「死にたい」考

死にたい、と言う人がいる。SNS以前の時代なら、その言葉は、随分と身近な人か、とても有名な人の言うものしか、人々は聞くことがなかったはずだ。

それが今では、よく知らない人の言う「死にたい」まで、人々は聞けるようになった。みんな、身近でなくても有名でなくても、誰でも電子的な通信ないし出版放送に手軽気軽に参加でき、言葉を、不特定多数を相手に、届けたり受け取ったりできるようになったからだ。

そして、世の中には案外と「死にたい」と言う人が、ごろごろと転がっていることに気付かされる。問題を抱えた人を専門に相手をする、医師のような立場の人であれば、そういう光景は見慣れたものであり、別に動揺することもないだろうが、医師でも何でもない人なら、そうもいかない。

ましてや、よく道端や街角にも喩えられるSNSでのことだ。そんな場所で、「死にたい」と呻いている人に突然、出会って、普通の人は動揺しないわけがない。

そうして恐る恐る近付いて、声を掛けたりしてみると、心配してくれてありがとうございます、などの、想定通りで極めて無難な返答があることもあれば、どうか気にしないでください、という、不可解な返答があって戸惑うこともある。「死にたい」という物騒な言葉を、大勢の人が見ていることを承知の上で出しておいて、これを気にするな、とはどういうことか。

中には、あなたが一体何をしてくれるのか、と食って掛かられることさえある。要は、わたしの「死にたい」に一々反応してくれるな、迷惑だ、鬱陶しい、ということらしい。前二者についても、自分から誰かに届くように言った手前、責任を持って丁寧に対応してはいるが、最後者と通底した心情があるらしいことが感じられる。

SNS以前の時代、よく知らない人から自分に届く「死にたい」は、書籍や新聞、映画やテレビなどからのもので、それは事実に基づいたものだったり、架空のものだったりするが、どれも似た形をしたものだったように思われる。似た形をしていなければ、それは媒体を通ることができなかったのではないか。

そうして自分の許に届いた、どれも似た形の「死にたい」には、どれも似た形の心配の言葉を、人々は用意した。そうして相手から、これまた似た形の返答の言葉があると、人々は期待した。

SNSの時代になっても、相変わらず、よく知らない人の「死にたい」は媒体を通して届く。だから、人々は以前と変わらない心配の言葉を用意した。筆者も用意した。そしてそれを届けることが最善無難と人々は考え、そうすれば、これまた最善無難な返答が相手からあるものと期待した。筆者も期待した。

どうも違った。

SNS以前は、よく知らない人の「死にたい」が届いても、心配の言葉を用意するだけで、それを実際に届けることはなかった。届けようと思えば届けられないことはなかったが、届ける手間が、膨大煩雑とは言わないまでも、掛かった。だから大抵の人は、それを届けずに終わらせた。

今は指先を少し動かすだけで、それを届けることができる。届けられるものなら届けてみようか。そうして、今まで用意されるだけで終わったものが、実際に届けられるようになった。そして、その用意されたものを相手がどう思ったかも、瞬時に届け返されるようになった。

それで解ってきたのは、「死にたい」の言葉の表面的な単純さの奥に、もっと複雑で屈折した何かがあるらしいことと、その何かが何であるのかを、「死にたい」を聞く側も言う側もよく分かっていないらしい、ということだ。

なぜ分からないのか、といえば、生(なま)に近い「死にたい」なんてものを、誰かに知られるような機会も、誰かのを知ってしまう機会も、これまでになかったからだ。SNSの発生は生に近い「死にたい」について、見知らぬ者を相手に知られることや知ってしまうことを可能にし、SNSの発展は、見知らぬ者の範囲を拡大した。

そこで生じるのは、生に近い「死にたい」を前に、それを適切に処理しなければならない、という問題であり、その適切な処理方法を我々がまだ熟知していない、という問題であり、その適切な処理方法を我々が学ばなければならない、という問題だ。

生に近い「死にたい」を誰も表に出さず、表に出てしまったものを誰も気にしない、ということを誰もが徹底できれば、これらの問題は生じないが、それは期待できない。人々はしばしば、それがあれば表に出さずにはいられず、それが表に出ていればどうしても気になってしまうものだろうからだ。

これまでは表が広く、そこに何を出しておこうと、誰の目に触れることもなかった。今は表が狭く、そこに何かを出しておけば誰かの目に触れてしまう。それは、いい面もあれば悪い面もある。

そして我々は、表の広かった時代に戻ろうとは、あまり思わないようだ。戻ろうと思えば、個人の意思で、人はいつでもそうできるはずだからだ。人はSNS抜きに生きられるし、生きてきた。にも拘らず、表の狭いSNSの時代を、我々は好き好んで生きようとしている。

なら我々は、SNS時代を生きるのに必要なことを、学んで熟知していかなければならない。そうするにはどうすればいいか。目の前にある問題に向き合い、手を出して痛い目を見るなりして考えればいい。というか、その原始的な方法以外に、我々ができることがあるだろうか。

学ぶ、とは何かに手を出して痛い目を見て考えることだ。我々が賢くなるには、学ぶしかない。賢く生きるには学ぶしかない。あるいは、生きることと学ぶことは、同じかも知れない。

それはともかく、筆者の目の前にある問題の一つは、「死にたい」人々のことだった。筆者はその人々に関わり、時に痛い目を見た。そして考えた。

ところで、考えると学ぶは、どう違うか。人は自分の考えから学ぶこともできれば、他人の考えから学ぶこともできる。筆者は自分を学ばせるために考えた。そして、筆者以外の誰かの学びになってくれればいい、と期待して、筆者が「死にたい」について考えたことを、これから記していく。

「死にたい」と言っている人がいたら、あなたはどう思うか。その人は近い内に死ぬかも知れない、と思うだろう。「何か食べたい」と言っている人がいたら、あなたはどう思うか。その人は近い内に何か食べるかも知れない、と思うだろう。

そして実際に、「何か食べたい」と言っている人は近い内に何かを食べるはずだ。正確に言えば、その人は何かを食べるための準備を進め、それが整ったら、何かを食べる。「眠りたい」と言っている人は眠る準備を進め、それが整ったら、眠る。「おしっこしたい」と言っている人はおしっこする準備を進め、それが整ったら、おしっこする。

では、「死にたい」と言っている人は死ぬ準備を進め、それが整ったら、死ぬのか。多分、死なない。そもそも、その人は死ぬ準備をしていないだろう。近い内に死ぬような人は、恐らくは「死にたい」とは言わない。

死ぬ準備を進めている間は「死にたい」と全く言わないことはないかも知れないが、「死にたい」と言う気は薄れているはずだ。そして準備が整ったら、死ぬ。これは「何か食べたい」と言っているのと、どういう違いがあるのか。

「痩せたい」と言っている人を思い浮かべてみよう。その人は痩せる準備を進め、それが整ったら、痩せるのか。多分と言わず、痩せないだろう。痩せる準備もしていない。痩せられない人が専ら「痩せたい」と言う。痩せられる人は「痩せたい」とは言わない。

「何か食べたい」は、これから何かを食べる意思があることの表明だが、「死にたい」は、これから死ねればいいという願望があることの表明だ。○○したい、という表現には、意思があることの表明と、願望があることの表明の、二通りの意味がある。

というより、意思があることの表明をする場合は、○○しよう、と言うべきなのだが、その意思がある者は願望もあるはずなので、○○したい、と言うこともできる。このことから、願望があることの表明が、その意思があることの暗示にもなってしまい、混乱が生じる。

「死のう」と「死にたい」は本来は別だ。そのことを、「死にたい」を聞く側は心に留めておくべきだし、「死にたい」を言う側は、それが「死のう」を暗示してしまうことを心に留めておくべきだ。

では、それさえ済めば問題がなくなるのか、といえば、そうではない。そこに「死にたい」があることに変わりはないからだ。「死にたい」は「死のう」ではないから安心、というわけにはいかない。願望は意思に発展する可能性がある。

「痩せたい」が「痩せよう」になって痩せる、とすんなり行くことは殆どない。しかし「死にたい」が「死のう」になって死ぬ、とすんなり行ってしまうことはある。痩せることと違って、死ぬことは、瞬間的な勢いで達成されてしまうからだ。自死の達成に、長期の意思の継続は必要ではない。

寧ろ、意思の永久的な断絶が死だ。自発的な死に、意思の強さはあまり重要ではない。願望の強さが勢いを与えるかが重要だ。自己の願望だけが肥大し、自己の意思が不要になっていくことの先に起こるのが自死、とは言えないか。

それはともかく、自死には願望が強く影響するように思われる。願望が弱まれば、自死の可能性も弱まる。断っておくが、筆者は誰かの自死を何が何でも防ぎたいわけではない。強い意思を持って選んだのであれば、その誰かの自死を尊重すらしたい。逆に、強い意思の伴わない自死は軽蔑するし、蹴飛ばして差し戻したい。

筆者が感じるのは、世の「死にたい」願望は相当に膨らまされたものなのではないか、ということだ。これまで何人か、「死にたい」人々を見てきて、その中の数人とやり取りもあったりしたが、どうにもその願望がどういうものか、掴めない。

他人の「死にたい」を簡単に理解できるものとは思わないが、ではその当人は自分の「死にたい」をしっかり理解できているのだろうか。寧ろ、理解できずにいて、だから肥大するばかり、という印象だ。

「死にたい」を理解できれば、その肥大は収まり、縮小する。というより、整理できない問題だったりを何もかも「死にたい」に放り込んで済ませていて、だから肥大が進むのではないか。

「死にたい」は万能だ。死ねば何もかも解決する。「何か食べたい」も「眠りたい」も「おしっこしたい」も。死ねばどんな欲求や願望も抱くことがない。願望がなければ絶望もない。だからといって、「死にたい」人々もさすがに「おしっこしたい」の解決に自死を選ぼうとは思わないだろう。

「眠りたい」は自死に繋がりそうだが、眠れないだけなら起きていればいいだけのようにも思える。だが、眠るは休むであり、休みたいのに休めない、というのが問題で、もっと言えば、休む必要があるのに休むことが許されないのが問題だ。

休む必要というのは、消耗から回復する必要であり、なぜ回復しなければならないのか、といえば、次の消耗がすぐに待ち受けているからだ。もし次の消耗がないのであれば、消耗したままでも構わないかも知れない。

休む必要が生じることを与えられながら、休むことが許されない、ということに問題は帰着する。「眠りたい(休みたい)」という願望を解決するには、休む必要が生じることを与えてくる者か、休むことを許さない者をどうにかすればいい。だが、簡単にどうにかできるものなら、悩みはしないだろう。

どちらと争うにも、争う意思を持ち、その長期の継続が必要となってくる。この時、「眠りたい(休みたい)」が問題なので拗れる。その願望は、消耗した状態にあって生じるものだからだ。消耗した状態で、争う意思を長期に継続することは困難だ。

争う相手が強力で、かつ自分は消耗し、争う意思を維持できない。そうなると「死にたい」が浮上してくる。死ねば、争う必要もなくなるし、死の達成に長期の意思の継続は不要だからだ。消耗が「眠りたい(休みたい)」を生じさせ、消耗が更にそれを「死にたい」に飛躍させる。

「死にたい」を整理してみると、最初の原因は何者かから与えられた消耗であり、その消耗が争う意思を継続する力を奪い、それが原因を温存し、消耗状態を固定し、消耗状態だからこそ「死ぬ」が有力な解決手段となるのではないか。

なら、消耗が「死にたい」を招く第一の原因であるように思われる。そして、第二の原因として恐らくは、孤独や孤立がある。消耗状態の人が自分だけで消耗を解決しようとすると、切羽詰まる。消耗状態でありながら消耗を解決しようとすると、更に消耗を深めるからだ。しかし消耗を深めないようにじっとしていても、消耗は深まる。消耗は外部から供給されている。

単に孤独や孤立の中にいるだけでは「死にたい」はやって来ない。また、消耗があっても、孤独や孤立の中にいなければ、「死にたい」は膨らまない。誰かに消耗を緩和してもらえたり、休息を援助してもらえれば、消耗が「死にたい」に流れ込むのを抑制することができる。

思い返してみると、これまで見てきた「死にたい」人々は共通して、何らかの消耗を抱えつつ、孤独や孤立に囚われていたように思われる。親しい友人がいたりいなかったりするが、それはあまり関係なく、消耗に独りで向き合い、誰かに助けを借りることができないでいたように思われる。

だがそこには、誰かに助けを借りたい、と願う気持ちはあまり感じられない。誰かに助けてもらえるものなら助けてほしいが、わたしを助ける力を持っている人など誰もいないだろう、という諦めが代わりにあるように感じられる。

「死にたい」の第一の原因は消耗だ、と言ったが、この消耗はもう少し腑分けできる。消耗とは、身体的なものであっても、それを通じて心を疲弊させるものであり、結局は精神的消耗のことを指している。そして、その精神的消耗に抵抗できない、自分の弱さのことも指している。

もし自分が強ければ、消耗することなんてなかったのに。疲れて何もかも嫌になることもなかったのに。消耗には外的要因と内的要因に分けられる。外的要因は仕事や人付き合いなどで、内的要因は前述したように、外的要因に抵抗ないし適応できない自分の弱さだ。

仮に現在の外的要因を解決したとしても、別の外的要因がやって来れば、また消耗が始まる。外部には消耗要因が溢れている。これ自体を解決する術はない。外的要因に対処しようとするだけ無駄ではないか。一方で内的要因である自分の弱さはどうか。

自分を鍛えていく方途もありはするが、それで強くなれるものなら、とうに強くなっている。鍛え始めようもないほど弱いから、行き詰まっている。しかも、鍛えていったところで、ちゃんと強くなれる保証もない。だが、弱いなら弱いで、それを解決の糸口にできる。弱いものは潰して消してしまえばいい。つまり、弱い自分など潰して消してしまえばいい。

これは拒食症にも通じる。拒食症は、母に抑圧される娘に起こり易い。娘は母に抵抗できないし、かといって逃げることもできない。そこで娘は、母に抵抗する代わりに、母に抵抗できない、弱い自分に抵抗する。抵抗とは、相手を制御することだ。娘は食を絶つことで、弱い自分を制御して、自分に対して強者として君臨することができる。

弱い者が強くなることは難しいが、更に弱くなることは簡単だ。自分で自分を見捨てればいい。自分に対して非情になればいい。弱い自分に情など湧かない。自分を自分で弱らせて潰すことが、弱者にとっての弱者からの脱出方法だ。

つまり「死にたい」の核心とは、自分の弱さに対する、失望と苛立ちではないか。別の言い方をすれば、自分は強くならなければ、という焦りが、弱い自分を、他ならない自分の手で押し潰させようとするので、死にたくなる。

なぜ強くならなければと焦るのか、といえば、強ければ消耗しなくて済む、と感じているからだ。消耗とは人生を通しての抽象的な苦悩だ。自分が強ければ自分の人生は、苦悩のない、良いものだった、と思っているなら、自分の人生が、苦悩だらけの悪いものであるなら、それは自分が弱いからだ、とも思っている。

自分が弱いから、自分の人生は悪い。弱いのは悪い。弱い自分は悪い。悪い人生は要らない。弱い悪い自分は要らない。そのようにして、自分にとって自分(の人生)が要らなくなる。

「死にたい」を考えて、行き当たるのは、こういう理屈だ。これが「死にたい」への正確な理解だとして、これを踏まえて、「死にたい」を言う人はどうするべきか。「死にたい」を聞いてしまう人はどうするべきか。

「死にたい」を聞いてしまう人にできることは、「死にたい」が自分のことではなく他人のことである以上、無視して放っておくか、近寄って助けるか、の二つだ。前者であれば何も考える必要はない、後者であればその人にとっても重要なのは、「死にたい」を言う人はどうするべきか、ということになる。

「死にたい」を言う人はどうするべきか。弱いことは悪い。悪いものは要らない。要らないものは消え去るべきだ。そう固く信じているのなら、止めはしない。他人による、その他人自身の人生への決定なのだから止めようもない。

では、その決定を迷っているとしたら、どうするべきか。決定を迷わせるものがあるなら、その迷いを的確に認識し、追究して克服し、当初の決定を信じられるようになるか、当初とは別の答えを見付けて、別の決定を下すようになるのか、だ。

その迷いとは、弱いことは本当に悪いのか、悪いものは本当に要らないのか、要らないものは本当に消え去るべきか、だ。あるいは、悪い人生、悪い自分、弱い自分、それは本当に悪いのか、本当に弱いのか、といったことかも知れない。

こちらから何らかの答えを教えてあげても、意味はない。その人が自分の意思で答えに辿り着かなければ、迷いを克服したことにはならない。「死にたい」と言う人にできることは、あなたが思っていることや感じていることは本当か、と問い掛けることと、答えに辿り着こうとする努力を支えてあげることくらいか。

弱い自分や悪い人生に、価値はない。そうかも知れない。なら強い自分や良い人生に、価値はあるか。強い自分はともかく、良い人生とは何だろう。人生の良し悪しとは何だろう。それは、その人が自分の生をいかに肯定できるどうか、に尽きるのではないか。

苦悩と無縁の人生を、退屈で悪いと感じる人もいれば、苦悩だらけの人生を、退屈しないので良いと感じる人もいるかも知れない。いや、苦悩と無縁という人なんて、あまりいない。多くの人は何らかの苦悩を抱えている。そうでありながら、死にたくならずに生きているはずだ。

ここで言いたいのは、多少の苦悩を抱えて生きることは普通なのだから、それで死にたくなるのはおかしい、ということではない。人が多少の苦悩を抱えるのも普通だし、それで人が生きられたり死にたくなったりするのも普通だ。普通の条件下で普通に死にたくなっているなら、そこから普通に生きられるようになるのも可能なのではないか、ということが言いたい。

これまでに見てきた「死にたい」人々は、誰もがある程度の特殊な事情を抱えていたように思われる。けど、それは決定的なことだろうか。特殊な事情は、普通でないから、特殊と言われる。だが、特殊な事情を抱えることは特殊か。

それぞれ特殊な事情を抱えている人もまた、普通に世の中にいる。そして、その人達も普通に生きられたり、普通に死にたくなったりしているはずだ。特殊なことは何も特殊でない、という逆説がここにある。

「死にたい」人々は、自分は特殊な事情を抱えているから死にたいのだ、と思い込んでいる節がある。それなら特殊な事情を抱えた人達は誰もが病んでいるはずだが、世の中、そうなってはいない。

「死にたい」人々の事情は特殊中の特殊なのだ、といえば、それも違うだろう。そんなに特殊極まる事情なら、それで本でも書いて出版してみればいい。多くの同情と収入が得られるだろう。

実際には、「死にたい」人々の特殊な事情なんて、本にしたってちっとも売れないような、「普通」の範囲なのだろう。それでも、その人自身が「死にたい」と思うには充分だ。寧ろ、自分が思うほどには、世の中は自分の特殊な事情を重大に評価してはくれないからこそ「死にたい」のかも知れない。

ここに「死にたい」人々が心理的孤独に陥る余地が、生まれるのではないか。自分の抱える、自分では特殊で重大と思っている事情を、世の中にも特殊で重大と認めてほしいから、「死にたい」と考え、そう口走る。

「死にたい」は自分の命を使った、自分の事情へ自ら張り付けた重さ表示であり、それは自分の事情に対する他人からの評価への抗議であり拒絶だ。

わたしは「死にたい」ほどに特殊で重大な事情を抱えた人間だ。誰であろうと、この「死にたい」の価値を下げるようなことはできないし、そうすることは許さない。誰にも、わたしの「死にたい」は解体させない。

今一度言うが、「死にたい」人々がなぜ死にたいのか。その呟きに耳を傾けてみても、一向に要領を得ない。精神的な病いで苦しい、などとも言うが、それは正確な理解ではないように思われる。

彼らは自分に「死にたい」と口走らせる何かを抱えており、それを精神的な病が増幅しているか、その何かこそが精神的な病を生んでいる印象だ。彼らの苦しみの本質は、彼らが予め抱えている何かであり、しかし彼らは、その何かの正体を問う意思が希薄であるように思える。

そして、まるでその問いごと自身を葬り去りたいかのように、「死にたい」と繰り返している。だとすれば、その問いの答えは彼ら自身が知りたくないものである、と彼らは予感しており、だから問いそのものを葬り去らなければならず、彼らは「死にたい」のではないか。

彼らがどうにも知りたがらないものの正体は、彼らそれぞれが抱えた特殊な事情であるかも知れず、深いことは言えない。ただ一つだけ言えるとすれば、彼らが抱え、彼らが自分で思う、その事情の特殊さや重大さは、彼らの中だけで通用するものであって、それは世の中にとってそれほど特殊でも重大でもないし、そのことは決して覆らないだろう、ということだ。

まとめて言うと、彼らが「死にたい」のは、なぜ「死にたい」と思うのか、というその問い自体を葬り去るためだ、という結論になる。問いが消えれば、答えを導く必要もなくなる。「死にたい」問題を解決するために死にたい。やはり「死にたい」は万能だ。自身が存在する、という問題さえ解決してしまう。

そして、「死にたい」と言う人に会ったらどうするべきか。早く立ち去るか、何か手助けするかだ。何を手助けするべきかは、「死にたい」と言う人自身はどうするべきか、とも通じる。

「死にたい」を解決するには、一つには死んでしまうことだ。でも「死にたい」人々は、そう簡単にはそれを選ばない。死んでしまえば、全て終わって取り返しが付かないからだ。全てが終わるのだから、取り返しが付かなくても一向に構わないはずだが、本当は終わりたくないし、できる限り、取り返しは付いてほしい、と彼らは感じているのだろう。

なら、すべきことは、取り返しの付く方法を試し尽くすことではないか。それを試し尽くして、何も当たらなかったら、最後に残された、究極の正解である、死が残る。そうして、死ぬしかない、と信じられるなら、心置きなく死ねて全ては解決する。

では、取り返しの付く方法とは何か、というと、それは人や事情によって数限りないので、具体的に書くことはできないが、少しずつ自分を試し続けること、とは言える気がする。試す、とは何かというと、自分を何らかの環境に曝して、その反応を観察して、自分というものの性質を確かめることだ。

「死にたい」のは、なぜ自分が「死にたい」のか、その本当の理由と向き合いたくないからだ。そこには原初の「死にたい」があり、それをまるごと呑み込んで覆い隠してしまうための、漠然とした、偽の「死にたい」がある。

原初の「死にたい」の強烈さから逃れるために、偽の「死にたい」を膨らませ、その中に原初の「死にたい」を放り込んでしまったために、原初の「死にたい」と接触できなくなり、ずっと偽の「死にたい」が膨れるばかりになる。

偽の「死にたい」をどうにかするには、原初の「死にたい」をどうにかするしかないのだが、それは、原初の「死にたい」と接触したくないために作られた、偽の「死にたい」に阻まれてしまう、という形だ。

偽の「死にたい」は単独で取り除けるものではない。それを取り除くと、原初の「死にたい」に直に接触することになる。すると、その「死にたい」に蹂躙され、死ぬことになる。それに接触して問題ないなら、最初から偽の「死にたい」は必要ない。偽の「死にたい」は、原初の「死にたい」から自分を守るための防衛機制だ。

原初の「死にたい」が、偽の「死にたい」を作って膨らませる。偽の「死にたい」があるから、原初の「死にたい」に接触できない。偽の「死にたい」がなくなったら、原初の「死にたい」に接触して死ぬ。偽の「死にたい」に押し潰されても死ぬ。どうすればいいのか。

偽の「死にたい」を通じて、原初の「死にたい」を緩やかに感じ取り、理解し、操作すればいい。というのが、前に言った、少しずつ自分を試し続けることの意味だ。偽の「死にたい」は、原初の「死にたい」の強烈さを、直に浴びないためにある。それは原初の「死にたい」を適切に取り扱うための装備でもある。

原初の「死にたい」は強烈かつ複雑で、瞬時に解決できるものではないし、接触すれば短時間で心を病む。偽の「死にたい」はこの間に入って、原初の「死にたい」の強烈さを分散し、その複雑さに向き合う余裕を与えてくれる。

原初の「死にたい」の厄介さは、恐らく、強烈かつ複雑なことで、その解体を容易にさせないところにある。しかし、容易ではないだけで、解体は可能だ。複雑さは、分解していけば、単純なものの組み合わせでしかない。生来の絶対的な複雑さ、などというものはない。

それでも分解する者の能力によっては、解決できない複雑さが残る。そこまで行って、もし「死にたい」が充分に縮小したなら死ぬことはないし、そうならなければ、その事実が死の決行を後押ししてくれるだろう。しっかり生きるにしても、しっかり死ぬにしても、原初の「死にたい」に接触し、その解体を試みなければならない。

そのために、原初の「死にたい」を覆い隠す、偽の「死にたい」を慎重に観察し、触り、感じ、判断しなければならない。それは自分を正確に知覚する作業でもある。あるいは、それが面倒だから人は、偽の「死にたい」に押し潰されたほうが楽だ、と思ってしまうのかも知れない。

自分を正確に知覚するのが嫌なら、自分というものを葬ってしまえばいい。知覚するべきもの=自分がなくなれば、すべきことはなくなる。何もしたくない。何も知りたくない。何も感じたくない。だが、そう思うことや感じることを、やめる気はない。今知っている自分だけを、ずっと知っていたい。

それは自分が変化することへの恐れであり、だが生きていれば人は変わっていかざるを得ない。それは生への恐れでもあり、老いることへの恐れでもあるかも知れない。変わりたくない。老いたくない。死は自分を永遠に固定する。老いることもなくなる。

いや、人の生や変化や老いの終着点であるのが死で、別の見方をすれば、そこへ速やかに一足飛びに着きたがっているだけなのかも知れない。変わりたくないのでも、老いたくないのでも、ない。自分が少しずつしか変わったり老いたりできないのが、我慢ならない。

変わりたくない。あるいは変わることが不可避であるなら、最後の状態まで、一瞬で変わりたい。そのどちらであっても、それを解決できるのが死だ。これが「死にたい」の主要な意味なのだとすれば、変わるのはいいが最後の状態まで一瞬で変わってしまいたくはない、というのが生きることの意味、生きたいことの意味なのかも知れない。

生きることとは、少しずつ良くも悪くも変わっていく自分を知覚し続けることであり、これを嫌だとか面倒だとか思うなら、死にたくなる。

もし「死にたい」を脱するのであれば、少しずつ良くも悪くも変わっていく自分を知覚することを死ぬまで続けることに、承服できなければならない。これは、嫌だからどうにかなる、というものではない。これに承服はできないけど生きたい、あるいは死にたくない、といっても、それは決して叶わないだろう。

人が誰かを助けようとするのは、互いにより良く生きるためだ。人が「死にたい」人に関わろうとするのも、「死にたい」で潰されそうな「生きたい」を救出し擁護するためだ。もし「生きたい」がそこに絶対にないことが明白であるなら、人は「死にたい」人に関わることはない。

「生きたい」を決して肯定できない人を、苦しく不愉快な思いまでして、人は助けない。自分がより良く生きることのために、無駄だし邪魔だからだ。なので、「生きたい」人と「死にたい」人が、そこに「生きたい」がないことを確認し合うことは、互いにとって重要だ。

生きたい人はちゃんと生き、死にたい人はちゃんと死ぬ。人は、生きるか死ぬか、しかない。中間はない。そして、「生きたい」があるにも拘らず、死ななければ、と思ってしまっているのも、「生きたい」がないにも拘わらず、生きなければ、と思ってしまっているのも悲劇だ。悲劇は、それを楽しむ目的がないのであれば、さっさと終わらせるべきだ。

「生きたい」のか、「死にたい」のか、とは問わない。生きることとは、少しずつ良くも悪くも変わっていく自分を知覚し続けることだ。これを、あなたは承服できるだろうか。この問いへの答えを明確に持っておくことが、「生きたい」にしても「死にたい」にしても、その支えになるはずだ。

なぜTwitterで「死にたい」と言う人がいるのか、ずっと不思議だった。「死にたい」と思う人がいるのは、分かる。筆者も似たことを思っていた時期はあったし、それを外に漏らしたこともあった。でもそれは、2ちゃんねるという同じSNS上であるとはいえ、「死にたい」について語るスレッドでのことであり、そこ以外で漏らしたことはない。

Twitterではスレッドの代わりに、属性が近い人達が互いにフォローし合って、特定の話題について話すことになる。語る場を作ったり探したりするのではなく、語る人を探したり、語りたい人に見付けてもらわなければならないので、「死にたい」を公開で言う必要はある。

それでは無用な軋轢も多く生じる。にも拘わらず、なぜ2ちゃんねるではなくTwitterで話すのか。Twitterのほうが機能面で優れているから、という理由はあるかも知れない。そうだったとしても、2ちゃんねるにしろ、Twitterにしろ、効率よく「死にたい」人と出会い集まって、果たして彼らはどうしたいのか。という疑問に、最後はぶち当たる。

互いに励まし合って生きたいのか。互いに背中を押し合って死にたいのか。あるいは自分がそのどちらであるかを、確かめたいのか。はたまた、そのいずれかでもあって、自分でもどうしたらいいのか、決めかねているのか。

「死にたい」人にも色々いる。常時「死にたい」を夥しい頻度で繰り返していて、何なんだこいつ、と思わず言いたくなるのがいて、これは「死にたい」人同士で繋がりたい、言ってしまえば2ちゃんねるのその手のスレッドに居着いているのが、外部に可視化されたものだろう。それにしても異様だけど。

そしてそれとは違って、普段は「死にたい」とは言わないが、生活の中でちょっとした躓きに遭った拍子に、突発的に、冗談ではなく言ってしまう人。突発的ではなく、それでスイッチが入って、しばらく「死にたい」といったことを繰り返し、やがて収まる人。というのがいる。こちらは、言うなれば、その手のものとは関係ないスレッドで、突然に「死にたい」と書き込むような人だ。

「死にたい」について語るスレッドで「死にたい」と言う分には、変わったところはない。しかし、その手のスレッドではない、例えば、面白い漫画を発見したら報告するスレッドなんかで、「死にたい」と言えばどうなるか。

それが大所帯なスレッドであれば、スレ違い、と排除されて終わりだろうが、過疎スレッドであれば、同じスレッドに寄り付いたよしみで心配してもらえるかも知れない。そして、Twitterの一般的なアカウントなんて、どれも過疎状態のスレッドみたいなものだ。

とはいっても「死にたい」だ。心配して、励ましたり慰めたりはできても、それを解決することは、互いに匿名かつ素性不明の関係では難しい。ちゃんとした知り合いだったとしても難しいだろうから、なおのことだ。

だから筆者は、自身が「死にたい」と思っていたとしても、大っぴらに「死にたい」とは言わない、という感覚がある。言ったところで、誰もそれを解決してはくれないし、解決できない。「死にたい」を根本的に解決できるのは、自分しかいない。

心配や励ましや慰めは、もらえたら嬉しいものの、自ら求める気はない。誰かに余計な負担を掛けるのは心苦しい。そういう状況で、なおも「死にたい」と大っぴらに言わなければならないとしたら、余程の切迫した事態だ。そう、筆者は考える。

ということで、「死にたい」とSNSで言う人を見掛けると、つい焦って、拙速な振る舞いをしたりした。その反省の意味も含めて、この記事は書かれている。しかして、その反省の結論は、SNSで発信される「死にたい」をあまり重く受け止め過ぎてはいけない、勿論、軽く受け止め過ぎてもいけない、というものだ。

「死にたい」は心の発熱のようなものであり、それが可視化されたものだ。発熱の原因はその人の内側にあり、本人が自分でそれを治癒するしかない。他人がどうにかできるものではない。

放っておくしかないが、ただ放っておけばいいのか、といえば、そうとも言えない。その発熱で、人は死に至るからだ。他人にできるのは、自己治癒を援助することだけだ。しかし発熱の原因は、人によって異なる。何を援助すべきかも異なる。

間違った援助は、却ってその人の邪魔になる。何を援助すべきかは、その人の口から聞くべきだが、かといって援助すべきことをその人自身が正しく把握し表出できるのか、という問題がある。弱っている人の自己判断能力を、そう当てにすべきでもない。

そうなると、他人ができることは、その人の近くにいて、その人の「死にたい」に耳を傾けつつ、拙速な判断は避けながら、その人が欲しがっているものを提供できるなら、慎重に提供して様子を窺う、ということになる。

これは、「死にたい」を聞いてしまう側が知っておくべきことだが、「死にたい」を言ってしまう側が知っておくべきことでもある。他人ができるのはここまでだし、他人にはここまで求めていい。後は、発熱にどれだけ付き合おうとするか、それぞれの問題だ。それがSNSで「死にたい」を介して生じた関係の、お互いの着地点だ。

以上が、筆者が「死にたい」について考えたことだ。

はっきり言ってしまえば、筆者はSNSで「死にたい」と繰り返す人達の気が知れない。だからこそ、どういう事情なのか知ろうと、野次馬的な関心も含みながら、彼らを観察し、時に関わり、考えて、この記事を書いた。

それが彼らの事情をしっかりと言い当てられているのか、いないのか、分からない。ちっとも当たっていなくて、彼らを不愉快にさせるかも知れない。あるいはきっちり当たっているからこそ、不愉快にさせるかも知れない。

どちらにしても、最後にもう少しだけ言わせてもらうと、「死にたい」を聞いてしまうのは、大抵の人には不愉快なことだ。しかし、そのことで彼らを責めたいのではない。

もし周囲を不愉快にさせることを半ば承知で、それでもSNSで「死にたい」と漏らす自由がわたし達にはある、と言うならこちらにも、あなた達を不愉快にさせることを半ば承知で、それでもSNSで「死にたい」を聞いてしまって感じたことや考えたことを、SNSで発表する自由がある、と言いたい。

お互いに助け合ったり不愉快にし合ったりしてしまうのが、人が人と生きることでもある。それを筆者は、多少は不愉快でも、肯定するつもりでいる。