具類「メンフィス 」。 
この特異なるイタリアン家具デザインのムーブメントにおける日本人参加デザイナーの一人で貴重な素晴らしい「倉俣作品群」が今回の展覧会では抜け落ちていましたね。
(この”メンフィス ムーブメント”には他に磯崎新と梅田正徳が日本人として参加していた。)
 
 そして、倉俣史朗は巴里でも、80年代には”巴里装飾美術館”で僕の友人の、D.グランバックとM.C.ボウテが企画した「’70年代デザイナー展」があった。
ここでは、A.プットマンや T.ミュグレー、C.モンタナ、イッセイミヤケたち70年代にパリで
活躍した日仏デザイナー展に招聘され参加した。その後、”ヤマギワ”によるZaha Hadid, RonAlad, Jean-F-Bodinたちと日本のデザイナーたち岡崎乾二郎、近藤康男、彦坂裕などを
集めた展覧会にも参加している。
 そして、90年にはフランス文化庁からの”芸術文化勲章”が授与されている。

 あれだけの若い世代の人たちが来場した展覧会だったので、本来は倉俣さんが海外で高く
評価を得られた時代のミラノ作品とその活躍、そこから生まれた関係性を展示すべきだと、
僕のようなものにはとても悔やまれた。

‘80年終わりのバブル期における「商業空間デザイン」の斬新さも欠如、;
 
また、‘80年終わりのバブル期におけるインテリアデザインの仕事、晩年になってしまった倉俣さんの素晴らしい作品群としての「福岡の商業施設の空間デザインと家具デザイン」等の連携作品が見れなかった事も残念なことの一つです。
 この時代における日本のインテリアデザインの世界は、「“商業施設空間”とは、どの様に空間デザインと家具によって関わるか」が一つの時代性を代表していた故、この日本的なる
バブリーな“消費社会“との関係性と特性をもっと、深堀すれば、今後のインテリアデザインの世界への新たな広がりを想像、示唆出来る”可能性”もあっただろう。
 また、これによって現代のインテリアデザイン界の”閉塞感”を打破出来る可能性もあろう
とも感じてしまった。

 そして、もう一つ、気になった事は、展覧会主催者側がなぜ、倉俣さんの”プロフィール”をボードとそして、パンフレットとして作成しなかったのだろうか⁉️と言う、これは主催者側が一番、倉俣史朗のために為すべき“リスペクト行為“が為されていなかったことは、
本当に誰のために催した「倉俣史朗展」なのか?とまたも、最後にとても残念で悔しい思いをした。
 しかし、結果的には今回の展覧会の展示物は「AXIS」との関係性による、「石橋財団・
コレクション」で全てが構成されたことに、ある種の”日本的なる凄さ”も知った。

 僕のように、屈折した発想をする者は、この企画展によって「石橋財団」と
”倉俣コレクション”に大いなる「来歴」が生まれたと読む。
それによって今後、この財団の「倉俣史朗コレクション」そのものに大いなる引力が働き、
”美術的価値”が世界的に高騰するまでの”美術界”の強かさをも読み込んでしまうのだが???
(実際、先日のアートフェアー”GRAND TOKYO"では倉俣作品を扱うギャラリーが登場した。
既に、倉俣さんの作品は海外コレクターが多く、この展覧会によって今後「倉俣作品」は
より、海外のコレクターたちを大いに挑発し、世界レベルの”アート作品”と化するという読みだ。)
 
 倉俣が達観した「モノは残らない、」という「根幹」そのものが、
”アート”に通じる事を既に、生前の倉俣さんは熟知されていたと読むべきであろう。

僕の分野のファッションでお話しすれば、;
 ‘60年代後半に、桑沢デザイン研究所を卒業直後に、倉俣さんは高田賢三さんと
銀座「三愛デザイン室」で机を並べられていた7年間の経験から
その後の、「倉俣さん、賢三さんそして、イッセイ」という戦後日本のデザイン界の重鎮たちの今でいえば“コラボレーション”と、その広がりもまさに「日本の戦後のファッション」の輝く歴史でした。
 
 パリから賢三さんが自身のメンズブランド“KENZO HOMME”を初めて東京で展開する事が決まった‘80年代後期、賢三さんは以前の「三愛デザイン室」時代の関係性から倉俣さんに
“KENZO HOMME”の空間デザインを全て委ねようと依頼なさったことがあったのですが、
倉俣さんはそれまでの“イッセイ“との関係と、イッセイのエゴセントリックな性格を
熟知なさっていた故に「無論、イッセイさんからO.K.が出ないでしょうから、」と
お断りなった経緯も思い出してしまいました。
 そんな誠実な義理堅い一面が倉俣史朗さんご自身でした。

 もう一つ思い出すのは、80年代に世界を風靡した、サンフランシスコ発の”ファスト・
ファッション”の先駆ブランド、「ESPRIT」の香港1号店を倉俣さんが手掛けられた作品です。
 ”COVID-19”後に一躍、世界中で人気ブランドになった”The North Face"やそれ以前から
手掛けている”Patagonia"のオーナー, "ダグ・トンプキンス夫妻”と倉俣さんの親しい関係性で彼らが立ち上げたこの”香港エスプリ”1号店の店舗デザインを
倉俣さんは”ネット”を全面素材に使った、当時では見事なコンセプトと共に、
40年も早い素晴らしい”前衛”作品を思い出しました。

 ここでは、”ダグ・トンプキンス夫妻”に”八木保氏”を紹介されたのが倉俣さんでした。
その後、八木氏もサンフランシスコへ移住、「ESPRIT」のアートディレクターを経てご自分のデザイン事務所を設立し、”アップルストア”のコンセプトとコンサルティングを手掛けられ、今はL.A.で活躍されている。
 
僕と倉俣さんの思い出では、;
 ミラノのソットサスのアトリエで働いていた若いデザイナーの一人、“ミケーレ バロー“君が東京の倉俣さんのところで学びたいと希望し、あの六本木のアトリエで受け入れられたのも
倉俣さんでした。
そして、3年ほど倉俣事務所で働いた後に、当時僕がフリーランス スタッフとして働いていた事務機メーカーの“PLUS”が運営していた「オフィス環境研究所」へ、
「平川くん、ミケーレが少し、僕のところが飽きたようだから君のところへ紹介してもらえないだろうか?」と相談を受け、
ミケーレ バロー君は“PLUS オフィス環境研究所“で3年ほど働く機会と経験をした。
 これも、倉俣さんの誠実で義理堅い一面としての僕の思い出です。 

 その関係から、倉俣さんがお亡くなりになる直前まで僕はまた新たな相談を受けて
実は、「倉俣史朗デザイン研究所構想」をご自身とご一緒に考えていました。
倉俣さんの家具作品の大半は隣にあった、施工会社“石丸”さんがほぼマンツーマンで
”倉俣作品とプロトタイプ”を製作してこられていました。
 あの展覧会に出展されていた作品の多くは“リミテッドエディション”あるいは、
”プロトタイプ”なのです。
ということは、ご自身がデザイン制作なさった作品で儲けると言うまでのビジネス先行の
発想をなさってこられなかったのも、“倉俣史朗”そのものだったのです。

 そこで倉俣さんのデザインにもっと”社会性”を考慮して当然、倉俣さんご自身に収入の機会があるような、そのための、“もう一つの入り口”を構築しましょうという案でした。
 それが「倉俣史朗デザイン研究所」の”発想根幹”だったのですが、、、、、。

 この彼のお考えの発端は愛娘の晴ちゃんの将来のためであることは最初に丁寧に、
倉俣さんらしくご自身からお話くださったのが深く印象に残っています。
 そして、その意思を継いで現在では倉俣さんの貴重なアーカイブを管理なさっていらっしゃるのが奥様の倉俣美恵子さん。
変わらぬ倉俣さんの愛とご意思を受け継ぎ、手掛けていらっしゃるので一安心です。
 参考出典/ ”NPO法人建築思考プラットフォーム”から。
https://npo-plat.org/kuramata-shiro.html

おわりに;
 久しぶりで、今回の「倉俣作品」をまとめてみる機会だったこの展覧会は、改めて、
「”倉俣史朗の世界”には普通でない何か?」があると感じる「倉俣作品」との再会であった。
 多くの人たちが「倉俣作品」について既に、色々語っていらっしゃるので僕の視点は
「根幹」を主体とした眼差しで「倉俣作品」に触れた僕の私的な”経験値”を書かせていただきました。
 
 やはり、モノを創造する”初源”には、
それぞれの人間としての”想い”と”考え”が先ず必要です。
これを僕は「根幹」の一つとして認識しています。
このモノが持つ「根幹」に僕が触れられると激しい感情とともに、新たな好奇心に溢れます。
この溢れた好奇心が僕に、次なる新たなエネルギーを与えてくれます。
これこそが、僕にとっての「凄さ」であり、「歓」なのです。
改めて見せていただいた「倉俣作品」から多くの凄い”気”と共に、
”好奇心”も未だ、豊かに感じることが出来た展覧会でした。

 僕は戦後の日本人が一番欠如してしまっているものとしての一つを、
僕がモードを通じて関わった37年ほどの白人社会との日常性から思い知らされたこと、
それが「根幹」を知ると言うことです。

  「倉俣作品」が多くの外国人にも理解された理由の一つも、
彼のデザインには「根幹」がしかも、日本人らしい”哲学”として存在していた事でしょう。

 人や物には必ず、それぞれに”生まれと育ちと風土”による「根幹」が存在しています。
その「根幹」を知り、自分なりに理解することがまず、その人や物と関わるための”責任”の
一つであり、「覚悟」でしょう。
これを知ることが”リサーチ”ですね。

 この”リサーチ”からの「根幹」に自分が持ち得た「感性」を委ねる。
次に、その「根幹」に肉付けしていくことが「学ぶ」ということだと、
即ち、「事の次第」とその「生業」の関係性でしょう。
これを白人社会と彼らたちとの関わりの中での経験により僕は学び、認識しました。 

 このプロセスが、日本人の”戦後の教育”には欠如していました。
考えられるこの要因は、「戦後の荒廃と貧しさと焦り」が原因だったのでしょう。
取り敢えず、”見様見真似”でいいから「モノの姿」を作ってしまうための”教育指導”へ
走ってしまったのです。多くの人たちが、戦後の荒廃社会から抜け出す、”うさぎ”になり、
そして、その後は「もうただ、大衆消費社会へ!」でしたね。
従って、”表層の模倣”或いは”イメージ”へ流れ込むための教育とデザインの現場が
戦後のデザイン教育だったのでしょう。
 だから「根幹」を知らなくても、デザインができるプロセスそのものが進化してしまった
のが日本のこれも、また”凄さ”でもあるでしょう。
 これは一般教養についても言えることです。
その多くが、末梢的な知識のみが肥大し、現代では、"SNS"で拡散される
より、ヴァーチェアルな日本社会という現実と
そこから誕生した”アニメ”や”ゲーム”による”アキバ・カルチャー”の進化への発展性。
 
 倉俣史朗が持ち得た「創作者」としての”眼差し”にはこの「根幹」が深く繊細に
そして、愛とともに存在しています。
 故に、「”倉俣史朗の世界”には普通でない何か?」の漂いを感じるのです。
決して、他者には真似ができない”凄さ”が、
アヴァンギャルド性とユーモアとペイソスを普遍性として残し、
彼が持ち得た「根幹」が「倉俣作品」を生み出し、
単なる”表層の形状”を超えた明確な意志と覚悟そして、性格と個性が
それぞれに存在しています。
 その早すぎた最期には、ご自身が「命の儚さ」も残された。 

 「ありがとうございました、くらまたしろうさん。」合掌。

文責/ 平川武治。
初稿/ 2024年1月。


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