見出し画像

「四十代メタボのおっさんです」とか自称するな

私は四十代で独身の男だが、周囲には自分のことをおっさんだと言う四十代は少ないが、メディアなどで自分を「四十代メタボのおっさんです」と自称する男がいる。あれは自己卑下して自らを精神的に老化させるし、自分の人格を卑しめることになる。
「おっさんです」と自己卑下する男はもう恋愛はできないと諦めているのだろうか?結婚して子供もいるからと男としての人生は終わっていると思っているのか?女の場合もそうだ。結婚して子供のいる女はお母さんであるため、人の子から見たらおばさんかもしれない。しかし、夫から見たらいつまでも恋人であって欲しいのではないだろうか(私は結婚してないからわからないが)?男も当然結婚していようがしてなかろうが男であることを捨ててはならない。私は腹が出ていてメタボ予備軍などと、健康診断で言われるが、あの健康診断なるものは私を侮辱するためにあるのか?たしかに私は夜に間食する習慣があってそれを改めたいとは思っている。自覚はあるのだ。それなのに職場で行けと言われているから健康診断を受けるのだが、あれは毎年嫌な思いがする。自分の健康のあら探しをしているみたいで嫌なのだ。どうせ人間は寿命が来れば死ぬのだ。死を先延ばしするために健康のあら探しをして、どこかにガンが見つかった、手術だ、入院だ、投薬だ、などと言う人生を強要される、それは医者の思い描く人生ではないだろうか?
メタボと言うだけで、まるで魅力のないおっさんの仲間入りにされるのは侮辱以外の何物でもない。若くして死んだ英雄は、若くして死んでも英雄なのだ。凡人は長生きしても凡人に過ぎない。なぜ、医学関係の人は人を(というか国民を)長生きさせようとするのか?
私はかっこよく生きたい。
現在四十五歳だが、九十歳まで生きるとしたら折り返し地点だ。実感ではすでに人生後半に入っている。あとは死に様を探すことが生き様にもなる年齢だ。そこで外部からメタボですおっさんですと自らを定義づけられそれを受け入れていてはかっこよくないではないか。
四十も超えれば、若さとは自覚次第だ。私はまだ女と付合ったことがない。これはまだ中学生の時点から恋愛の意識が止まっている。人生はこれからなのに、おっさんであることを受け入れていては人生を諦めることになる。
何年か前にテレビを見ていたら、五十代と思われる女性アナウンサーが、「まだ嫁入り前の体なので」みたいなことを言っていた。私は驚いた。五十も過ぎて独身ならば子供はもうできず、結婚も諦めるのが当たり前、みたいに思っていた私は感動した。私は彼女は女性としても魅力があると思う。私もいつまでも魅力ある男でありたいと思う。メタボの腹は改善した方がいいとは思うが、それよりも健康主義のために自由を諦める、誰かによく見られるために自分の体を誰かの価値観に合わせる、そういうのは潔くない。私は自分の価値観を通した方が、かっこいいと思う。自分を「メタボのおじさんです」などと卑下することはかっこ悪いばかりか、人生を諦めていることにもなると思う。ゲーテは『ファウスト』で、若い頃は恋愛がテーマだが、歳を取ったら、自分の事業を完成させることが生きるべき道だと説いている。私は恋愛も自分の事業も同時並行で成就させたいと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?