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謎の訪問客の話

先日、仕事の休憩としてベッドの上に横たわり、スマホを弄るという世界で一番無駄な時間を過ごしていると、インターフォンが鳴った。
丁度某アニメのぬいぐるみの通販を頼んでおり、その発送通知のメールが届いたばかりだったので、「ぬいぐるみだ!」と私はガバリと起き上がった。

待ちに待っていたぬいぐるみなのである。私は両手をこすり合わせながらニヤニヤと薄汚い笑みを浮かべ、「待っていましたよ…」と格闘漫画で主人公を待ち受ける中ボスみたいなことを言いながらインターフォンのボタンを押した。

そこに映っていたのは、見知らぬ一人のおばさんだった。

私はついつい大声で「誰だよ!」と叫びだしたくなるのを堪え、おばさんの顔を凝視した。
私の脳みそはダチョウ並みである。脳みそが小さすぎて仲間の顔を認知できないダチョウのように、私も人の顔を覚えることが苦手なのだ。
もし私が鶴の恩返しの鶴や傘地蔵の地蔵だったら最悪である。恩人の顔があやふやすぎて物語が始まらない。

実はこのおばさんと過去に出会ったのではないかと疑った私は、必死で脳みそをフル回転させた。脳みそに全エネルギーを集中させている私に気が付いたのかいないのか、おばさんは元気の良いハキハキした声で、「わたくし子育て世代を応援する団体の者ですが!」と名乗った。
そのおばさんの声に私はホッと胸を撫で下ろした。絶対に知らない人だったので、これで安心して「誰だよ!」と叫べるのである。

しかし子育て世代を応援する団体のおばさんは、私が叫び出すよりも先に、「実はこのたび!」と再びハキハキした声で話し出した。
「実はこのたび、子育て世代を応援するためにセミナーを開催することになりまして!」

私の職業は漫画家であり、漫画家なんてものは普段スーパーで買ってきた豆苗くらいしか話し相手がいない生き物である。
例にも漏れず、朝から誰とも話していなかった私は(家族はいるが、仕事の関係で朝が早いのである)、自身に満ち溢れたおばさんの喋り方に圧倒され、「へえ…」と村の善良な小作人のような返事をすることしか出来なかった。

おばさんは小作人と化した私には気にも留めず、話し続ける。
「有名なピアニストの方を呼んで演奏会もございます!そして演奏会の最後にはピアニストの方の人生経験に基づいたお話し会もありまして!」

ピアニストの方の人生経験かあ…と私はぼんやり考えた。
幸か不幸か私の周囲には非常に人生経験の豊かな方が揃っている。
奥さんがいる男性と浮気して略奪した結果、結婚した途端にすぐ浮気されたという嫌な略奪スパイラルに陥った私の元アルバイト先の女性店長とどっちが人生経験豊富なのだろう。

おばさんは更に続けた。
「子育て世代のお母さんは孤立傾向にあります!それをわたくしたちは救いたいのです」
成程なあ、と私は素直に感心した。
子育て中の母親の孤立問題、確かにニュースでよく見る気がする。
そうだよなあ、核家族だもんなあ…と思いながら、私はハッと気が付いた。
私には子供がいないのである。

そう気が付いたら、次はおばさんが何だか気の毒に思えてしまった。
おばさんの目の前にいるのは孤立した母親ではなく、社会から孤立した孤独なオタクである。
完全に営業先が違うのである。

私は相変わらずハキハキと話し続けるおばさんに、小さな声で「あの」と言ってみた。
しかしおばさんは止まらない。「聞こえなかっただろうか?」と思い、声のボリュームを上げて再び「あの」と言った。

けれど私の「あの」と言う声は、おばさんの「何故母親は孤立するのか」という社会問題への投げかけの声にかき消され、儚く散っていった。

私は焦った。おばさんは完全に営業先を間違えている。
それを正そうとしているのに、おばさんの話は止まらない。
とうとうおばさんのトークテーマが嫁と姑の確執についてというフェーズに入っていき、私はほとんど泣きそうになりながら「あの」とか「えっと」を繰り返す下等生物に成り下がっていた。

そして嫁姑の戦いのくだりについて一通り話し終わったおばさんは、一息つきながら満足そうにインターフォン越しの私に向かって慈悲深い笑みを浮かべた。
その瞬間、私はボリュームを最大にして「あの!私!子ども!いないんです!」と大声で叫んだ。

おばさんは呆然とした顔で「え?」と呟き、その瞬間インターフォンの通話時間が終了して通信が切れた。
一つのコントの終わりのようなタイミングだった。

真っ暗になった画面を見つめながら、おばさんへの罪悪感と待ちに待っていたぬいぐるみが来なかったことへの失望、そしてインターフォンの通話終了のタイミングの美しさに、暫くその場から動けなかった。

30秒ほどインターフォンの前に立っていたが、おばさんが再びインターフォンを鳴らす気配はなかったので、私は静かに寝室へと戻り、ベッドへ転がった。
そしてスマートフォンを弄りながら、おそらく謎のピアニストよりも元アルバイト先の店長の人生の方が波乱万丈だなと思い、同時に全く参考にはならないことを確信しながら昼寝をすることにしたのである。





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