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死、罪、罰、責任(牧之原幼稚園バス三歳女児死亡事件について)

今日、またひとり、私の勤めている老人ホームから死亡退所された方が出た。
私は特別養護老人ホームに勤めている介護士だ。
特別養護老人ホームは、家で生活できなくなった高齢者が入所する施設である。退所する理由のほとんどは死亡である。
私はふと、静岡県牧之原市で起きた「幼稚園バス三歳女児死亡事件」を思い出した。これは真夏に通園バスの中に置き去りにされた女児が亡くなった事件である。もう周知のことなので説明は省く。
なぜ、私がこの事件を想起したかというと、私の介護がきっかけで、入所者が亡くなった場合、私は責任を取らねばならないか、と思ったからだ。もちろん虐待などをして殺してしまったら殺人罪になるが、介護とは常に死と隣り合わせで、例えば、食事介助というものがあり、自分で食事ができなくなった方にスプーンで食べ物を口へ運んで食べさせてあげるというものだが、その際、気をつけなければならないのは誤嚥である。誤嚥とは食べ物や飲み物が、食道に入らず気管に入ってしまうことで、そうなると誤嚥性肺炎という病気になり、ついには死に至るケースもある。もし、私が食事介助していたときに誤嚥して亡くなってしまったら、私は責任を取らねばならないだろうか?いや、これは取らなくてもいいことになっているはずだ。もし、食事介助で誤嚥し亡くなったら、仕事を辞めなければならない、あるいは刑務所に入らなければならない、となったら、怖くて介護などできないだろう。
で、幼稚園バスの事件だ。
幼稚園、保育園、こども園などは、老人ホームと違い、死が前提にない。健やかに育ち卒園して小学校に元気に進学する、非常に明るい存在理由の施設である。そこで、女児がバスに置き去りにされ熱中症で死んだというのは絶対にあってはならないことだ。あの事件の当事者のバスを運転していた園長は、普段バスを運転しない人だったらしい。だから、ミスが生じた。そのミスで、過失で、女児の命が奪われてしまった。もちろん、これはあってはならないことだ。しかし、私の関心はその事件後のことにある。あの事件後、園は記者会見を開き、再発防止策を徹底するとかそんなことを園長が言っていたと思う。そこで、「まだ続ける気なのか?」という声が記者の中から上がったと思う。つまり、廃園にして当然ではないかというわけだ。私はここになぜか非常に違和感を覚えた。
もし、私の勤めている老人ホームで入所者が亡くなった場合、閉所しなければならない、などとなったら老人ホームは成り立たない。特別養護老人ホームは死亡退所前提の施設である。しかし、入所者の死に誰が責任を持つのか?などと誰かが言い始めたら、どうなるだろう?幸い、私の施設では亡くなった利用者の家族から、「責任を取れ」という声は上がらない。しかし、そこにはあの幼稚園バスの女児と同じ、老いてはいるが、命という点では同じものが亡くなっているのだ。老人ホームで入所者が亡くなっても誰も責任は取らない。罪には問われない。死に対して誰かが責任を取らなければならないとしたら、老人ホームでは誰がどう責任を取るのか?あの幼稚園は廃園をすることで責任を取るべきだっただろうか?
いや、しかし、私の関心はそこにはない。私の本当に問題としたいことは、その「廃園にすべきだ」という声を誰が上げたか、ということだ。もちろん、亡くなった女児の親が言うならば感情的にわかるが、私はあの記者会見の場で、「廃園にしないのか?」と言ったのは当事者ではなく、記者か何かの人だったような気がする。つまり第三者だ。「責任を取れ」と言う声を上げる人は、その声を上げるだけの責任を取る覚悟があるだろうか?私が問題にしたいのはそういうことだ。
世の中には、凶悪な殺人事件を犯してしまう人がいる。そんな事件のあったとき、世間はその犯人に注目し、「死刑になって当然だ」などという声が上がったりする。しかし、その声を上げる人は何者なのか?その言葉にどれだけの責任を持って言っているのだろうか?私が思うに、そういう声を簡単に上げる人は第三者で無責任な立場にある人である。
私たちは死刑のある国で、どれだけその死刑に責任を持っているのだろう?どこか遠くの壁の中で行われているあれについてどれだけ責任を持っているだろう?
私は車を運転するが、いつ、誰かをひき殺すか、予想もできない。もしかしたら、そのとき、怖くなって逃げ出してしまうかもしれない。あるいは、誰も見ていないからと、遺体をどこかの山中に隠すことをしてしまうかもしれない。それは気が動転したときのことだから、まったく予想ができない。そんな、自分がいつ加害者になるかもわからないこの社会で、「死刑にしろ」とか「廃園にすべきだ」と言う責任感は私にはない。
罪を問われる人々を責める世間の人はいったいその言葉にどれだけの責任を持っているのだろう。自分は殺さないからいい、とでも言うのだろうか?それは責任か?
そういえば、新約聖書にこういうのがあった。
罪人がいて、人々がその罪人に向かって石を投げて殺すという刑だった。それをキリストは止めた。すると、人々は言った。「その犯人は重い罪を犯した。だから、殺されて当然だ」すると、キリストは考えてから言った。「では、自分には全く罪がないと思う者から石を投げなさい」人々は石を投げることができなかった。
これは私の記憶の中から引っ張り出した聖書の内容で、実際はどうだったか、正確にはわからないが、だいたい、こんなことが書かれてあった。
これはクリスチャンでない私の胸にも響くエピソードだった。
あの幼稚園を「廃園にすべきだ」と言った第三者はこのエピソードで石を投げている人と同じだと思う。
私はあの幼稚園が廃園になるのは忍びない気がした。もちろん、あの亡くなった女児の命を軽く見るのではない。私は殺人事件などが起きても、どうすればそのような悲劇が二度と起きないかを真剣に考える社会が正常な社会だと思う。犯人を処罰しても亡くなった命は戻ってこない。もし、過失や故意に殺人が起きても、二度とそれが起きないようにすればいいと思う。刑罰はなくてもいいかもしれない。
しかし。
しかしだ。
これはドストエフスキーの小説『カラマーゾフの兄弟』のテーマだったと思うが、キリスト教の教えにあるように全ては許されるとしたら、殺人で犯人は許されることはいいとして、殺された被害者はどうなるのか?犯人が許されようが処罰されようが、死んだ被害者は戻ってこないのである。責任をどう追及しようとも、罰をどんなに重くしようとも、死んだ被害者は帰ってこないのである。

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