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2022/7/8の日本の民主主義に寄せて

 2022年7月8日。この日起きてしまったような、残忍で、悲しい事件は起こってはならない。政治的な問題に立ち入る前にそもそも、衆人環視の中、善良な一市民がこのように殺害されることは本当に嘆かわしい。 

 そして誤解を恐れず言えば、2022年7月8日は、日本の民主政治の基盤が確かに傷ついた日だと思う。それも、深く傷ついたと思う。あるいは、深く傷ついていたことが明るみにでたのだとも思う。

 この日、本当に悲しくも銃殺されてしまった安倍晋三元総理大臣はすごい政治家だった。ただ、このように言っているけれども、ここでしたいのはなにも、彼の政策評価や人物評ではない。なにより、僕個人の政治的立場からすれば、彼の政治信条とは大きく隔たりがある。それでいてなお、すごい政治家だったとあらためてここで確認せざるを得ない。あるいは、安倍元総理とは政治的立場が違う自分にとっては、そうした確認をしておくことがおそらく今、このタイミングにおいてはなによりも重要である。彼の政治家としての凄さと正統性を認めることを通して、自分はあくまで民主的な仕組みを信じるという意思を表明したい。

 なにが言いたいか。一つには、言論で戦うことが求められる民主主義体制においては、例えば選挙といった民主的に合意された政治的ゲームの中で、敗者の側がゲームに負けたことを認めることが必要だということだ。このような、選挙に負けた側がその負けを正統性のあるものとして受け入れる「敗者の合意」は、民主主義体制の根幹の一つになっている。もしも「敗者の合意」が成立しなければ、いわば武力を伴わない革命としての選挙はその前提から存在意義を失い、敗者の側が武力を用いて際限なく権力奪還を目指すことになってしまう。

 白昼に発生した事件の容疑者が、選挙における敗者だったのかはわからない。すごく個人的な理由から、あるいは憂さ晴らしを目的として犯行に及んだ可能性はもちろんある。しかし、この日の事件で私たちが目にしてしまったのは「一個人が政治的な主張をしている最中に暴力が行使された」という事実だ。これは容易に「一個人が政治的な主張をすることが自分の身を危うくする」「政治的な議論は危ない」といった考えに結びつくだろうし、少なくとも、戦後の日本政治史において最も長い期間政権を運営し、今もなお与党において大きな影響力を持っていた人物が殺害されてしまった事実を前にして、民主政治に恐怖を感じ、落ち込み、唖然としてしまって、何も語れないという人は必ずでてくるだろうと思う。

 だからあらためて、「言論に対しては言論で批判する」「権力は選挙を通してのみ獲得する」「選挙に負けた側は、負けを真摯に認め、世論との丁寧な対話を通してより社会のためになる主張やアイデアを準備し、そしてそれで世論を説得することを以てのみ政権につける」という代議制民主主義の原則を確認しなければならない。容疑者の犯行動機がなんであったにせよ、「民主主義体制の下で暴力によって政治的光景が変わってしまう」ということに対しては強く拒否反応を示さないといけない。暴力による現状変更を認めることはロシアによるウクライナ侵攻を許容することと等しい。

 そして、第二に、そのような民主主義の原則論を確認をするのと同時に、最も認識すべきだと思うことは、冒頭に書いたように、日本の民主政治の基盤が実はすでに深く傷ついてしまっていた、ということだ。あるいはひょっとすると、日本では民主主義が成熟していなかったということなのかもしれない。なぜなら、「暴力な方法で政治的な光景を歪めてはならない」「暴力的な解決方法よりも、対話を通した民主的な解決方法の方が尊く、民主的な枠組みというのは何に替えても守るべき価値だ」という原則が社会に浸透しきっていれば、そもそもあのような事件は起きなかったのではないかと思われるからだ。
 民主主義とはある種の伝統であって、文化だ。あるいは政治的な「雰囲気」と言ってもいい。「敗者の合意」は発展途上国と言われるような政情不安定な国ではしばしば成立しない。少し前の「アラブの春」等が典型例で、民主化を進めようとした国で、結局軍事クーデター等で体制がひっくり返る。そうした国では、(国の制度上もちろん暴力がなんらかの罪に問われるなどの規則はあるであろうものの、)少なくとも今のところ自分の立場の表明として暴力的行為が許容されるもしくは暴力に頼らざるを得ない雰囲気や構造があるはずだ。その一方で、西欧をはじめとした民主主義理念が根強い国では当然「敗者の合意」などの民主的原則は受容されている。例えばアメリカでは、大統領選挙で負けた側の陣営が、わざわざ「敗北宣言」をする伝統がある。民意としての選挙結果を疑わず、民主主義体制を維持するためである。

 では「日本政治・日本社会の雰囲気」はどうだろうか?事件の容疑者は、安倍元総理の政治信条への反発から犯行に及んだのでないと供述しているらしい。直接的には安倍元総理への思想的対立はなかったとして、自分の思いや主張を暴力行為で表現せざるを得なかったのはなぜだろうか?彼は、民主的な価値を諦めていたのではないだろうか?民主的な方法では物事が解決しないと思ってしまっていたのではないだろうか?
 もしもそうだとしたとき、今の日本において、すでに民主的な基盤というのは確実に傷ついている。そして確実に、有権者一人一人が、その基盤の弱さに、民主的価値を軽視する社会の雰囲気に貢献している。このようなとき、正直に言って、「事件に屈せず選挙に行こう!めげずに投票に行くことが大事だよ!」などと、明るく言っている状態ではもはやないはずだ。もしも本当に、物事の問題解決の手段として政治が有効だと認識されていないのだとした時、「今回の参議院選挙では投票率はほぼ100%でなくてはならない」と有権者一人一人が痛感する必要があるはずだ。事件以後「民主主義の根幹を揺るがす」という趣旨の報道がちらほら目につくが、市民が本当にそう感じているのであれば、少なくとも投票という行為によって、特定の候補者や政党への支持を示すというよりも、民主主義体制や選挙というゲームそのものへの支持を自分たちで確認、表明せねばならないはずだ。

 安倍元総理は、その主張や政治実践のあり方から、世論に強い反発も招いた政治家だった。憲法解釈の強引な拡大や強硬な議会運営、内閣官房を中心とした極めてトップダウン的な意思決定、財務官僚を追い込んだとされる行政運営等、それこそ民主的な統治のあり方について世間で問題が提起された実績は枚挙に暇がない。
 でもそれでも、安倍元総理は現状のルールで正統に選ばれた、在任最長のすごい政治家だった。それをあらためてここで確認しておきたい。もしも安倍元総理の統治のあり方をめぐる問題に有権者の皆さんが問題意識を感じるのであれば、安倍元総理の凄さを謙虚に認めた上で、他者との対話を通して自身の主張を磨き、民主的なルールの範囲でその凄さを凌ぐ以外にないとあらためて自覚すべきだ。そして、そうした民主的な手続きこそなににも代え難い価値であるという雰囲気を、ここで踏みとどまって、再び作り直さなければならない。

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