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積極的に自らの老いの中に飛び込んでいく ~2021年のふりかえりとこれから

「若さ」と「老い」

「若く見えるね」
そんなふうに言われることがあると、年齢などに興味の薄いわたしでも「若さ」について考えるようになった。

「若さ」とは、内面からにじみ出てくるもの?
それともただの見た目の印象なのか。
他者との比較からくるものなのか。
はたまた複合的なものなのか。

昔からなんとなく内面の若さは維持したいと思っていたけれど、それは「若さ」への執着でもあるし、「老い」への抵抗であったのかもしれない。

自分自身、年齢を重ねていくことには抵抗はないし、そのぶん寿命が減ったのだと思うとむしろ喜ばしいことだったりするのだけれど、「老い」という現象からは距離を置きたいと考えていたように思う。


太極拳クラブや親戚、地域の人たちなど、わたしは高齢者の方々と会ったり話したりする機会がわりとある。

その中でもハツラツとしている人とそうでない人との違いに興味があって、そんなこともあり普段からゆるく観察している。

高齢者の方々はどのように「老い」と向き合っているのだろうか。
特徴的なタイプをあげてみることにした。

《特徴的な3タイプ》
①ハツラツとしている
自発的でコロナ禍で世の中が影を落としがちのときでも前向きで「あきらめることはあきらめて自分たちでできることをやっていきましょう」といった雰囲気が出ている。話すのが好きで元気な印象。

②受動的でありながら芯がある
感情の起伏が少ない。受け入れる姿勢でありながらも芯がある。相手の話に耳をかたむけるし、相手が受け取りやすいような話し方を選ぶ。

③さまざまなものを怖がる
年を重ねることや、病気になること、負担が増える(リスクを負う)ことなどに対して怖がっている。話の中には後悔や自分を卑下する言葉がよくでてくる。(過去の話から怒りがにじみでてくることもある)それらが行動を起こさない理由になっていることも。変化を起こすことや受けることが苦手な印象。


3タイプをあげてみて思ったのは、考え方の癖や受け取り方の選択がその人自身を形づくっているということ。
老いとの向き合い方はその積み重ねであり、集大成でもある気がした。

嘆いてもわめいてもどうせやってくるものなんだったら、積極的に「老い」を受け入れ飛び込んでいったらおもしろいのではないか、そんなことが頭に浮かんだりした。


「老人」とはなんぞや?

老いの憂い,捻じれる力線 北村 健太郎

現代日本では老いや老人を語る文脈は憂いを帯びがちに見受けられる4).アンチエージングの流行は老いや老人の持つ奥行きを捨象して平板な表象に還元する.老人介護では呆けや身体の衰えが周囲にもたらす困難が嘆かれる.しかし,裏返すと老人が生きている証拠でもある.呆けや身体の衰えに対する基本的視点を困難な問題と位置づけるか,生命の躍動と位置づけるかによって,まったく異なった世界が広がる.老いや老人をめぐる人々の困難を無視して,老いや老人を単純に美化するつもりはない.老いや老人を真正面に見ることもせず,何となく憂いを帯びたイメージの流布が老いや老人への恐怖を煽っているのではないか.ジョルジュ・ミノワは「老いという言葉を聞けば,たいていの人は身震いする」(Minois 1987=1996: 3)とまで言う.老いは人生であるにもかかわらず,現代社会では死と強力に結びつけられる.そもそも,若くても死は訪れるのであり,決して老人だけの問題はない.
老いを受け止めるのはなかなか難しい.個々によっても時代によっても問題の性質は変わるだろう.吉本隆明の知人の医師は,高齢化社会とは単に老人が増えたことを意味するのではないと述べる.「80歳になっても肉体的には20代,30代のように若々しい人と,20代,30代の人で,肉体的には内臓も含めて,70,80の老人みたいな人もいるという,バラつきが多くなった」のが特徴だと指摘する.吉本は「バラつきが多い」という知人の説に納得して,確かに早く逝ってしまう人もいるし,まだ平気で普通通りやっている人もいる.どちらかと言えば,社会的に活動している人が身体によく気をつけているのではと思い,元気な親戚の実業家に「なぜいつまでも元気なのか」と訊ねた.実業家は「健康に気をつけているような者は残る.それだけのことで別に不思議はない」と明言した.吉本は老いについて考えるときに「身体の状態を抜きには語れない」という根本的な事実に突き当たった(吉本 2001=2011: 12-15).
 老いによる痛む身体を抱えることがある.黒井は80代後半の老人の例を挙げる.老人が脚の痛みに耐えかねて医院を訪れた.医者が「老化のためなので治しようがない,老いたのだから仕方がない」と見放したことに対して,老人が苦笑しつつも強い不満の言葉を洩らした.黒井は,痛みは老いが進んでいく自然の一部として認めざるを得ないかもしれないとはいえ,苦しむ本人は痛みから脱け出したいのだから痛みそのものに自然も不自然もないだろうと述べる(黒井 2010: 100-101).
老いの様相は個性的であって,一人ひとりの老人の人生が凝縮された時間である.「何よりまず寿命がちがう.夫婦揃って長生きの人もいれば,片方が早く亡くなって,それからずっと独り暮らしの老人もいる.中年を過ぎ,初老になって,これから先まだ長い人生のことを考えて,離婚や別居をする人も少なくない.痴呆が急速に進む老人もいれば,いわゆるまだらぼけが何年間も続く人もいる.80歳でも若々しい人もいるし,65歳ですっかり年寄りじみた人もいる.身体的機能の低下も人それぞれ,みんなちがう」(吉岡2002: 123)のである.にもかかわらず,私たちは80歳も65歳もお年寄りとか老人と呼んでしまう.吉岡忍が指摘するように,同じ15歳違いでも30歳と15歳を同じには 扱わないのに,私たちは老人の世代の相違には鈍感すぎるかもしれない(吉岡2002: 123).
 黒井は,現代は「歳を取れなくなった時代」だと言う.「歳を取る,とは老齢に近づくことであり,壮年期を越えた下り坂の一年,一年を辿り続けること」である.人が歳を取らなくなったとは年相応のイメージの変化を指している.これまでの「60歳にはそれなりの風采があり,70歳には前には見られなかった風貌が備わり,80歳には更に風格」が加わるという年齢のイメージが曖昧となり,年齢の輪郭が崩れてきた.「還暦を迎えるのは当り前の話であり,古稀に達するのも少しも珍しくはなかった.今の60歳にはかつての60歳の重みはなく,現在の70歳は昔の70歳の威厳」は見られなくなった.良く言えば元気な老人が多くなり,悪く言えば昔の老熟した年寄りを見かけなくなった.黒井は「以前の年齢が備えていた老熟の風格といったものには,幾ら歳を重ねても我々はもう追いつけない.というより,そんなものはとうに失われてしまっている.ここ半世紀ほどの我々の生き方が,なし崩しに昔の老人像を蝕み,崩壊に導いていた」かもしれないとし,「年齢にまつわる古いイメージが失われ,より長くなった寿命に関る新しいイメージが生み出される前の端境期に我々は立たされている」と結論づける(黒井 2010: 86-89).
「年齢」による社会の編成は「活力ある高齢者像」に対応しているのであろうが,「活力ある高齢者」はいつになったら「引退」できるのだろうか.「年齢」を前面に押し出した社会は,前節で述べたように,逆説的に歳を取れない社会である.様々なアンチエージングの流行が分かりやすい例である.幸田がエッセイを書いた時期ならば,何も引っかかることなく「歳をとる」と言えただろう.もちろん,現在でも日常生活で「歳をとったなあ」と呟ける.しかし,「歳をとる」という意味合いを考えさせられることも事実である.
 黒井は「以前のようには歳を取れなくなっている」背景として「家族の在り方や相続の問題,女権の拡大や医療技術の発達など,様々の要因」の絡まりを指摘する(黒井 2010: 88-89).多くの人々が老いに戸惑っている.その戸惑いを紛らわすかのように「幾つになっても元気で若々しい老人の姿のもてはやされる傾向が見られるが,それだけで老いの確かなイメージが成立するとは思えない.体力の維持や健康は老年に必要なものではあるだろうが,それに支えられた生の内容がどのような形で暮しの中に現れるかが 問われぬ限り,年齢にふさわしい老いの姿を思い描くことはかなわない」(黒井 2010: 89)とアンチエージングの流行を冷ややかに評する.黒井は老人の一人として「人が歳を取れなくなってしまったことは我々の必然ではあるのだが,それを喜んだりそれに困惑するのではなく,その事態を一つの可能性として捉え,そこから新しい年齢イメージの構築へと歩み出せぬものか」(黒井 2010: 89)と新たな老いのイメージを模索しようとする.
168 気を紛らすこと./人間は,死と不幸と無知を癒すことができなかったので,幸福になるために,それらのことについて考えないことにした.(Pascal [1660] 1897=1973: 113)


わたしのこれまでとこれから

さいごに自身について考えてみたいと思う。

目標を「自分にとっての理想のお母さんをやる」にしていたときは、ずいぶん苦しい思いもした。
うまくいかなかったり、絶望したり…ときに喜び、感動し…泣いたり笑ったり。
今その目標は「わたしの存在が必要なくなること」がゴールになっていて、まあいい感じのところまできていると思っている。

いつからか忘れたけれど、個人的な目標というか在り方として、「自分が一緒にいたいような人になる」をなんとなく頭の片隅に置いている。

そうすることで、自分も居心地が良くなりそうだし、まわりの人もそれを心地よく思う人が残ると思うからでもある。

これからは「駄菓子屋のおばあちゃん」のイメージも自分に重ねがら過ごせていけたらなと思っている。
40代に突入したので、「老い」さえも楽しめるようになりたいし、「老人道」を極めていきたい。


そして越境者でありつづけたい。

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