見出し画像

婚前の性交渉は…(※善きサマリア人 3)

婚前の性交渉を、なべて罪とみなし、目の敵にする「レビ人」たちがいる。「レビ人」でなくとも、教会に通い、聖書を読み、賛美歌を歌い、奉仕活動にいそしむ人間たちがいる。

みんながみんなそうだというわけではないが、婚前の性交渉を目の敵にする人間たちは、おおよそ、「憐れみと慈しみ」という神の本質が分かっていない者たちである。

これを文学的に言い換えると、「ソーニャ」に出会ったことがない。一般的な言葉で言うと、「現今の社会情勢に対する理解が足りない」。子どもでも分かる言葉で言うならば、「他人の気持ちを想像できない」。そしてもう一度、聖書的な言葉でいうならば、婚前の性交渉を目の敵にする人間たちとは、たいてい、「憐れみと慈しみ」がその心に欠けているがために、倒れている旅人を見捨てて通り過ぎていくような――単なる偽善的な「祭司」か、薄情な「レビ人」たちがほとんどである。

小泉・竹中政権という、日本政治史上でも最悪な5年間が続いていた頃のことだった。
当時、毎週かかすことなく教会に通い、毎日のように目を皿にして聖書を貪り読んでいた青年は、ある日を境に、パッタリと、教会の門をくぐることをやめてしまった。

小泉・竹中政権が強引に推し進めていた「構造改革」によって、日本の社会にひずみが生じ、貧富の格差が拡大し、社会不安と同時に、「勝ち組と負け組」という流行語が巷を闊歩していたのは、まだ記憶に新しい。
そうやって、本来であれば、日本人の懐に入ってしかるべきだったお金は、太平洋の向こう側の、かつての「戦勝国」の肥え太ったブタどもの食卓の上の肉となり変わり、いよいよ調子に乗ったブタどもは、リーマンショックなる世界恐慌まで引き起こしたあげくのはてに…まあ、そんな議論はどうでもいい。

そんな、小泉・竹中という悪しき政治家たちによって、社会に悪しき変革がもたらされていたある日のことだった。
何気なく目にしたテレビの中で、「援助交際」を摘発されて、補導されていく女子学生の姿が流れていた。「援助交際」という犯罪を犯した女子学生と、その性を金で買おうとした男とが、正義感にあふれた警察官の「お説教」を拝聴していた時である、――うなだれていた女子学生が、突然、激しく泣き出して、曰く、「少し前に職を失って、自暴自棄になって、家族に暴力を振るうようになった父親から逃げていた。もうどうすればいいのか、分からなかった」と。

嘘かまことか知らないが、嘘だとも思えなかったその話を、見たまま聞いたまま、教会の「レビ人」たちへお話し申しあげたところ、マジメでゼンリョウなるご老人たちをはじめ、もっとも高く尊敬されるべき場所に座しておられた牧師サマにいたってなお、「それでも、婚前交渉は良くない行為である」と。…そして、それ以上のお言葉は、一言も無かった。

もし、「良くない行為である」というお言葉に、何らかの続きがあったならば、当時、二十歳そこそこの無垢で、無知で、無学な青年にあってなお、教会へ通い続ける選択もあったかもしれない。しかし、その日を境に、全世界での信者数も1000万人を超える、プロテスタント系の、世界的な大組織の末端の門を(そして、その他のいななる門をも)、もう一度くぐってみようなどという気は、一度たりとも起こったことがない。

約2年前、愚かしくも嘆かわしい、「民主主義のナレノハテ」を見せつけられて、「豆腐メンタル」な西欧文化の当然の帰結だという気持ちしか沸いて来なかったが、それでも、良い年をした大人たちが、数ヵ月にも渡って、お遊戯会にも激しく見劣る、自作自演の茶番劇を繰り広げたあげくのはてに、やっと選ばれた一国のリーダーたちによって、どうか他国の名もなき市民たちにまで、またふたたび迷惑が及ばないように…と祈ったものである。
かといって、そんな「ナレノハテ」よりも、20世紀の歴史が「失敗」という烙印を押したはずの「ルサンチマンの亡霊」による、数々のハンザイ行為を是とするわけにもいかず…ああ、こんな議論もどうでもいい。

「ナレノハテ」の国のリーダーであれ、「マジメでゼンリョウ」な教会のリーダーであれ、「末端」の人間の心など、想像してみたことなどないのだろう。想像しても、ぜんぜん分かんないんだろう。そのはずである。だって、「憐れみと慈しみ」に欠けているんだから。

婚前の性交渉を目の敵にする「レビ人」たちもタイガイであるが、国のリーダーを選ぶにあたって、その候補者を見分ける「しるし」が「妊娠中絶に反対か否か」だというのも、ショーキの沙汰なんだろうか。はてしなく愚かな「原理主義」だと切って捨ててしまえばそれまでなんだが、そういう選び方でもって選ばれた人間から垂れ流されたものが、他国の末端の市民たちにまで及ぶ時代が今の時代なのだから、せめてせめて、もう少しだけでいいから、当たり前の想像力を持っていただけないものかしら。

ただ、そうやって何千年も、「ソーニャ」は苦しめられ、「倒れた旅人」は助け起こされることなく、性懲りもなく、繰り返され、続いて来た歴史をかんがみると、やっぱり、祈るしかないのだろう。

神の「憐れみと慈しみ」の結晶たるイエスが訪ね歩いたのは、「末端」であって、婚前交渉を目の敵にするようなマジメな祭司やレビ人たちの所でもなく、いわんや、妊娠中絶をしるしにするナレノハテの政治家たちの所でもなかった。それを信じるしかないのだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?