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キリエ作、漫画「スターチス」を読む


主人公の正体は、何百年も生きてきた、人になり代わる、人ならざる者らしいが、その内面はとても人間臭い。

色々な人間になり代われても、そこに自分は成立しない。成立しない自分など、誰にも愛されないから、死んでしまおう、などと、主人公は考える。

死ぬために出掛けた「天国のような山」で、主人公は、首を吊って死んでいる亜希を見付ける。

主人公は亜希の遺書と記憶を確かめる。亜希は虐められっ子で、弱くて情けない自分ではない、他の誰かになりたくて、なれなくて自死したようだ。

そして、誰かになる必要もない、そのままの亜希を、愛してくれていた陽の存在を、主人公は亜希の記憶の奥に見付ける。主人公は、自死を選択しようとした自分も亜希も間違っていた、と思い、亜希を葬る、ささやかな墓標を立て、亜希になり代わって生きる。

主人公は亜希として陽と過ごす。その陰で、自分と同じ、人になり代わる、人ならざる者を、主人公は殺して回っていた。そんなことをしている、本当の自分を、陽に知られて嫌われるのが怖くて、主人公は陽から離れようとする。

陽から離れる前に主人公は、亜希の墓標のあるところへ陽を連れていき、亜希の遺書を感謝の手紙として、陽に渡す。

陽から離れた主人公はしかし、陽に会いたい思いを募らせる。そして、堪らず陽に会いに来ただろう主人公は、自分と同じ人ならざる者に、陽が襲われているところに遭遇する。

主人公は、おれ達は間違っている、と人ならざる者に告げ、それを葬る。主人公は陽を愛してしまった。だから、これから人ならざる者をぶっ殺す、と決意する。

気絶から目を覚ました陽は主人公を見て、亜希だ、と嬉しそうに笑う。主人公は、自分は何者でもないが、今亜希として生きている自分自身と、亜希を愛している陽を、守ろう、と心に誓う。

主人公は、おれ達は間違っている、と人ならざる者に告げた。おれ達とは、当然主人公自身を含む。そして主人公は亜希と共鳴していた。亜希は人ならざる者と同質だ。

人ならざる者は陽になり代わろうとしていた。だとすればそれは、亜希が陽になり代わろうとしていたことに等しい。亜希は眩しい存在である陽になりたがっていた。だが、そんなことはできないので、自死した。

そうして死んだ亜希を引き継ぐのが、人ならざる者である主人公だ。主人公はその死を、間違いだ、と言っている。陽になりたがることも、なれなくて死んでしまうことも、間違いだ、と。

人ならざる者は、亜希の死、亜希の挫折から生まれ分裂した、亜希の善と悪の心だ。亜希は陽になりたくて、なれなくて死んで、改めて陽を見詰め直し、どう自分を生きるべきかを見詰め直し、生まれ変わった。

亜希は人ならざる者ではなく主人公として、昔の間違った自分、人ならざる者を葬り、陽と新しい関係を築く。そうすることで亜希は、眩しい陽と並んで生きることのできる、人になれる。

日常の人々の中に隠れ潜む怪物を、誰にも知られず闇に葬る、おれ。中二病じゃん。

そんなおれは何百年もの間、色々な人間になり代わって、色々な世界を生きてきた。それは、小説とか漫画とか映画とかビデオ・ゲーム、虚構の隠喩だ。

いくらそれらの世界を長く生きてみても、自分は「主人公」ではない。「主人公」になった気分で世界を眺められるだけだ。

どんなに虚構の中の登場人物を愛したところで、その登場人物は自分を愛してくれない。その登場人物が愛するのは「主人公」で、自分ではない。

主人公はおたくだ。おたく趣味に浸っていた、虚構の人々を愛し、虚構の人々に「主人公」として愛されてきた、今までのことを、陽キャの陽に知られたくない。嫌われるかも知れないから。

でも好きだから会いたい。そこに人ならざる者が現れ、陽を襲う。乙女のピンチ。主人公がおたくなら、人ならざる者もおたくだ。陽を襲い傷付けようとしているのは、おたくとしての自分だ。そんなこと、断じて、あってはならない。

主人公は、おたくは間違っている、と言い、おたく撲滅を掲げる。それは脱おたく宣言だ。おたくとしての亜希は死に、非おたくの主人公として生まれ変わった。

陽との充実した日々を守るため、主人公は日常の人々の中に隠れ潜む怪物と戦い続ける。そのことは誰も知らない。知られてはいけないのだ。