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アクアパッツァが食べれない

社会人時代、変わった女性先輩の下で仕事をしていた。

変わった先輩の変わったエピソードを綴っていきたいが、それだけで傑作エッセイが書けてしまうのでここでは割愛する。

そんな変わった先輩の変わったエピソードの中で、私がどうしても昇華しきれない思い出が存在して、それを供養という形で此処に吐き出させて頂きたい。

私が社会人として死んだ魚の目で生きていたある日、昼休憩を取っていると変わった先輩(名称が変わった先輩だと長いのでこれからはA先輩と書く)から「あんたの家の今日の夕飯って何?」と尋ねられた。

なんだえらい唐突だなと思いながらも、私は素直に「親子丼です」と答えた。

補足として、その当時私は実家で暮らしており、夕飯は同居の祖母が担当していた。
うちの家は両親が共働きで、みんなの仕事が終わるのが毎日20時過ぎだった為、料理の好きな祖母が我々の胃袋の生殺与奪の権を握り続けていたのである。

さて、A先輩から放り投げられた「突撃隣の晩ごはん」のボールを「親子丼」と投げ返した私に、先輩は「親子丼だって〜」と手を叩いて笑った。

笑われた私は当然困惑した。
親子丼ってそんな笑われるワードだったっけ?もしかして先輩、母親と娘の両方に手を出すエロキーワードの「親子丼」と勘違いしているのか?
だったら困る。
私は母親と娘の両方に手を出す親子丼よりも、血の繋がらない義理の兄と弟が禁断の恋に落ちる他人丼の方が好みだ。

A先輩は暫く壊れた笑い袋くらい笑っていたが、困惑を顔に貼り付けた私を見て「あーおかしい」とクールダウンし、「夕飯が親子丼って変じゃない?」と言い放った。

再び大混乱である。
「うちの常識、よその非常識」とはいうが、夕飯に親子丼ってそんなにマイノリティだっただろうか。
それとも私がコールドスリープに入っている間に常識改変でもされたのか?親子丼の常識改変など、とんだエロ小説である。

「親子丼ってなんか変ですかね?」と恐る恐る先輩に尋ねると、A先輩は「丼ものを夕飯に出すことがありえない」と言った。
先輩曰く、「丼ものや麺類なんてものは昼食であり、夕飯なんかに出したら我が家では旦那が怒る」のだそうだ。

私はますます震えた。
夕飯に丼ものと麺類が禁止カードになるなんて、とんだ縛りの闇の遊戯王だ。
A先輩の旦那さんは闇マリクなのだろうか。

ほとんど半泣きの状態で「じゃあ先輩の今日の夕ご飯は何なんですか…?」と私が尋ねると、A先輩は勝ち誇ったように「アクアパッツァよ」と言い放った。

アクアパッツァ。
その言葉を聞いて私は本気で泣いた。

田舎生まれの田舎育ち。芋いやつは大体友達。

そう、アクアパッツァなんてお洒落な食べ物、私は知らなかったのである。

黙り込む私を置いて、A先輩は颯爽とタバコ休憩に出かけて行った。
その背中を呆然と眺めながら、私は夕飯闇デュエルに負けたことを痛感した。

そして大好きな祖母の親子丼を侮辱された悔しさから、アクアパッツァへ謎のコンプレックスを拗らせた。

それから時が過ぎ、私は社会人を辞めて漫画家になった。

担当さんと打ち合わせ中、ふとこのエピソードを思い出して「そういえば私、アクアパッツァって食べ物にコンプレックスがあって…」とエピソードを話し始めると、担当さんは爆笑した。

「マツダさん、アクアパッツァって名前がハイクオリティ料理っぽいだけで、そんなコンプレックスを抱くような料理じゃないですよ」と朗らかに言われ、私は仰天した。
「え、そうなの」と動揺を隠しきれない私に、担当さんはまた笑いながら「結構簡単な料理で見た目も華やかですから、友達とのちょっとしたホームパーティーの時によく作るんです」と言い放った。

「へえ〜そうなんだ」と何ともない風に私は答えたが、内心は心臓バクバクであった。
私の担当さんってホームパーティーするタイプの人間だったのか、と冷や汗が出た。

そもそも田舎民にとってホームパーティーなんてもの、聞いたことも見たこともないキーワードだ。
日本でホームパーティーなんて沢口靖子の主催するリッツパーティーしか許されないと思っていた。
いつから一般人がホームパーティーすることが許されたのだろう。
もしかすると私の担当さんは貴族か何かなのだろうか。

ホームパーティーのインパクトで脳が破壊され、それ以降の打ち合わせの内容はほとんど頭に入ってこなかった。
右から左へ受け流す、まさにムーディ勝山の如くであった。

一応担当さんには「アクアパッツァの呪いが解けました」と言って電話を切ったが、アクアパッツァの呪いが解けたどころか次はホームパーティーの呪いにかかってしまったのだ。

大事件である。

通話が切れたスマホを暫くボンヤリと眺めた後、私は改めてアクアパッツァのレシピを調べた。
アクアパッツァのレシピは、思ったよりも難しかった。

そしてアクアパッツァを作るよりも、友人を家に招いてホームパーティーを開催する方が何億倍も難しいのだろうなと思い、私はスマホの電源を落とした。

結局、私はいまだにアクアパッツァが食べられない。
そしてアクアパッツァへのコンプレックスが止まらないし、ロマンチックも止まらない。

いつか誰か、私の呪縛を解き放つべく一緒にアクアパッツァを食べてほしい。

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