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桜色とももいろぞうさん

さくら色

嵐のような天気の翌日、快晴ではあるけれど少しひんやりとした空気をまとっている日。
犬の散歩をしていると桜の木が薄ピンク色の花に彩られていた。
彩られているというより"包まれていた"に近いかもしれない。

桜の花びらってなぜか気持ちが和らぐ。
その感覚が他の花と違うものだったので、なんでだろうなぁと不思議に感じていた。
ふと、あることを思い出した。
シュタイナー系の幼稚園では先生のエプロンや窓をおおっている布も淡いピンク色、さくら色だったなぁと。

母(生み出すもの)という存在?包まれる色。

色って不思議で自分でも気付かないうちに影響を受けている。
なんとなく気持ちが塞ぎ気味の日は淡いピンクの布に絡まれて過ごすと良さそうだなと思った。
反対に気が立ってしまう日や気がせわしなく動く日は、深い青色の布に包まれて過ごすと落ち着いてきそう。


気になってシュタイナーと色彩について少し調べてみることにした。

(シュタイナー関連は読んでいて引っかかりを感じやすいワードが散りばめてありますが、今の私たちのいだくイメージとは距離があるのだと思いますし、もしざわっとする言葉が出てきたときには唇からフッと小さく息をはいて吹き飛ばしたり、目線を一瞬横へ外したりして、わからないことをわからないまま読み進めるとおもしろさが出てくるかもしれません。)


理解しがたいことかもしれませんが、一度、色彩の真の意味を把握しようとしてみてください。たとえば赤というのは、なにか攻撃的な色です。赤の前を走り去ろうとすると、赤は人を突き返します。青紫にむかって走ると、青紫はわたしたちから逃げ去り、ますます遠くなっていきます。色彩のなかになにかが生きているのです。色彩は一個の世界です。心を込めて色彩を体験すると、 感動せずにはいられません。そのように魂は、色彩世界のなかで自己を感じるのです。

色彩の世界は現実の世界ではありません。色彩の世界は自然そのものの中でさえも像なのです。死の像は黒です。生の像は緑です。 魂の像は桃色です。そして霊の像は白です。



「色彩の秘密」に収められた「霊的諸存在と虹」の章では、シュタイナーはニュートンの色彩論が信仰箇条となっていったことなどについて次のように語っています。シュタイナーの神秘学的な言葉使いに戸惑われる向きもあるだろうが、シュタイナーのいうような「人々は、一方では物理学者のいうことを聞き、他方では絵画を見ます。しかし、その両者を統合しようとは思いません。画家は。この両者を統合しなければなりません。」という言葉にみられるように、ゲーテ的な色彩論を採用しそこに見られる自然への理解のために、ニュートン的な意味でのあまりにわかりやすい科学的信仰から目を覚ます必要があるのではないだろうか。たとえば、そうした「科学的信仰」では、空がなぜ青いのか、朝焼けや夕焼けの意味についても、おそろしく複雑かつ陳腐な説明しか可能でなくなる。結局、その波長の光がある、としかいえないのである。これでは、自然の神秘はまるで解明できないのは当然なのである。

ニュートンの色彩論からは、霊的世界についてなにも知ることができません。 ゲーテのように霊的世界から刺激を受けた人はニュートンの色彩論に対して、真正な色彩論を打ち立てて、ニュートンに恥辱を与えました。ニュートンに対してほど、ゲーテがぼろくそに語ったことは、ほかにありません。ゲーテは、ニュートンの愚にもつかない色彩論を手ひどく罵っています。今日では、ゲーテのこのような悪態は理解できないものになっています。ニュートンの色彩論を承認しない者は愚か者だと物理学者がいうからです。けれども、ゲーテの時代にあっては、ただゲーテひとりがこのような反論をしたのではありません。外部にむかって発言したのはゲーテひとりでしたが、十八世紀にいたるまで、識者はいかに色彩は霊的なものから流れ出るかをはっきりと知っていました。空気は光の影です。光が生じると、ある条件下に影が生じます。色彩が存在 し、その色彩が空気要素のなかで作用し、空気中にきらめくように飛び散ると 空気要素のなかにある別の要素が生じます。ある条件の下で、圧力によって逆流が生じるように、色彩から液体状、水状の要素が生じるのです。光の影が空気であるように、水は色彩の反映なのです。
理解しがたいことかもしれませんが、一度、色彩の真の意味を把握しようとしてみてください。たとえば赤というのは、なにか攻撃的な色です。赤の前を走り去ろうとすると、赤は人を突き返します。青紫にむかって走ると、青紫はわたしたちから逃げ去り、ますます遠くなっていきます。色彩のなかになにかが生きているのです。色彩は一個の世界です。心を込めて色彩を体験すると、 感動せずにはいられません。そのように魂は、色彩世界のなかで自己を感じるのです。

 まず、何よりも大切なのは色彩を抽象化するのではなく、それを実際に体験することではないだろうか。抽象化されて語られた色彩には「いのち」の輝きはないから。末永蒼生さんの「色彩教室」があるが、まずはそうした体験的な色彩体験からはじめなければならないと思う。

 色彩には歴史があり、さまざまな文明がさまざまな色彩で彩られていたが、そうした色について考察するときにも、物理学的な説明でその色を説明したところで、何もわかったことにならないのに気づかねばならない。

 「シュタイナーの色彩論」の第1回目として、最後に、上記に紹介した意外で、今後引合にだすであろう主な文献を紹介しておくことにする。機会があれば、参照されたい。


●ゲーテ「色彩論」(木村直司訳「ゲーテ全集14/潮出版社」所収)

●ゲーテ「色彩論/色彩学の歴史」(菊池永一訳/岩波文庫/赤407-4)

●城一夫「色彩の宇宙誌/色彩の文化史」(明現社)

●is 総特集「色」(ポーラ研究所)

●北沢方邦「数の不思議・色の謎/日本文化の記号を読み解く」(廣済堂)

 

シュタイナーの色彩論(2)

 シュタイナーの色彩論の第2回目として「色彩の本質」の中の「色彩体験と四つの像の色」「色彩の像と輝き」、「色彩の秘密」(イザラ書房)の中の「像の色と輝きの色」から、振動としての抽象的な色彩ではなく、体験としての色彩について。

 シュタイナーは、「緑」「桃色」「白または光」「黒」を像の色、または影の色、それに対して、「青」「黄」「赤」を輝きの色、影のような像から輝き出る色、としている。

まず、「像の色」について。

 たとえば植物の「緑」の色。シュタイナーは、その色が「生命の死せる像」を表しているという。それは肖像画に描かれた先祖が先祖そのものでは決してないようなもの。今見ている緑の中には、植物の像だけがあって、植物の本質を見ているわけではない。植物の本質とは、生命であり、その緑の色はその像である。

 このように、色彩の世界は現実の世界ではなく、像であり、それが生命の像、魂の像、霊の像、死の像となる。

さまざまな自然界、死の世界と生命の世界と魂の世界と霊の世界とをとりあげるとき、ちょうど私が死から生へ、生から魂へ、魂から霊へと昇るように、黒から緑へ、桃色へ、白へと昇っていきます。私が死から生を通って、魂と霊の世界へ昇っていけるように、私が私を取りまく周囲の世界の中で、黒から緑へ、 桃色へ、白へと昇るとき、私は私を取りまく周囲の世界を像として見いだすのです。……私はいろいろな現実世界の中でその現実世界を辿っていけます。そして自然は私にこれらの現実世界の像をも与えてくれます。自然はこれらの現実世界を像に変えます。色彩の世界は現実の世界ではありません。色彩の世界は自然そのものの中でさえも像なのです。死の像は黒です。生の像は緑です。 魂の像は桃色です。そして霊の像は白です。
  (「色彩の本質」(イザラ書房)より


悪の根源(1)  破壊のかまど

"破壊のかまど" おもしろい ♪


ももいろぞうさん


貨幣経済

"大予言"ということば自体がおもしろいなと思った。
預言ではなく予言。

誰かに預けたことばが一人歩きしていく。


授かったことば
授かった子
授かった命

預かり授かったものが歩き出し変化していく。
成長って自ら壊しながら進むことなのかもしれないな。
衰退とはくずれゆく様を愛おしみながら見守ること。

一年に一度くらいの頻度で“死"が自分のすぐそばに感じるときがある。
そういうときは寒くは感じないが、内側の核を中心に冷えている感じがする。
冷たく、息をひそめるような静けさが内にある。
これは感情の動きとは一致していなくて、身体が感じている状態であって、死にたいや死にそうでもなく死がすぐそばに居るなぁといった感じ。

まわりの人間や動物などの生き物を見ていても、新月は死というものが普段よりも近くなるときなのかもしれないなと思った。

休息をとり、ひっそりと過ごすのにいい日なのかもしれない。

普段、生き物の誕生と終わりを目にする機会が多いのだが、死は冷たさと縁があり、生は温かさと縁がある。

死は内なる暴力性が陰をひそめ静寂とつながり
生は躍動、暴力性を宿した日でもある

触れたときの体温の低さ、吐く息の冷たさ、うめき声
触れたときの熱気ある体温、はずむような吐く息、泣き声

そして食欲、食べたいという気持ちの強さが生命力なんだなぁと見ていて思う。

しかし、振り切ってしまうと反対に作用し生命力が失われて行く。

バランスをとることのむずかしさ。



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