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野口体操 感覚こそ力 ①(読書メモ)

体操とは、自分自身のからだの動きを手掛かりにして、人間とは何かを探求する営みである。 野口三千三

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 野口体操教室は、職業もさまざまながら年齢もまちまち、二十代の若者から明治生まれの年配者まで、その日が初めてという人から、何十年も通っているベテランまで、老若男女が集まって、先生ご自身による授業を受ける。

「どうしてクラスを分けないのですか」
初めての人から決まって受ける質問に、

「年齢や能力別にクラスを分けたほうが、効率的なやり方だということは分かっています。しかし、目先のことだけにとらわれず、考えてみてください。社会生活というのは、心身に障害を持つ人も、子供も大人も、あらゆる条件の人が一緒に生きているわけです。許容範囲の広い社会というのは、決して効率主義・合理主義だけでは成り立たない。またそれだけが、人間の生きる価値ではないはずです。そして、他人より早く・大きく・高く、というギネスブック・オリンピック的競争原理のなかで、自分を競わせることに絶対的な価値をおいてはいけない。ゆっくりでもいい、遅くてもいい。自分の意見や生き方や、文化や習慣が異なる人ともお互いを理解しながら、ここが大事な点ですが、ある距離を保ち、人間的つながりを深めていくことの中で、生きてゆきたいんです。いってみれば、わたしにとって、生きるということと体操ということはまったく同義語なんです」と先生は答えている。

「授業の前に」より


体操とは祈り — 装身具 —

「くるみ(胡桃)」を磨き、くるみに

◎くるみ信仰と羅漢信仰。
◎彫刻することによって魂を入れる在り方と、くるみ自体の本来の最も美しい姿を求めて丁寧に磨くことによる入魂と……。
◎くるみは生命や不滅の象徴。
◎磨きに油を使うな、といったが、くるみは油の王様だった。
◎困るのは部屋が滑ることだ、といったが、襖の敷居の滑りをよくするために使ったことを思い出した。

※人間が自然の中に生まれ、その自然から生きるために必要な『大自然の原理』を感じ取ってきた。それが『神』であり、『仏』である。その一つの姿が、『ちから・からだ』の『から』である。その『から』の具体的象徴が『装身具』。

装身具を身につけることは、自然に対する祈りなんです


なぜ、ちから・からだの『から』が、装身具なのか


 「僕は、自分の実感でくるみを磨くことを味わってみたかったんです。それが自分にとっての体操の意味につながるんです。体操はからだを磨くことでもあります。からだをゆるめ・ほぐす行為によって、祈りを捧げることだと思うんです。
 初めての顔がおちこちに見られますから、僕の体操に対する基本の考えを話しておきましょう。
 今、自分が持つ弱さ・下手さ・未熟さを、優しく認めて、あたたかく包み込む。自分が優しさという生きものになり切ったとき、すべては易しくできる。その時の感じは、安らかで、休まり、癒される、という実感が、この装身具の祈りと、体操の祈りによって、自信をもって言えるようになってきました。
では動きに入りましょう。まず、上体のぶら下げから。初めての人は、皆のやるのを見てください。やらないことをやる、ということも大事な行為です


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子どもが通った幼稚園にはくるみの木があって、おへやにはおままごと用にくるみがたくさん置いてあった。
長年たくさんの子たちが遊んできたくるみはとってもつややか。
まるでワックスでもかけたかのように。

家にもくるみで遊べるようにしようとあるときくるみを拾って帰った。
たわしでひたすらゴシゴシこすり、黒く付着している部分を落としていく。
洗って乾かし先端の尖った部分にヤスリをかけて怪我しないように整える。

ホヤホヤのくるみはツヤもなく乾いた色をしていて深みがない。

「無垢の床にワックスをかけなくても、人が歩っているだけでツヤが出でくるんだけどね」
建築士さんがいっていた言葉を思い出した。

人の手足から油分がうつりツヤが生まれる。
きれいなくるみは誰かが黙々と磨いた証。
つややかなくるみはたくさんの人が触れてきた証。

人とのつながりを感じる自分のなかのくるみ信仰。

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