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作・どのみち孤独、「喋るエビフライ」を読む

森林の中の小川に立つ主人公は、継父とはぐれながらも、夏休みの自由観察を片付けるために、面倒臭さを押して、適当に観察対象を採取してさっさと帰ろう、と捕り網を構える。

主人公の足許には、死んだ両親に、いつか二人のような素敵な家族を見付けるために旅に出る、と誓うエビがいる。主人公はそのエビを捕まえる。そこへ、はぐれた継父が現れ、あちらに大きいカブトムシがいたことを伝え、観察対象にどうか、と訊くが主人公は、今捕まえた、喋るエビを見せ、観察対象を既に手に入れたことを伝える。

主人公は図鑑で、エビがテナガエビであることを知り、エビ自身もそのことを初めて知る。にも拘らずエビは、ぼくは何でも知っているから何でも聞いてくれ、とはしゃいでいる。主人公は、エビは何を食べるのか、と訊くとエビは、何でも、と答える。ポテチもか、と更に主人公は訊くが、エビはポテチが何か分からない。

主人公は川エビが食用にできると知ると、エビがもっと大きくなったら自分の好物であるエビフライにしよう、と決める。エビは震えながら、大きくなれるように頑張る、と言う。

そこへ継父が水槽を抱えて来る。昔に継父が使っていたものらしい。それが自分に与えられた家だと知り、エビは喜ぶ。主人公は水槽に水道水を貯めると、エビを水槽に招くが、カルキ抜きが済んでいないので、エビは弱る。

カルキ抜きを済ませ、家を手に入れて喜ぶエビを主人公は祝うが、自身は宿題が終わらないことに気が重い。宿題を代わりにやって、と主人公はエビに鉛筆を渡して頼むが、エビには出鱈目しか書けない。諦めて主人公は鉛筆をエビから取り返し、その日の宿題を終える。

主人公は褒美のおやつを継父に求めるが、出されたのは煎餅と白湯で、主人公が望むものとは違う。アイスはないのか、と言うと、それを出してもらえるが、それも主人公が本当に望むものではない。主人公は本当は、友達の家で食べたようなケーキが欲しかった。主人公はまるでお城のように感じられる友達の家への羨望を、それとは程遠い、雑然とした住まいの中で語る。

夕飯に継父が出したハンバーグは、表面が黒焦げで、中は生焼けだった。中まで火を通そうとして、火力を最大にして調理したので、失敗したらしい。主人公は、電子レンジで温めるので構わない、と言ってハンバーグにケチャップを掛ける。

主人公は惣菜の中から桜えびをつまみ上げ、仲間だ、と言ってエビに与える。エビは照れながら桜えびに自己紹介し、桜えびに名前を尋ねると、桜えびに代わって主人公が、桜えびのサクラさんだ、と教える。エビは、家族ができた、と喜ぶ。

夕飯後、立派なロブスターが調理されて出演者に食べられ、その人を笑顔にする様子を、テレビで見てエビは、ロブスターになりたい、と口にする。母としたいことを紙に書きながら、無理だと思う、と素っ気なく言う主人公の傍で、気にせずエビは、ロブスターになる夢を語る。

そこへ継父が変な服を持ってやって来て、明日の母の見舞いに着ていく服はどれがいいか、と訊くが主人公は、忙しいから後にして、と答える。何を書いているのか、と紙を覗こうとする継父に主人公は、見ちゃダメ、と強い口調で拒否し、隣の部屋へ行って戸を閉めてしまう。

継父はエビに、主人公の母が妊娠中だが体調が思わしくなく入院中であることと、明日が見舞いの日であることを説明する。そして、順調なら来週にも退院できそうだが、これまで色々と我慢をさせただろう、と主人公を慮る。それを聞いてエビは、死んだ母を思い出し、主人公の母に会ってみたい、と申し出る。

翌日、母の見舞いに訪れた主人公は、母と抱き合う。その後、エビが飛び出て自己紹介する。主人公は、エビを今家で育てていることと、大きくなったらエビフライにするつもりであることを説明する。母は、かわいい友達だ、と笑う。

主人公は継父の買ってくる服がいつも変であることを伝え、以前に母が選んでくれた服はもう小さくて着られなくなったので、早く一緒にお出掛けして、新しい服を選んでほしい、と伝える。そこに看護師が現れ、医師から話がある、と伝え、継父を連れていく。

母は主人公の髪を櫛で梳きながら、継父との生活はどうか、と訊く。肉を焦がしたので50点だ、と主人公は継父を採点する。そして、わたしは宿題もやるし我儘も言わないし、いい子にしているから100点だ、と自己採点する。そんな主人公に母は、嬉しい知らせとして、産まれてくるのが女の子であり、あなたに妹ができるのだ、と告げる。

主人公は本音を隠し、楽しみだ、と言う。そして、それなら赤ちゃんの服も買わなくてはならないから、退院する来週にも一緒に出掛けよう、と笑って提案するが母は、退院が延びてしまったので、まだそれはできない、もう少し我慢してほしい、と告げる。主人公はそのことを大人しく聞き分ける。

主人公は母としたいことを書いた紙を、紙飛行機にして遊ぶ。そこへ継父と看護師が帰ってくる。母と継父を二人きりで話をさせたがっているので、主人公は母に別れを言って、看護師と病室を出る。看護師はエビを見て、友達か、と尋ねるが主人公は、食用だ、と答える。

母と継父は話を始めるが、母は主人公が置いていった紙飛行機に、母としたいことが書かれていることに気付く。

見舞いを終えた主人公と継父は車に乗ろうとするが、主人公は、酔うから、と後部座席に行く。継父は運転席から後部座席を向いて主人公に話し掛け、赤ちゃんの服を見に行こう、と提案するが、主人公は顔を合わせようともせず、疲れた、と言って断る。エビは自分の母が恋しくなり、泣く。それを主人公は煩がる。車内の空気は悪い。

家に着くと、主人公は靴を脱ぎ散らかし、無言で玄関を上がる。継父が注意すると、ここでも主人公は、疲れた、と言う。継父が戸惑う中、エビだけは元気に帰宅を喜ぶ。主人公の態度を心配する継父に、ぼくが様子を見てくる、とエビは張り切る。エビは、主人公がポテチをつまみ、携帯ゲーム機に興じていることを、報告する。

ここで何者かが主人公の名を呼び、今に至るまでの主人公の境遇を短く回想する。

外は雨が降り出し、エビは水槽の中で眠りながら、立派なロブスターになった夢を見ている。主人公は携帯ゲーム機で遊ぶのをやめ、冷蔵庫を開けてアイスを取り出そうとしている。それを継父が見咎め、アイスは宿題が終わったら、という約束だっただろう、と問う。

主人公は、約束を破ったのはあなたも同じだ、来週には母が帰ってくるから、いい子にしている、そういう約束だった、わたしはそれを守っていたのに、と涙と共に叫び訴える。それに対し返すべき言葉のない継父は、仕方ない、母も我慢しているのだ、と答える。

主人公はその返答に反発し、わたしも我慢した、と返す。継父は、じぶんも我慢している、と答える。主人公は、自身が我慢していることを、重ねて強く主張する。継父は、もうお姉さんになるのだから我儘を言わないでくれ、と言う。主人公は絶句する。

二人の険悪なやり取りに目を覚ましたエビは、二人を宥め、ぼくはもうすぐ美味しいロブスターになるから怒りを収めてほしい、と願い出ると主人公に、なれるわけないだろ、おまえは一生ただのテナガエビだ、と宣告され、エビは衝撃を受ける。

それに構わず、母はどうせ死んでしまう、母がいなくなるなら妹もいらない、家族なんていらない、と主人公は言い出す。その言葉を継父は激しい口調で遮る。少し間が出来、エビが何かを言おうとするが主人公は、少し黙っていて、と水槽を肘で小突く。すると水槽に罅が入って穴が開き、水が流れ出し、桜えびのサクラさんも外に放り出される。それを見てエビは思わず叫ぶ。

継父は主人公に、怪我はないか、と尋ねて手を差し伸べようとするが主人公は、触るな、と言ってその手を避ける。そして、今まで「お父さん」と自身が呼んできた継父に対し、おまえなど、もうお父さんではない、とはっきり言い、隣の部屋に行って戸を閉めてしまう。

水もサクラさんも失ったエビは、水槽を壊した主人公のことを、ちりめんじゃこになってしまえばいいんだ、と罵り大泣きする。

継父とエビは、壊れた水槽の片付けをしている。エビは主人公への怒りが収まらず、ここから出ていく、と言う。それに対して継父は、せっかく仲良くなれたのに、そんなことを言わないでくれ、と宥める。エビは、あなたこそ、あんなふうに言われていいのか、と問う。

継父は、大人げなく怒鳴ってしまった自分も悪かった、と反省を述べる。エビは納得できない様子だが継父は、例え家族だとしても他人は思い通りにならない、と続けて語る。エビは、家族とは何なのかが分からない、と言い、冷蔵庫に貼られた、主人公が自身の好きな食べ物を描いた絵を見上げる。

継父は、分かり合えなかったとしても、その人の笑顔を見たい、と思えたら、それが家族なのではないか、と家族に対する自身の考えをエビに話す。

エビは主人公が閉じ籠った部屋の戸を開け、主人公に呼び掛けるが主人公は、あっちに行け、おまえなんか嫌いだ、と答える。エビは、ぼくはまだきみのことが好きだ、と話し掛ける。主人公は、嘘だ、と言う。そして、わたしはいい子で笑顔でいなければならないのに、エビにも継父にも酷いことを言った、こんなのはもうわたしではないし、わたしなどもういなくていいのだ、と嘆く。

エビは主人公の隣に来て、ぼくの話を聞いてほしい、と言って語り出す。

ぼくにも家族がいて、兄弟や親戚が大勢いて、とても賑やかだった。ぼくは父も母も大好きだった。だけどある時、ぼくの家族はカラスに襲われ、食べられてしまった。ぼく達は、寿命で死ぬより、他の生き物に補食されて死ぬことのほうが多い。そのことは分かっていたが悔しくて、カラスが留守にした隙にその家を壊してやろう、と思い、カラスの家に行くと、そこにはカラスの家族がいた。カラスも家族を守るのに必死だ、と知ると、復讐などやめて、ぼくもいつかあんな家族を持ちたい、と思うようになった。その時に出会ったのがきみだった。

エビは続けて、きみはいつも笑顔だけど本当は何かを我慢している気がする、母の前で見せた笑顔が本物だろう、ぼくにとってきみはもう家族だ、ぼくはロブスターにはなれないが、ぼくはきみの笑顔が好きなので、立派なエビになってきみに美味しいと言われるのが夢だ、と語る。

そして、だから我慢しないで、笑顔でいられない時、どんな気持ちで何を不満に思っているのかを教えてほしい、きっと家族とはそういうことだと思う、と語る。主人公は、ぽろぽろと涙を溢す。そして、エビに自身の不満を語り始める。それを継父は部屋の外で聞いている。

主人公は先ず継父が買ってくる服が変であることを挙げる。それから、妹が出来る、と言われても嬉しく思えないこと、妹が出来たら母は妹のほうを大事にするのではないか、と不安であること、でもそれを笑顔で受け入れなければならないことを挙げる。

そして、継父の細ごまとした部分への不満を語り、また友達のと比べた家ないし経済状況への不満を語り、しかし最後には、自身のために継父が努力していることは分かっているが、それに応えることができない、まだまだ子供で、お姉さんになれない自身への不甲斐なさを口にして泣き出す。きみが悲しいとぼくも悲しい、とエビも一緒に泣き出す。その様子を窺っていた継父も、涙を溢す。

その夜、主人公とエビは一緒の布団で寝る。主人公はエビに、母が死んでしまって継父とも仲良くなれなかったら、独りになってしまうかも知れない、と怖れていることを話す。エビは、未来のことは分からないけど大丈夫、嬉しい時も悲しい時も、大人になっても、ぼくはいつも傍で見守っているから、と伝える。

二人は眠りに就き、主人公は、エビとエビの家族がたくさん出てきて、みんなでエビカーニバル(って何だ?)をする夢を見る。その翌日から主人公は、しっかりすることを心に決め、生き物の世話をちゃんとするために、水槽の手入れをし、宿題を自分の手でこなし、帰宅時は挨拶を欠かさず、脱いだ靴は揃え、食事の時は食べ物に感謝し、なるべき好き嫌いをしないようにし、しかし食事の出来についての本音も言うようになる。

それから主人公は継父に、先日の喧嘩のことを謝り、継父も主人公に、喧嘩のことと、いつも我慢をさせてしまっていることを謝り、二人は互いに互いを許し合う。すると継父は、明日は主人公の好きなものを食べよう、と提案し、何がいいか、と訊く。主人公は、エビフライ、と答える。

エビは、主人公のために役に立てることを喜びながら、俎板の上に載り、恥じらいながら継父の手で解体される。衣を付けられてから、熱した揚げ油の上に運ばれると、思わずエビは、熱い、と言う。継父は心配するがエビは、大丈夫、頑張る、と言って揚げられに行き、熱さに呻く。その様子を主人公は楽しみに眺めている。

エビはエビフライになり、何も喋らなくなって、食卓に上る。それは以前のハンバーグのような黒焦げではない。主人公の大好物だから、と継父は自分の加減ではなく、母のレシピに従うようにしたために、今度は失敗しなかった。

主人公はエビフライを頬張る。継父は、美味しいか、と訊く。主人公は本物の笑顔で、ケチャップほしい、と答える。そして、主人公は新たに、継父と退院した母と産まれた妹と、「おとうさんがつくったエビフライ」と、その出来についての本音と、エビへの感謝を絵に描き上げて、物語は終わる。

主人公は子供ながらに大人びている。だからこそ継父と良好な関係を作れるのだが、同時に、だからこそ、その良好な関係を綻ばせてしまう。主人公はまだ子供らしい欲求を持っているのだが、無理をしてそれを抑えているので、大人びる理由を見失うと、何もかも上手く行かなくなる。

大人びる理由とは、継父を挟んだ母との関係であり、母の生命の危機であり、その危機が過ぎ去った後の、妹を挟んだ母との関係だ。

主人公は先ず、何よりも母との関係を重視している。そのために子供らしさを抑えて、継父と良好な関係を維持し、退院までの間、母が不在の家を継父と協力して守る。

もし主人公が対処すべき問題が、継父との関係だけだったなら、主人公は上手くやり通せていただろう。主人公は我慢強い上に、継父も善良な人であり、両者とも母という同じ人に、愛し愛されたい、と願っている点で共鳴しているからだ。母は、両者に仲良くあってほしい、と願っており、両者がそれに応えることに何の障害もない。

だが実際に主人公が対処すべき問題は、これより複雑で大きい。母は継父との子を妊娠中であり、それが母の生命の危機となっているからだ。主人公は何よりも母との関係を重視している以上、何よりもその母が死んでいなくなってしまうことを恐れている。

それに加え、仮に母が生命の危機を脱したとしても、主人公にとっての母との関係の危機は、まだ終わらない。母の生還は妹の誕生を意味するからだ。その妹は、主人公よりも、母と継父との関係に於いて密接だ。妹は継父と血縁があるからだ。

主人公はエビに、母が死に継父とも仲良くできなかった時のことを考えると不安であることを明かしている。母が死んでしまうことについては言うに及ばないが、その後に残された継父との関係と生活についても、主人公は不安を抱いている。

継父が善良な人であることは、主人公は二人きりの生活を通して充分に理解しているはずだ。何が不安なのか。それは専ら、継父の側の問題ではなく、主人公の内的な問題だ。主人公は妹の誕生のことでも明らかなように、血縁の有無に、人が関係し共に生活していくこと、家族であることの根拠を強く感じている。

主人公は身近にいる唯一の血縁者である母の願いを尊重して、血縁のない継父との関係と生活を受け入れている。もし母の願いがなければ、主人公には彼と関係し共に生活する理由がない。まだ子供である主人公は、血縁か母の望みなしに誰かを家族と思えるか、という問題に確証ある答えを持てない。そしてそれはそのまま、母が死んでいなくなった場合の、継父に対する不信感へと繋がる。

わたしは、母もいなくなったのに血縁のない彼を愛し、家族として受け入れられるのだろうか。彼は、母もいなくなったのに血縁のないわたしを愛し、家族として受け入れてくれるのだろうか。

主人公は大人びているので、わたしは母がいなくなっても、彼を愛し、家族として受け入れなくてはならない、と結論を出すこともできる。しかしそうしたところで、継父に対する不信感が消えることはない。主人公は、いくら大人びようが、今はまだ社会的に無力な子供であることに変わりなく、継父がいかなる態度を取ろうと、それに抗うことはできないからだ。

主人公は継父が善良な人であることを知っている。しかしそれは、母が生きている時の継父を知っていることでしかない。主人公は、母と知り合う前の継父のことを、何も知らないだろうし、母が死んでいなくなってしまった時に継父がどうなってしまうかも予想が付かない。継父に対する不信感を払拭できる根拠が、子供である主人公には乏しい。

一方で、母が生還し、妹が誕生したらどうなるか。主人公にとって、血縁があり、母の望みがあれば、その人を家族と思える。妹は主人公と同じく母の血縁だ。母の望みは言うまでもなくある。家族と思うには充分だろう。なら、主人公は妹の何を拒んでいるのか。

妹は母の血縁でありながら、同時に継父の血縁でもある。妹は、主人公にないものを予め持っている。そしてそれは、いくら主人公が大人びようが、決して手に入らないものだ。更には、主人公が大人びようとするのは、そうしなければ母との関係が崩れてしまうかも知れないからだ。主人公は好き好んで大人びたいわけではない。好きでやっているなら、疲れた、と言ってそれを放り出すこともない。

主人公は本当なら、子供らしい欲求を母にぶつけたい。けど、それはできない。母を困らせるわけにはいかない。だから主人公は母にも継父にも遠慮をし、無理をしている。そこへ、母と継父の血縁を持った、妹という存在が現れようとしている。この妹は、母や継父に遠慮しなくてもいい。無理をしなくてもいい。その妹の誕生を、主人公は無理をして支えなくてはならない。

無理をしなくていいような存在の誕生を、なぜ自身が無理をして支え、受け入れなければならないのか。そのことに主人公は、はっきりと答えられないし、母や継父は主人公がそのような問いを抱えて思い悩んでいることを、まさに主人公が無理をしているために、気付くことができない。

主人公にとって妹がいかなる存在であるかを、継父はよく理解できていない。その状況で継父が主人公に言った、もうお姉さんになるのだから我儘を言わないでくれ、という要求は残酷という他ない。主人公は無理をしなくていい者の誕生のために無理をしなければならず、それへの不満を我儘と言われているのだ。

主人公の無理に、誰が何によって報いてくれるのか。ただ主人公は当たり前に家族に包まれ、安心して暮らしたい。子供に当たり前に与えられるべきものを主人公は与えられず、だが主人公は妹にそれを当たり前に与えなければならない。ではそれを全うして、主人公に何が与えられるのか。別に何も与えられはしない。それは当たり前のことだからだ。

だったら、家族とは何なのか。それはエビが口にした疑問だが、主人公がその時、継父にぶつけたかった疑問でもあるはずだ。しかし主人公は、そうはせず、家族なんていらない、と言うだけだ。

主人公は無理をすることに疲れ、無理をしたくなくなった。なら、主人公は約束を破ってアイスを食べようとしたように、継父を困らせるだろう、その疑問を継父にぶつけてもよかったはずだ。主人公がそれをしなかったのは、家族とは何なのか、という疑問自体がとても大人びたものだからだ。

無理をする気力を失い、大人びることのできなくなった主人公には、継父に大人びた疑問をぶつける、などということは無理になり、あれもいらない、これもいらない、と子供らしく拗ねるしかなくなるのだ。

エビとは何者だろうか。このエビは喋る、突拍子もない存在だが、主人公と継父を結び付けるためにエビフライになって食卓に上ると、喋らなくなる。

このエビは、登場時から落書きのような緩さで表現される。しかしそれなら主人公達の身体表現も写実的ではないので、そういう緩さの表現水準にエビも組み入れられているだけか、と思いきや、調理解体されるために俎板に上がったエビの身体は、写実的とまではいかないが、表現の質が現実的なものに変わる。

しかしながらエビは、解体されて明らかに絶命しているはずだが、ここではまだ喋っている。衣を付けられ、揚げられている途中でさえもまだ喋っていて、完全にエビフライになってからはもう喋らない。作品の題名が「喋るエビフライ」にも拘らず、だ。

エビフライは喋らない。エビも本来は喋らない。解体されて絶命しているエビなら、尚更だ。つまり、喋る、ということは、ここでは現実からの逸脱を意味している。その一方で、エビフライは現実への着地を意味している。

「喋るエビフライ」という題名は、エビフライが喋ることではなく、喋るか、エビフライか、というエビの二つの命運を表している。そして、この二つは相反するものだ。エビフライが主人公と継父の和解を象徴するなら、(エビが)喋ることはそれと相反する、主人公と継父の決裂を象徴する。

もし母が生還せず、主人公が継父と和解できなかったら、エビはエビフライになることなく、人のように喋る存在として、母や継父に代わって、独りになってしまった主人公が嬉しい時も悲しい時も大人になっても、その傍にいて、主人公を見守る役目を果たしただろう。それも、解体されて尚も喋り続ける、現実から逸脱した、人ならざる確かさで。

エビとは、落書き的存在だ。しかし本来は、落書きは喋らない。だから正確に言えば、エビとは、現実から逸脱した落書き的存在だ。それは人の代わりを務めることさえできる。人の代わりとして、大人達の代わりとして、主人公の心を支えることができる。

だが、エビが喋ることは、主人公と継父の決裂を象徴するのではないのか。エビは、主人公と継父の生活の間に入り込んで、喋り続けた。主人公と継父が決裂しそうになっても、喋り続けた。それで主人公と継父は決裂に向かったのか、といえば、事態はその逆だ。喋るエビは、決裂しそうな二人の仲を取り持ち、繋ぎ合わせた。

それには継父が善良な人であることが関わる。もし継父が善良とは言い難い人だったら、母が生還するしないに関わらず、継父に代わる位置に、喋るエビが収まったはずだ。しかし継父は善良な人だった。ただ、主人公はその善良さを、母の死の可能性がちらつく中では、信じ切ることができなかった。

善良とはどういうことか。それは主人公と心情を重ねられ、主人公の不安をなくそうとしている、ということだ。エビは、主人公の不安をなくすために喋る。それは主人公の欲求であり、また継父の欲求でもある。エビが喋ることは、主人公と継父の共通する願望だった。

問題は、継父との関係自体が主人公の不安を作り出してしまっている、ということだ。主人公は不安さえなければ、母の願いの許で、善良な継父と結び付くことができる。主人公の不安が問題点なのだが、なぜ主人公が継父との関係に不安を感じてしまうのか、といえば、主人公が大人達に遠慮をして本音を喋らないからだ。

本音を喋らない主人公に対して大人達も、主人公の本音の中に隠れた不安をどうすることもできない。主人公の不安と、主人公が本音を喋らないことは、結び付いている。問題は、主人公が本音を喋らないことに行き着く。喋るべき者が喋らない問題を解決するために、喋るはずのない者が喋ることが求められた。エビとは、そのままでは本音を喋れない主人公を象徴してもいる。

エビとは落書きだ、という話をした。落書きというからには、それは誰かが描いたものだ。それは誰だろう。その絵の緩さから言えば、子供である主人公が描いたものに違いない。冒頭でも、主人公が自らの手でそれを掴み取っている。

エビは現実を逸脱した落書きでもあった。それは喋るし、病院にも付いていく。そして、その逸脱した現実は、主人公以外の人々にも理解され認知される。このこともまた恐らく、継父が関わる。

継父は、主人公が落書きたるエビを掴み取ることに付き合い、またその落書きが住むための水槽を引っ張り出してくる。その水槽は、昔に継父自身が使用していたものだ、という。だとすれば、継父もかつては主人公と同じように、現実を逸脱した落書きを必要としていたことが窺える。

水槽の枠とは漫画のコマを想起させる。それはともかく、落書きに親しんだ過去のある継父だから、同じく今、落書きを必要とする主人公に善良に振る舞うことができ、また子供の落書きを大人の継父が承認することで、それを家庭外の大人達にも認知させられる。

もしこの落書きが主人公単独の手によるものだったら、他の大人達には理解されず、認知されなかっただろう。もしかしたら、母さえも認知できなかったかも知れない。主人公が今、落書きを必要としていることは、継父だけが理解でき、だからその成立に関わることができ、それを他の大人達にも認知させることができる。

エビは、主人公と継父との、共作の落書きだ。ただその二人の間には、落書きに対して気持ちの差がある。主人公はエビが喋ることは受け入れるものの、しばしば煩がり、あまり歓迎していない。そもそも主人公はエビを、最後にはエビフライにするもの、と決めている。看護師にも、これは友達ではなく食用だ、と言っている。また、ロブスターになる、というエビの夢想を主人公はその都度、否定する。主人公は、エビはただエビであるべきだ、という感覚を持っている。エビの持つ、現実からの逸脱性を、主人公はそれ以上に拡げる気はない。

エビは主人公の不安を解消するために作られた。なのに主人公はエビに関心が薄い。それは、主人公が落書きの力をあまり信頼していないからだ。信頼していないものを、なぜ主人公が作り出したのか、といえば、かつて落書きに救われただろう継父が、そうするように働き掛けたからだ。

主人公は継父に対する不満の中で、すぐに話し掛けてきて煩い、と言っている。継父のその煩さは、主人公の感じるエビの煩さと同質であり、エビに対する主人公の信頼のなさは、継父に対する主人公の信じ切れなさと重なる。エビは継父を模した落書きだ。しかもそれは、主人公と同じくらいか、それ以上に年齢を下げた継父だ。

病院から帰宅して、我慢をしたくなくなった主人公に継父が戸惑った後に、何者かの、主人公への心情と思しきものが描かれる。これが誰なのかが、ここで理解できる。

作中で主人公を「エミちゃん」と呼ぶのは、エビと継父だ。そして、そう名前を呼んだ後に、主人公の名前の由来と、主人公と継父が初めて会ってから今に至るまでのことが短く語られる。この語り自体は第三者的だが、直前に主人公の名前が呼ばれていることで、これが主人公への心情の表現になっている。

語りが第三者的なので、その心情がエビのものとも継父のものとも思えるが、語りの内容は継父の記憶と経験の範疇だ。少なくともエビが語り得るものではない。だが、これはどちらのものとも思えることが重要だ。それによって、エビと継父が密接な存在であることが、ここで示されている。

しかしそれが、なぜここで差し挟まれるのか。それはエビに託していた役割の一部を、ここで継父が引き取ることを決めたからだ。

エビの役割とは、主人公の不安をなくすことだ。そのためにエビは、独りになってしまった時に備えて、大人に代わって、主人公の傍にいて喋る。この大人とは、死んでいなくなってしまうかも知れない母のことであり、母がいなくなったら仲良くなれないかも知れない継父のことでもある。

継父は本来は自分の口から主人公に喋るべきことを、エビに任せようとしている。それは、母が死んでしまった場合の話と、そうなったとしてもぼくはきみを家族として愛し続ける、という話だ。だが、それが継父は恐くて、なかなかできない。

母が死んだ場合の話をし出せば、主人公がどう思うか予想が付かないからだ。傷付けてしまうかも知れないし、嫌われてしまうかも知れない。そもそも、母がいなくなったら主人公のほうが、自分を家族と思ってくれなくなるかも知れない。そう考えると、愛し続ける、という意思にも自信が持てない。喋らないのが問題なのは、主人公だけではなかった。

主人公が本音を喋らないから、その中の不安をどうにもできない、というのだとしたら、それは誤魔化しだ。主人公が本音を喋ろうが喋るまいが、母に死の危険がある現状では、それを不安に思っていることが考えられる主人公に対して継父は、母が死んでしまった場合などについて、自分から喋れるし、喋るべきだ。

しかし継父はそれを恐れ、そうする代わりに主人公と一緒に、喋るエビを作り上げる。だが、主人公と同じかそれ以上に年齢の低いエビには、継父が本来喋るべきことを、代わりに喋るのは難しい。そうこうしている内に、主人公は我慢に疲れてしまい、主人公の心が離れていくのを継父は感じ、主人公に拒絶されるかも知れないことを覚悟して、継父として、主人公の家族として、喋るべきことを喋ろうとした。

その結果、二人は衝突し、二人が一緒にエビを作り上げた印である水槽には、主人公の行動で穴が開き壊れる。エビは怒って、主人公とは家族であることをやめる、というようなことを口走る。それを大人としての継父は、宥めて諭す。

エビは、大人として喋るべきことを喋らない、臆病な継父の分身だ。継父はここで臆病な自分自身を見詰め、諭し、家族とは何なのかを確認している。そうして継父からは臆病さが消え、その継父の分身であるエビは、主人公に対し、継父が本来喋るべきことを喋れるようになる。

継父が喋るべきことをエビから受け取った主人公は、エビに自分の不安を喋れるようになり、それを喋り終えた主人公はエビと一緒に眠りに就き、エビ達に囲まれて楽しく過ごす夢を見る。それは主人公が独りになった場合にエビが果たすはずだった役割であり、もう必要がなくなったその役割は、夢という、落書きが属する領域に返される。

喋る役割を終えたエビには、ただのエビとして、ただの食材として、主人公に食べられて主人公を笑顔にする、という役割だけが残る。エビは継父の手でエビフライになる。エビフライは食べられてなくなっても、主人公と継父の、互いに本音を喋る関係は残る。しかし「エビフライ」なしに、その「喋る」はなかったのだ。ありがとう、エビ。

最後にケチャップのことを少々。

この作品は主人公の、ケチャップ欲しい、という言葉で終わる。それは継父の作ったエビフライを食べた感想を訊かれてのものだ。これはどういう意味だろう。また、この作品に於けるケチャップとは何なのだろう。

作品の終わりには主人公が描き上げた絵があり、そこには、ちょっと味が薄かった、という言葉がある。なら、エビフライの味への不満からケチャップを欲したように思えるが、そうだろうか。というのも、エビフライを口にした主人公は、母に会えた時と同じく、本物の笑顔を見せているからだ。

継父が作ったエビフライは、母のレシピに従って作られたもので、その味も母の作ったエビフライに近いはずであり、そうであれば、主人公が好きな「おかあさんのつくったエビフライ」もまた、ちょっと味が薄いものだった、と考えられる。

だとすれば、ちょっと味が薄かった、という言葉は不満ではなく、エビフライが母の手によるものと同じ味であることを、多少の驚きと感動と共に表明したものと理解できる。しっかりと、ちょっと味が薄かった。一時期は心が離れそうになった継父が、母と同じ味を提供した。それは主人公にとって、今までは本当の家族とは思い切ることのできなかった継父が、今は母と同等の存在になれたことを表している。

それはそれとして、ケチャップの謎が残る。主人公は自分が好きなはずの、ちょっと味の薄いエビフライに、しかし調味を加える。それはやはり不満の表明にも思える。主人公にとって、ケチャップを掛ける、とはどんな意味があるのか。

主人公はこの絵の前に、自分の好物である「おかあさんのつくったエビフライ」の絵を描いている。その絵には、エビフライにケチャップが掛けられる様子が、描かれている。

それから、継父が母に頼らず作った黒焦げハンバーグにもケチャップが掛けられる。ついでに米(?)にも掛けられる。そして最後に継父の作ったエビフライだが、これは主人公が描いた絵では、エビフライに掛けられるのではなく、皿の端に盛られる形だ。

それは今までとは少し違っている。黒焦げハンバーグにケチャップを掛ける場面に表れているが、主人公のケチャップの使い方は下品な印象だ。幼稚とも言える。そもそもケチャップという調味料自体が、子供っぽさを思わせるものではなかろうか。それが最後には、食べ物に直接掛けるのではなく、皿の端に添える、という上品な使い方に変わっている。

主人公は成長している。それがケチャップの使い方に表れている。ケチャップとは言わば、主人公の子供っぽさの正直な発露であり、主人公は家族への態度としての子供っぽさを抑えているが、それが無理して取り繕ったものであることが、ケチャップの使い方の下品さとして表れる。

それが上品に変わっているのは、どういうことか。それは、取り繕い方が上手くなった、とも言えるが、一番大きいのは、子供っぽさ自体が抑えるまでもなく減少したことだ。子供っぽさとは大人達に対して、もっとわたしを愛してほしい、と欲求する心情のことだ。

それが減少したのは何も、愛されたくなくなったわけではなく、自分が母や継父に充分に愛されている存在であることを、主人公が実感できるようになったからだ。別の言い方をすれば、自分が大人達に愛されないかも知れない、独りになってしまうかも知れない、という主人公の不安がなくなりつつあるからだ。

だとしても主人公は、最後にケチャップを欲している。主人公は成長したとはいえ、まだ子供には変わりないし、きっと大人になってもケチャップだったり、ケチャップに代わる別の何かを必要とするのではないか。ただそれは、子供と違って、上品に慎ましく表明されるようになるだけだ。

愛されたい、という欲求は子供に限らず、大人でも持つ。だから母と継父は一緒になったし、継父は主人公に愛されないかも知れないことに怯えていた。大人になると、愛されたい、という欲求を素直に言葉にすることは、ためらわれる。大人は自分が愛されることよりも、先ず誰かを愛することを優先しなければならないものだからだ。まるで、これから産まれてくる妹のために我慢をしなければならなかった、主人公のように。

まだ子供である主人公は、大人と違って、ケチャップ欲しい、愛されたい、と無邪気に言うことが、まだ許される。けれど主人公はそれをちょっと我慢しようとしてみる。もうすぐ母と共に妹が帰ってきて、自分がお姉さんになるからだ。

主人公は食事時には、いつもケチャップを傍らに置いていた。それが、エビフライを食べる時には置いていない。エビフライは薄味だ。薄味を打ち消すものがケチャップであり、それが子供っぽさを象徴するなら、薄味とは大人の味であり、大人っぽさを象徴する。

エビと和解して以降、主人公は生活態度を改め、大人らしい振る舞いを意識するようになる。それは妹を迎える準備であり、お姉さんになる準備であり、大人びていた子供から本物の大人になる準備だ。その仕上げに、エビフライが位置する。それはケチャップからの卒業の意味もあった。

だが主人公は、やっぱり今の自分にはまだケチャップが必要だ、と感じた。そしてそれを隠すことはしない。無理をすれば色々なものを壊すことになる、と主人公は学んだからだ。そして主人公は、ケチャップを我慢しない代わりに、節操を持ってケチャップを使うようになる。ここでケチャップは、子供っぽさを象徴するものから、大人になることを意識した、子供なりの節操を象徴するものへと変化する。

エビフライは料理だから単体で成立する。だが、ケチャップは調味料だから、何らかの料理なり食材なりと組み合わせなければ、成立しない(まさかケチャップを直飲みとか、する?)。この作品の核心は、エビフライではなく、ケチャップのほうであり、主人公のケチャップの使い方の変化を鮮明に描くための器として、「エビフライ」は作られたのだ。