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人格者とは傷つかなかった者ではなく、傷を克服した者である。

私は幸せな子供時代を過ごした。家族にも恵まれていた。私は父の生き方が嫌いだが、大人になって他人の父親と比べて見れば、まずまずの父親だったと思う。父は教師で校長まで出世した。しかし、それはただ汚点がないように生きていればそのようになる人生だったと思う。祖父は百姓から警察署長まで出世した人で、その息子の父は良い家庭に育った。私も教師になっていたら校長くらいにはなれただろう。しかし、それでは面白くないと思った私は芸術家を志した。中学くらいからマンガ家を目指し二十代から小説家を目指している。その途中、精神を病んだ。自ら引かれたレールを飛び出すと、そういう危険があるようだ。私はもともと健やかに育っていて、不満はなかった。ただひとつ不満があるとしたら、不幸がなかったことだ。傷のない者に傷のある人の気持ちはわからない、などと世間では言われていた。それを信じれば私は良い作品は書けないと思った。傷のある人に憧れた。不幸に憧れた。不幸な環境にないなら、自らそういう環境を作ればよい。だから芸術家として世界の歴史に名を残すことを人生の目標にした。そして統合失調症になった。なってみてわかったが、傷のない人には傷ついた人の気持ちはわからない、などと言う人は中途半端に傷ついていて、結構楽しみを知っている人だ。不幸を知るために不幸になるべきではない。統合失調症になってみて、不幸とは、統合失調症のことだと定義してみた。
傷をつかないよう、危険を避けて来た人は、幸福で善良な精神を持っているが、たいして深みはない。自分の経験から深い言葉を紡ぐことはできず、出来合いの言葉、昔の偉い人が言った既製品の名言なんかを自分の言葉みたいに言う。
それに対して、傷ついて苦しんだ人は自らの経験から深い言葉を紡ぐことができる。それにはある程度の考える力が必要だが、借り物でない自分の言葉を持っているように思われる。
教師が教えることのできる道徳は、伝統宗教や常識の範囲にしかない。何故なら彼ら彼女らは大学を卒業すると社会に出ず、また学校に戻るから、大学卒業後の荒波を教えることはできない。教師は誰もが教師なので教師の視点からしかものが言えないだろう。
いや、現在の教育界がどうなっているか知らないが、教師という職業に就いた人が一様に同じような価値観であるとしたら、面白くないだろう。
そして、一度も傷ついたことのない人がその幸せのオーラある真っ直ぐな生き方故に人格者とされていたとしたら、それは幻想であると思う。傷と戦う人がその歪み故にダメな人間とされているとしたら、この社会は傷つかないように生きた人中心の社会と言えるだろう。私が思うに傷を克服してこそ人は成長できると思う。

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