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作・どのみち孤独、「ともだちになった魚」を読む

リコは、学校で飼育していた金魚の、どすこい金太郎が死んでいることに気付く。花壇に墓を建てて金太郎を埋葬したリコは、わたしもつらいが小学生だから授業を受けに行かねばならない、と墓前で話す。

教室へ向かいながらリコは、自分が餌の量を間違えていたことが金太郎の死因ではないか、と考えている。そして、わたしがもっとしっかりしていれば、と悔いながらリコが席に着いた時、その後ろを、手足が生えてランドセルを背負った魚が通り、リコの隣の席に着く。リコは魚に向かって、なんだおまえ、気持ち悪いな、と言い放つ。

担任が教室に入り、朝の会が始まる。リコは隣に座る魚に注目し、その見覚えのあるヒレの形やアホ面から、魚がどすこい金太郎であることに気付き、そうであるのか、魚に尋ねる。が、その答えも聞かない内にリコは、自分のせいで死なせたことを泣いて魚に謝る。しかし魚は戸惑うばかりだ。

リコは、魚は死んだ金太郎が人(?)として生まれ変わった姿で、だからわたしの言っていることも覚えておらず分からないのだろう、と勝手に納得し、今日からわたしがおまえの友達だ、と魚に宣言する。

休み時間になるとリコは、魚をサッカーに付き合わせる。それが終わると、魚は息切れして立てない。その目の前で一人元気なリコは、次は一輪車に乗って、自分を見てほしがる。機嫌のいいリコは、給食の時間では、自分の唐揚げを魚に分けてあげようとする。

そんなことでは埋め合わされず、魚はリコに見付からないように逃げる。そうしてリコの目から逃れた、リコには魚に見えていた男子コウタロウは、一息吐く。そこへ二人の女子が通り掛かり、コウタロウの名字である吉田をヨシザワと間違ったまま、彼に話し掛け、さっきまでリコに付き合わされて大変そうだったのを心配する。

リコは面白い子だが、彼女の遊びに付き合うと苦労させられる、ということを二人の女子は言う。そして、言いたいことがあるなら、はっきり言いなよ、と言って去る。コウタロウは、名字を間違われたことは、二人に言えなかった。

授業の時間が始まると、リコは隣の席のコウタロウを相変わらず金太郎と呼んで、どこへ行っていたんだ、わたしはもう、どすこい金太郎なしには生きていけないんだ、と話す。先生はコウタロウを当てて、教科書を読むように指示する。声を出すことが苦手らしいコウタロウは、教科書を読むのに、もたつく。

それを見たリコは、まだ文字が読めない、どすこい金太郎に代わってわたしが読む、と先生に伝えると、読むように指示されたところの結論部分だけを読んで、満足気に席に着く。ちゃんと読め、と先生に促されると、改めてリコは教科書をきちんと読む。その姿はコウタロウには、とても眩しく輝いて見える。

放課後、リコはコウタロウに、一緒に帰ろう金太郎、と誘う。コウタロウは黙って頷く。二人が校舎から出てみると、外はどしゃ降りの雨だった。傘を持ってきていないリコは、ランドセルを頭に乗せて傘の代わりにしようとする。その傍でコウタロウは持ってきていた傘を開く。

(自分だけ傘に入って帰るつもりか)裏切り者、と言われたコウタロウは傘をリコに渡し、二人は一緒に傘に入って下校する。道中、リコは、おまえは金魚だから泳いで帰ったほうが早いだろう、とコウタロウに話し掛ける。それから、放課後はサッカーしよう、と明日の予定を決め、これから毎日どすこい金太郎がいるなら、学校が楽しみだ、と言う。それを聞いたコウタロウは足を止める。

コウタロウはリコに対して、ぼくはどすこい金太郎じゃない、と静かに主張する。じゃあ誰だ、おまえ、とリコは訊く。ぼくは隣の席の吉田コウタロウだよ、とコウタロウは力を振り絞って、リコに答える。リコはその名前に覚えがない。そのようにリコが伝えるとコウタロウは、傘はあげるよ、返さなくていい、と言って、リコの許から走り去る。その後ろ姿は、やはりリコにはどすこい金太郎に見える。

コウタロウに去られたリコは、どすこい金太郎がいなくなったら、わたしは一人ぼっちになってしまう、と怯える。

コウタロウは雨に濡れつつ泣きながら走って家に帰り、自室に入ると、やっぱり声なんか掛けなければよかった、と突っ伏して泣く。そして、どうせぼくのことなんて誰も見ていないし、ぼくは誰ともまともに話せない、友達もできないし、もうずっと一人ぼっちなんだ、と嘆く。

そこへ、どすこい金太郎の霊が、わたしの話を聞いてくれないか、と言って現れる。コウタロウは動転する。どすこい金太郎は落ち着き払って、先ずは名を名乗り、自らとリコの不始末を謝罪し、事態の説明を始める。

どすこい金太郎は、リコやコウタロウの教室で飼育されていた金魚であり、リコには特に世話になった。そのどすこい金太郎は、教室を水槽内から眺めながら、リコが周囲から浮いていることが気掛かりになっていた。リコは思ったことを正直に口にし過ぎ、金魚の名前が多数決で「金ちゃん」に決まったにも拘わらず、ダサいから、と勝手に「どすこい金太郎」で押し通し、リコとの遊びに付き合って疲れて動けない女子らに、おっさん臭い、と言い放ち、そういったことで周囲から距離を置かれてしまう。リコは、わたしは一人ぼっちになってしまった、とどすこい金太郎に話し掛け、今日からおまえがわたしの友達だ、と宣言する。その期待に応えようとする中で、どすこい金太郎に突然に死期が訪れ、リコに対する未練から、どすこい金太郎はコウタロウに取り憑いてしまった。

その説明を聞いてコウタロウは、自分がリコからどすこい金太郎に見えていることを理解するが、なぜ自分に取り憑いたのか、と問う。すると、どすこい金太郎は、おまえリコのことちょっと好きだろ、と事もなげに答える。水槽の中で暇を持て余していた、どすこい金太郎は、コウタロウがいつもリコを目で追っていることに気付いていた。

どすこい金太郎は、あんなに目で追っていたのに、きみはリコのことを何とも思っていなかったのか、なんだったら嫌いだったとでも言うのか、とコウタロウに迫る。コウタロウはリコをどう思っているのかを話し出す。

声が大きくていつも驚かされるし、明るくて目立っていて、ぼくとは何もかもが反対の性格で、初めは少し苦手だったけど、ある時に、ぼくが犬に吠えられて驚いて尻餅を付いて震えていたところを彼女が見て、鈍臭いな、と言って笑った。だから気になった。でも声を掛ける勇気もないから、いつも後ろで見ているだけだった。

そこまで話したところで、つまり金魚の糞じゃないか、とリコが言いながらコウタロウの部屋に入ってくる。コウタロウとどすこい金太郎は、共に引っくり返る。戸惑っているコウタロウにリコは、勝手に帰られてしまったので追い掛けて来た、と言い、それからコウタロウに渡されたままだった傘を差し出す。

そして、コウタロウのことを、ずっとどすこい金太郎として見ていたことを謝り、わたしは人を怒らせてばかりだ、わたしはもっと人のことを見るべきだった、と反省する。コウタロウは、怒っていたわけではない、と応じる。しばらく二人は無言になるが、リコがコウタロウに、おまえ、わたしのことが好きなのか、とさっきの話の続きを持ち出したので、コウタロウは慌てる。

リコは恥じらいながら、悪いけど、彼氏とかは、まだちょっとリコちゃんには早いと思うんだ、とコウタロウに伝える。コウタロウはそんなリコを見て、変なの、と言って笑う。そこへ、どすこい金太郎が、何を二人でいちゃ付いているのか、と割って入る。そして、わたしはここいらで暇をさせてもらおう、と二人へ別れを切り出す。

リコがどすこい金太郎に、おまえ死ぬのか、と問うと、どすこい金太郎は、わたしはもう既に死んでいる、これ以上は現世に留まれない、と答えながら窓枠に足を掛ける。そして、こう言う。

わたしは水槽で一人ぼっちだったから分かるが、やはり孤独は寂しい。孤独は悪ではないが、きみ達はまだ子供だから、それが気掛かりだった。わたしはただの金魚だから、水槽からきみ達を見ていることしかできず、もどかしかった。二人が友達になれてよかった。思い残すことは、もうない。

コウタロウは、どすこい金太郎もぼく達の友達だ、と伝える。三人は互いに抱き締め合う。どすこい金太郎は、窓から外へ出て、天に昇っていく。それを、リコとコウタロウは手を振って見送る。

コウタロウはリコに、リコちゃんと呼んでもいいか、と訊く。リコは、「ちゃん」は気持ち悪いから呼び捨てろ、と答える。コウタロウが戸惑いながら、リコ、と呼んでみるとリコは、よし、今日からおまえはどすこいコウタローだ、と宣言する。それはやめて、とコウタロウは嫌がる。

コウタロウはリコのことが気になっている。コウタロウは、リコの性格が自分と何もかもが反対だから、と言っているが、本当にそうだろうか。というのも、リコもコウタロウも共に、自分が一人ぼっちであることに不安を感じているからだ。

コウタロウはリコに自分と同じ匂いを感じており、だからリコのことが気になっている。同じ匂いとは、一人ぼっちであること、一人ぼっちに陥ってしまい易いことだ。

リコは周囲から距離を置かれてしまうと、どすこい金太郎を友達にして自分を一方的に見せるようになる。それから、どすこい金太郎が死んでしまうと、誰かに見られていることを意識するかのように独り言を続け、そして、どすこい金太郎の代わりに据えるべく、自分のことを目で追うコウタロウに目を付ける。

どうやらリコにとっては、誰かに自分を見てもらえることが、一人ぼっちではない、ということらしい。リコがいつも明るく大きい声で話し、憚ることなく自己を主張し押し通すのは、そうして目立つことで、誰かに見てもらうためではないか。だが、そうすることで却ってリコは孤立している。

正確に言えば、リコは誰からも嫌われていないが、誰にも近付いてもらえないだけだ。見てもらえてはいるが、遠巻きに。これはリコに近付くと、みな疲れてしまうからだが、リコはそういう自分を直せない。

いや、リコにそういう自分を直す気はあっただろうか。リコは本当に、誰かに自分を見てもらいたいのだろうか。一人ぼっちになることを怯えてはいて、それは本心だろうが、では一方で一人ぼっちにならない努力を、リコはどれだけしていたか。

明るく大きい声で話すことはともかく、憚らずに自己を主張し押し通すことは、前述したように、却って自身を孤立させている。だから、これは努力にはならない。寧ろ、コウタロウのように自己を出さないようにすることが、努力となる。しかしリコはそれができず、周囲から距離を置かれてしまうが、そうなってしまってさえ、リコは努力をするのではなく、どすこい金太郎に頼ろうとする。

なぜああも明るく堂々としたリコが、周囲から距離を置かれた時、おまえらどうしてわたしから離れるのか、などと周囲に問うことがなかったのか。リコには問えなかったのではないか。

リコは自己を主張するばかりで、他人の主張を聞くことができていない。それはリコの強引さの現れに見えて、じつは弱さの発露ではないか。リコは誰かに話し掛けられるのが苦手で、だから先んじて相手に話し掛け、更には相手の話を聞かないところを見せて、誰にも話し掛けられまいとしている。

なぜリコが周囲から距離を置かれた時に真っ先に頼ったのが、どすこい金太郎だったのか。それは、どすこい金太郎が、人を見るだけで物言うことのできない金魚だからだ。わたしを見て。だけど、何も言わないで。それが、リコが周囲に対して求めている態度であり、しかしそれは周囲に拒否される。

そこでリコは金魚に救いを求めたものの、金魚の突然の死にそれは頓挫し、困っていたところ、気付けば隣の席にいる、自分のことを目で追いつつ、自分に話し掛けられないコウタロウは、まさしく金魚のような男子であり、どすこい金太郎の代わりにするのに打って付けだった。

ここで重要なのは、誰かに話し掛けられる度に激しくビクつくコウタロウと同じように、リコもまた話し掛けられることに極度に怯えている子供だ、ということだ。そしてそのために、二人は一人ぼっちになってしまっている。

ただ、二人は別に周囲に嫌われているわけではない。コウタロウも女子に好意的に話し掛けてもらえる存在ではある。しかしそれに対してコウタロウは、ちゃんと答えて返すことができない。だから、名字を間違って呼ばれてしまう。違う、と言えないからだ。

リコについては、作中で名字を間違われるような場面はない。恐らく、リコが名字を間違われることはないだろう。リコは人に話し掛けられる前に、自分から先に話し掛ける戦略を採っている。リコは、コウタロウと違って、誰かに話し掛けることができる。その引き換えに、誰かの話をじっくり聞くことがない。

それは誰かに、あなたのことが嫌い、と言われてしまうことが怖いからではないか。リコの先制一方的な話し掛け戦略には、二つの意味がある。一つは、あなたのことが嫌い、という言葉を言わせないし聞かないように。もう一つは、もし誰かに、あなたのことが嫌い、と言われてしまっても傷付かないように。

人がうんざりするような戦略を、リコは意図して採っている。自分から嫌われに行っているのだから、人に嫌われるのは当然で、それは狙い通りだ、とリコは思うことができる。なぜそんなことをしなければならないのか、といえば、リコは一人ぼっちに怯えながら、一人ぼっちに安心を見出だしてもいるからだ。

本当に一人ぼっちでいれば、誰にも、あなたのことが嫌い、と言われることもない。リコの目立ち過ぎる振る舞いも、コウタロウの目立たなさ過ぎる振る舞いも共に、あなたのことが嫌い、と誰からも言われないために、自分を他人から遠ざけることに他ならない。

なぜコウタロウはリコのことが気になるのか。それは、リコが自分と同じく、あなたのことが嫌い、と言われることを怖れる子だからだ。けどそのこと自体は、コウタロウは意識していない。コウタロウにとってリコは寧ろ、人に嫌われることを何も怖れないような強い少女に見えているはずだ。

そして、そんなふうにいられる秘訣はリコの自信溢れる喋りにある、と声を出すことが苦手なコウタロウは感じている。コウタロウが欲しいものを、リコは持っている。そしてコウタロウは、リコの求めに付き合い、彼女の近くにいて、彼女を見て、何も言わない。だが、リコの態度や戦略が、誰かを傷付けるような危ういものであることに、雨の中、一つの傘に入って密着することで、コウタロウは気付くことになる。

リコは楽しそうに、どすこい金太郎との親密な会話を、コウタロウを相手にする。コウタロウは気になる子と、これ以上ないくらいに近い距離で話せているにも拘わらず、満たされない。コウタロウの目の前にリコはいるが、リコの目の前にコウタロウはいない。いるのは、どすこい金太郎だ。

自分のことを見てほしい相手に、目の前で自分のことを無視される。それも楽しそうに。これほど残酷なことがあるだろうか。コウタロウはリコに付き合うのをやめる。そして、大きな声を出せず、大きな声を出せるリコに惹かれたコウタロウは、リコに自分を見てもらいたくて、大きな声でリコに自分の名を叫んで伝える。リコはそれをあっさり切り捨てる。

コウタロウが傷付いたとすれば、リコにどすこい金太郎としてしか見られていなかったことではない。この切り捨てに傷付いている。リコがコウタロウをどすこい金太郎として見るのは、コウタロウの気持ちと性格に付け込んでリコが始めた、互いに一人ぼっちを埋め合わせるための遊びだ。それは最初はコウタロウにとっても、意味があった。

二人が互いに一人ぼっちだったのは、他人に嫌いと言われてしまうのが怖いからだ。そして、コウタロウはリコのことを見ながら何も言わず、リコはコウタロウのことを見ないで何でも言った。互いに一番近くにいながら、互いに相手に深く触れない。これは結局、二人共、形を変えただけの、相変わらずの一人ぼっちではないのか。

明確にリコに好意を抱くコウタロウは、好意を抱くからリコが始めた遊びに付き合ったし、好意を抱くからそれに付き合えなくなった。コウタロウが自分の名前をリコに叫んだのは、リコに、この遊びをやめよう、と伝えているに等しい。ここに二人の行き違いがある。

喋るのが苦手なぼくは、できれば誰とも喋ることがないように、誰にも見られず、誰にも話し掛けられたくなかった。でもぼくは今、きみにぼくを見てほしくて堪らないし、そうきみに伝えたいし、それをきみに聞いてほしい。もしきみがそれを受け入れてくれるなら、ぼくらは一人ぼっちではなくなる。だから、この遊びはやめよう。そうコウタロウは言っている。

だが、コウタロウに対してまだ明確に好意を抱いていないリコには、それは一緒の傘の中から抜ける、ただの裏切り行為にしか思えない。だからリコは、コウタロウに対し、おまえなど知らない、という意味の言葉を返してしまう。

ここにリコが抱く一人ぼっちへの怖れの性質が、明瞭に表れているのではないか。リコは、自分が誰かに好きになってもらえる、と思うことができない。だから、周囲に嫌われて当然な振る舞いをしてきたし、コウタロウからの好意も受け取り損ねる。そしてそれはコウタロウのに限らない。

リコは周囲から距離を置かれているが、嫌われているわけではない。みな本当はリコに好意を抱いている。だがリコは、それを受け取ろうとしてくれない。好意を受け取ってくれないのは、同性異性問わず、悲しいし傷付く。

多分、同性の級友らはリコに好意を抱いているために、リコはそういう子だ、と変にリコを受け入れてしまい、好意を受け取ってくれないと自分達は傷付く、とは伝えずに見守ることにした。言うなれば、リコを嫌いにならないように距離を取った。

それでリコは、自身を孤立させる態度を改める機会を失いながらも、居心地がそれほど悪くもない、という変な状況に陥る。だが、級友らと上手く関係できないので不安だけは募る。

そこでリコは、どすこい金太郎やコウタロウに頼るわけだが、コウタロウは異性であるために、同性の級友らとは違って、リコとの親密な距離を、リコを嫌いにならないために手放すことはできなかった。そして、なんでぼくを見てくれないんだ、と本気で向き合い、その思いを無下にされ、コウタロウは傷付き、去っていった。

人に嫌われて当然な態度で通してきた、けれどそれに反して人の好意に恵まれてきたリコは、ここで初めて本当に誰かのことを傷付けた。傷付けられた人は怒って去っていく。怒りもせず去りもせず、距離を置くだけでいてくれた、級友らの思いをリコは、ここでようやく理解できるようになったのではないか。

リコはコウタロウから渡された傘=好意を、返さなくていい=一人で勝手にしてくれ、と言われて立ち尽くす。人を傷付けること、人に嫌われることが、本当はどういうことなのかを、リコは噛み締める。それでもリコは、どすこい金太郎=周囲に対する自身のこれまでの態度やコウタロウに求めたような遊びを、やめる決心は簡単には付かない。

一方でコウタロウは、泣き濡れながら家に帰り着き、自室で、リコに声を掛けたことを後悔する。そこへ、どすこい金太郎の霊が現れ、二人は話し合う。今までコウタロウにとって正体の分からなかった、どすこい金太郎は、コウタロウがリコに本気で向き合ったことで、彼にも見えるようになった印象だ。

読者にとっても、どすこい金太郎の喋りは、ここで初めて見ることになる。その妙に堅い口調や、コウタロウのリコへの好意を指摘する調子や、リコへの気持ちを自覚しないことを怒る調子は、まるでリコそのものではないか。

どすこい金太郎の霊は、自身の一人ぼっちをどうにかしたい、リコの心。もっと言えば、その問題を解決するために金魚の目を借りて自分や周囲を客観的に眺めようとする、リコの心だ。リコの心だけがコウタロウの前に現れているわけではないので、コウタロウがリコへの気持ちを話したところで、リコ本人がすぐに姿を現す。

リコはどすこい金太郎の霊(という遊び)を通じて、コウタロウに自身の心を打ち明けた。そして、コウタロウから渡された傘=好意を返そうとしている。好意を返す、というと断るような感じもするが、傘の放棄がリコとの関係の放棄を意味するので、リコはコウタロウが望む関係を承諾し、自身もコウタロウへ好意を向けようとしている。

ここで、コウタロウがリコのことを気になった切っ掛けについて言っておくと、彼が犬に吠えられて尻餅を付くのは、彼が自分自身で思っている、喋りが苦手なことの格好悪さを表していて、それをリコが面白がってくれたから気になった。一歩間違えれば、これもコウタロウを傷付けかねないことだが、ここでは、格好悪いことや駄目なことも面白さや可愛らしさに繋げられる、と気付かせてくれた、と解釈しておこう。

そんなリコは、まだ彼氏とかは早い、と言って恥じらい、コウタロウに笑われる。ならここに、リコが自分自身で思う格好悪さがある。それは恋愛が苦手なことだろうか。いや、それよりもっと手前のことだ。リコは人からの好意を受け取ることが苦手だった。そういう子は、誰かに自分の好意を伝えることも苦手だろう。

リコは誰かから好きと言われても、戸惑って上手く返事ができない。嬉しいとか、わたしもあなたが好きとか、言えない。リコが人に嫌われるのが怖い子なら、誰かに好意を伝えた時に返事がもらえなければ、どういう気持ちになるか、ということも本当は分かるはずだ。

リコは好意に関わることでは、コウタロウ並みに口下手になる。だから好意と関わってしまわないように、人を無視したような態度で喋りまくる。しかし、その心の内は、誰もわたしを嫌いにならないで、そのために誰もわたしを好きになろうとしないで、でも誰かわたしを見ていて、という矛盾した気持ちが渦巻いている。

どうにもしがたい、この心の内が、リコの思う自身の格好悪さだ。好きを上手に言えない。その格好悪さの一端をリコはコウタロウに見せ、変なの、と彼に笑ってもらえる。変なの、は「格好悪い」の言い換えだ。きみが格好悪いと自分で恥ずかしく思うところは、確かに格好悪いね。でもぼくは、そこも含めて、きみが好きだ。コウタロウはそう言っている。

リコもまた、好きを上手に言えない、とコウタロウに伝えたことで、好きを伝えられている。自分の格好悪いところや駄目なところを隠さず、正直に見せれば、一人ぼっちはどうにかなる。それは相手を信用することの印であり、そこから相手との関係は始められる。

コウタロウは自分の格好悪さを隠せるような器用さはなかったが、それが彼が周囲と上手く関係できないが嫌われてはいなかったことの、理由かも知れない。

さて、二人が互いに好意を示し合えたことで、二人は一人ぼっちから抜け出せたので、一人ぼっち問題を解決するために生まれた、どすこい金太郎の霊は、その役割を終え昇天するが、その前に、二人に孤独について語り、二人のことが心配だった、と語り、二人が通じ合えたことで安心した、と語る。

どすこい金太郎の霊は、リコの遊びの産物でありながら、リコとコウタロウを生み出した作者が、二人を導くべく、作品内に降臨した存在でもある。作者はどすこい金太郎の霊としてリコを擁護しようと振る舞うが、その最終目標は、どすこい金太郎に代わってリコを擁護することができるくらいに、コウタロウを強くすることだ。

昇天しようとする、どすこい金太郎にコウタロウは、どすこい金太郎もぼく達の友達だ、と言う。金魚としてのどすこい金太郎を長らく世話し、自身の遊びの主要素にも用いたリコがこれを言うなら分かるが、リコと衝突して泣き帰るまでどすこい金太郎に親しんではいなかったはずのコウタロウが、ここでこれを言うのは少し不自然だ。

だからここでの、どすこい金太郎とコウタロウは、本来は作外の存在である作者と、その作者からリコを擁護する役割を引き継ごうとする作中の者、という関係だ。

どすこい金太郎が昇天した後、リコはコウタロウに自分を呼び捨てるように言い、更には、今日からどすこいコウタローと呼ばれろ、と言う。それはやはり、コウタロウが目の前でどすこい金太郎の役割を引き継いだからだが、コウタロウは、どすこいコウタローと呼ばれることは拒否する。

以前は自分の名前を間違えられたことを言えなかったコウタロウは、ここでは、自分の名前を違えないでくれ、と言えている。成長している。そしてそれは、リコの遊びを制御していくものでもある。

リコはまだ遊びを必要としている。きっと、この先もずっと必要としていくだろう。上手に好きと言えないこととは別にリコは、何か周囲との問題に悩むと遊びを始める性分の持ち主だ。それが周囲との距離ができる原因にもなる。

コウタロウがリコの彼氏になって結ばれるか、は分からないが、どすこい金太郎の霊という遊びを一緒に遊んだコウタロウは、これからも第一にリコの遊びを理解し、付き合い、またその遊びが行き過ぎないように調節する役割を担うだろう。

リコの遊びとは、想像力と表現力を発揮して、自分の世界を作り出すことだ。リコは人との間に自分の世界を挟むことで、人との関係を作ろうとする。だが、この自分の世界の力が強過ぎると、却って人との関係を損なう。自分の世界に包まれて一人、満足できるなら、それでもいいのかも知れないが、リコは一人ぼっちを望んでいない。

リコは一人ぼっちを解消するために、どすこい金太郎を生み出したが、その実体を担わされたのは、物言わぬ金魚や物言わぬコウタロウだった。金魚は死んでしまうものの、その霊やコウタロウが物を言うようになるのが作品の流れだ。物を言う、とは評する、ということだ。

リコは自分の世界が評されるのが怖かった。嫌いと言われるのも怖ければ、好きと言われるのも戸惑った。自分の世界とは、要は創作物のことであり、それは自分の格好悪さを埋め合わせるために作られたものだからではないか。格好悪いところから生じたものが好き、と言われても、どうしたものか。

だから、リコにコウタロウから渡された傘は、リコへの好意であると共に、リコの遊び=創作物に対する評でもあり、それをリコはしっかりと受け止めて返答し、自己を反省しつつ恥じらう。評を受け止めることは、評を通じて、創作物の格好悪さ、延いては自己の格好悪さに向き合うことだ。

それを踏まえると、どすこい金太郎の霊が言う「孤独」には、子供同士の関係の不具合のこととは別の意味が見えてくる。

孤独は悪ではない。創作には孤独が必要だからだ。何かを作っている最中から、それがどう評されるかを気にしていては、物を作る手が鈍ってしまう。しかし、それが完成したなら、誰かに見てもらい、評され、それを受け止めなければならない。

もし人からの評を一切受け止めることがないなら、それは作品を誰にも見せなかった、あるいは作品が誰にも見られなかったのと同じだ。ならそれは、何も作らなかったのと変わらない。

わたしは自分自身のためだけに創作をしているので、自分の作品を誰にも見せたくないし、自分の作品が誰にも見られなくても構わない、という創作者も、世の中にはいるかも知れない。だが、創作を欲している時点で、それは絶望を突き抜けた末の強がりだ、と思える。創作とは表現であり、表現とは誰かに何かを伝えて共有するための手段だからだ。

孤独は創作を促し、表現を生み、自分と誰かを繋げる。しかし、常に繋がれる保証はない。表現は時に、誰かとの繋がりを断絶する手段にもなる。表現は自分を孤独から救うかも知れないし、逆に孤独を深めさせるかも知れない。誰かに自分の表現を届ければ、拒絶が返ってくるかも知れない。

なら、自分の表現を誰にも届けなければ、拒絶も返ってこない。自分を表現せず、今ある孤独に耐えていれば、それ以上に孤独を深めることにはならない。これはコウタロウの選択だ。そしてリコは、コウタロウより一歩踏み出し、自分を表現することを選択している。ただし、それを誰かに届けようとはしない。その代わりに、自分宛ての拒絶も受け取らない。

だが、誰か相手を想定できないと表現のしようもない。リコは周囲に距離を置かれると、物言わぬ、どすこい金太郎とコウタロウに頼る。

リコもコウタロウも孤独を怖れる子だった。どちらにとっても表現は、孤独から脱するためにある。しかしコウタロウには表現する力がなかった。だからコウタロウはリコの表現力に憧れた。そしてリコの表現に付き合い、リコの表現態度が孤独から脱するものではないことに気付いた。それが、コウタロウ自身が表現する力を得ることと、リコが表現態度を改める切っ掛けにもなる。

コウタロウは、表現する力を持たないが、それがあれば孤独を脱する意思を貫徹できる。リコは表現する力を持ちながら、孤独を脱する意思を貫徹し切れない。この差は何か。というより、この差は何を表しているか。

コウタロウは、創作を志したばかりで表現する力は弱いが、表現することに強い希望を抱けていた頃の創作者を。リコは、創作の経験を重ねて表現する力は高まったが、作品を発表することの不安にぶつかるようになって、表現することに、かつてのような強い希望を抱けなくなった創作者を。それぞれ表している。

リコとコウタロウは、一人の創作者の現在と過去であり、作品を発表することの不安に苛んでいる現在の自分を、過去の自分と衝突させ、自信と希望を回復するのが、この作品の物語の意味で、これを援助するのが、その一人の創作者の未来であり、本来は作外の存在である作者の、その分身である、どすこい金太郎だ。

孤独は悪ではない。この孤独とは、創作の孤独のことで、人の目を避け、人の評から離れる時間のことであると共に、一人ぼっちになって、自分の目で自分自身を評する時間のことでもある。それを無事に越えることができたなら、作品は完成し、作品は人の目に触れることになり、人から評が返ってくるようになる。そうして創作者の、孤独の時間は終わる。

創作にとって、一人になることは悪ではないし、一人で自分を見詰め、一人で自分を恥じたり、一人でどうするべきかと悩んでのたうち回るのも悪ではない。どの作品も、そのようにして出来上がる。この作品も、そうして出来たはずだ。

作品が出来たなら、それを発表し、人の目や人からの評を受ける。孤独の時間の中で作り上げたもので、孤独を終わらせるのだ。孤独は終わらなければならない。孤独とは未熟のことであり、未熟を克服するための時間、大人になるための時間のことだ。

自信を持って、人に向かって自己を主張し、表現できるのが大人だ。大人になる手段の一つとして、創作はある。創作を通じて大人になろうとしたのがリコであり、リコに好意と憧れを抱くコウタロウだが、リコは、彼氏とかはまだ早い、と言う。つまり、大人になるにはまだ早い、と。

実際に二人はまだ子供だし、子供が大人びた表現をしたとしても、それで大人になれるわけではない。子供が大人になるには、孤独とは別に、単純に時間が必要だ。身体が大人になった時に、それに相応しい表現ができるには、自身の成長の段階に合った表現を、ずっとし続けていられればいい。

リコが自身の表現が誰かに届くのを怖れたのは、リコが考えていた表現の目標が、リコの成長の段階を飛び越えた、大人びたものだったからではないか。身体が大人になっていないのに、大人の表現をしようとすれば、自信が伴うはずがない。

リコはコウタロウとの交流で、自分がまだ子供だ、と知った。それで自分が表現すべきことの目標が下がり、自信を回復した。自分はまだ子供だ、という自覚が、子供が大人になるのを促す。その自覚はコウタロウの、リコへの評から起こっている。

リコとコウタロウは一人の創作者の現在と過去だ、と言ったが、コウタロウがリコの内的存在か外的存在かに拘わらず、表現への評は表現した人を成長させる。成長とは変化であり、どこを変化させるべきかは、表現をよく観察しなければ見えてこない。

自分で自分の表現を観察することもできるが、限界がある。やはり、人に観察してもらったほうが強力で、手加減もない。手加減がなさ過ぎるのも、それはそれで問題だが。

この作品は、創作の孤独が隠れた主題となっており、それは、子供が大人になること、創作者がいかに変化し成長するか、とも結び付いている。成長するには、少し怖いけど、人に見てもらうのが大事だし、その前に孤独の中で自分で自分を見るのも大事だ。

孤独をよく知ることなしに創作は完成しないし、創作を大人になる手段として選んだ以上、孤独を怖れては大人になれない。創作者としても成長できない。しかし、孤独に親しみ過ぎてもいけない。自分で自分を見ているだけで、誰かに見てもらうことをしなければ、何も変えられず、成長しない。

孤独は創作に必要だが、孤独は創作の意味を潰しかねない。創作の孤独は、じつに厄介だ。孤独と結び付いた創作という行為も、じつに厄介だ。けど、それを選び取ったことこそが一番厄介ではないか。それに、創作を始めれば、いつも自分の格好悪さにぶち当たる。

大抵の人は、誰かの創作物を消費するだけの人生を送る。自分の格好悪さなんて、わざわざ見ようとしない。それは、わざわざ見るほどの格好悪さが自分にあると思っていないから、かも知れない。創作を志す人は、少なくとも自分でつい見たくなってしまう格好悪さを抱えている。

この格好悪さは注目に値するぞ。じゃあ、みんなにも見てもらったほうがいいかな。ほれほれ、みんな見てみろ。わたしの格好悪さは、一見するだけの価値がある。わたしは格好悪い。わたしは格好悪いから、価値がある。価値ある、わたしのことを、みんな見ろ! これがわたしだ!

創作とは、自分の格好悪さを楽しむことなのかも知れない。そしてその様を、格好悪さも含めて、誰かに楽しんでもらうことでもあるのだ。更には、誰かを楽しませることを楽しむことでもある。ただ、それには相応の表現力と自信が要る。自分の格好悪さは人にも楽しんでもらえる、という一定の信念がなければ、創作は貫徹できない。

リコはコウタロウの格好悪さを楽しんだ。コウタロウもリコの格好悪さを楽しんだ。二人が互いの格好悪さの価値を確かめ合うことで、物語は終わっていく。ということは、逆に言えば、二人が自分の格好悪さの価値を確かめようとする様が、この作品の物語の中身だった。

わたしの格好悪さは誰かに楽しんでもらえるよね? という不安を、この作品は表している。わたしの格好悪さから生じた作品を見てほしい。それを楽しんでもらい、少し怖いけど、何かを言ってほしい。それは創作者一般の不安と希望であり、この作品の作者の不安と希望であり、それが漫画作品となって読者の目に届けられている。

この作品を作り上げて発表できるくらいだから、作者は、その不安に決着を付け、作品への好評も悪評もきっちりと受け止める覚悟を持つことができているのだろう。作中のリコの不安を乗り越えて、この作品はある。やはり作者は成長した未来のリコだ、と言える。

作者の覚悟に応えて、筆者も作品への評を、こうして書いた。好評か悪評か、という単純なものではないが、それはこの作品が相応に複雑なものを含んでいるからだ。しかし、複雑だから楽しい作品、という単純な話でもない。

ある作品がとても楽しめたのなら、なぜ楽しめたのか。ある作品が全然、楽しめなかったのなら、なぜ楽しめなかったのか。どちらも、そこには複雑な理由があり得る。複雑さと楽しさは、あまり関係がない。

取り敢えず、ここまでで、作品が含む複雑さの言語化を試みてきた。それはある程度、達成されたと思われるので、最後に複雑さを離れて、この作品が楽しめたのか、楽しめなかったのか、それについて言語化してみよう。

どすこい金太郎? 隣の席の男子が魚に? プッ、クスクス。変なの!