反出生主義とその支持者達についての考察と説明。そして、適切な対処法。

先ず始めに頭に入れておくべきは、反出生主義は自閉症スペクトラム障害と強い関連があるようだ、ということです。

断っておきますが、筆者は医療医学に詳しい者ではありません。しかし、そこそこの期間、反出生主義者のSNSでの発言を観察してきたことで、そのような感触を得ました。勿論、それは素人判断の域を出ないでしょう。

なので、これから書かれる内容は、素人判断に基づくもの、となりますが、医療行為でもなく医学的評価を下すことでもなく、反出生主義とその思想の支持者達の性質を説明し批評することが目的であるために、重大な支障はないだろう、と考えます。

自閉症スペクトラムがいかなる障害かの説明は、それこそ詳しく書かれた、信頼性のある他所に譲るとして、これから明らかにしたいのは、反出生主義とその支持者達の厄介な性質についてです。

それを説明するために、自閉症スペクトラムという障害を参照することが、適しているように思えたのです。そうしてここで主張したいのは、反出生主義者は、ある病的特徴を有している、ということです。

自閉症スペクトラム障害に拘るわけではないので、参照するべき障害が他にあるかも知れないことは否定しないし、それは精神障害ですらなくてもいいかも知れません。

ですが、この記事では、反出生主義者達に見られる病的特徴は、取り敢えず自閉症スペクトラム障害によるものではないか、と推測する立場を取りながら、しかし、その病的特徴と自閉症スペクトラム障害との関連の証明ではなく、病的特徴の性質の説明をしていきます。その後、この病的特徴を持つ人々と、彼らが造り上げた思想に、どう対処すべきかを主張していきます。

手っ取り早く言えば、反出生主義者には自閉症スペクトラム障害者がなるようなのです。ただしそれは、自閉症スペクトラム障害者であれば反出生主義者になる、ということを意味しません。

自閉症スペクトラム障害というもの自体、幅の広い分類のようです。そして、その中のある範囲の人々が、反出生主義に共感し、その支持者となります。と言うより、そのある範囲の人達の奇妙な感覚を、その人達自身で肯定するために造られたものが、反出生主義だ、と言えます。

では、その奇妙な感覚とは何でしょうか。それを手短に表現すれば、普通に対する感覚の変性や欠如です。この普通とは何のことかと言うと、自分ではない、自分とは違っていて、更に世界に当たり前に多く存在しているもののことです。他者性と言ってもいいでしょう。

反出生主義者は普通の感覚が欠落しています。これは、単に彼らは異常だ、と言いたいのではありません。そこには複雑な意味があります。

人間というものは、それぞれに違った感覚を持ち、それはお互いに似ていることもあれば、全く似なかったり、あるいは真っ向から逆らうものだったりします。ここで言う「感覚」とは「価値観」とも言い換えられます。

このことは、普通の人々には、とても当たり前である、と思えるでしょう。しかし、反出生主義者達には、この当たり前の感覚こそが希薄なのです。

人間は、しばしば他人と違う感覚を持つことがあります。そのこと自体は異常ではないし、反出生主義者に限るものでもありません。

けれど、反出生主義者の特殊なところは、自分が大勢の他人とは違う感覚を持つ、あるいは、大勢の他人が自分と違う感覚を持つ、ということを理解できない、あるいは、許容できないことなのです。

反出生主義者はしばしば、小学生の頃から、人によっては幼児の頃から、わたしは反出生主義的感覚(注 ここでは単に、生まれなければよかった、生むべきでない、という感覚を指す)を持っていた、と話します。

生まれなければよかった、生むべきでない、という感覚を持つことは、世の人々の中でそういう人が一定数出現する、という社会的水準に於いては正常と言えます。しかし、そういう人の社会生活の水準に於いては異常と言う他ありません。

その感覚を持つことは、非常に稀だからであり、かつその人達が社会生活をしていく中で、その感覚を持つことによって、大勢の他の感覚の人達との交流に、少なくない支障を来すからです。

そこまでであれば、反出生主義者が特別厄介になることはありません。反出生主義者が厄介になるのは、ここからです。

人間はそれぞれ違う感覚を持ちながら、年齢を重ねて成長し、社会の中で集団生活を営むに当たって、自分の感覚がどれほど他人と違うかを確認し、その違う部分を、同じ社会の中で共に生きる、大勢の他人の平均や標準に合わせるように努めます。

例えば、野菜が異常に嫌いで、絶対に食べたくない人がいる、とします。野菜を食べたくない、といっても、健康問題は別にして、社会の中で生きていて、野菜が全く入っていない料理だけを食べていくことは難しいでしょう。

人前で、野菜が入った料理を食べなければならない、という状況にいつかは遭遇します。

その時、その人は我慢して料理を全部、胃の中に収め、後で隠れて吐き出すか、行儀が悪くても、ちまちまと野菜を全部取り除いてから残りを食べるか、あるいは最初から食事を拒否するか。

その人がどう対処しようと、それはここでは重要ではありません。ここで重要なことは、その人が、異常な野菜嫌いは自分の異常さである、と認識できることです。

普通はそういう認識になります。なぜなら、他の大勢の人達は野菜を自分のようには嫌わず、野菜を食べないためのつらい努力などしていないことを、その人は知っているからです。

そもそも野菜が料理に入っているのが普通だから、その人は苦労するのであって、自分の感覚が普通でないことは、そこでも明らかです。

反出生主義者は違います。彼らの、生まれなければよかった、生むべきでない、という感覚を例の野菜嫌いに置き換えれば、彼らは自分の野菜嫌いこそが正常で、野菜を嫌がることなく食べている、他の大勢の人達のほうが異常だ、という認識をするのです。

そして彼らは、その認識の仕方さえも異常とは考えません。このために彼らは、成長し、感覚の違う大勢の他人に出会っても、幼少期からの、自身の感覚の異常さを自覚しないまま、あるいは自覚しても、それを変える必要を感じないままで、温存してしまいます。

以前に、反出生主義者は大勢の他人が自分と違う感覚を持つことを、理解できない、あるいは許容できない、と言いました。

もし異常な野菜嫌いがいたとしても、その当人にしてみれば、ああ自分は随分変わっているな、他の大勢の人達からしてみれば、ああこの人は随分変わっているな、で終わる話です。

後は、自分はどう野菜を食べずに生きていくか、あるいは、この人がそんなに野菜が嫌いなら、できる限り配慮してあげよう、といったような、互いの擦り合わせの問題です。

しかし、反出生主義者は、その擦り合わせをすることができません。なぜなら、彼らは自分達の感覚こそが正常で、他の大勢の人達の感覚のほうが異常だ、という認識をしていて、更には、異常な感覚はいずれ矯正されなければならないし、それができる、と考えているからです。

彼らの中では、少数の正常な自分達が、大勢の異常な人達のために、多大な我慢や苦労や忍耐を強いられている、と考えられており、大勢の異常な人達を放っておいては、少数の正常な自分達が磨り減ってしまう、というように彼らは憂慮しています。

彼らの、正常と異常を巡る自己評価は、社会と逆転しています。彼らの中では、彼ら自身は、社会秩序の維持、弱者(異常者)許容のための、莫大な費用を支払っている側なのです。

しかしながらその弱者達が、寛大に我慢を続ける自分達に一向に敬意を払わないことに、彼らは腹を立てています。そこから彼らは、なぜ我々は異常者達のために苦しまなければならないのか、と被害者意識を持ちます。

そして、異常者達のために苦しみを耐える我々は慈悲深い、だとか、一体あなた達はいつになったら我々のように正常な人間になれるのか、といった特権意識さえ持つようになります。

反出生主義者は、自分達こそが正常な人間だ、と思い込んでいるのと同時に、本来全ての人間は自分達と同じ感覚になれるはずだ、とも思い込んでもいます。

自分達は人間であるのだから、人間とは自分達のことであり、人間ならば他の誰でも自分達のようになれる、という考えです。

「自分達こそが正常な人間だ」の「正常」だけでなく「人間」の部分にも、重みがあるのです。彼らは、正常とは何か、を決定する権威を自分達が持っている、と考え、人間とは何か、を決定する権威を自分達が持っている、とも考えています。

そして、それが恐らくは、彼らが自身の感覚を反出生思想として言語化ないし理論化し、熱狂的に支持をする原因です。

反出生思想とは、いつまでも自身の異常性に気付かず、自分達が寛大な我慢をしてあげていることにも気付かない、社会の中に大勢いる、人間未満の人達への啓蒙であり、なぜ自分達が社会の中で不遇を味わわねばならないかを、人間である自分達がが人間未満の人達のための我慢をしているからだ、と説明し、自分達を正常な人間として位置付け、啓蒙を授ける側としての権威を保証してくれるものなのです。

少し整理しましょう。反出生主義者は普通の感覚が欠落しています。それは、普通への感覚が欠落している、ということも含みます。

生まれなければよかった、生むべきでない、という感覚は反出生主義者を特徴的に表しはしますが、それは本質的なことではありません。

反出生主義者の本質的特徴は、自分達が社会ないし他者の平均や標準から大きく外れているにも拘わらず、そのことを無視して、自身を「正常」な「人間」と信じて疑わず、自分達を疎外して我慢を強いる社会ないし他者をこそ「人間未満」と位置付け、更にはそれらを自身と同じ「正常」で「人間」的なものに変えることができる、と考えていることです。

反出生主義者が不気味に見られるのは、生まれなければよかった、生むべきでない、という、普通ではない感覚のためだけではありません。それだけであれば、単に変わっている人達、という評価で終わっていたはずです。

彼らが不気味に見られる本当の理由は、自分達の普通でない感覚が、「正常」な「人間」の感覚であり、どうかすれば大勢の他の感覚の人達を「正常」に変え、社会をも変えることができる、と信じてしまっているところにあります。

ここでも異常な野菜嫌いに置き換えてみれば、彼らは、野菜を平気で食べられる人達は、野菜についてよく考えていなかったり、野菜の本当の恐ろしさを理解していなかったり、知ろうとしていなかったり、野菜を食べなければならないと思わされることで、何者かから都合よく搾取されている、などと考えます。

そして、野菜についてよく考えさせ、その本当の恐ろしさを教えて理解させてあげれば、誰もが自分達と同じ、異常な野菜嫌いになるだろう、と信じています。

反出生主義者にとって、自分達と違う感覚を持つ人達のことは大いなる謎です。「違う感覚」の内容もそうですが、何より、「人間はそれぞれ感覚が違う」という当たり前のことを、彼らは適切に理解、あるいは許容することができないのです。

だからその人達を無視し、「正常」や「人間」とは何かを、自分達を基準に定義した後で、ようやくその人達を「人間未満」として理解、あるいは許容することができるのではないでしょうか。

この、自分達とは違う感覚の人達を、そのままでは適切に理解や許容をすることができない、というのが反出生主義者が共通して有する病的特徴であり、それこそが自閉症スペクトラム障害に由来するものだ、と筆者は考えます。

しかし、始めの辺りで断っておいた通り、ここでそれを医学的に証明するようなことはしないし、できません。

反出生主義者の厄介な病的特徴を説明し終えたところで、以降は、その厄介さにどう対処するべきか、それを論じていきます。

反出生主義は厄介です。しかし、その厄介さが何なのかを知ってしまえば、あまり厄介ではなくなります。なぜなら、反出生主義は厄介さだけで出来ていて、厄介さを抜いてしまえば、残るものは何もないからです。

反出生主義は、厄介であることぐらいにしか、意味がありません。しかしそれは、反出生主義者でない、大勢の普通の人達にとってであり、反出生主義者達にとっては大きな意味があることは、前の節で書いた通りです。

反出生主義は、厄介な病的特徴を持つ反出生主義者達の、少々手の込んだ、厄介な自己紹介です。そのことをきっちりと理解し、そして自己紹介を受けたら、その時はきっちりと距離を取りましょう。

さて、では反出生主義の厄介さとは何でしょう。その前に先ず、反出生主義とは何かを、改めて確認しておきましょう。

反出生主義とは、生まれなければどんな苦痛を感じることもないが、逆に言えば、生まれれば、いずれ何らかの苦痛を感じることになり、他人に苦痛を感じさせることを悪だとすれば、子を生むことは悪だ、というような主張です。

彼ら自身の語るところによれば、それは論理的に厳密な思考によって導かれた倫理や道徳であり、論理を崩せなければ、子を生まないことが、人間が遵守すべき正しい品行だ、ということになります。

反出生主義の理屈を出されると、大抵の人達は困惑してしまうでしょう。では、その人達はなぜ、どこに、困惑しているのでしょう。それすらも分からずに困惑してしまっている、というのが実情ではないでしょうか。

なぜならその理屈は、日常的な問題と、哲学的な問題とが巧妙に混ぜ合わされて出来ているからです。

大抵の人は哲学的な問題を考える習慣や経験を持たず、本来は哲学的な思考を経て答えるべきところを、その準備もできていない状態で答えを催促され、咄嗟に日常的な経験から答えを出し、しかしそれは当人達の言語化されていない哲学とは一致せず、そのこと自体を言語化する、批評的経験も乏しいので、困惑するしかないのです。

現代的反出生主義を組み立てた職業哲学者のデイビッド・ベネターとその追従者達は、恐らくはそのことを承知の上で反出生主義をぶつけて回り、人々の困惑を言質に取って悦に入っています。

哲学的素養を持たない追従者達はまだいいのですが、哲学を職業とし知を預かり担う立場であるはずの者が、このような振る舞いをすることは、不誠実極まりなく、デイビッド・ベネターには軽蔑の情を禁じ得ません。

話を戻しましょう。

反出生主義の厄介さは、先程の話でも少し分かる通り、哲学的な問題を哲学的な問題とは思わせないようにしながら、哲学的な応答をする準備もない、一般の人々に近付き、哲学的な身構えをさせない内に素早く殴り込むことにあります。

そうされた人々は、怒りや不愉快さで冷静さを失い、問題に哲学的な応答をする気をなくします。それを反出生主義は、哲学的な無応答として喧伝します。反出生主義者がしばしば無礼で挑発的な態度を取るのも、そのためです。本当に悪質です。

反出生主義への厄介さが見えてきたところで、それにどう対処すべきかについても、考えていきましょう。

子を生むことは悪であるか、という問いによって親の立場から答えなければならないように錯覚させられますが、落ち着いて立ち止まりましょう。

人は誰でも生まれて存在している以上は、先ず誰かの子としてあるはずで、そうであれば、この問いには誰でも子の立場から答えられることに、気付かなければなりません。

子を生むことは悪ではない。自身の親とどのような関係にあり、親に対する好き嫌い、様々な愛憎はあれど、大抵の子達はそう答えることでしょう。

説明は不要です。他ならない子自身が、悪ではない、と言っているのです。にも拘わらず、そこで更なる説明や根拠を子に求めるのであれば、なぜそんなことに答えなければならないか、相手にその説明や根拠を求め返してあげましょう。

しかしここでは、なぜ大抵の子達が、子を生むことは悪ではない、とするのかを考えてみましょう。反出生主義にきっちり対処するためです。

子を生む、とは新たな主体を作り出すことですが、そのこと自体が単独で悪だ、とは反出生主義も言っていないはずです。

主体は苦痛を感じるが、苦痛を感じるのは悪いことで、苦痛を他人に感じさせるのも悪いことで、なら新たに苦痛を感じる主体を作り出すのは悪いことだ、というのが反出生主義の理屈です。

もし、苦痛を感じるのが悪いことではないのであれば、主体を作り出すのを悪いこととは言えなくなるので、反出生主義は結局のところ、苦痛を感じるのは悪だ、という主張に基づいていることが判ります。

さて、苦痛を感じることは悪でしょうか。

反出生主義は、その問いに、そうだ、と答えることから始まります。逆に言えば、反出生主義を否定する人達は、その問いに、そうではない、と答えていることになるでしょう。

しかし、苦痛を感じることは悪ではない、と口にしてみた時、反出生主義を否定する人達は、つい自分達は間違ったことを言っている気になってしまうでしょう。自身も含めて大抵の場合、人は苦しい思いや痛い思いをするのを嫌がるものだからです。

だけどここで、反出生主義は日常的な問題と哲学的な問題を巧妙に混ぜ合わされて出来ている、ということを思い出しましょう。人が苦しい思いや痛い思いをするのを嫌がることは、日常的な問題です。これは哲学的な問題と切り分けなければなりません。

哲学的水準で、人は苦しい思いや痛い思いを嫌がるでしょうか。哲学的水準とは、本質的に、と言い換えてもいい。

もし人が本質的に苦しみや痛みを避けるものなのであれば、鎮痛薬や麻酔薬などを、まるで空気を吸うように常用する世の中になっているはずです。

しかし現実はそうではありません。鎮痛薬や麻酔薬は世の中にあれど、それは緊急用や医療用であって、常用はしません。それは、経済的事情から、などではありません。人が鎮痛薬や麻酔薬を常用することを欲するなら、経済や産業、社会のほうが変わるからです。

人は日常的には苦しみや痛みを避けながら、本質的にはそれらを避けようとしていません。なぜでしょうか。もしそれらを本質的に避けようとするなら、どうなっているでしょうか。

本質的に苦しみや痛みを避けるとは、既に言っている通り、鎮痛や麻酔の手段の常用ですが、それを突き詰めていけば、感覚の消失が求められ、やがては感覚そのものの排除に行き着くはずです。

感覚を根刮ぎ排除すれば、生命の維持に支障をきたすでしょう。しかし、生命であることこそが感覚の根源であり、だとすれば、なぜ生命を維持する必要があるのでしょう。

感覚が全く不要であるなら、生命であることも全く不要なのではないでしょうか。

本質的に苦しみや痛みを避けるなら、その理想は、強力な麻酔を用いて感覚を消失したまま、何も感じないまま、生命活動が停止すること、となります。つまり、死ぬことが苦しみや痛みを避ける最終の解になるのです。

その解を、人は本質的に却下します。それは恐らく、その解が人の本質に逆らうものだからです。

死、という解が逆らうことになる、人の本質とは生であり、生とは感覚と不可分です。であれば、人の本質は感覚を維持することだ、と言えます。感覚とは、何かを感じ考えることです。

感覚は様々な経験を人にもたらします。喜び、悲しみ、怒り、憎しみ。そして、苦しみや痛み。

何だか、いいものが「喜び」一つだけしかないように思えますがそれは、人には「悪いものを細かく分類する癖」があるからでしょう。例えば病気や怪我は多種多様に分類されますが、健康についてはあまり細かく分類されません。

さて、人はなぜ本質的に苦しみや痛みを避けないのか、という話でした。答えは既に出ているように思います。それは、人は本質的に何かを感じ考えることを維持しようとするものだからであり、何かを感じ考えることの、この「何か」に、苦しみや痛みも含まれるからです。

もし苦しみや痛みだけを除外することができたとしたら、人はそれを選択するでしょうか。それは美容整形手術のようなもので、それを選択する人は、いずれ他の感覚や生そのものにも不満を覚え、やがて全てを切除してしまいたくなるように思えます。

生を維持することは感覚を維持することで、感覚は苦しみや痛みを含みます。生を維持することとは、苦しみや痛みと上手に付き合い続けることです。

元々の問いは、苦痛を感じることは悪か、というものでした。今、これにはこう答えることができます。

何かを感じ考えることは悪ではない。従って、苦痛を感じることも(哲学的には)悪ではない。苦痛を誰かに感じさせることも(哲学的には)悪ではない。それどころか、苦痛を感じることも含めて、それが人であり、人の生である。

ただ、苦痛だけを感じる、または感じさせることは悪だ、とは言えそうです。しかし、生きていて、苦痛だけを感じる、または感じさせる、などということが本当にあるのでしょうか。

あるとしても、それはもはや人や生ではない、異形の何かであるような気がします。人は、単に人を気に掛けるべきであり、異形の何かを気に掛けるのは、本質的なことではないでしょう。

ここまでで反出生主義の哲学的な問題部分に答えました。一方で、その日常的な問題部分への回答が放置されたままでした。こちらにも答えておきましょう。

人は、苦しみや痛みを感じるのは嫌だし、それらを誰かに感じさせられるのも嫌です。なら、苦しみや痛みを誰かに感じさせることは悪だ、と言えるような気がしてきます。

実際に、殴るなどしてきてこちらに痛い思いをさせる人がいたら、その人のことを、悪い人だ、と誰もが考えるでしょう。しかしその時、その人のことを、悪い人だ、と考えはしても、こちらに痛い思いをさせたから悪い人だ、と考える人はどれだけいるでしょうか。

これだと少し分かりにくいかも知れません。なので、こう考えてみましょう。

殴るのがとても下手な人がいて、その人は毎度こちらを殴ってこようとしますが、それは常に失敗して全く当たることがありません。つまり、こちらは一切痛い思いをすることがありません。その時、その人は悪い人ではない、と言えるでしょうか。

更にこうも考えてみましょう。

自分の思いを伝えるのが下手な金髪ツインテール幼馴染み(声:釘宮理恵)がいるとします。いや、絶対います。彼女は言葉で思いを伝えるのが苦手で、溢れ出す思いを、ついこちらを殴る蹴るという形で表現してしまいます。

それで毎度こちらは痛い思いをするのですが、幼馴染みだから、彼女がそういう娘であることは、ずっと傍にいた、ぼくが誰よりもよく分かっているし、彼女がそれでどんな思いを伝えたいのかも、分かっています。彼女は悪い人でしょうか。

確かに彼女はちょっと乱暴なところがあるかも知れないけど、決して悪い人じゃないよ。不器用なだけで、本当は優しい、友達思いな娘だ、って子供の頃からずっと近くで見てきた、このぼくが保証するよ。笑った時の飛び切りのかわいさも、ね。

人は痛い思いを基本的には嫌がります。しかし、単純に痛い思いをしなければいいわけでも、単純に痛い思いをしたら悪いわけでもありません。

感じた痛みが何と結び付いているかが重要だし、痛みがないことは、嫌なことが存在しないこととは結び付きません。虫歯の痛みを薬で消しても、虫歯が消えることにはなりません。

痛みがあってもなくても、好きなことや嫌なことは、厳然として在り続けます。

こちらを殴ってくる人がいて、それが痛くても痛くなくても、あるいは、その人は以前はいつも殴ってきたが、今は一切殴らなくても、好きなら好き、嫌なら嫌です。

痛みは何かや誰かを知覚認識する経路でしかなく、それ自体が好き嫌いや善悪を決定付けるものではありません。

こちらを傷付ける意思を持つ者、こちらを傷付けた過去を持つ者、こちらを傷付ける未来が予想される者。こちらを傷付けることを反省する気のない者。人にとって、悪い人とは、そういった者のことではないでしょうか。

ここで注意すべきは、傷付く=悪ではあっても、痛み=傷付くではないことです。痛みを感じた事実を申告するのが、こちらが傷付いたことを手短に訴えるのに有用、というだけです。

痛みとは、心の中に起こった特定の変化を表す証拠のようなものです。だから、傷付いたこと=悪いこと、の認定に痛みがよく持ち出され、結果として、痛み=悪いこと、という印象が生まれます。

以前、人には「悪いものを細かく分類する癖」がある、と書き、悪いものの一つに痛みを挙げましたが、これは心の中に発生した悪いものをできるだけ正確に指し示すための、証拠だからです。繰り返しますが、痛み自体は悪いものではありません。

人は痛い思いをすると泣いたり叫んだりするかも知れません。なら、人を泣かせたり叫ばせたりすることは、どんな場合でも悪でしょうか。逆に、人を泣かせたり叫ばせたりしなければ、それはどんな場合でも悪ではなくなるのでしょうか。

泣かせたことも叫ばせたことも、悪の証拠になれるだけであり、それらは悪そのものではありません。

さて、人に苦しみや痛みを感じさせるのは悪か、という話でした。人は悪が行われた時、その事実の証拠として、苦しみや痛みに注目します。人は悪が憎いのであって、苦しみや痛みが憎いのではないはずです。

なら、我々は問いに、こう答えることができるでしょう。

人に苦しみや痛みを感じさせたとしても、それが悪に由来するものでなければ、それは悪ではない。

そしてそこから、こうも言えるのではないでしょうか。

人に苦しみや痛みを感じさせなかったとしても、それが悪に由来するものであるなら、それは悪である。

結局は悪が何もかも悪い、という同義反復に帰着しそうです。だとすれば、我々が本当に答えるべきは、悪とは何か、です。

悪とは一体何でしょう。それは、塩化ナトリウムはこれだ、とか、日本の国会議事堂はここだ、とか、そんなふうにどこかに目に見えて存在し、はっきりと根拠が決まっていて、誰もがすんなりと指し示せるものでしょうか。悪とは一体誰がどのように決めるものなのでしょう。

嫌いな食べ物を残すことは悪でしょうか。約束を破ったり、嘘を吐いたりすることは悪でしょうか。結婚しているのに、配偶者とは別の人を好きになることは悪でしょうか。誰かを憎み嫌うことは悪でしょうか。自ら命を絶つことは悪でしょうか。

国によっては法律で、これは悪だ、と答えが決められている問いもあるかも知れません。なら、悪とは法律が決めるものなのでしょうか。だとすれば、法律は誰がどう決めるのでしょうか。

それは、国民全員で決めたり、国民が選出した人が代理で決めたり、国民なんか無視して国で一番偉い人が決めたり。もしかしたら、くじ引きで決めたり、なんてこともあるかも知れません。

そして、それらの方法が単一で採用されていたり、複数混合で採用されていたりするでしょう。国によって、法律を誰がどう決めるかは様々です。

その現実を鑑みると、法律は誰がどう決めるか、という基準はどこにもないのではないでしょうか。と言うより、法律は誰がどう決めるかの基準を決めることが、その国の法律の始まりであるように思えます。

そして、法律の成立手順が違うから、と言って、他の国の法律の成立を、無効だ、と文句を付けることはあまりありません。ただ、法律の内容に文句を付けて、尊重したりしなかったりはあります。

法律の成立手順を不問にしながら、成立した法律の内容には文句がある、というのは何とも不思議な気がしますが、よく考えてみれば当然です。

他の国の法律の成立手順に文句を付けるなら、文句を付ける側の国は、自分達の法律の成立手順こそが正しい、と先ず証明できなければならず、しかしそれを証明できる国は、どこにもないからです。

どの国も、自身の法律の成立手順の正しさなど証明できず、従って、どの国も、他の国の法律の成立手順を、間違っている、と文句を付けることはできません。

自分達こそが正しい、と主張する国はあるかも知れません。しかし、証明する、となるとどうでしょう。今までそれを証明できた国があるでしょうか。そもそも、何を以て証明ができたことになるのでしょうか。

法律は国で一番偉い人間が決めるより、国民全員で決めるほうが正しい、などと、どうして言えるでしょうか。その正しさは、どう決まるのでしょうか。国の発展具合でしょうか。では、どこよりも発展した国が、どこよりも正しいのでしょうか。

それは裏返せば、滅んだ国は間違っている、ということにもなります。なら、自分達以外の全ての国を滅ぼせば、自分達の国こそが唯一の発展した国になり、唯一の正しい国になるでしょう。

しかしその考えは、何だかとても間違っている気がします。しかし、気がするだけで、そう感じたことが正しいか、その証明はできません。

何はともあれ、どの国も、自身の手順の正しさの証明ができないまま、自身が正しいと思う手順で法律を成立させ、そうして発展し生き残った国々が、互いの手順の正しさの根拠のなさを知りつつも、それを不問にしながら、何とかやっているのが現在の世界ではないでしょうか。

しかし、生き残っている、ということは、正しいとは言えないが間違いとも言えないことの状況証拠くらいには、なるような気がします。やはり、気がするだけです。

何だか話が大きくなり過ぎたので、戻りましょう。悪とは何か、悪とは誰がどうやって決めるのか、という話でした。

法律が決めるのではないか、と考えてみましたが、法律の基準そのものが不定であるため、あまり頼りになりそうにはありません。ある場所では悪だったものが、ある場所では悪でなくなる、ということが起こってしまいます。

では、場所に関係ない悪の基準があるでしょうか。もしあるなら、それは場所から場所へ移動できるもののはずです。そこで気付きます。それは人間のことであり、人間が誰も悪と感じないものが、悪であるはずがないではないか、と。

人間に関係ない悪の基準があるとしましょう。それを人間が考慮しなければならない理由は何でしょう。人間は人間に関係ある悪だけを考慮すべきであって、それ以外の悪を考慮する理由はありません。

しかしそれは、人間は人間に関係ない悪を決して考慮しないことも、考慮してはならないことも意味しません。

人間は犬と共に暮らしますが、その時、人間は犬の悪の基準を考慮します。しかし、だからといって、犬の悪の基準全てを考慮するわけではありません。

この時、人間は犬の悪の基準を考慮しているようで、人間の悪の基準の中に組み入れられた、限定された犬の悪の基準を考慮しているのです。

別の言い方をすれば、犬の悪の基準の中で、人間の悪の基準と整合するものだけを、人間は考慮します。ここで犬の悪の基準は、人間に尊重されながら同時に蹂躙されてもいます。しかし、それは悪ではありません。

なぜならそれは、人間の悪の基準では、悪ではないからです。

ここで、悪とは誰がどう決めるか、その答えが出たように思います。人間がそう感じるから、という理由で人間が悪を決めるのです。そして、悪とは、人間がそう感じて決めたもののことです。

では、人間が悪と感じるものとは何なのか。とその前に、この人間とは一体誰のことなのかを、はっきりさせておきましょう。

筆者は人間です。人間とは筆者のことでしょうか。この記事を読んでいるのは、恐らく人間でしょう。であれば、人間とは読者のことでしょうか。筆者と読者は同じ人間であり、であれば両者は全く同じ悪の基準を有しているでしょうか。

もし世界に人間が一人しかいないのであれば、その通りです。その場合、人間とは筆者ただ一人のことを指し、なら悪とは筆者がそう感じるもののことであり、この記事に書くことが、そのまま人間の悪の基準になります。

後は筆者が悪と感じるものを書き連ねていって、あれこれ考えて、ああそうか、じぶんはこういう基準で物事を悪と感じるのだな、と一人で納得して終わりです。

しかし、そうはいきません。実際には世界には筆者以外の人間が無数にいて、その誰もがそれぞれ違う悪の基準を有しているからです。

もし世界に無数いる人間が全く同じ悪の基準を有しているなら、世界に人間が一人しかいない時と同様に、筆者の悪の基準だけを考えればいい。それどころか、そうであるなら何かを考えて主張する必要すらなくなるかも知れません。

人間同士の悪の基準の一致は、あらゆる基準の一致である気がします。基準とはそもそも、人の感覚の違いを吸収無効化するためにあります。

ある距離を、長いと感じる人と短いと感じる人とでは、協調して一緒に何かを作り出すことはできません。ある距離を、長いと感じられようが短いと感じられようが、それを1メートルと決めれば、それを基準に他のあらゆる要素を、感覚の違う人同士の間でも決定できます。

人間とは、筆者も含めた、世界にいる無数の人達のことです。ここで、人間は何を悪と感じるか、という問いはほとんど無意味になります。人間が無数にいるのであれば、人間が何を悪と感じるかの答えも無数になるからです。

筆者が何かを答えたとしても、無数分の一の意味しかなく、それは人間にとって限りなく無意味に近い答えになります。では、人間の悪の基準は成立など決してしない、と言いたいのでしょうか。

いえ、基準とは人間同士の感覚の違いを吸収無効化するためにこそあるのです。人間の悪の基準には、二つの意味があります。個人としての人間の悪の基準と、集団としての人間の悪の基準です。

個人の悪の基準が、決して他の誰とも一致しないのであれば、人間同士は互いにとって互いが悪となって、互いに殺し滅ぼし合うでしょうか。実際はそうなっていません。それは、個人の悪の基準は一人一人、必ず違っていても、あまり大きく違うことはないからです。

人間の悪の基準は、人間同士であれば大抵、似ます。ちょっとの基準の違いなら、互いにちょっとずつ修正し合えばいい。それで皆の基準が一致したようになれば、互いに争うことも少なくなります。

大抵の人間にとって、争いが多くてそれが自分自身に降り掛かることは悪である、という基準は似ているようです。こうして人間同士で集まって、個人の悪の基準を互いに擦り合わせて成立させたのが、集団の悪の基準です。それは法律とも呼ばれるもののはずです。

集団の悪の基準は、何となく似た者同士が集まって何となく作り上げたものです。それを作り上げなければならない基準や、作り上げてはならない基準が、どこかにあったわけではありません。

基準というものの本当の基準は、どこにもない。だからこそ、基準というものは生じた、と言えます。基準は無根拠を根拠に生じる。個人の悪の基準も無根拠です。強いて言えば、個人がそう感じるからそうだ、というのが根拠です。

集団の悪の基準が、個人の悪の基準を持ち寄って作り上げられている以上、その根拠も本当のところはないのです。強いて言えば、皆がそう感じるからそうだ、というのが根拠でしかありません。

少し前に、筆者個人の悪の基準を語るのは、人間全体の悪の基準を語る上ではほとんど無意味だ、というようなことを書きました。しかし、人間全体の悪の基準は、その「ほとんど無意味」の集積でしか成り立っていないために、「ほとんど無意味」なことについて語り考えるしか、人間全体の悪の基準について考える方法はない、と言えるでしょう。

また話が大きくなってきたので、戻りましょう。反出生主義とは、結局は悪を巡る問題でした。悪とは何かを考えると、そこには基準も根拠もなかったのでした。ただ、個人や人々が何となく決めた悪はあります。

だとすれば、反出生主義もまた、ある個人や人々に何となく主張され、何となく支持され、それ以外の個人や人々に何となく却下されるものとしてあります。

何もかもが「何となく」ですが、しかし「何となく」は根拠がないだけで、言語化できないものでもありません。反出生主義が、その「何となく」を言語化したように、却下する側も、なぜ却下するのか、それを言語化してみましょう。

我々は日常の中で、しばしば人に嫌な思いをさせるし、させられもします。そのことが本当に悪であるなら、我々は常に他人に怯え怒らなければならず、また自身も、他人を怯えさせ怒らせていることに、恥じ入らなければなりません。

我々はそのようには生きていません。まあ、自身は恥じ入らないくせに、常に他人に怯え怒っている人はいるかも知れませんが。

我々はどのように生きているか、と言えば、互いに嫌な思いをさせ合いながらも、それを許し合って生きているのです。人は誰かを許すことで、誰かに許してもらえる。

人は、嫌な思いを誰にも一切させることなく生きることはできないし、嫌な思いを誰かから一切させられることなく生きることもできません。

それは、人が生きることは、様々な何かを感じることであり、その「様々な何か」の中には嫌な思いもあり、それだけを取り除くことはできないからだ、ということは既に書きました。

嫌な思いをさせることが悪だったとしても、人は互いに互いの悪を許します。許された悪は、悪ではありません。許された悪を悪と言うようなことこそが悪と言えます。

人は度を越えた悪でも、法律に基づいた懲罰を施すことで許します。懲罰を受けることを条件としているなら厳密には許していない、とも言えますが、懲罰を拒否することは秩序を拒否し、許されるのを拒否することです。

許すとは何か、と言えば、同じ秩序の中で同じ人間として生き続けるのを認めることです。懲罰を受けることは秩序への同意であり、同意を拒否するのであれば、秩序から出てもらわなければならず、秩序から出た者には秩序の恩恵は与えられません。

秩序の恩恵とは、人間的地位の保障です。秩序とは、人間同士による、人間的地位の相互保障のことです。人は秩序の恩恵を維持するために、秩序を維持します。人間が人間であることを保障するためです。

秩序は人間同士の相互関係であるために、人間が消えてなくなれば秩序もまた、消えてなくなります。そして、人間はいつか死んで、消えてなくなります。であれば秩序もまた、いつか消えてなくなってしまう可能性のあるものなのです。

しかし、人間は死ぬだけではありません。新たに人間を生むことも、新たに人間として生まれることもできるのです。出生です。

秩序を維持するには、秩序の根源であり、秩序を欲求し秩序に奉仕する、新たな人間の継続的な参入が必要です。つまり、出生を必要とするのです。

出生が秩序の維持と不可分であるなら、秩序の肯定とは出生の肯定に他ならず、同時にそれは、出生否定が秩序の否定であることを意味します。

反出生とは反秩序なのです。秩序とは、人間が人間であることを保障するものでした。ならば、反出生とは、反人間でもあるのです。

人間は人間の悪の基準だけを考慮すべきです。少なくとも、反人間の悪の基準を、人間が考慮しなければならない理由はありません。それは、考慮してはならないことを意味しませんが、考慮できることは限られるでしょう。

そして、反人間を考慮せず、彼らに嫌な思いをさせたとしても、それは悪ではないでしょう。なぜならそれは、人間の悪の基準では、悪ではないからです。

ここまでに書いてきたことを使って言論を組み立てれば、反出生主義への対処は充分に可能でしょう。

しかし、ここまでの文章は、必要なことだけを簡潔に書いているわけではないにしても、なかなかの分量と言えるでしょう。反出生主義への応答には、これだけの文章量を要するのです。

反出生主義者を称する人々が主に主張の場としているSNS、取り分けTwitterの、その投稿単位である140字では、それをせっせと積み重ねても、必要量に達するのは相当に困難です。

そして仮にその困難を引き受けても、恐らくは徒労に終わるはずです。彼らにはそもそも、議論をする気も、合意を形成する気も、哲学的成果を希求する気もないからです。

彼らはしばしば、反出生主義に反論してみろ、というようなことを豪語しますが、してみたところで誠実な返答はなく、返ってくるとしても無視か悪意だけです。

彼らが求めているのは反論の中身ではなく、反論を試みようとする誰かです。そしてその反論の中身に拘わらず、反論を棄却して、その誰かを罵倒し追い返すことが目的です。

例えて言えば、求人情報を出しておきながら、最初から誰かを採用する気など一切なく、応募者が来れば罵詈雑言を浴びせて追い返すのだけを目的としているのです。

その時、応募者の主張する経歴や能力は罵詈雑言に使えそうなら参照し、使えなさそうならそれは無視して、出身や容姿などを罵詈雑言の材料とします。そうして応募者を怒らせたり呆れさせたりして、相手が勝手に退席するのを待ちます。

応募者とはどんな社会的関係も結ぶ気など一切ないから、そういうことができるのです。そうして、我々の採用基準はとても高いのだ、などと言って回っているのです。ここに、反出生主義とは別の、反出生主義者の厄介さがあります。

筆者はSNS上の反出生主義者達を観察してきました。といっても、SNS以外のところで彼らを見掛けることは、ほとんどないので、SNS上で、と限定する意味はあまりありません。

中には、SNS以外の場に出てくる人も時々いますが、長続きはしません。それはその人に、反出生主義者であることはどういうことか、という現実感が希薄で、現実を知ってしまうと、それ以上は留まることができないからです。世間を知らないから、うっかり出てきてしまうのです。

なぜ彼らがSNSにのみ出現するか、と言えば、前述の求人詐欺をやるのに都合がいいからです。彼らが求人詐欺を仕掛ける相手は、SNS以外の場では非常に限られるでしょう。

SNSでは見知らぬ人とも簡単に繋がれますが、それと同じくらい簡単に人を拒絶できます。求人の募集のし易さ、応募のされ易さ、拒絶のし易さ。SNSは人間関係の操作に手間が掛かりません。

更にSNSでのやり取りは、その結果こそ、公開されていて大勢が見ることができますが、やり取り自体は一対一が基本です。多対多のやり取りも可能ではあるけれど、煩雑を極めるでしょう。そこでは何より、審判者の介在の困難さが問題になります。

審判とは、議論の勝敗などの判定のことではありません。議論が不正や乱暴なく行われているか、その判定のことです。

相手の発言を意図的に歪曲したり、相手を意味なく誹謗中傷したり、自身の発言の不備を指摘されても無視したり。そういった議論の継続を困難にする行為が、審判者不在の一対一のやり取りでは、やった者勝ちになります。

別の言い方をすれば、議論の継続を望んで誠実な態度に徹する側が、議論をいつでも破壊して投げ出す気でいる側に、一方的に不利で不愉快な体験を、強いられることになります。SNSでは議論の成否は、乱暴者が大きく左右できるのです。

現実ではこうはいきません。現実で反出生主義について何か話し合う場合、一対一とはならないでしょう。少なくとも、そこには外野の人間が複数同席することになるはずです。

本当に一対一で話し合うにしても、その場合は互いの信頼がある程度確立していなければ、実現しないでしょう。現実のやり取りでは、乱暴者の存在こそが困難になります。

彼らは議論をする能力が弱い。にも拘らず、自分は議論ができない人間だ、と自分で思うことも、他人に思われることも、耐え難い人々であるように思えます。だからSNS上にのみ現れ、乱暴者となって議論の場を制しようとしているのではないでしょうか。

ついでに言うと、彼らは考える能力はそれなりにあるものの、情報の入力の仕方に問題を抱えているように思えます。情報の収集と選別に特有の癖があり、そのこと自体が議論の弱さにもなりますが、特有の癖について他人から指摘や非難をされるのが嫌で、議論に正々堂々とは参加できない印象です。

彼らの中には大学へ進めるほどの知力を持つ人もいるようですが、それは学校が、先人によって予め収集選別された情報を共有し、それを処理できることが評価される場所だからで、そこでは彼らの特有の癖が、支障になりにくいからではないか、と思えます。

話を戻しましょう。反出生主義者は反論を求めます。そしてこの記事では、それにいかに対処するか、と書いてきました。いかに反論するか、ではありません。それは、反論を試みることが、彼らの罠に嵌まることでもあるからで、その一端は求人詐欺という例えで既に示しています。

罠の別の側面を示しましょう。彼らは、反出生主義の間違いを指摘してみろ、と言っており、そのために正解の提出を要求しています。正解とは何でしょうか。

反出生主義は出生を悪とする主張であり、その間違いを指摘できる正解とは、出生が善であるか、もしくは悪ではないと言える根拠です。ここに罠があることに気付きましょう。

反出生主義は出生を悪とする主張をしているだけで、そう言える根拠を示しているわけではありません。

正確に言えば、彼らにとって出生が悪と言える根拠を示しているだけで、彼ら以外の人間にとっても出生が悪と言える根拠を示してはいないのです。

何かを悪と言える根拠とは、以前にも書いた通り、個人や人々の「何となく」の集積でしかありません。

つまり彼らは、自分達にとって「何となく」出生は悪だ、と言っているだけであり、ならばそれに対しては、わたし達にとって「何となく」出生は悪ではない、と言えば終わる話です。

ただそれだけのことを、何かを悪と言える根拠なんて「何となく」でしかない、というあまり意識されない事実と、彼ら自身の主張の根拠も「何となく」でしかない、という事実を隠しながら、「何となく」ではなく何かを悪と言える根拠という、恐らくは人類史上空前絶後の代物の提出を先んじて要求することで、対処困難に思えてしまう論理的罠に変えることができるのです。

本来なら、「何となく」ではない根拠を先ず提出すべきは彼らのほうです。それを相手のすべきことに巧妙に摩り替えて気付かせないことで、彼らは盤石な立場に立てることになります。「何となく」でない根拠なんて、どこにもないからです。

反出生主義への反論者はまんまと、彼らがすべき「どこにもない」ものの提出を、彼らに代わって担うことになり、その果てに、「どこにもない」ものを必死に探し回ったり、「どこにもない」ものをどこかから不正に調達してきたり、といった、彼らが晒すはずだった醜態をも担うことになります。

罠というのは、仕掛けが分かってしまえば、回避も解除も可能です。ましてや、それは毒物や爆発物のような物理的危険のあるものではなく、論理的な罠です。気安く突っつき回してやりましょう。

反出生主義は論理的であり正しい、と彼らは主張します。その主張には、どれだけの意味があるでしょうか。

例えば「うんこは食べ物だ」という論理自体は正しい。食べ物を、栄養になる物、と考えるなら、うんこは栄養になります。世のうんこは、栄養になるが消化吸収に難があって、吸収されないまま体外に排出されてしまった物です。

消化吸収に難がある物は食べ物ではない、とすると、では蒟蒻は食べ物ではないのでしょうか。消化吸収に難があっても、人は蒟蒻を食べます。

食べると健康を害する物は食べ物ではない、とすると、では餅などはどうでしょう。餅は毎年、窒息による死者を出します。酒類はどうでしょう。こちらは酩酊により、当人の健康を越えて他人の生命を害したりさえします。

一方で、食物アレルギーを有する人にとって、アレルギーを引き起こす食べ物は、食べ物でしょうか。食物アレルギーは、重篤であれば、死にも至ります。原因食物の最たる物は鶏卵のようですが、多くの人にとって鶏卵は食べ物でも、ある人にとっては毒物となるなら、鶏卵は食べ物ではなくなるのでしょうか。

食べ物であることと毒物であることは両立します。健康を害するとしても、人はそれを食べます。食べたい、と思うから食べます。食べられます。

そもそも、砂糖や油脂といった、栄養そのもののような食べ物も、食塩やカリウムといった、生命維持に不可欠な無機質も、摂取し過ぎると健康を害します。食事と、それによって健康を害する可能性は、不可分です。

さて、「うんこは食べ物だ」という論理に反論できるでしょうか。できないのであれば、うんこを食べ物として扱わなければならず、うんこを無駄にすることを恥じなければならなくなるでしょうか。

筆者は「うんこは食べ物だ」という論理に反論はしません。ですが、うんこを食べ物として扱うこともしません。筆者にとって、うんこはうんこです。食べ物ではありませんし、食べたいとも思いません。さっさと除けて洗い流します。

うんこを食べ物と考え、私的な場で密かに食べる人がいても、それはそれで構いません。ただし、世の中がうんこ食主義者ばかりの状況だったなら、反うんこ食主義者になっていたりはしたかも知れません。

出生は、うんこを食べたくない人にうんこを食べさせる行為だ、と言う人がいるかも知れません。しかし、人は何もうんこを食べずとも存在し生きることができますが、人は出生を経ずには存在し生きることはできません。

もし人が、うんこを食べなければ存在し生きることができないのなら、その時うんこを食べたくない人とは、存在することも生きることもしたくない人、ということになり、そのような人に対しては、まるで存在もせず生きてもいないかのように扱ってあげるのが、人としての正しい態度であるように思えます。

さて、反出生主義は道徳的とも彼らは主張します。そもそも道徳とは何でしょうか。道徳的というと、困っている人がいたら助ける、とか、約束をちゃんと守る、とかが思い浮かびます。

逆に言えば、困っている人がいても助けない、とか、約束をちっとも守らない、とかが、道徳的でない、ということなのでしょう。

道徳的でないことは悪でしょうか。そうだとすれば、なぜ悪なのでしょうか。困っている人を助けなかったり、約束を守らなかったりすると、相手は悲しんだり怒ったりします。そうさせるのが悪なのでしょうか。

しかし例えば、交際の申し込みを断ると相手を悲しませるでしょう。あるいは、遠くの映画館に足を運んで、自分で金を払って見た映画が、絶望的につまらなかった時、腹が立ったりするでしょう。

この時、交際を断った人、絶望的につまらない映画を作った人は、悪でしょうか。まあ当人にしてみれば悪と言いたいかも知れませんが、道徳的でない、とまで言えるでしょうか。道徳とは、そのような個人的な悪のことを指すのでしょうか。

困っている人を助けない。約束を守らない。みんながそういったことを当然のように繰り返す世の中、というのを考えてみましょう。どうなるでしょうか。

困っても誰も助けてくれないし、誰も約束を守らないのが当然なら、人は他人に信用も期待もしなくなります。そうなると、自分のことは全部自分ですべきことになり、とても大変です。しかし、それだけでは済みません。

自分のことが全部自分ですべきことになるなら、他人のことは全部他人がすべきことになります。それは、みんなが自分のことだけを考えるようになることで、みんなが他人のことを考えないようになることです。

他人のことを考えなくなることは、他人の利害を考えなくなることです。人は誰でも、他人から見れば他人です。だとすると、人は自分以外に自分の利害を考える人を持てなくなります。

利害を考えない、とは、相手にどれだけ良くしても意味がない、ということであるのと同時に、相手にどれだけ悪くしても関係がない、ということです。自分の利害だけを考えるなら、他人には決して施さず、他人から奪うばかりが正しいことになります。

みんながそのように振る舞った結果、どうなるか。言うまでもないでしょう。

ここで「みんな」と言っているように、道徳とは個人的な問題ではあり得ません。人が一人しかいないところに道徳は成立しません。その人は自分の利害だけを考えることに、何の問題もないからです。

複数の人が共に暮らそうとするところに、道徳という問題は成立します。道徳とは、他人の利害をいかに考えるか、ということであり、そのことで自分の利害をいかに他人に考えてもらえるか、ということでもあります。

なら、道徳的でない、とは、自分の利害だけを考えて、他人の利害を考えない振る舞いを指すことになります。そうであれば、なぜ道徳的でないことが悪なのかも導かれます。

道徳的でない振る舞いを野放しにすると、他人を滅ぼすことになり、誰もが他人にとって他人となる以上、誰もが自分を滅ぼすことになるからです。人を悲しませるのは悪とか、人を怒らせるのは悪とか、そういう次元の話ではありません。

道徳の問題とは、秩序の維持の問題です。秩序とは人間同士の人間であることの相互保証であり、その維持には出生が不可欠でした。そしてそれに反しようというのが、反出生主義です。ならば、反出生主義は反道徳であり、道徳的などではないのです。

難民を受け入れれば、難民差別が発生する可能性があります。難民を受け入れなければ、難民差別は発生しません。差別を受ける難民はいないからです。これを以て、難民の受け入れこそが難民差別の原因であり、道徳に反する行為だ、という理屈が可能になります。

これと似た理屈を用いるのが反出生主義ですが、彼らはそこで、難民は現実に存在し、受け入れて救済する必要のある人達だが、これから生まれてくる子供達は架空の存在であり、受け入れて救済する必要のない人達だ、と言うでしょう。

架空の存在は救済を必要としない、というのはその通りです。救済を必要とするのは、現実に存在している人達です。それは誰のことでしょうか。そして、それへの救済とは何のことでしょうか。

難民とは秩序から放逐されて困っている人達です。人は秩序から放逐されると、生きることが難しくなるので困ります。難民の最終的な救済は、秩序に復帰することです。

秩序から放逐されたのが難民であるなら、秩序から放逐される恐れのある人達は、誰でも難民になる恐れのある人達です。秩序から放逐される恐れのない人が、あり得るでしょうか。

秩序とは、維持に努めなければ、いつか消えてなくなってしまうものです。だとすれば、人は誰でも秩序から放逐されて難民になる恐れがあるのです。

難民が救済されるべきであるなら、難民になる恐れのある人達には、難民にならない備えがされるべきです。誰も難民であってはならず、また難民になってもいけません。

現実に存在している人達とは、現在難民である人達や、いつか難民になるかも知れない人達のことです。それらへの救済とは、秩序への復帰や、秩序が維持されることの保障です。

秩序は、戦争や災害によって、一瞬で吹き飛んでしまうものですが、維持をする努力を放棄しても、なくなっていくものです。その時は一瞬でではなく、ゆっくりじわじわとなくなっていくでしょう。しかしその間は、秩序の貯蓄を取り崩して生きることもできるでしょう。

秩序の維持には当然、費用が掛かります。人の生活の維持に費用が掛かるのと同じです。その費用とは、現在の必要分と、将来の必要分とに分けられます。

将来の秩序の維持を放棄すれば、その分の費用は浮きます。出生をやめ、将来を断絶することで費用を浮かせて、その浮いた分を現在の人々だけで分け合って生きていけば、人々は今よりも幸福に暮らせた上で死んでいける。そして、その後には何の問題も残らない。

と反出生主義は言います。それは本当でしょうか。

まだ生まれていない人と、もう死んでしまった人は、秩序を必要としません。そして、人はいつか死にます。

秩序を現在の人々で消費し尽くしても、その時に全ての人が死んでいなくなっていれば、秩序を必要とする人はもう誰一人としていないので、何も問題はない。これはその通りでしょう。

しかし、秩序を現在の人々で消費し尽くすことは可能でしょうか。より正確に問えば、秩序を現在の人々で"仲良く"消費し尽くすことは可能でしょうか。この"仲良く"は"幸福に"とも言い換えられます。

月給30万円の人がいて、その人が給料日に30万円を受け取っても、その日でそれを使い切ることはしないでしょう。これから来月まで給料が出ないからです。

その人は手元に30万円あるにも拘わらず、毎月の固定費を差し引いた約30日分の一以下の出費で、一日を過ごすでしょう。そしてそれを翌日以降も繰り返します。もしそれ以上の出費で過ごせば、次の給料日まで生活が持たなくなるからです。

人はその収入に応じて、現在の必要分を決定し、残りを将来の必要分とします。でももし給料日当日に、翌日以降のことなど考えなくていい、となったら、つまり、その日限りで人生が終わるとしたら、どうでしょう。

翌日以降ということは、翌月のことも翌々月のことも考えなくていいのです。翌日から翌月までの出費も、毎月の固定費も考えなくていいのなら、給料日当日に30万円を受け取った人は、それを全て、その日一日の出費に充てることができます。

一万円以下の出費で過ごす一日と、30万円の出費で過ごす一日。単純に考えれば、両者には30倍以上の価値の差が生じます。実際には、そう単純な話にはならないでしょうが、少なくとも一日の価値が大幅に増えることには違いないはずです。

その大幅に価値が増えた一日を過ごし終え、そのまま人生も終わる。それは人生の良い選択と言えるでしょうか。言えないのだとすれば、そもそも人生の良い選択とは何でしょうか。

そのような問いに誰が答えられるでしょう。もし誰かがその問いに何かを答えたとして、それは正しいのでしょうか。その正しさは、一体何によって証明されるでしょうか。正しかったとするなら、それ以外の人生の選択は間違っているのでしょうか。

これらの問いに筆者は答えられません。何かを答えることもできますが、それが正しいと証明することはできません。なので、翌日以降のことを考えなくていい人生の選択、というものも否定することはできません。

では、みんなもこのような人生の選択をしましょう、と誘われたらどうするか、と言えば、否定はしないけど断るでしょう。理由は、そんな人生の選択に興味がないからです。

それとは別にもう一つ、理由があります。翌日以降のことを考えなくていい人生の選択とは、翌日のことを考え続ける人生の選択をした人々の存在がなければ成り立たない、と考えているからです。

給料日に30万円を受け取り、それでいつもより価値ある一日を過ごせるのは、その金銭で何らかの商品やサービスを購入できるからです。まさか、30万円をただ眺めているだけで一日を満足して過ごせる人はいないでしょう。

商品やサービスを購入するには、それらを提供してくれる人、労働に従事してくれる人がいなければなりません。もしみんなが翌日には人生を終える人だったとしたら、どうなるでしょう。その時、一体誰が労働に従事してくれるのでしょうか。

別の言い方をしましょう。翌日に人生を終えるつもりの人は、その日一日を存分に楽しまなければなりません。労働に従事してなどいられるでしょうか。他人のために掛ける時間などあるでしょうか。

給料日は人それぞれであり、なら人生を終える日も人それぞれになることでしょう。だとすれば、先に給料日を迎えた人は、後に迎える人に世話になればいいかも知れません。それでは、その後に迎えた人は一体誰に世話してもらえばいいのでしょうか。

みんなが給料日の翌日に人生を終えることで一致しているなら、みんなで給料日を一致させることもできるかも知れません。ですが、そうなると今度は、誰も他人に掛ける時間を持てなくなります。

他人に時間を掛けることは、自分に残された貴重な時間を他人に譲り渡すことであり、他人に掛ける時間こそが自分の幸福だ、という人でなければ、それは自分の幸福を手放す行為になるでしょう。

しかし、翌日に人生を終えようとしている人が、なぜ自分の幸福を、他人のために手放さなければならないのでしょうか。

人が他人のために自分の時間を掛けることがあるのは、翌日以降も大勢の他人と共に生き、その中で他人の持つ時間を自分に掛けてもらうためです。翌日が来ないなら、もう他人に構う必要はなくなります。自分のことだけ考えればいい。

ここで、道徳的ではない、とは何だったかを思い出してください。自分の利害だけを考えて、他人の利害を考えないことです。反出生主義が導く、将来を断絶した末に訪れる、現在の終わりとは、秩序が崩壊し、道徳が無意味と化した世の中で、人々が互いを気に掛けずに滅んでいく状況です。

ここまで書いてきたことが論理的であるとするなら、論理的に考えれば反出生主義は、道徳的では決してありません。それどころか、明確に反道徳的です。

なぜ反道徳的な人々が自分達を、道徳的だ、と称せるのでしょうか。それは、道徳それこそが、そもそも両義的な性質を持つからです。

困っている人がいたら助けなければならない、と課すのが道徳なら、そんなことを課されたら困るよ、と言ってしまえば、どうなるでしょう。道徳を課して人を困らせるのは、道徳に反することになります。

道徳自体が、じつは道徳的ではない性質を持ちます。道徳とは、集団の秩序の維持のために、個人に自由の一部を差し出すように要請するものです。個人の一部利害より、集団の利害を優先させることで、集団の秩序の形成と安定を図り、それで生じる恩恵を個々人が享受します。

負担は苦しくて嫌なので、大きい負担を小さく分割して、互いにその負担を引き受け合おう、というのが道徳です。

偶然が課す大きな負担から人を解放し、その代わりに、本来なら課されることがなかったかも知れない小さな負担を、人為的に多くの人に課すのが道徳です。みんなが苦しくて嫌なはずのものを、ないところにも課すのが道徳です。

それは集団による負担管理の仕組みと言ってもいい。道徳は人々の負担を消滅させるものではありません。ただ人々の負担を集団内で効率化するだけです。

道徳とは税金のようなものです。税金の徴集は困窮者を救済する原資になりますが、徴集を強めると困窮者を増やすことになります。逆に徴集を弱めると困窮者は減りますが、救済も弱まります。

税金は法律で定められ、課された分を納めなければ法律による罰が下りますが、道徳的行為は法律で定められてはいなく、守らなくても法律による罰は下りません。ただ、私人による私的な罰は受けるかも知れません。

道徳は法律未満の規律と言えるでしょう。別の言い方をすれば、公的規律に対する私的規律です。公的規律である法律は個人で勝手に作ることは許されませんが、私的規律である道徳は個人で勝手に作ることができます。

道徳が勝手に作れてしまうものである以上、勝手に自分達のことを道徳的と称することも可能です。ただの道徳はその成立に人々の承認を必要としません。それは一方で、法律とは人々の承認を得て昇格した道徳だ、ということを示すでしょう。

法律は出生を悪とは定めません。しかし善とも定めません。ですが法律は、世界に常に人が複数あり続けることを前提として作られるものです。法律的道徳は人々を選別することはできても消滅させることはできません。よって、全ての出生を否定することはできません。

それは、「法律を永久に廃止する法律」を成立させるようなものでしょう。

一方で、ただの道徳はその成立に人々の承認を必要としないので、人々を消滅させることが可能です。よって、全ての出生を否定できます。その代わりに、それはほとんど無意味な道徳になるでしょう。人々に承認されていない以上、人々に無視されることになるからです。

逆に言えば、人々に無視されるようなものだから、それを勝手に作って主張できるのです。しかし、なぜそんなものを作って主張する必要があるのでしょうか。

道徳はそれ自体が反道徳性を含む、というようなことは既に書きました。それは、どんな道徳も別の道徳から責められる隙を持つ、ということです。ついでに言えばそれは、どこからも責めることのできない完璧な道徳は存在しないだろう、ということでもあります。

ただの道徳を作り出すのは「ただ」です。しかしながら、その「ただ」で作り出されたはずのものが、現行の法律やそれを承認する人々、という巨大な相手を、覆すことはできなくても、責めることができるのです。理屈の上だけで、ですが。

理屈の上の限定でありながら、巨大な相手を責められる、というのはなかなか愉快な話でしょう。しかも、それが「ただ」でできる、となればどうでしょう。その費用対効果の絶大な良さは魅力的です。乗っかる人がそこそこ出てきても、不思議ではありません。

ただで無意味なはずのものが、ただで無意味だからこそ、巨大で揺るぎないものに対抗する価値を持てる。それが、ほとんど無意味な、ただの道徳である反出生主義が主張されることの意味です。

無意味なものに価値を与えてくれるのが、無意味さをこそ肯定してくれるのが、反出生主義です。無意味さとは、無力さのことでもあります。

人々と違う感覚を持ちながら、自分達こそが正しい感覚の持ち主だ、と信じながら、現実には人々から承認されない中にあって、そこで感じる無力さに意味と価値を与え、自分達を承認しない現実を理屈の上で覆そうとすることができる。

反出生主義者にとって反出生主義とは、現実を仮想的に覆せるものと信じさせ、現実を生き易くしてくれる思想です。

彼らは、自分達の感覚が普通ではない、と単に認めて済ますことができません。彼らにとって、そんなことを認めるのは屈辱に他なりません。しかし、認めなかったからといって、どうにかなるものでもありません。現実は容赦なく、冷徹に立ちはだかります。

彼らもまた何であれ、多くの人々との共同の中で生きなければなりません。彼らは普通ではないけど特別でもないからです。そこで彼らは、自分の普通でなさと特別でなさを、否応なく突き付けられます。屈辱でしょう。

そのままでは、彼らは屈辱に耐えながら、多くの人々の中で生きなければなりません。まさに、普通に生きることが難しいのです。そこで求められたのが、自分達だけで作り出せる道徳というわけです。

自分達が生きづらいのは、自分達が悪いのではなく、間違った道徳を人々が採用しているからだ。自分達だけで作り出した道徳は、彼らが折に触れて感じさせられる屈辱に、そのように意味や価値を与えてくれます。自分達の感覚が正しいからこそ、自分達は屈辱を感じるのだ、と。

反出生主義とは、そのようなものであり、またそのようなものでしかありません。彼らは道徳を作り出しはしましたが、そうして対抗しようとする相手は、同じく世間の道徳です。

道徳そのものに優劣はありません。道徳の優劣の基準など、どこにもないからです。だから誰でも手軽に作り出してしまえるのです。道徳と思えれば何であれ、それは道徳なのです。

そこに反出生主義の成立する余地があります。そしてそれが同時に、反出生主義が決して世間の道徳を覆せない理由にもなります。

道徳と思えれば道徳が成立するなら、道徳と思えなければ道徳は不成立です。手軽に成立させられる代わりに、手軽に却下されるのが道徳です。世間は反出生主義を道徳と思いません。たったそれだけで、世間は反出生主義を却下できます。

却下されても道徳は、消滅することはありません。道徳はそれを道徳と思う人々がいれば、その人々の間で維持され、しかも他の道徳の影響を受けません。道徳はどうしたって、他の道徳を責めることはできても、それに介入することはできないからです。

道徳が道徳である理由は、それを道徳と思う人がいるからです。道徳と思う故に道徳あり、です。道徳の優劣のなさは、人の思いの優劣のなさです。

子が生まれることは喜ばしい。子が生まれることは悲しい。どちらにしても、そう思うことに優劣があるでしょうか。あるとしたら、喜ばしいが優で、悲しいが劣だったとして、喜ばしいによって悲しいが消え去ったりするでしょうか。

消え去るのだとしたら、反出生主義なんてものも、存在することはなかったでしょう。人の思いに優劣はなく、それによって覆されることもない。道徳も同じです。道徳は道徳を覆せない。

世間も反出生主義も、道徳としての優劣はありません。それと同時に、どちらかがどちらかを覆すこともできません。

だとしても、反出生主義が世間を覆すことを望むのであれば、そこに道徳以外の優劣を導入することになります。反出生主義が世間に優れるところが、どこにあるでしょうか。

優劣は、理論や理屈ではありません。現実です。いくら、自分は最強の存在だ、と理論や理屈を並べることができたとしても、銃で脳天を撃ち抜かれて死んでしまえば、それが何よりの、最強の存在ではなかったことの証明となります。

反出生主義は、これからも世間の片隅で細々と存在し続けることでしょう。反出生主義者達は世間から生まれ、屈辱を感じながら生きて、そして死んでいきます。そういう現実が、それを覆せないまま、ずっと続きます。

世間がある限り、反出生主義者は生まれ続ける、と言いますが、それは何か優れたことなのでしょうか。世間は反出生主義者だけではなく、殺人者や性犯罪者なども、生み出します。殺人者や性犯罪者は、何か優れているのでしょうか。

世間から生まれ続けることは、何も反出生主義者だけの専売特許ではないし、反出生主義者が「生まれ続けること」を誇るのは本末転倒です。

反出生主義者は殺人者や性犯罪者を生み出さないから優れている、と言うかも知れませんが、それも反出生主義者だけの専売特許ではありません。そこいらの石っころだって、殺人者も性犯罪者も生み出すことはありません。そこいらの石っころは何か優れているのでしょうか。

そもそも反出生主義は世間に対し、道徳以外の違い、道徳以外の何かを持っているのでしょうか。何もないのではないでしょうか。何もない以上は、世間に対して優れる何かもありません。何も優れない以上、世間を覆すこともありません。

道徳には、それ自体に反道徳性がありました。道徳と反道徳は一体のもので、その表裏であり、表が裏を、裏が表を覆すことはできません。

道徳には表裏だけでなく上下左右、手前と奥もあったりするかも知れません。いずれにしてもそれぞれに優劣はなく、互いが互いを覆すことはできないでしょう。

我々が道徳の中心である、と誰もが好きに思うことができます。

ですが、人は人から生まれて生きるものであり、人が道徳の源であるなら、「人が人を生むこと」、「人が人から生まれること」を肯定し、それが道徳の中心だ、と思う人々が多くなるのは当然、と言えます。

「人が人を生むこと」を肯定できない臍曲がりが、人から生まれてくることもありますが、「人が生まれる」とはしばしばそういう事態も含むのであり、「人が人を生むこと」を肯定することは、臍曲がりが生まれてくる可能性を肯定することでもあります。

しかし、だからといって臍曲がりに真面目に付き合う義理もありません。別に、臍曲がりを肯定しているわけではないからです。たとえ臍が曲がった人が生まれてこようとも、曲がった臍がその内に真っ直ぐになれば、それでいい。

人は生きていれば変わるし、変えられます。

なら臍真っ直ぐが臍曲がりに変わる可能性もあるのですが、大したことにはなりません。「人が人から生まれること」は、決して変わらないからです。

「人が人から生まれること」を人が何とも思わないようにならない限り、先天的臍曲がりも後天的臍曲がりも、常に少数に留まります。

「人が人から生まれること」を何とも思わなくなるには臍曲がりの才能が必要ですが、その才能を持つ人も、その才能を欲しがる人も、常に少数です。その才能を持たない人が、その才能を持とうとする意味が何かあるでしょうか。

臍真っ直ぐが多い世間で生きていかなければならない以上、臍曲がりもできるだけ臍真っ直ぐになったほうが、何かと都合がいい。臍曲がりの才能を持って、いいことは何もないでしょう。

かといって、持ってしまったものはしょうがない。臍曲がりが生き易くなるには、臍曲がり仲間を増やすか、臍曲がりが直るように努力するかの、どちらかです。それは、自分達が道徳の中心だ、と叫ぶか、自分達が道徳の中心であることを諦めるかです。

反出生主義者は前者であることを選びました。しかし、人はいつか死ぬ上に、臍曲がり仲間が増えるには、人が新しく生まれなければなりません。

「人が人から生まれること」を肯定できず、人が新たに増えることを否定する人達が、仲間が増えることに頼る、という矛盾した戦略を選んだ時点で、彼らは道徳ではない部分で敗北を約束されています。道徳に優劣はなくても、戦略にはあるので。

道徳が道徳を覆せないのであれば、反出生主義にはその点で勝ちも負けもありません。しかし、反出生主義を生き易さの戦略として評価すれば、負けしかありません。

反出生主義は生き易さの戦略ではない、と反出生主義者は言うかも知れません。しかし道徳とは、集団での負担管理の仕組みでした。つまりそれは、生き易さの戦略に他なりません。

道徳とは(生き易さの)戦略でもあるのです。反出生主義が道徳であることを自負するなら、それが生き易さの戦略であることを、否定することはできません。

そしてその戦略が目指すところは、人口が減りながら仲間の数が増えることです。その達成に向けてやっていることと言えば、自分達の存在の主張と宣伝だけです。

それでできるのは、既にいる仲間が繋がることくらいです。仲間の絶対数を増やすことはできません。臍曲がりになるには才能が要るからであり、その才能を人為的に養成することは困難だろうからです。

それに仲間の数が増えることは、それ以上に敵の数が増えていることを意味します。仲間の数が減れば敵の数も減っていることになりますが、恐らくは敵は、数が減ると結束を固め、増殖への意思を強めると共に、自分達の数を減らそうとするものへの敵意を高めるでしょう。

反出生主義が現在、比較的に安穏と主張していられるのは、世界人口が過剰になることの懸念の中で、人口抑制も想定しなければならない機運に合致しているからで、世界人口の危機的不足が訪れれば、彼らは容赦なく蹴散らされるはずです。

と言いつつも、彼らが反出生主義を主張し出したのは、人口増加の副作用で臍曲がりの数も一定数に増えたことで、自分達だけで独立して何か出来るのではないか、と思い上がったからで、人口減少が進んで臍曲がりの数が一定数を下回れば、急に大人しくなるのではないか、という気がしています。

ついでに言えば、どうも反出生主義者達は、人口が減ることは敵の数だけが減ることだ、と考えている節があるように思えます。SNSですら仲間と出会いにくくなるのが、人口が減る、ということです。本当に人口が減って仲間が見付からない時代になっても、彼らはきっちり論陣を張り続けていられるでしょうか。

それはともかく、反出生主義の情勢は、敵の情勢に依存連動している上に、敵の情勢にほぼ関わるようなことはできず、従って反出生主義は、自分で自分の情勢を制御できないことになります。戦略も何もあったものではありません。

結局、反出生主義は世間の人口の増減に何も関われないまま、ただその数字の上下に一喜一憂し、その感想をSNSで共有するだけに終始するでしょう。

反出生主義の生き易さの戦略は、囚人の生き易さの戦略です。囚人は自分達が囚われた監獄の外には関われない。その代わりに、いかに監獄内を楽しく賑やかな場所にするか。

しかしその監獄は特殊で、誰に命じられるでもなく、囚人が自分達で作り上げたものです。

と言うか、自らを囚人に仕立てたい人達の手で、その監獄は作られています。監獄の責任者は囚人達自身です。そこに誰が入るか、誰が抜けるか、それを囚人達自身が決めるような奇妙な監獄です。

なぜそんなものを作るのか、と言えば、監獄とは社会の暴力装置(社会学用語で、市民に対して強制力を持つ機関のこと)の一端だからで、手作りの監獄は、手作りの社会の一片と言えます。

彼らはつまるところ、自分達だけの社会が欲しかったのです。監獄とは囚人に正しく社会性を強制させる場所であり、社会性が最大限に権力を発揮する場所でもあります。

彼らは自分達で監獄を作り、そこで自ら囚人となることで、自分達が作り出した社会性即ち道徳に、最大限の権力が宿ることを願ったのです。

彼らにとって監獄の外の世界は、自分達が馴染むことのできない社会性が支配する場所です。そこで暮らすことは、囚人として生きることと、そう変わりないものだったのでしょう。

しかし彼らは、実際には囚人ではないので、その居心地の悪さをどこにも訴えることができません。

そこで彼らは自ら監獄を作り、その囚人となることで、囚人としての主体性を獲得し、囚人としての生き易さを追求し、囚人であることに誇りを持てるようになります。

人権宣言でもなく、人間宣言でもなく、囚人宣言です。反出生主義は実際、子を生むことは、無から過酷な現実に、無理矢理に子を連行して閉じ込めることだ、というような言い方をします。

しかしそれなら、囚人とされていることは不当だから監獄の外に出せ、と要求するのが自然です。監獄の外とは、どこのことでしょう。

彼らにとって自分達の監獄の外も監獄です。そもそも外の監獄から逃れるために、彼らは内なる監獄を作り出したのです。彼らは外の監獄に出ることを望んでいません。では外の監獄の外はどうでしょう。

外の監獄が普通の社会の生活であるなら、その更に外は、社会の外か、生活の外、ということになります。それは剥き出しの生か、死です。しかし、彼らはそれを選ぼうと思えば選べたはずです。彼らは、社会の外か、生活の外か、内なる監獄か、という選択肢の中で内なる監獄を選んだ人達なのです。

彼らは、監獄の中で囚人として生きることを選びました。囚人とは、普通の社会で生活で敗北を喫している人達のことです。

彼らは主体的に囚人であることを選んで生きることで、自分を敗北させたのは他の誰でもない、自分自身だ、と言うことができます。つまり、自分は誰にも敗北させられてはいないのだ、と。

彼らが普通の社会を普通に生きられない以上、彼らが敗北することは約束されており、だとすれば、その敗北をどう位置付けるべきかが問題となります。自ら選び取った敗北、というのが彼らの答えです。

自らを敗北させた証として、自らを監獄に放り込む。そして、囚人となった自らの責任者として、その居心地の改善を、監獄の外に要求する。囚人の数が増えれば、囚人の一人として心強く、責任者としての権威も増える。それが、囚人としての生き易さの戦略です。

彼らには負けしかない。その負けを先取りして、負けの主導権を握る。その時、彼らの手元からは負けが消えて、主導権だけが残る。という理屈なわけです。

しかし負けは負けです。でも、どこにも生き易さがないなら、それを自分達の手で作り出すしかない。手元に負けしかないなら、それを生き易さに変えるしか方途はない。

彼らは負けから出発するしかなく、その負けを愛するしかなかった。それはある程度、正しかった、と言えます。ただ彼らは、その負けだけを愛することしか、しようとしなかった。その点で、誤った、と言えるのではないでしょうか。

彼らは「人が人を生むこと」、「人が人から生まれること」を肯定できない自分を愛しながら、「人が人を生むこと」、「人が人から生まれること」を肯定する人々をも愛せるよう、努めるべきだったのです。

彼らには、それができたはずです。なぜなら、誰も彼も、人から生まれてきた、人だからです。

しかし、彼らは自分の負けを愛し過ぎました。そうして、自分の負け以外の何かに目を向けて、それを愛する余裕を持てず、人々の中で孤立することになります。

ですが彼らは、それを何の問題とも思わないでしょう。それが彼らの選んだ、生き易さの戦略だからです。反出生主義とは、人は愛さず、負けることと負けた自分とを何よりも愛する、という戦略なのです。

反出生主義は人間の倫理を重んじた思想、という主張があります。ここでは倫理について考えてみましょう。倫理とは何でしょうか。

倫理と聞いて先ず思い浮かぶのは、医療の分野ではないでしょうか。それも特に、人間の生死に関わることであるように思えます。人を、どこから人として扱うか。人を、どこまで生きているものとして扱うか。何が人か。何が人の生か。何が人の死か。

あとは、ヒトのクローンを作ることは許されるか、とか、ヒト以外のクローンを作ることは許されるか、とかでしょうか。

倫理を設ける、とは、何かについて許されることと許されないことの違いを考え、両者の間に線を引くこと、と言えそうです。なぜそんなことをするのか、と言えば当然、許されないことを行ってしまわないためでしょう。

生きていない人を生きているように扱うことは許されず、死んでいない人を死んでいるように扱うことも許されません。

ヒトのクローンは、個人の同一性の問題よりは、不完全な技術で生殖の根幹部分を置換してしまうことの影響の未知さに加え、ヒトの生殖が異性の二者の遺伝子の交配である、という恐らくは人類史上これまで例外なく守られてきた、ヒトがヒトであることの根拠を、これまでも手付かずで維持しておくためです。

だから、クローン(個人一者の遺伝子の複製)でなくても、同性の二者の遺伝子を交配して、新たにヒトを誕生させることも許されないはずです。

ヒト以外のクローンの作製実施は、クローン技術を向上させ、ヒトへの応用に接近しかねないので、完全に禁止されないまでも、やはり厳しく制限されるでしょう。

さて、倫理が何かについて許される許されないの線引きをすることであるなら、その許される許されないは一体、誰に、なのでしょうか。わたしに、でしょうか。あなたに、でしょうか。みんなに、でしょうか。

例えば、床に落としてしまった食べ物を拾って食べてもいいか、という問いにはどう答えられるでしょう。

自分が食べる分には構わない。自分が食べる分でも駄目。他の誰かに食べさせる分には構わない。他の誰かに食べさせる分でも駄目。他の誰かに食べさせる分だけは駄目。

倫理も道徳と同じく、他人の存在との間で意味を持ちますが、道徳と違って、世界に自分一人しか存在しなくても意味を持てるものであるように思われます。

床に落とした食べ物を食べると、食中毒を起こす危険があります。床は大抵の場合、それほど清潔ではないからです。かといって、必ず食中毒を起こすわけではありませんし、量や外見はともかく、栄養は何ら損なわれてはいないはずです。

一方で、食べ物を無駄にするのは、よくありません。現代では飢餓の危険は大きく低減されたとは言え、やはり食べ物は大事で貴重な資源です。

我々は食べ物から得られる栄養で健康を維持します。しかし、汚染された食べ物を食べてしまうと、病気になったり、嘔吐や下痢を起こしたりして、栄養も健康も却って損ないます。

ここで加えて重要なのは、食べ物が汚染されるのは、床に落としてしまう場合だけではない、ということです。

運搬中、保管中、調理中、食べ物が汚染される可能性は、いつでもどこでもあります。食べ物は空気や何らかの器に、常に接触しているし、食べ物である以上、人間がそれを何らかの形で取り扱うからです。そもそも人間の存在こそが、汚染源となり得るのです。

だからといって、床に落とすも落とさないも変わらない、とはなりません。床に落とす落とさないで、食中毒の発生可能性は大きく変わるからです。

我々は食べ物を食べなければならない。我々は食べ物を無駄にしてはならない。我々は食中毒を起こしてはならない。我々は食べ物から食中毒の危険を完全に取り除くことはできない。

もし、我々が食べ物を食べなくてもいいなら、我々が食べ物を無駄にできる(無尽蔵に食べ物を入手できる)なら、我々にとって食中毒が大したことではないなら、我々が食べ物から食中毒の危険を完全に取り除けるなら、我々は床に落とした食べ物を食べていいか、という問題に悩まないでしょう。

別の言い方をすれば、我々はここに倫理を設ける必要はなくなるでしょう。倫理とは、何か複数の条件が複雑に絡み合う状況にどう対応するか、という問題でもあるようです。

もし世界に自分一人しかいない場合、拾い食い問題にはどう答えられるでしょう。

世界に自分一人しかいないので、食中毒を起こすと治療してくれる人はいません。食べないほうがいいでしょうか。一方で、世界に自分一人しかいないので、食料も自分一人で調達しなければならず、それはとても貴重です。食べたほうがいいでしょうか。

もし食料が充分に確保されているなら、食中毒の危険を鑑みて食べないほうがいいでしょう。もし食料が枯渇寸前で、更にはこれまで床以上に酷く不潔な場所に落とした食べ物を何度も食べていて、それでも食中毒を起こしたことが一度もなかったら、食べたほうがいいかも知れません。

どちらの答えが正しい、と言えるでしょうか。状況による、としか言えないのではないでしょうか。それよりここで重要なことは、倫理に対しての答えには、異なる二つの水準と、それに関する奇妙な性質があるらしい、ということです。

拾い食いをしたほうがいい、という答えを出せるには、拾い食いの経験が積み重ねられる必要があります。しかし、そうするには、拾い食いをしたほうがいい、という答えが出せない時点で、拾い食いが繰り返し行われなければなりません。

倫理に対する答えには、したほうがいいか悪いかの水準と、実際にするかしないかの水準があるようです。そして、するかしないかの答えの積み重ねが、したほうがいいか悪いかの答えに影響を与えることがあるようです。

倫理的な悪が繰り返し行われることで、それが倫理的な悪ではなくなることがある。勿論、繰り返し行われればどんな悪でも悪ではなくなる、というわけではないでしょう。だとしても、なら倫理的な正しさとは一体何なのでしょうか。

さて、世界に自分一人しかいない時、倫理に対してどんな答えを出して、そのために何が起きたとしても、それを咎める人は自分以外に誰もいません。食中毒を起こしても一人。起こさなくても一人、です。

では、世界に自分と誰かの二人だけしかいない場合は、どうなるでしょう。

床に落とした食べ物を、知らせた上でなら食べさせていいか悪いか。知らせないで食べさせたらいいか悪いか。もしそれで相手に食中毒が起きた時、どう振る舞うべきか。

更に、相手には相手の意思があり、倫理があります。相手が自分と違う答えを出している時、どうするべきでしょう。自分は、食中毒の危険は少ないからいい、と思っていても、相手は、ちょっとでも危険があるなら悪い、と思っていたら。また立場がその逆の場合はどうか。

食べていいか悪いか。その単純な選択しかなかった問題が、自分以外の誰かがたった一人でも現れたことで、途端に複雑化したり、新たな問題が発生したりすることに気付きます。

それでも二人が親密なら、何かあれば、その都度話し合って互いに納得すればいいでしょう。二人の問題は二人だけの問題です。しかし、二人が親密でなかったら、あるいは敵同士だったら、どうでしょう。

もし二人が敵同士なら、そもそも食料を共有するどころか奪い合う関係なので、拾い食い問題は発生せず、代わりに、何かあれば相手を殺害してしまうべきか、といった問題に悩むことになるのかも知れません。

相手が敵なら、その意思や倫理を何も顧みる必要はありません。敵とは自分に害をなす者のことだからです。けれど敵を殺害するにも危険が伴うので、殺害を実行するにも自分の状況を勘案する必要はあります。

ここでもう一つ、倫理のとある性質が見えてきます。

相手のある倫理の問題は、相手との関係が敵か親密である時、別の言い方をすれば、相手の事情を考慮する必要がない時、または自分の事情だけを考慮すればいい時、そして相手の事情が自分の事情と限りなく重なっている時、慎重である必要が薄れる、ということです。

それは、相手との関係が敵でも親密でもない時に、我々は倫理の問題について最大限、慎重になることを示します。ではその、敵でも親密でもない関係とは、どういう関係のことでしょうか。

相手を敵と思うにも親密と思うにも、相手が自分にとってどんな存在かを知っていなくてはなりません。知らない存在とは関係を結びようがなく、倫理の問題も成立しません。

そこに相手のある倫理の問題が成立しているなら、少なくとも、そこには相手との何らかの関係が成立しています。ならその時、その相手は知らない存在ではない、ということになります。

知らない存在ではない相手とは、どういう相手のことでしょう。「知らない存在」の否定なら、それは「知っている存在」のことでしょうか。

我々は、世界に自分以外の誰かが大勢いることを知っています。それらが「知っている存在」のことなのでしょうか。

確かに我々は、自分以外の誰かの存在がいることは知っています。ではその存在のことの何を、我々はどれだけ知っているでしょうか。我々がその存在について知っているのは精々、そういう存在がいることだけ、ではないでしょうか。

敵でも親密でもない、「知らない存在」ではない相手とは、そこに存在していることだけは知っている存在のことです。もう少し言えば、敵になるのか親密になるのか知らないけど、そこにいることは知っているので関係しなければならない存在のことです。

そこにいることは知っていても、関係しなくていいと決まりきっている相手なら、敵と同じく、その存在について何も配慮する必要はありません。状況が整い次第、殺害するなりして排除してしまえばいいでしょう。

「関係しなければならない」とは、一緒に生活しなければならない、や、近くで生活しなければならない、ということで、利害を共有して生きなければならない、ということです。

なぜそうしなければならないのか、と言えば、敵だったり、関係しなくてもいい相手なら、排除されてしまうからです。こちらが相手を排除する気なら、相手もこちらを排除する気になります。相手もこちらと同じく、人だからです。

排除される、とは自分の生活を何らかの形で破壊されることを意味します。自分の生活を保護したいなら、自分を排除し得る者を先に全員排除するか、全員が互いに互いの排除を禁じるか。

前者は排除の競争とその激化を呼び、後者は排除の発生を限定します。人は誰かを闇雲に排除したいわけではなく、誰かに排除されたくないから、誰かを排除することを選択します。誰かに排除される危険がなくなれば、誰かを排除する理由もなくなります。

自分の生活を保護したい。それは、自分を排除されたくない、という欲求でもあります。他人のその欲求を互いに尊重できるなら、他人によって排除される脅威から、自分自身も保護されることになります。

人は自分の生活を保護するために、どんな意思や倫理を持っているかも知らない、だけどそこにいることだけは知っている、大勢の誰かと「関係しなければならない」のです。

この『「知らない」けど「知っている」ものと「関係しなければならない」』ということは、倫理の問題の成立に重要です。

もし何かを食べた時、それによって食中毒を起こすか起こさないか、それが完全に分かっているなら、もし食中毒を起こしたとして、そのことで一体どういう影響があるのか、それが完全に分かっているなら、我々は倫理の問題に悩みません。

我々は選択したことの結果が完全には分からない。ただそのことだけは分かっているから、何を選択するべきか、悩みます。しかしながら、そこに選択すべきことがある、とそもそも分かっていなければ、悩みません。

汚染された食べ物を食べると食中毒を起こす、ということを知らなければ、床に落とした食べ物を食べない選択はありません。「床に落とした」ことで問題(と選択)が発生していることが分からないからです。

ある何かについて、その存在だけは知っているが、その内実は知らなくて、もしくは制御できなくて、しかしそれと関係しないことはできない。その時、我々は倫理の問題に悩むのです。

倫理の問題とは、突き詰めて言えば先ず、あることは知っているが、それがどんなものかは、まだ知ることができない、しかしそれと関係なくいることはできない、未来というものに対する態度であり、そして、相手がある倫理の問題とは更に、いることは知っているが、それが自分とどれだけ一致するかしないか知ることのできない、しかしそれと関係なくいることはできない、他者というものにいかに、その未来というものを選択させ、また自分も他者の一人として、その未来というものを選択させられるかに対する態度だ、と言えます。

それを手短に言えば、自分を含めた未知なる他者同士と、未知なる未来をどう共有し合うか、です。別の言い方をすれば、自分と自分ではないものが持つ未知性をどう処理するか、です。

倫理とは、何か複数の条件が複雑に絡み合う状況にどう対応するか、であるようだ、と以前に書きました。ここにもし処理という言葉を使うなら、それはまるでプログラムか何かのように思えてこないでしょうか。

倫理とはプログラムである。

あるいは、プロトコルである、と言ってもいいのかも知れません。どちらも「定められた手続き」のような意味合いであり、「ある条件が満たされた場合に、このようにしなければならない」という指示や定義の束のことを言います。

倫理には複数の異なる水準がありました。あることを、するべきかしないべきか。あることを、実際にするかしないか。それに加えて、個人で完結してしまえる倫理と、他者を包摂する倫理との別があるようです。

「倫理」を「プログラム」に読み替えるなら、個人で完結してしまえるプログラムとは何でしょう。

プログラムには先ず目的があります。目的のないプログラムはありません。プログラマーは意味のないプログラムを組むことができますが、それはバグ発生の例示とかいった、教育や啓蒙を目的としている場合であるはずです。

プログラムは、その内容自体か、プログラムの存在自体に必ず目的があります。もし全く目的のないプログラムがあるとすれば、それはプログラムではないものを強引にプログラムとして解釈した場合でしょう。つまり、プログラマーが不在だった場合です。

ということは、プログラムの目的とは常にプログラマーの目的だ、ということになります。そして、「倫理」が「プログラム」であるなら、倫理には目的があり、それが何かは倫理を組んだ者によって決められる、ということになります。

個人で完結してしまえる倫理(以下、これを自己完結倫理と書くことにします)があるなら、その倫理を組んだ者はその個人以外にあり得ません。よって、その倫理の目的はその個人によって決められることになります。

では、その目的とは、いかなるものになるでしょう。個人の目的など個人の数だけあるはずなので、そこで共通して言えることは限られるでしょうが、その部分こそが、全ての人の自己完結倫理の核心となるでしょう。

自己完結倫理の目的は、先ず自己の生存に関することは不可欠です。その倫理を遂行するのは、自己以外にないからです。倫理が存在するのは、それが遂行されることが前提となります。なので、その目的は、その倫理の管理と遂行に関することも不可欠です。

これらのことから、自己完結倫理に共通する目的は、倫理(の目的)を遂行することと、そのために、倫理(の目的)を遂行する主体である自己を適切な形で生存させること、と言えるでしょう。

この、倫理の共通目的は、その内容で倫理(の目的)に言及しているので、再帰的な構造です。これはつまり、どんな個別の倫理(の目的)を持つのであれ、その倫理(の目的)を遂行することだけは否定できない構造です。

これを平易に言えば、自己完結倫理とは、自己に固有の倫理を自己に遂行させるための倫理だ、となります。これを更に軟らかく言えば、自分がどう生きたいかを、どう自分に生きさせられるか、みたいな感じでしょうか。

自己完結倫理は、自分が生きたいように自分を振る舞わせるものです。人は誰でも自己完結倫理を有し、これに自分から逆らうことはできません。

自分が生きたくないように生きる、というのは結局は、自分が生きたいように生きる、というのと同じ結果にならざるを得ないからです。

自分が生きたいように生きる。人が誰でもそのような倫理を有した上で、大勢の人同士が出会う時、何が起こるでしょう。

自分が生きたいように生きるには、他人が障害になるかも知れません。他人は自分と同じく人であり、その欲求するところも似るからです。

そして、人の欲求する資源は大抵が有限です。他人が生きたいように生きていると、自分が欲求する資源を他人に持っていかれてしまいます。どうするべきでしょうか。

一番単純で明快な解決策は、他人を排除してしまうことです。他人がいなければ、有限の資源は全て自分のものです。

しかし、お互いに人同士だから、その欲求も似るし、であればその解決策も似ることになります。わたしが他人を排除しようと考える時、他人もまた、自分にとって他人であるわたしを排除しようと考えます。

かくして、自己完結倫理を持つ者同士はみな、自身が排除される危険に陥ります。自分が生きたいように自分を振る舞わせるものが、却って自分が生きたいように自分を振る舞わせることを阻害するのです。

だからといって人は、自己完結倫理を放棄することはできません。それに自分から逆らうことは、できないからです。ではどうなるか。

自己完結倫理は自身を放棄させることを遂行者に許しませんが、自身の核心以外を変更させることを許します。自身の継続的遂行に必要であるなら、自己完結倫理は自身の遂行者に自身を書き替えさせるのです。それは一体どのように、でしょうか。

問題は他人の自己完結倫理です。その中に、他人であるわたしのことを尊重してくれる倫理がないから、わたしが排除の対象にされてしまうのです。しかし、自己完結倫理が自身を書き替えることを許すのは、自身の遂行者だけです。他人のそれを、わたしは直接書き替えることができません。

わたしが書き替えられるのは、わたしの自己完結倫理だけです。他人の自己完結倫理に、他人であるわたしのことを尊重する書き替えが起こることを期待するなら、わたしもまた他人の一人として、わたしではない他人のことを尊重するよう、わたしの自己完結倫理を書き替えなければなりません。

そのようにして、わたしが他人のことを尊重する倫理を持つ者になれたとして、他人はわたしをどう扱うでしょう。

わたしはその倫理によって、他人を排除しようとする欲求が抑制されるので、他人にとっては安全度の高い存在となり、他人がわたしを排除する欲求も抑制されます。

その倫理を持つ者と持たない者が同時にいるなら、誰もが「持たない者」を優先して排除しようとするでしょう。それは「持たない者」は誰にとっても危険だからで、危険な者が優先して排除されるなら、自分の安全を欲求する誰もが「持つ者」となるような流れが起きます。

自分にとって安全なものはより多く、危険なものはより少なく。

これも全ての人の自己完結倫理に共通の、核心部分と言えるでしょう。自己完結倫理は、それを持つ者同士が集まると、互いにその自己完結性を解くようになり、それをしない者を異物ないし危険物として排除するようになります。

自己完結倫理にとって自身と似た者の出現は異常事態です。そしてそれに対処するために、適切に自身を書き替え変化することが、自己完結倫理の正常な反応なのです。それができないのであれば、それは壊れた自己完結倫理か、自己完結倫理とは異なる未知の何かです。

自己完結倫理は、異常事態に際して核心以外の部分の自己完結性を後退させ、その部分を放棄することで、核心部分の自己完結性を保護および維持するように思われます。

自己完結倫理を持つ者同士が集まると、互いに自己完結性を後退させ、そうして空いた領域に他人を尊重する倫理を持つようになります。そう言うと何だか全ての人が争いなく暮らせるようになれる気がしますが、そうはなりません。

互いに他人を尊重する方針は定まっても、他人を尊重することがどういうことかは、互いに定まらないからです。それが定まらないのは、そもそも他人というものが誰かが定まらないからです。

他人とは、自分ではない誰かであること以外に、定めることができません。自分は唯一人しか存在し得ませんが、他人は無数に存在し得ます。

そして、自分と他人は似るが、同じでもなければ、同じになれるわけでもありません。似ている部分を尊重していっても、やがて似ているとも言えないような、尊重できない部分が必ず残ります。

しかし、尊重できない部分を持つ、という点では誰もが似ている、とも言えます。であるなら、他人への尊重には限界があることを尊重することが、他人への尊重に不可欠なこと、となるでしょう。

他人を尊重する倫理(以下、これを他人尊重倫理と書くことにします)は、自己完結倫理の後退した領域に成立し、それがいかなるものかは不定です。対象となる他人が誰かが不定だからです。

しかし、対象となる誰かは自分ではない、ということだけは定まるなら、他人尊重倫理にも定まる部分がある、と言えます。そしてそれは全ての人の他人尊重倫理に共通する、核心部分と言えるでしょう。

それには既に書いたように、他人への尊重には限界があることを他人に対して尊重する、ということがあります。そして、他人尊重倫理は自己完結倫理の周辺を書き替えたものであるために、自己完結倫理の核心に逆らうことはできません。

他人尊重倫理は、自己完結倫理の遂行への必要から成立しています。従って、自己完結倫理の遂行を阻害するような他人尊重倫理は、成立しません。

これを言い換えれば、他人尊重倫理は、尊重の対象となる他人の一人として自分自身も含む、ということになります。だから他人の尊重をすることがどういうことかは、少なくとも自分が尊重されていると感じられること、となるはずです。

自己完結倫理を持つ者同士が集合したら、互いに他人尊重倫理が発生しました。そうしたら今度は他人尊重倫理を持つ者同士が集合していることになります。その時、何が起こるでしょう。

自己完結倫理を持つ者同士は、互いを排除し合って互いに自己が危険に陥る問題に直面しました。他人に対する欲求が自分にも返ってくるのが、問題の本質です。その解決策が、互いに他人尊重倫理を創出することでした。

これで互いの排除の危険は回避しましたが、新たな問題に直面します。そもそも人々がなぜ排除の危険に陥ったのかと言えば、人が生きたいように生きるためには資源が必要だからであり、その資源が有限だからです。

互いに他人を尊重し合うことになったとしても、生きたいように生きるための資源が必要なくなったわけでも、資源が無限になったわけでもありません。それどころか、他人の排除を禁じ手にした時、資源の有限性はより強化されます。

他人尊重倫理を持つ者同士が集合したら、資源の処分問題に直面します。この資源には負の資源も含まれます。資源の確保には、負の資源が伴います。食料生産のための労働は、その典型です。

自己完結倫理だけであれば、自分の必要な分だけ、あるいは可能な分だけ、正負の資源を共に自分だけで引き受けるか、もしくは他人に負の資源を負わせ、自分だけ正の資源をいただくか。

他人尊重倫理は、自分が尊重されていると感じられることが基礎になります。他人に負の資源だけを負わされ、正の資源を奪われることを、尊重されていると感じる人はいないでしょう。それは自分が排除されていることと、ほとんど変わりません。

正の資源はより多く、負の資源はより少なく。誰もがそう願うでしょう。

他人を尊重することとは、他人と資源を共有することでもあります。自分が正の資源を得ることは、他人が得られる正の資源を奪うことで、自分が負の資源を引き受けないことは、他人にそれを引き受けさせることになります。

自分がどれだけ正負の資源を引き受けるか。他人にどれだけ正負の資源を引き受けさせるか。ここで新たに資源共有ないし管理の倫理が要請されます。

他人尊重が適切に遂行されるには、資源共有ないし管理が適切に遂行される必要があります。それには、資源に対する適切な評価が必要になります。ある資源がどれだけ価値が重いか軽いかが定まらないと、その適切な共有や管理ができません。

この評価を巡って、事態はより複雑化します。正負に拘わらず、資源の価値は個人によって違うからです。それは、個人が単に別個体だから、というだけではなく、その年齢や性別や体力知力や健康状態、全てが違い、しかもそれらが常に変動するからです。

健康な成人に課される労働と、子供や老人や病人に課される労働では、重みが違います。酒類、菓子類の価値も違うし、求める娯楽やサービスの内容も違います。

人は変動します。人だけではなく、資源や環境も変動します。人の選択と行動が、人自身も資源も環境も変えます。その中で、いつもあまり変わらないものもあれば、時代によって大きく変わってしまうものもあります。

評価する側もされる側も変わっていくなら、資源共有や管理の倫理も変わっていかざるを得ず、その倫理を要請した他人尊重倫理も、その内容は変動せざるを得ません。

では一体何が他人を尊重することになるのか。それを定めることはできません。ただ、誰もが他人を尊重しなければならないことだけは変わらず、また自分だけは、何が自分を尊重したことになるのかを定めることができます。

しかし自分は他人を正確に尊重することはできません。自分がそうなら他人もそうであるはずで、なら他人が自分を正確に尊重できないことを尊重することが、他人を尊重することの中で、定めることのできる数少ない部分の一つだ、と言えるでしょう。

ここまで倫理について、あれこれ考えてみました。それは倫理について純粋に知りたかったわけではなく、反出生主義の主張する倫理を評価するためです。

倫理を重んじるとは、倫理に忠実であることを意味するでしょう。その倫理にはしかし、これまで考えてみた通り、複数の異なる水準がありました。だとすれば反出生主義の主張する倫理とは、一体どの水準の倫理のことを言っているのでしょうか。

倫理には先ず自己完結倫理がありました。しかし、それには構造上、誰も逆らうことができません。別言すれば、誰もがその倫理に忠実です。だから、この倫理に忠実であることは、誇るようなことではありません。

次に他人尊重倫理がありました。これは自己完結倫理同士が互いに排除し合う危機を回避するために、互いに自己完結倫理の一部を変化させたものです。

これに逆らうことができるのは、排除を恐れぬ剛の者か、排除されることが我が人生と決めた、儚き者です。どちらも完全に自己だけを愛でている点で同じであり、自己完結倫理の中の特殊な例でしょう。

普通は誰もが排除を恐れ、自己完結性を解いて他人を受け入れます。自分が排除されるのは嫌なので。それが普通の自己の愛で方であり、やはり誇るようなことではありません。

その次に、資源共有倫理がありました。これは他人尊重倫理の中身でもあります。自分は何を背負い、他人に何を背負わせるか。倫理に忠実であるかないかを決められる要素は、ここにありそうです。

資源共有は、資源への評価や、資源割り当ての対象への評価の共有でもあります。

人が生きるには食料が必要です。それには食料生産が必要です。食料生産は労働です。人が生きるには労働が必要です。多く労働する者は、多く食料が必要です。

人は、老人から赤子まで、健常者から病人、障害者まで、頑強な者から虚弱な者まで、様々にいます。

倫理の問題とは、複数の条件が複雑に絡み合う状況にどう対応するか、でした。上記はその条件であり、動かしがたい現実のこと、と言えます。この現実に縛られない人は、誰もいないでしょう。

この条件で、資源の共有、労働と食料の割り当てを考えてみましょう。

どんな者であれ均等に労働と食料を割り当てるのがいいか。それとも、多く労働できる者に、多くの食料を割り当て、全く労働できない者には、全く食料を割り当てないのがいいか。

人は誰でも赤子から始まり、赤子に労働を果たす能力はありません。赤子が健康成人並みに労働できる前提の前者も、労働できない赤子を生かさない後者も、破綻します。

一方で、多く労働できる者に割り当てる食料を減らすと、労働効率が下がり、生産できる食料も減り、全員がじわじわ困窮していく事態に陥ります。

この場合の合理的な答えは、多く労働できる者に多くの食料を割り当てつつ、今はまだ労働に参加できないが、成長していずれ参加できるようになる赤子にも、相応の食料を割り当てる、です。

赤子は成長するので将来性があります。では、成長も終わり、後は衰えていくだけの、労働できなくなった老人は、どうするべきでしょう。

もう労働はできないが、これまで労働してきた経験を若年者に伝えて、労働効率を上げられるかも知れません。何らかの形で労働と生産に寄与することが期待されるなら、誰であれ、その者は相応の食料を割り当てられるべきです。生かされるべきです。

それは、どんな形でも労働と生産に寄与することが期待できない者は、生かされるべきでないことを意味します。この考えは倫理的でしょうか。

労働できない者を多く抱えることは、資源共有効率の悪化を招き、全員をじわじわ困窮させます。

ある人を生かすために、その人以外の全員が困窮するなら、その人は生きるべきでない、と全員が思っているなら、全員を困窮させることを回避するために、ある人を生かさないことは倫理的となります。

そのある人も、自分は生きるべきではない、と考えることになので、問題はありません。満場一致です。

その逆に、自分以外の全員を困窮させるとしても、どうあれ自分は生き続けたい、と全員が考えるなら、ある人が生きて、その人以外の全員を困窮させることは倫理的となります。

全員が、そのある人が生きるためなら全員が困窮するべきだ、と考えることになるので問題ありません。これも満場一致です。

問題があるとすれば、そんな満場一致は滅多に起きない、全員が一つの同じ資源共有倫理を持つようなことはない、ということです。

全員を困窮させるくらいなら生きるな、と、生きるなら誰もが困窮を覚悟せよ、とが濃淡入り交じった中で生きているのが我々です。それが動かしがたい現実の一部であり、倫理が処理しようとする複雑な条件の一つでもあります。

複数の不揃いな倫理が併存する現実が、各倫理の成立に影響します。倫理は、倫理が存在してしまう、という問題を捌くものであるのです。

世界に自分一人だけしかいないなら、人は倫理的になれます。その時、倫理とは、自分自身のことに他ならないからです。

世界に自分と誰かのたった二人だけしかいないくても、人はまだ倫理的になれるかも知れません。その時、倫理とは、自分と目の前にいる唯一の誰かとの関係だからです。

世界に自分と自分以外の大勢の誰かがいるのなら、人はもはや決して倫理的になることはできません。その時、倫理とは、目の前にいない、誰とも言えない者達との関係を含み、互いに倫理を手触りのある形で共有しようとすることができないからです。

我々が共有できるのは、手触りのない、何となく問題が少なそうな、倫理っぽいもの。そこから倫理を始められそうなもの。それは倫理ではない、と非難されそうにないもの。

それを引っくるめて言えば、我々は倫理を共有できない(故に倫理的になることはできない)、という(メタ)倫理です。

我々が倫理を共有しようとするなら、我々が一つの(非メタ)倫理を完全な形で共有することはできず、よって一つの(非メタ)倫理を完全な形で共有することを我々に課してはならない、ということを先ずは共有しなければなりません。

一つの倫理を完全な形で共有することを目標としてしまうなら、我々は遠い倫理を持つ人々同士で破壊的に振る舞い
合うことになるからです。

もっと分かりやすく言えば、共有すべき正しい倫理を巡って、人々は、決着の付くことがない、不毛な闘争に着手しなければならなくなるからです。それは、他人尊重倫理の採用によって、既に却下した道のはずです。

そして、にも拘わらず我々は倫理の共有をすると決めている以上は、我々は我々の間で、何らかの形の倫理を追求しなければなりません。

倫理の根元的形態は個人の生そのものです。倫理の存在は、それ自体が倫理に影響を及ぼします。そして倫理は常に変動します。個人の生が、新しく生まれ、傷付き成長し、病み衰え、滅び消えていく、常に変動するものだからです。

よって我々が追求すべき倫理の形も、常に変動します。そこで、倫理の形の追求とは、何をすべきなのでしょうか。

常に変動するものを追い駆けても、決して追い付けません。次の瞬間には、答えが変わってしまっているからです。だからといって、それが根底から丸っきり変わってしまうことも、そうそうありません。

我々が追求すべき倫理は、いつの時代もあまり変わらない部分もあれば、その時代に影響されて目紛るしく変わる部分もあります。それは、我々が同じ地球に暮らす同じ人間同士であり、地球の基本と限界、人間の基本と限界は、大体共有しているはずだからです。

我々は完全に倫理的になることはできません。なら部分的に、倫理的になれたことで満足するべきなのです。別の言い方をすれば、倫理的になれる部分からなるように努め、そうした部分が多くなったら、そのことに満足するべきなのです。

完全に倫理的になる、とは全ての人々と全ての倫理を一致させることです。部分的に倫理的になる、とは全ての人々と倫理の一部を一致させることです。

その時、倫理の一部とは、全ての人々に対して同一同水準のものを指しません。例えば、ある人とは動物の飼育に関して一部一致させ、また別のある人ととは災害時の救護に関して一部一致させる。そのようなことの積み重ねを経て、我々は完全とは別の形で、倫理的な存在になることができるのです。

そのことを踏まえて、反出生主義を評価してみましょう。

反出生主義は突如として単独で、全ての人々が無関係であることが不可避の出生という行為について、非倫理的だ、と主張し始めました。

出生という行為は非倫理的ではないか。一度立ち止まって、みんなでこれを考えてみるべきではないか。何かについて疑問を持ち主張するだけだったら、問題ありません。いいことである、とすら言えます。

反出生主義は出生を害悪とする倫理を作り出しました。ここまでも問題ありません。倫理の根元的形態は個人の生であり、出生を害悪と感じる個人が集まれば、そういった倫理もあり得ます。新たな倫理が創出されることは、新たな人が創出されることと同程度に自然なことです。

反出生主義の問題は、既にある人々の、既にある倫理を無視して、自分達の倫理が優れる、と言い出したことです。より正確に言えば、自分達の作り出した倫理を、既にある倫理と関連付けて、勝手にその上位版を名乗り出したことです。

これが、反出生主義が自身を倫理的であると称せる根拠であり、同時に反出生主義が多くの人々から猛烈な避難を受ける根拠でもあります。

倫理を新たに創出するのはいいでしょう。新しく創出した以上、それは今までより優れている、と考えるのもいいでしょう。しかし、それを、既にある倫理と根本が一致していると勝手に主張し、更には、自分達の新しい倫理がより優れる、という前提を勝手に作って、それで既存の倫理を貶めることは許されません。

我々は完全に倫理的になることができない代わりに、倫理の部分的一致を、色々な人々との間に積み重ねることで倫理的になれます。倫理的であるかは、その積み重ねの総量で測られるでしょう。

ある人がどれだけ倫理的かは、その人がどれだけの人々と、どれだけの倫理の部分的一致を達成しているか、です。ある考えがどれだけ倫理的かは、その考えがどれだけの人々と、どれだけの倫理の部分的一致を達成しているか、です。

反出生主義は倫理的ではありません。第一に、一般的な倫理の上位を勝手に名乗り、一般的な倫理を貶めています。第二に、それに対する抗議の声を無視し、修正に応じる気がありません。内容が問題というより、内容以前の問題なのです。

倫理とは何よりも、今地球上に生きている全ての人々との関係から生じるものです。自分達以外の全ての人々を素通りして倫理を騙り、それに反応が寄せられるや、それらを尊重や考慮せず一方的な理屈を並べるばかり。

反出生主義は、倫理の成立機序を自分勝手なものに置き換えているからこそ、既存の人々、既存の倫理を無視し踏み躙ることを迷わないからこそ、自分達を、倫理的である、などと称せるのです。

なぜ、そのようなことをするのか。そうしなければ彼らは決して、自分達が倫理的になれた、と思うことができないからです。

反出生主義は、現実に倫理的になれているか、に関心はありません。自分達が倫理的である、といかに自分達で思い込めるか、に関心があるのです。それは、自分達が現実に倫理的になれないことを感じており、そのことが耐え難いからです。

倫理的になる、とは、自分ではない大勢の誰かと、倫理を少しでも一致させようと試み続けることです。それは、自分の倫理を他人に晒して評価を受け、自分もまた他人の倫理を評価し、互いに倫理を変化させていくことです。

反出生主義に惹かれる人々は、先ず自分の倫理を他人に晒すことを、恐らくは経験的に、忌避しているはずです。それは彼らの感覚が普通とは掛け離れていて、世間としばしば軋轢を起こすからです。

そして、普通と掛け離れているのが自分達である以上、強く変化を迫られるのは自分達です。ここで彼らは、変化を受け入れるのではなく、変化を受け入れたように装います。表面上は世間に合わせて振る舞いますが、内心では常に不服を抱いています。

彼らは世間と馴染まない感覚を持っていながら、しかし世間から逸脱して生きられるほど強靭でも器用でもありません。かといって、自分達が普通ではないことを承服もしません。

そのこと自体はまだ、おかしなことではありません。倫理を一致させるとか何だとか、そんなことを心から本当にできている人が世の中にどれだけいるでしょうか。大半の人々は、軋轢を起こすよりは、と倫理を表面上は一致させた振りをするだけです。

法律に縛られずに、みんな自由で危険に生きるよりも、法律に縛られながら、みんな窮屈だけど安全に生きるほうがいい、というのが大半の人々の思うところでしょう。そこは反出生主義に惹かれる人々も変わらないはずです。

彼らがおかしいのは、どうにかすれば世の中の倫理というものを、頑張れば自分の望む通りに引っくり返せるかも知れない、と期待していることです。

法律や倫理は、人々の行動で変えることは確かに可能です。でもそれは、現在の普通からあまり掛け離れていないから可能です。しかも、可能であっても容易ではありません。

例えば、煙草、大麻、医師による自殺幇助。これらを合法にするか違法にするか、その意見は人によって大きく分かれます。今まで合法であったものを違法にするか、またはその逆か。しかし、どちらにしても、これらの是非が普通からあまり掛け離れていない範疇だからこそ、議論も変更も可能です。

嗜好品に関することだったり、人の生死に関わることだったりは、誰でも無縁ではいられませんし、簡単に是非を決められるものでもありません。

煙草を吸わない、嫌い、という人でも単純に煙草の違法化に賛同するとは限りません。その人自身もまた、他人からすれば無価値だったり嫌われたりするものを嗜好している可能性があるからです。

自分が嗜好する何かの是非を、他人の感覚で容易に決められては堪らない、と誰もが思うなら、その何かの是非は決めず、その何かを嗜好する際の行儀や作法を決めて、それを守って
もらうことで許容することを、誰もが望むでしょう。

有害だとしても、喫煙者が場所や環境を選び、吸い殻を適切に処分できるなら、法律は煙草を許容することができます。

合法だった煙草を違法化するなら、行儀や作法の問題では済まされないくらいに、その害を重視することですし、違法だった煙草を合法化するなら、重視されていた害を行儀や作法の問題にして済ませていいくらいの利益を、煙草の合法化に期待することです。

ここで重要なのは、煙草にせよ何にせよ、それによる害を重視する人の考えであっても、それによる利益を重視する人の考えであっても、簡単に侮蔑したり罵ったりしてはならない、ということです。

法律および法律制定の手続きを遵守することを前提とする、いかなる考えや価値観も、社会の新しい倫理となる可能性を有するからです。

倫理に誠実であることとは、現在の社会の倫理と自分の倫理とを重んじながら、それと同じくらいに、自分とは違う他人の倫理を重んじることでもあるのです

反出生主義に惹かれる人々は、現在の社会の倫理に従う格好をしつつ、自分の倫理を重んじているだけで、他人の倫理は軽んじています。

ここまでなら、まだおかしなことではありません。誰しも、大事なのは自分です。自分を大事にするために、仕方なく社会や他人のことを大事にしているだけです。心の中で他人の倫理を軽んじることは、珍しいことでも悪いことでもありません。

彼らは他人の倫理への軽蔑を、理論化ないし言語化して心の外に出し、他人の目に映るよう、堂々と見せびらかしました。自分達の倫理こそが他人の倫理に優越する、という、心の中だけに留めておくべき考えを表出し、一線を越えました。

他人の倫理への軽蔑を表に出してしまうこと自体が、他人の倫理への軽蔑の最たる行為の一つ、と言えます。それは倫理的な悪です。ここでいう倫理は、他人尊重倫理のことです。

彼らは自分の倫理ばかりを重んじて、他人の倫理を軽んじていることに無自覚です。その無自覚性が、自分達が倫理的である、と自惚れることのできる根拠です。

しかし、です。自分の倫理ばかりを重んじて、他人の倫理を軽んじる。それは反出生主義に惹かれる人々に限ったことだろうか、と立ち止まってみることはできます。

彼らが一線を越えたのも、自分達の倫理が軽んじられている、と感じることが積み重なり、耐え切れなかった側面があったのではないでしょうか。

人はそう簡単に倫理的になることなど、できはしません。ですが、それとは別に、ある倫理を尊重するには、その倫理があることを先ず知っていなければなりません。知らないものを尊重することもまた、できはしません。

彼らは自分達の倫理を、しっかりと表に出すことをしてきませんでした。それが世の中の倫理と合わないことを、予感していたからです。そのせいで、彼らの倫理は世に知られることがなく、従って尊重されることもなかったのです。

それを彼らは、自分達の倫理への軽蔑と理解し、ある時に爆発させ、他人の倫理への軽蔑に乗せる形で、ようやく自分達の倫理の表出をし始めたのです。それが、反出生主義が彼らに求められた理由です。

彼らは倫理を重んじているのではなく、自分達の倫理が変化させられることが嫌で、他人の倫理との接触を恐れていたのです。

それが窮まり一転して、他人の倫理を自分達の倫理で塗り潰そう、塗り潰せる、などという馬鹿げた夢想に、彼らは囚われました。

それは、他人の倫理を軽んじていなければ、できない発想です。いや、軽んじていた、と言うより彼らは、他人の倫理というものを、よく知ろうとはしてこなかったのです。

彼らにとって、自分と違う倫理を有する人達は、過去から現在に至るまで社会をというものを構成して営み、それに我慢して合わせると利益を引き出せて、生きる糧を得られる、自然環境に近いものです。同じ人間同士である、とは感じていません。

正確に言えば、そう感じないようにしています。彼らの根本にあるのは、繰り返しますが、自分の倫理が変化させられてしまうことへの恐れです。

他人と出会ってしまえば、自分を変える必要が出てきます。出会ったのが人でなければ、自分を変える必要はありません。彼らは自分達だけを人間と見て、自分達とは違う人々を、人間ではなく、自然環境と見るようになりました。

そして人間は、自分達の利益のために、自然環境を大きく変更しようとする存在です。その性質に従い、彼らはつい、自分達とは違う人々を大きく変更しようとしてしまったのです。

それが、自分が変えられてしまう恐れのために直視を避けてきた、他人という、自分達と同等の存在であり、かつ自分達より普遍的な人々であることを忘れて。

何とも、間の抜けた話です。

改めて結論を言いましょう。反出生主義は倫理を重んじてなどいません。では、軽んじているのか、といえば、それも少し違います。重んじるとか軽んじるとかいう以前に、反出生主義は倫理を直視していません。

倫理とは、自分の中だけに成立するものと、自分と他人との間に成立するものの、二つの水準があり、反出生主義が重んじているとすれば前者のみです。と言うより、後者を無理矢理に前者に組み込んでいます。

他人を、自分に近い倫理を持つ者と、そうでない者とに分け、自分に近い倫理を持つ他人同士で集まって、互いに自分達を倫理的と認定し合い、それ以外の他人を非倫理的と認定し合い、非倫理的な他人に対し、倫理的な他人になれ、と呼び掛けます。

反出生主義は倫理的な他人という存在を、自分達で自作自演することで、自分達は倫理を変えずに、一方的に、他人に倫理を変えるように言うことができます。

人はそう簡単に倫理的になることは、繰り返しますが、できません。それを逆手に取って、その人々の前で簡単に倫理的になって見せることで、自分達の倫理を変えることなく保つことができる、というわけです。

自分の倫理を少しも変えたくないが、他人と擦り合わせれば、自分の倫理を大きく変えざるを得ない人達にとっては、これは福音に感じられたことでしょう。

ただ、その倫理は本当の他人を迂回して成立させたものであるために、本当の他人からも容易に迂回されてしまうことが問題です。その倫理で実際に本当の他人の倫理を変えようとしても、通りません。

その倫理が高い価値を持つのは、反出生主義の中だけです。似たような倫理を持つ人間同士が集まれば、高い倫理を持つ集団が成立したように見えますが、それは高さと言うより、濃さです。同質性の強さ、とも言えます。

濃い倫理を求めて成立した集団は、違う倫理を持つ者を決して受け入れることができなくなります。同質性が薄まるからです。それと同時に、その集団は外部と付き合うことが難しくなります。ある濃い同質性は、その外部にとっては濃い異質性だからです。

倫理の原形は自己保存であり、自己保存者同士の中で自己保存を遂げるために、互いに衝突を避けようとすると、自己を少し切り詰めて他人を尊重することが選択されます。その果てに我々は、自己同士、他人と他人を結び付ける何かを、倫理と呼ぶことになります。

反出生主義は、他人を拒否したい者同士を結び付ける、という変則的な事態を実現しました。それは倫理と呼べるでしょうか。それを倫理と呼んでしまったのが反出生主義だ、と言えます。

他人と他人を結び付ける何か、が本来の倫理であるなら、反出生主義に惹かれる人達を拒否することは、倫理と呼べるでしょうか。

本来の倫理には一つの条件が付きます。それは、互いに互いを受け入れるために、自己を少し切り詰めること、自己を少し変化させること、でした。

反出生主義は自己を少しも変えたくない人達の集まりです。なら、反出生主義が既に倫理に背くものであり、それへの拒否は寧ろ倫理に適う、とすら言えます。

一方で、反出生主義は自己を少しも変えたくない人々を倫理の範疇に置いてしまいました。だとすれば、反出生主義は同じく、反出生主義に対して自己を少しも変えたくない人々をも、倫理の範疇に置かなければなりません。

しかし、そうはしないでしょう。自己を少しも変えたくないが、他人には大きく変わるように求めるのが、反出生主義に惹かれる人達の心情であり、それはその人達が社会から受けていると感じている抑圧の反転だからです。

自分達は抑圧される側ではなく、本当は抑圧する側だ、というのが、反出生主義に惹かれる人達が最後に言いたいことなのかも知れません。

いずれにしても問題は、反出生主義を介することで、倫理の主張、自己の主張を始めることができた、その人達の行く末です。

自然環境と思ってやり過ごしていたものの中から、ある日、自分に似た倫理の主張が聞こえてきたので、自分も真似して倫理の主張を投じてみると、そこで互いに自分に似た他人を発見し合えた。

彼らは感動したのではないでしょうか。しかし、彼らはその感動を知るべきではなかったかも知れません。なぜなら、その感動を再び味わうために、自然環境と思ってやり過ごしてきたものに向かって、倫理の主張を繰り返したくなるからです。

彼らはそこで、そもそもなぜ自分達が倫理の主張を封じ、他人の存在を自然環境と思ってやり過ごしてきたのか、その理由を思い出すことになるでしょう。それは自分と違う他人と出会わないためです。

他人が自分に似ているか、違うのか、それを知るには自分の倫理を、そのよく分からない相手に開示して、その反応を待つしかありません。目と目で通じ合うこともなくはないでしょうが、それでも最後の確認には開示することが、やはり必要です。

自己開示を行えば、自分と似た他人と出会えます。しかしそれ以上に、自分と違う他人とも否応なく出会ってしまいます。彼らの場合、自分と似た他人はとても少なく、身の周りで自己開示しても、出会うのは違う他人ばかりでした。

SNSを手にした彼らは、身の周りを越えて、ほぼ確実に自分と似た他人と出会えるようになりましたが、やはりそれまで以上に、自分と違う他人とも出会うことになります。都合よく自分と似た他人とだけ出会うことはできません。

今一度確認しておきましょう。彼らは他人に自分が大きく変化させられることを嫌っています。だから他人と出会いたくなかったのです。その一方で、彼らは孤独でいることも不安で堪りません。

そんな彼らが、自分に大きな変化を求めない他人が世の中にはいる、ということを知り、その他人と確実に出会える手段があるけれども、その手段を使うと、自分に大きな変化を求める他人とも接触不可避だ、という状況です。

変化を拒んで、他人なんて誰もいない、と思って孤独と不安に生きるか。孤独と不安を拒んで、変化を求められながらも、他人を求めて生きるか。

後者は、じつは普通の人達の生き方です。彼らにとって、他人を求める生き方を選ぶ理由が弱かったのを、SNSが補い、普通の生き方を選ぶ道が開けてきました。ただ、他人を求めても変化を求められたくないのは、そのままです。

彼らは岐路に立っています。少しずつ変化を受け入れていき、いずれ普通の人達の生き方に合流するか。自己開示を中止して、以前の孤独で不安な生き方に回帰するか。あるいは今のまま居座り、彼らが生きている内は決して訪れることのない、自分達が普通とされる時代の到来を、他人との衝突に耐えて待ち続けるか。それとも……。

彼らは普通ではないけど、特別でもないし強くもありません。他人との接触が激しく起こるSNS上で、自己を開示しながら衝突に耐えて待ち続けることは難しい。かといって、孤独と不安の中に舞い戻ることも難しい。

彼らを観察し続ける中で、いくつものアカウントが、非公開に切り替えたり反出生主義に関する文言を封印したり、更にはアカウントを放棄したり消去したり、アカウントどころか自身の生命までをも消去したり、ということをしていくのを見てきました。

そうでなくても、死にたい死にたい、と繰り返している人は相変わらず多い。人間である以上、どうにかして普通の人達の生き方に合流することが一番無難であるはずですが、彼らはそれこそを最終最後の道として保留しようとします。

普通の人達の生き方をするくらいなら、死んだほうがましだ。そんな生き方もあるのでしょう。それを目の当たりにして、やめなよ、そんな生き方、と思うのが普通の人達です。

だからつい、普通の人達の生き方を勧めてしまうのですが、それは死んだほうがましな思いをさせることに等しい。そのことに、普通の人達は気付きにくい。いや、ここにはもっと大きな問題が潜んでいるのではないでしょうか。

倫理とは自己保存規則であり、そのための自己決定規則であり、簡素に言えば、人の生き方のことです。人が集まると、互いの生き方を尊重する生き方が必要になります。多種多様な個人の生き方の集合から導かれものであることから、それは常に似た形に収束するのではないか、と思われました。

思い出してください。反出生主義は、濃い倫理を共有する、同質性の高い人達の集合でした。だとすれば、そこには普通とは違う形の、互いの生き方を尊重する生き方が成立するのではないでしょうか。

個人の生き方が多種多様、別の言い方をすれば、一つではないのであれば、互いの生き方を尊重する生き方もまた、一つではなく多種多様であり得るのではないでしょうか。

反出生主義は通常の倫理を無視しています。それは断言していいでしょう。しかしそれが、通常の倫理に限って、であればどうでしょう。我々はそれぞれの倫理に向き合いながら、同時にそれぞれの倫理を無視しているだけなのではないか、という可能性を考えてみなければなりません。

もしこの仮説が真であるなら、我々は単に、互いの生き方を尊重する生き方が複数ある、という新たな現実の出現を前に、新たな水準の倫理の構築を迫られ七転八倒をしている段階に居合わせている、ということなのかも知れません。

この記事の題名には「反出生主義とその支持者達」とあります。それは、近頃衆目に掛かるようになった、いわゆる反出生主義者と思われる人達を指しています。

ならなぜ反出生主義者と単純に表記しなかったのか、というと、その人達の中には、わたしは反出生主義者ではない、と言い立てている人がいるからです。

反出生主義者ではない、と言いつつ、その人達の振る舞いは反出生主義者を自称する人達とあまり変わらなかったり、確かに反出生主義者を自称する人達とは違う姿勢ではあるものの、反出生主義からずっと一定の距離を保ち、そこから近付くことも離れることもしなかったりします。

前者の場合、世間の常識から外れた言説を振り回すことで、常識や知性が欠けているだけだろう、と思われるのが嫌で、本当は別に信じていないけどね、と自分が常識の側にいることを装い、逃げの布石を打っています。

後者の場合、世間の常識に反する感覚を持ちながら、世間の常識に反することへの危機感や疑問も持ち合わせ、態度を保留しています。

どちらも世間の常識を踏まえた態度ですが、前者は自尊心の高い、自己保身に余念がない、ただの嘘吐きです。後者は自分に正直でありながら、世間を疑うのと同時に自分を疑うことも忘れない、誠実で慎重な人です。多分。

それらの反出生主義に何かしらの可能性を感じてしまう人達をも総じて取り扱いたいために、単純に「反出生主義者」とはしませんでした。

ところで、筆者はこれまで、何個か反出生主義に関する記事を投稿しています。これは、「何かしらの可能性を感じて」いることに含まれないのでしょうか。ここで改めて、反出生主義に対する、筆者の態度を明確にしておきましょう。

別の記事でも書きましたが、筆者の、反出生主義への関心は自殺願望者への関心から始まっています。そして、出生に関わる事柄がある以上、それは親子や家族や家庭の在り方にも関わってきます。

筆者は生育してきた家庭は、あまり標準的なものではありませんでした。それが主因かはさて置いて、自殺願望のようなものを一時期抱いていたこともあります。だから当初は、反出生主義に何かしらの可能性を感じてしまうことを、筆者に似た、親子や家族や家庭のことで自殺願望に辿り着いてしまった人達の、病的症状と理解し、同情を覚え、できるなら彼らをそこから解放してあげたい、と思ったのでした。

そしてそのために、反出生主義の理屈の妙な頑強さを崩すべきだ、と考え、その謎の解明に挑んだりしました。これについては、ほぼ達成できたものと思っています。

「当初は」という通り、今では彼らを筆者に似ているとは考えません。似た境遇ではあったりするのかも知れませんが、彼らが反出生主義に何かしらの可能性を感じてしまうのは別の原因だろう、と考えています。それが何かは、ここまでで既に書いたはずです。

それでは、なぜまだ反出生主義について考えたり書いたりしようとするのか、というと、批評的な関心があるからです。世間は彼らをどう扱うべきか。彼らは世間の中で、どう振る舞うべきで、これからどうなっていくのか。それが知りたくなったのです。

反出生主義はそのままでは、不気味や不愉快に思われるだけで終わるでしょう。あるいはフェミニズム思想の一部の先鋭化として、またはもっと身も蓋もなく、数あるネットのおもちゃや汚物の一つとして、変な残り方をするだけでしょう。

そうならないために、反出生主義は一部を撤回なり修正なりしなければならないはずです。がしかし、当人達はその自覚や危機感がないようです。何せ自分が変化を強いられることを嫌っている人達です。

丸ごとの反出生主義、丸ごとの自分は世間に受け入れられず、そこで変化を強いられるくらいなら、自分を引っ込めて隠し、世間に倣う振りをしてやり過ごす昔に戻るか、ネットのおもちゃや汚物として堂々と居直るか。

後者であるには、何と言うか、ある種の才能が必要です。それは芸能人に近い才能のことですが、演技や歌や喋りなどが上手いという意味の才能ではありません。写真週刊誌やワイドショーで何を書かれても言われても心身を削られることなく、自分の信じる情報を発信し続ける才能です。今ならSNSの才能と言ってしまえば、瞬時に理解されることかも知れません。

しかし、そんな才能を持ち合わせている人は多くなく、持っているとしたら、大抵アレな人です。

アレな人には、なろうと思ってなれるものではなく、なるべくしてなるものです。アレになるか、なれないなら、初心の勢いで一瞬だけアレに並び、後は隠れるように過ごすか。いや、アレに並ぶこともなく隠れるように過ごすこともない道は、ないものか。

あるよ! そもそも、アレか隠れて過ごすか、という極端な二択は、変化を強いられるのは嫌だ、のために迫られるものです。変化を受け入れること、普通の人達の生き方に合流することができればいいのです。普通の人達は、そんな二択を迫られたりはしていません。

けど、それが最初からできるものなら、反出生主義も何もありません。できないから、反出生主義なのです。ではどうすればいいか。それは反出生主義(的である自分達)と普通をきっちり結ぶことです。

ここで改めて考えましょう。普通とは何でしょうか。普通の人達とは誰のことでしょう。それはどこにいるのでしょう。普通というくらいだから、そこらに普通にいるはずです。実際に、街に行ってみれば、いくらでも普通に出会うことができるはずです。

ではその人達には何か特徴があるでしょうか。恐らく、ないはずです。あったら普通ではなくなってしまいます。特徴がないのが唯一の特徴であり、それが普通と言えるでしょう。

いや、ちょっと待ちましょう。特徴がない、ということは他と変わっているところがない、ということです。だとすれば、その普通の人達は、皆同じ外見で、皆同じ考えを持ち、皆同じ生き方をしているのでしょうか。

いいえ、違います。皆異なる外見で、皆異なる考えを持ち、皆異なる生き方をしているはずです。ただ、似た部分があったりなかったりはします。それが普通ということです。皆変わっている、というのが普通です。より正確に言えば、変わっている人達が互いに当たり前に、目の前にいること、それが普通です。

普通とは、変わっている人達で出来ています。反出生主義的な人達も変わっています。なら彼らは普通に合流できそうですが、できません。なぜでしょう。それは、普通とは変わっていることに価値がなくなる場所であり、恐らく彼らはその価値を手放せないからです。

世界の虫類に詳しい人も、猛烈に三国志が好きな人も、色々な事件の裁判を傍聴している人も、普通の中では殆ど等価になります。どれも変わっているけど、どれも特別ではありません。それが本人にとっては、人生と同じくらいに尊いことだとしても、へえ変わっている、と思われて終わりです。

また、生まれ付いて手足がなかったり、珍しい難病に罹ったり、大きな事件や事故に巻き込まれたりしても、同じようなものです。それが本人にとって、人生を決定付けるくらいに凄まじいことだとしても、それは大変だ、以上のことにはなりません。

勿論、本人が困っていることに対する援助や補償、社会制度や法律の改善は勘案実施されますが、それはその本人が特別な存在になったからではありません。大変な経験をした普通の人に、その他の普通の人達が、自身がするべきと思うことをするに過ぎません。

誰でも、自分にとって自分は特別です。自分が感じること、考えること、身体と心、経験と記憶。それらは自分だけのものです。だけど、その特別が大勢集まり交わるのが普通という場所です。そこでは、特別は特別であり続けることはできません。

自分の特別と他人の特別を等価とし、自分も他人も特別ではないかのように振る舞うのが、普通なのです。そこで等価としなければ、互いの特別の、正当な価値を巡って争うことになります。その争いは終わることがないでしょう。

普通の中で生きる時、人は自分が特別であることを忘れなければなりません。別の面から言えば、人は自分が特別であることを表出し訴える時、終わりのない争いに身を投じることになる、と覚悟しなければなりません。

そこで普通の人達はどう生きているのでしょう。皆特別であることを放棄して、物静かに、争いなく、安らかに生きているのでしょうか。まさか。普通の人達こそ、騒がしく争って生きています。普通の人達が物静かであったら、反出生主義的な人達も隠れて過ごすようなことをしなくてもよかったはずです。

普通の人々は、争わないのではなく、争いに終わりがないことを知っているだけです。そして、その争いは全力で続けなければならないものでもありません。疲れたら、力を抜いたり、休んだりします。気が乗らないなら、ずっと休んでいてもいい。終わりがない、ということは勝ちも負けもないからです。

なら普通の人達はなぜ争うのでしょう。それは、自分が特別であることを、完全には、忘れてしまわないためです。見失わないためだ、とも言えるでしょう。普通の場所に生きていても、人はそれぞれ特別であることに、変わりありません。

ただ、特別を特別のままで扱うと凄惨な順序争いが生じます。だから人々は、自分が特別であることを、忘れて放棄した振りをするのです。でもそれは嘘です。人は、自分が特別であることを、本当には放棄することはできません。

真の順序争いは凄惨で厳しい。それを行えば、誰もがただでは済みません。だから人々はそれに代えて、手加減が可能で緩い、偽の順序争いを導入することで、事態の解決を図ったのです。

この偽の順序争いとは、普段、我々が秩序と呼んでいるもののように思われます。

さて、反出生主義的な人達は、この偽の順序争いに上手く参加することができません。それは、偽の順序争いの手触りを、上手く感じ取ることができないからではないでしょうか。

争いに参加すれば、負けるかも知れず、負けないためには参加をひたすら躊躇し、しかし参加するとなれば、必ず勝たなければならず、弱みなど見せずに全力で徹底抗戦。そんな感じではないでしょうか。

それはまるで真の順序争いを前にした心持ちですが、注意すべきは、真の順序争いに参加するしないの自由などないことです。真の順序争いは手加減など、してはくれないからです。そこに慈悲はありません。人生の始まりや終わりと同じです。

参加を躊躇できる時点で、それは偽の順序争いです。それを彼らは真の順序争いと思い込んでいるから、普通の場所で上手く振る舞うことができないのです。

いえ、もしかしたらそれは主従が逆で、何らかの原因で偽の順序争いに上手く参加する能力を持たない彼らは、偽の順序争いを、真の順序争いの方法で切り抜けようとするしかないのかも知れません。

しかし、その真相がどちらにしても、我々が立脚しているのが偽の順序争いであることは、揺るぎません。それは普通の人達も反出生主義的な人達も、同じです。

そこで話は、反出生主義と普通をきっちり結ぶ、というところに戻ります。普通とは偽の順序争いのことです。彼らは、というか人は誰しも、普通の場所にしかいられないにも拘わらず、彼らは普通に上手く適応できません。しかし、できないといっても、何とか適応する以外に道はありません。

道が一つしかないことは、絶望であると同時に希望でもあります。迷う、ということがないからです。まあ他に道があると信じるなら、止めはしませんが、もしあるとしても、それが人が歩む道であるとは到底思われません。人に心配して助けてもらえるなどとは考えないほうがいいでしょう。

普通に適応する道とは何か。それを考える前に、普通に適応できないとは何かを考えましょう。普通とは特別が特別でなくなる場所です。それに適応できないとは、自分が特別でないことや、他人が特別であることを上手に処理できない、ということです。

自分にとって自分は特別以外の何者でもないし、他人なんて何人もうじゃうじゃいて、自分と比べて、特別なわけがないことは明らか。なぜ、自分が特別でないとか、他人が特別であるとか、そんな嘘を信じなければならないのか。

しかし、人々はその嘘にこそ生かされています。その嘘は儀式のようなもので、こんな儀式に何の意味があるのか、と思ってしまうと参加する気も起きません。が、参加しないと生かされません。と言うより、生きている以上は既に参加をしているはずで、その自覚を持てるかが重要です。

偽の順序争いは、真の順序争いの一部に含まれ、これに参加するしないの自由は、本来はありません。しかし、これに参加していながら、参加を放棄するように振る舞うことはできます。偽の順序争いは、真の順序争いを模倣して人々が作り上げたものであり、だから「偽」であり、「真」への抵抗も可能になります。

「真」への抵抗とは、世界にとって我々は本当は誰一人として特別なんかではない、という「真」実への抵抗です。我々は特別なんかではないから、誰もが自分を特別と感じ、特別であることを巡って他人と争います。本当に特別であれば、争いなどとは無縁なはずです。

我々は特別でないが故に、特別であることに飢え、特別であることを欲してしまいます。そこで「偽」が求められます。「偽」とは、普通の場所のこと、特別が特別でなくなる場所のことです。特別が特別でなくなるのは、特別がうじゃうじゃと集まっているからです。そこで我々は気付きます。特別なんてどれも似たようなものだ、ということに。

我々は普通の場所で、特別がどれも大して変わらないことを知り、争いの手を緩めることができます。特別は手放せないが、必死に掴んでおかなければならないものでもなく、誰かに掴み取られようとしても、その誰かが必死に掴んでこようとしていないなら、まあ適当に。

特別なんて大したことない。そもそも誰も本当には特別ではないし、特別は思い込みの中にしかない。われ、自分を特別と思う故に、われ特別なり。逆もまた真なり。われも彼も同様なり。

普通とは、特別であろうとしてしまうことからの緩い解放です。普通に上手く適応できないとすれば、特別であろうとしてしまうことに、強く束縛されているからです。

なぜそうなってしまうのか。

我々はそもそも誰も特別ではなく、その上で誰もが思い込みの特別をそれぞれ抱えて、その価値を争い、殺し合おうとします。その争いに勝ち残れたら、自分の思い込みの特別が本当の特別になる気がするから、そう思い込めるから、です。

我々は、最初から最後まで、徹底して、思い込みしか持ち得ません。我々は思い込みのために殺し合おうとするのです。しかし、この思い込みなるものこそは、世界が自分を特別なものとしてくれない中で、世界に代わって自分を、そして他人をも、特別なものとしてくれ得るものです。

自分というものは、世界に属します。世界が消えてなくなれば、自分も消えてなくなるからです。思い込みというものは、その自分に属します。自分が消えてなくなれば、思い込みも消えてなくなるからです。

自分も思い込みも消えてなくなったとしても、世界は依然としてあり続けます。自分も思い込みも、世界に束縛されますが、世界が自分に無慈悲であるように、自分は思い込みに無慈悲であることができます。

我々が思い込みによって殺し合うなら、思い込みによって愛し合うこともできます。でも、世の中はあまりそうなっていません。それは、思い込みを束縛する自分が、世界によって束縛されているからであり、その意味では思い込みもまた、世界の一部だからです。

我々は、世界が許す範囲で、何かを思い込むことができます。我々は、世界が許す範囲で、思い込みに無慈悲であることができます。そしてその思い込みで、互いに殺し合ったり愛し合ったりします。

もし、我々が殺し合ってばかりで、あまり愛し合えていないのだとしたら、それは思い込みに対する無慈悲さがまだまだ足りていないから、なのかも知れません。あるいは、それが世界の欲求だ、ということでしょうか。何にしても我々は、ただ思い込むことしか、世界に許されてはいません。そのことを、我々はどう思い込めばいいのでしょうか。

それはさておき、我々は誰も特別ではないので、誰もが自分を特別と思い込みたくて争おうとするのですが、争って死んでしまっては特別も何もない、そもそも誰もが寿命でいつか死ぬ、というところで我々は誰も特別でないことを思い知り、誰もが自分を特別と思い込みたくて……とくるくる回り始めます。

特別ではないことから逃げようとすると、特別ではないことにぶち当たって、また逃げようとしてしまいます。ぶち当たりどころが悪いと、そのまま死にます。特別ではないこと=死、逃げる=争う、です。我々は死を恐れて逃げ回り、それは、もう逃げ回らなくてもいいかな、と思えるまで続きます。

自分が死んでもいいか。自分が特別でなくてもいいか。と思える時、人は争いをやめて安静になれます。それは、自分の死が特別を成立させるための部品になる、と何らかの形で思えた時です。自分が特別の全体ではなく一部であるなら、自分が特別でないことと、自分が特別であることの両方が、矛盾なく成立します。

我々は誰も特別ではないので、死にます。いや、その前に生まれます。特別であることに束縛されると、死ぬことを恐れます。生まれることはどうでしょう。今までそれが恐れられることがなかったのだとしたら、それは当たり前のように死ぬようには、当たり前のように生まれることができない時代が長かったから、なのかも知れません。

昔は、生まれることは、多少は特別でした。そしてその「生まれる」は、成人するまで生きられることも含んでいるはずです。成人して、何らかの形で社会や人々の記憶に残らなければ、その歴史や事実は、ないも同然だったからです。

現在では、生まれてすぐに死んだとしても、頼みもしないのに、様々な形で記録が残されます。そのせいで、死と誕生の重み(軽さ)が近付き、しかしあらゆる記録を残しておける文明の恩恵によって、死と誕生の距離は離れました。

生まれることも生きられることも、多少は特別だった時代は過ぎ、生まれることも生きられることも、別に特別ではなくなってしまった時代が来つつあります。我々は特別であることの根拠を、昔よりも持たされずに、生まれて生きなければならなくなりつつあります。

我々は特別でないので、特別であることを欲します。特別でないことの実感が強いほど、特別であろうと強く欲します。特別でないことを気にしないほど、特別であろうとする欲は弱くて済みます。

それは、富める者ほど富み、貧する者ほど貧していく、資本主義社会に似ているかも知れません。特別であることに束縛される者ほど、より特別であることに束縛されてしまう、その環境が強化された状況を生きるのが、今の我々です。

更には、発達した情報技術によって我々は、自分達の特別でなさを容易に実感することになります。このことは、通常は我々に特別であることを早期に諦めさせ、特別でありたい欲を弱いまま抑えることを可能にするのですが、一方でそれは、特別でなさの実感の継続的な供給装置にもなるので、何らかの原因で諦めができないような人は、却って特別でありたい欲をどんどんと溜め込まされ続けることになります。

あなたは特別ではない。そう繰り返し突き付けられ、自分が特別でないことを理解して、それを適切に処理できる人と、理解できないで、のたうち回る人とに、人は分かれていきます。前者が普通の人達で、後者が、普通に上手く合流することができない、反出生主義的な人達です。

人は誰も、自分は特別ではない、という動かしがたい事実の上に生きます。そしてその上では、自分は特別ではない、が生み出す、自分は特別であると信じたい、という欲求に常に悩まされることになります。

通常であれば、その欲求は、自分は特別ではない、という事実によって抑え込まれます。事実が欲求を生むと同時に、事実自体が欲求の肥大を許しません。しかし、反出生主義的な人達では、この機制の一部が逆に働きます。事実が欲求を生み出し、そして更に事実が、欲求の肥大を促進させ続けるのです。

それは恐らく、自分は特別ではない、という認識が弱いことが原因ではないでしょうか。事実は欲求を抑制しますが、正確に言えば、欲求が事実の認識によって肥大を諦めさせられます。ここには事実自体と事実認識の差異があります。

事実自体は誰にも平等に働きます。要は、人生は自分の思う通りにはならない、という体験や感覚は誰にでも平等に訪れる、ということです。ここで普通は、人生は自分の思う通りにならない、と、自分は特別ではない、が程好く結び付き、欲求が抑制されます。

ここで事実認識が弱いと、人生が自分の思う通りにならないのは、自分が特別であることが何かのせいで阻害されてしまったからだ、という更なる認識を生みます。これは何かの思想に似てはいないでしょうか。それが何かは、ここでは敢えて言わないでおきましょう。

問題が、自分は特別ではない、という事実の認識が弱いことだとすれば、普通に合流するには、これをどうにかしなければならないでしょう。なぜ認識が弱くなってしまうのか、その原因は判りませんが、普通に合流できないのは自分の特別でなさへの認識が弱いことが原因だ、と認識することから始めるといいかも知れません。

そもそもなぜ普通に合流しなければならないのか、と感じるなら、それ自体が、自分の特別でなさへの認識が不足しているから、と言えます。我々は特別ではないところから出発しなければならず、特別ではないことへの集団的適応が普通の場所の創出であり、そこへ加わることを拒否し、そこから遠ざかってみたところで、特別になれるわけではありません。

普通にすら生きられないことを特別と言い換えても、どうにもなりません。そういう思い込みで本当に生き易くなれているならいいのですが、実際のところはどうでしょう。

今はそう生き易いとは言えないけど、いつか皆が自分を理解してくれて、受け入れてくれて優しくしてくれて、きっと生き易くなれる。生き易くなれる、という希望的観測が生き易さを与えてくれて、それが今ある生き難さを感じさせないようにしてくれる。

しかし、それが成立するのは希望的観測が可能である限りです。希望的観測が可能なのは、今ある生き難さに、心と身体がまだ耐えていられる状況だからです。希望的観測は、生き難さをもたらす現実的な問題を何も解決しません。生き難さを耐える理由と根拠を与えてくれるだけです。

現実的な問題が、時間の経過で解決するものであり、かつ心と身体が耐え切れる根拠があるなら、希望的観測に頼ってじっと耐えるのは有効な方法と言えます。しかし、ここで言っている現実的な問題とは、時間の経過によって解決するどころか、増大複雑化するものですらあります。

人が生きることで感じる生き難さは、人が生きるのをやめれば解決します。人は誰でもいつか死ぬので、それは時間の経過で解決するものとも言えますが、死=解決なら、我々は生きる理由を失います。死は自分で手繰り寄せることができるからです。

人の生き難さの問題とは、上手く生きられないことか、上手く死ねないことか。しかし、上手く死ねないとは何でしょうか。人は上手く生きようが生きられまいが、誰もが最後には見事に死にます。ちゃんと死ねなかった人など、これまで一人たりともいないでしょう。死ぬことに関しては、誰も下手な人はいないのです。

なら人の生き難さの問題とは、上手く生きられないこと、となります。

苦しんで死ぬのは嫌だ。格好悪く死ぬのは嫌だ。苦しんだって、格好悪くたって、死ねないことはありません。それらは死とは何の関係もありません。

死の直前まで苦しいのは嫌だ。死の直前まで格好悪いのは嫌だ。嫌だ嫌だ。そんなことを考えたり言ったりするのは、生きている人だけです。死んだら、人は何も考えないし言いません。死は誰であっても人を満足させるもののようです。少なくとも不満はありません。

死に不平不満や文句を言い、うるさく騒ぎ立てるのは、いつだって、生きている人と相場は決まっています。それも自分の死ではなく他人の死を元に邪推して、です。まったく、みんな一度だって死んだことのないくせに、勝手なものだと思いませんか。

我々は何も特別ではないので生まれてしまい、何も特別ではないので生きてしまい、何も特別ではないので死んでしまいます。そして、人は苦しく生きても格好悪く生きても、死んだら不満を抱きません。不満は常に生きている人の中にだけあります。

我々はできるだけ不満が少ないように生きようとします。不満が少ないだけ、特別に近付いた気になれるからです。そうなりたいのは、我々は特別ではないからです。特別ではない我々は、生まれて生きている我々は、不満から解放されることがありません。

我々は、生まれて生きながらに、どれだけ特別に近付いていられるかを求めます。それが生まれて生きることの全てだ、とすら言えるかも知れません。そして更には、それが特別ではないことの全てだ、とも言えるかも知れません。

我々は死を手繰り寄せることができます。手繰り寄せずとも、いつか死は我々に到着します。特別でなさの果ては、死です。死の到着を早めようが遅らせようが、我々の特別でなさは少しも揺るぎません。そして、特別でなさを貫き果たした時、我々は不満から解放され、特別でないことから解放されます。

特別でなさを果たすのに、死を手繰り寄せる選択と、手繰り寄せない選択があります。前者は、何を置いても不満と早く別れる選択です。後者は、不満と別れることは後回しにする選択です。

前者について言うことは、何もありません。特別でなさが嫌で嫌でしょうがないのでしょう。特別でないのだから、しょうがないことです。また、特別でない我々に何か言葉を掛けられるのも嫌でしょう。黙って見送ってあげるのが、特別でない者同士の礼儀ではないでしょうか。

不思議なのは後者です。なぜ後者は、不満と別れることを後回しにするのでしょう。我々は望めば、いつでも不満と完全に別れることができます。それよりも重要なことがあるのでしょうか。それは一体何でしょう。それが分からないのは不満です。

不満と別れるには、死を手繰り寄せることが確実です。分からないことがある、という不満とも、それで別れることができます。しかし、分からないことを考えたり調べたりして分かることでも、その不満と別れることはできます。でも、考えたり調べたりしても確実に分かるとは限らず、その不満と別れることはできないかも知れません。

なぜ、死を手繰り寄せる、という確実な手段ではなく、考えたり調べたり、などという煩雑で不確実な手段を選ぶのでしょう。それが分からないのは不満です。しかし、筆者はその不満を、死を手繰り寄せることで解決しようとは思いません。なぜそう思わないのかも、筆者自身はよく分かりません。

分かっているのは、この筆者のように、確実な手段ではなく、煩雑で不確実な手段を選んで、わざわざ不満と付き合おうとする人達が、なぜだか大勢いるだろう、ということです。そして、それが普通の人達の選択であり、特別ではない人達の、特別でない選択だろう、ということです。

死を手繰り寄せるか、手繰り寄せないか。生き続けるか、生き続けないか。それは、不満と付き合うか、付き合わないか、という選択です。生き続ける人は、不満と付き合い続ける選択をしている、と言えます。

なら、何も特別でない我々にとって、不満と付き合い続けるとはどういうことかが重要になります。

付き合い続けるからといって、我々は不満だらけのままでは、やはり不満で、それを解決しようとします。だから、不満があればあるほどいい、というわけではないようです。しかし、不満があればあるほど悪い、というわけでもない気がします。世の中は、いつだってどこだっていくらだって、不満で満ちているだろうからです。

我々は世の中に様々な不満があることを知っていても、その全てを解決しようとはしません。そんなことはできないからだ、とは言えるでしょうが、ではもしそれができるのだとしたら、我々はそれをするのでしょうか。なぜだか死を手繰り寄せることを選ばなかった、我々が。

不満と付き合い続けるとはどういうことか。その問いに、ここで答えることはできません。我々にとっての答えどころか、自分にとっての答えすら不明です。ただ、不満に付き合い続けることに不満はないらしい、というか、そこに不満のない人だけが生き続けていて、互いに存在を確かめ合える、ということは言えるでしょう。それが我々です。

生きることを決めている以上は、我々は不満と上手く付き合うことが共通目的となるはずです。上手く付き合う=上手く生きる、です。ここで話を、反出生主義的な人達が希望的観測に頼ることの是非に戻します。それは果たして上手い生き方なのか、と考えてみましょう。

この希望的観測、とは、いつか他人が(反出生主義的)自分を理解してくれるだろう、といったものです。それが叶うか、そういう希望に支えられたまま寿命を迎えて、そのまま不満との付き合いを終えられるなら、それもいいのですが、恐らく、そうはなりません。

第一に、理解を期待される側の一人として断言しますが、理解はあり得ないからです。この理解とは、彼らを特別なものとして、そのまま受容することを言っています。特別でも何でもない彼らを、理解してあげなければならない理由はどこにもありません。

第二に、その希望は彼らが寿命を迎えるまで、彼らを支え切れないだろうからです。それは希望の強度の問題というより、彼らの強度の問題です。繰り返しますが、彼らは特別でも何でもないのです。彼らに限らず、特別でない者は普通を指向して生きるしかないのです。普通に背いても、死の到着を早めるだけです。

死の早い到着が本当に望みなら、最初から死を手繰り寄せることを選んでいるはずです。そうではない彼らは、上手く生きることを望んでいながら、しかし結果として、死を手繰り寄せるような振る舞いをしてしまっています。

彼らの中で、死を手繰り寄せるのと似たような振る舞いをしている内に、本当に死を手繰り寄せる側に転進する人もいます。そう選び直した人達のことは別にどうでもいいのですが、我々は、上手く生きる、という共通目的を持つ以上、上手く生きようして上手く生きられない人達がいるなら、手助けをしたくなります。

そういう意識もあって、ここまでだらだら、色々と考えたり書いたりしてきているわけですが、それでも彼らにとって何が本当に必要なのかは、彼らが自分自身で見付け出すしかありません。

それができるのは、反出生主義に対し、離れるでもなく近付き過ぎるのでもなく、うろうろしている人達だろう、と思って筆者は、この記事でも別のところででも、焚き付けるように挑発的に、割とボロクソに言ってみたりしています。きみら本当にそんなんでいいのかよ、と。

その効果の程は、暖簾に腕押し、糠に釘、といった感じがしないでもないですが、まあ手助けしたいと思うのはこちらの都合であり、それに飽きたりするのもまた、こちらの都合です。不満が解消しないのは不満ですが、解消しない不満に掛かりきりになるのも不満です。

別に今すぐ解消しなければならないようなものでもなし、離れたければ離れる。人が生きる中で解消するべき不満は、たった一つではないのです。反出生主義的人達がのたうち回っていることなど、何ら特別ではない、上手く付き合うべき数ある不満の中の、ほんの一つでしかないのです。

結局、反出生主義とその支持者達への対処とは、何をするべきでしょうか。多分、大体の人にとっては、何もしない、こちらから近付かない、あちらから近付いてきたら一切相手をせずに離れる、というのが正解です。

彼らは、一切自分を変える気がなく、他人が変わることだけはちゃっかり期待する人達です。そして、自分の特別でなさを上手く処理できず、普通であることに拒否感を持っているので、人は普通を望むもの、という前提で接すると、齟齬や不愉快を味わうだけで終わるでしょう。

我々は、何も特別でないこと、普通であることの諦念を通じて、互いの欲求や規律を調整します。彼らは上手く普通に馴染めないので、その調整に参加することができません。よって、彼らを放置していても問題なく、もし調整に参加できるようになったら、それは彼らが普通であることの諦念を身に付けた証拠なので、やはり問題ありません。

何らかの興味関心を持って、こちらから近付きたい場合はどうでしょう。それは、彼らについて何か知りたいからでしょうか。それとも彼らをネットのおもちゃか汚物として、いじったり叩いたり蹴飛ばしたりしたいからでしょうか。

どちらにしても、彼らは、自分達は最強の理屈を擁してしまったので、その強さを証明をしたい、その強さを愚か者に分からせたい、あるいはその強さについての評価を知りたい、といった感じの人達なので、先ずはその最強っぷりを打ち砕いてあげる必要があります。

ここまで記事に書いてきたことを応用すれば、その最強っぷりを押し返すことができるはずですが、それは飽くまで防御であって攻撃ではないので、打ち砕くまでには至らないでしょう。なので、ここで最後の一押しとなる攻撃術を拵えましょう。

反出生主義は出生を否定します。人は生まれれば、生きていく上で必ず何らかの苦痛を感じることになるからです。それは何よりも人を思うからこその発想であり、しかし生まれてしまってからでは、何もかも手遅れなので、生まれてしまったからには、人は新たに人を生まない上で、幸福に生きるべきだ、などと反出生主義は言います。

ここで少し待ちましょう。反出生主義は、人があまり考えてこなかった、人を生んでしまうことの害悪を説くものです。そのような大胆な踏み込みを行った反出生主義が、なぜ考えもなく、人が生きることは肯定してしまうのでしょう。なぜその害悪について、黙って通り過ぎてしまうのでしょう。

人は生きていれば、必ず何らかの苦痛を感じます。しかしそれだけでは済みません。人は生きていれば、必ず誰かに何らかの苦痛を感じさせます。これまでそうしたことはなかった、と胸を張って言える人がいるでしょうか。また、もしそう言えたとしても、これからもそうすることはないと、どうして言えるでしょうか。

自分が苦痛を感じるだけなら、誰かに対して悪いことは何もありません。しかし、誰かに苦痛を感じさせることは、誰かに対して悪い、としか言いようがありません。自分が苦痛を感じることの被害を受けるのは、自分一人だけです。しかし、誰かに苦痛を感じさせることの被害を受けるのは、自分以外の無数の人達です。

生まれることは被害だ、と言えるかも知れません。ですが、そうした時、生きることは加害だ、とも言わなければなりません。何よりも、人は生きているからこそ、人を生めてしまうのです。また、生きていれば、人は考えが変わってしまうことがあります。今現在、人を生むべきでない、と考えていても、数年後には考えが変わって、人を生んでしまっているかも知れません。

生きていなければ、人は考えが変わることがありません。生きていなければ、人は誰も生むことがありません。生きていなければ、人は誰をも決して加害することがないのです。

反出生主義は、生まれてしまってからでは何もかも手遅れだ、と言います。それは間違いだ、と言わなければなりません。人は生まれてしまったからこそ、一刻も早くやるべきことがあるのです。人は生まれるべきではないし、人を生むべきではないし、そのために、人は生きているべきではない。

これを反出生主義は、反出生主義は反生存主義ではない、などと言って却下します。そう言い切るからには、反生存より反出生でなければならない明確な理由があるはずですが、それを答えてくれる人はあまりいません。

いくつかの理由は提出されます。人は生まれてしまえば、わざわざ死ぬにしても苦痛を味わうことになるので、何よりも人が苦痛を感じることを問題とする反出生主義は、人に死を早めることを推奨しない、などです。

それなら、反出生主義とか言い出して、人々に不興不愉快をばら蒔いておきながら、そのことに心を痛めるどころか、悪を告発する善行ですらある、と開き直る、その態度は何なんだ、と言ってやりたくなりますが、ここでは黙っておいてあげます。

これまでも何度か書いているように、早めようが遅らせようが、人はいずれ死を迎えます。死を遅らせたほうが苦痛が少ない、という保証はなく、却って苦痛を積み増して迎えることになる可能性すらあります。そもそも死を早めたり遅らせたりする自由を、常に確保し続けていられる保証もありません。

そして改めて言いますが、人は生きなければ、新たな苦痛を生み出すことは決してないのです。生まれてしまった以上は、人は苦痛を感じることは避けられません。なら後は、いかに苦痛を感じる時間を短くするか、いかに苦痛を生まないようにするかを考えるべきです。

それでは、反出生主義は全ての人を葬り、その後に自らも葬るべきだ、ということでしょうか。いいえ、それには及びません。なぜなら、生まれてしまうことが人の苦痛の根源とし、これを解決しなければならない、と考えているのは、反出生主義だけだからです。

反出生主義は、全ての人を葬る必要はありません。自らを含めた、全ての反出生主義の人を葬ればいいだけです。いえ、全ての反出生主義の人を葬ることに時間を掛けていると、その間に余計な苦痛をばら蒔いたり、最悪の場合、考えが変わって人を生むことを肯定する立場に転じてしまうかも知れません。だからそうなってしまう前に、単に速やかに自らだけを葬ればいいのです。

自らを葬った人は、もう苦痛を感じることもなく、もう誰かに苦痛を感じさせることもなく、新たに人を生むこともなくなります。何よりも、人が生まれてしまうこと、人が苦痛を感じてしまうことを問題と考える人が一人、いなくなるのです。問題の増大可能性を最小限に抑えつつ、事態を解決へと確実に近付けることができます。

反出生主義は、人は生まれてしまったからには幸福に生きるべきだ、と言いながら、新たに人は生まずに、とそこに条件を付けています。人を生むことを幸福と考える人はどうしろと言うのでしょう。それはさておき、反出生主義は生きることに条件を付けるものであることが分かります。

であれば反出生主義には、こう指摘することができます。人が生きていること自体が、人を生む可能性、新たに苦痛を生む可能性を孕むのだから、その可能性を速やかに堕胎せよ、と。もしその堕胎を拒むのであれば、その理由を言ってみろ、と。そして、その理由が言えないのであれば、生きているべきではない、仮に生きているにしても最大限に恥じて生きているべきだ、と。

反出生主義が反生存を却下する理由とは少し違いますが、人が死ねば問題もなくなる、という理屈が正しいなら、一般にも犯罪の未然防止のために予め人を殺すことも正しくなる、という反論が反出生主義側からありました。それは半分正しく、半分間違っています。

第一に、既に一般的な社会は、現行で殺人を犯すことが予見される人間が実際に殺人を犯す前に、警察その他の武装した公務員が、その人間を殺害することを許容します。殺害者が公務員ではなく一般市民だったとしても、不審な点がなければ、司法はそれを罪に問わないはずです。

第二に、それは治安と人命を優先した緊急措置です。現行の殺人企図者を有効に制圧できるなら制圧が選ばれ、それが困難であれば殺害が選ばれます。一般社会は人命の喪失を最小限にするように回っています。未然の犯罪防止の殺人も、緊急時なら許容されるのであって、通常時は許容されません。

反出生主義も人命の喪失を最小限にすることを考えている、と更なる反論がありましたが、出生を罪とするなら、生存は出生をいつでも実行し得る危険な状態です。言わば生存は、人を殺し得る凶器を堂々と持ち歩いているに等しい。人命こそが凶器なのです。人が生存していることが、常に緊急時なのです。

出生を罪とする反出生主義は、人命の喪失について、無条件に害悪としてはなりません。医師とて、患者の生活の質を考慮して、時に患者の肉体を器具で傷付け切除することなどもします。人を思えばこそ、人為的に人命を喪失させる選択も時にはしなければなりません。人の苦痛の最小化のために。

我々は、人の存在を肯定しています。人の存在は、その人が生まれたことと、その人が生きていることによって成立しています。生まれることも生きていることも、人の存在の根源です。生まれずに生きている人も、生きているけど生まれていない人も、存在しません。人にとって、生まれることと生きていることは不可分です。

だから我々は、人が生まれることも(ということは、人を生むことも)、人が生きていることも、悪とは考えません。人が生きていることを肯定することは、人が生まれたことをも肯定することであり、この二つの内の片方だけを否定することはできません。

しかし反出生主義は、人の存在の二つの根源の内の片方を否定しています。なぜそれができるのか。また、それができるのであれば、なぜ残るもう一つの根源は擁護するのか。人が生きていなければ、人は生まれません。人を生むのは人だけです。人が生まれることは悪く、人を生むことが悪い、と言うのであれば、なぜ人が生きていることだけは悪くないのか。

反出生主義は、この問いに答えなければなりません。

この問いが反出生主義に対する最大の攻撃術となるでしょう。しかし、これを用いても肩透かしを喰らう結果となるはずです。実際に、この問いを何人かの反出生主義者に投げ掛けてみても、まともに答える者は一人としておらず、黙りを決め込むか、話題逸らしの罵倒を返してくるだけだったからです。

これは奇妙な事態と言わざるを得ません。というのも反出生主義は、出生を悪と言い、これは人についての単なる事実を並べているだけで、人はこれを直視して向き合わなければならないが、人にとっては辛辣だから普通はなかなか認めることはできないし、認められない人々はこれからも悪を行い続けるだろう、といった態度だからです。

なら、生存を悪と言うのも、人についての単なる事実を並べているだけであり、人はこれを直視して向き合わなければならないが、人にとっては辛辣だから普通はなかなか認めることができないし、認められない人々はこれからも悪を行い続けるし、我々反出生主義者も悪を行い続けるだろう、と言えばいいのです。

生存が悪だ、という理屈が間違っているなら反論を出せばいいし、反論が出せないなら、理屈を認めた上で、自分達もまた悪であることを認めたらいい。彼らは、そのどちらもせず、黙るか怒るかします。なぜでしょう。そこに反出生主義の真の欲求が表れているように思えます。

悪とは、彼らにとって、特別でないことの別名です。彼らは自分達がいかに悪ではないかを論証し、そう思い込もうとしたのです。

そして、彼らの論証法を更に突き詰めた上で、彼らさえをも普通に悪であると論証してしまう、反生存理論は、それを肯定すれば真の欲求を満たさず、否定すれば自分達の論証法をも否定しなければならず、やはり真の欲求を満たしません。だから彼らは、それを前に黙って無視するか、怒り狂うしかないのです。

彼らについて何か知りたいにしても、彼らをいじったり叩いたり蹴飛ばしたいにしても、あまり深追いはできないでしょう。彼らは自分達の特別でなさを思い知る危険を察知すると、話し合いを打ち切って放棄し、逃げてしまうからです。

彼らが物理的場ではなくSNSでのみ活動旺盛であるのも、逃げるのが容易いからです。SNSでは、何も答えなかったり逃げ去ったりすることは、話し合いの結果の永久的な保留となりますが、物理的な場でそれらをすれば、話し合いの結果の確定になり、自分達が特別でないことの明確な屈辱的記録となってしまいます。

彼らについて何か知ろうにも深くは応じてくれないし、いじったり叩いたり蹴飛ばしたりしようにも、最初の一撃二撃を当てられたとして、後は逃げられて終わり。それを何度か繰り返せば、事前ブロックや事後ブロックによって関係発生の遮断が行われ、持続しないでしょう。まあ暇潰しなら、それで充分なのかも知れませんが。

乱暴な暇潰しについてはともかく、彼らについて深く何か知るには、彼らが自分達の特別でなさを諦念して受け入れ、自ら何かを語り出せるようになるのを待つしかないでしょう。彼らの最強の理屈を打ち砕いておくのは、そのための第一歩です。

彼らが自ら何かを語り出せるようになった時は、彼らが反出生主義の真の欲求を解体するような何かを見付けた時だ、と言えるでしょう。それは何よりも全ての反出生主義的な人達を、救済へと導くことになるはずです。

そう言うと、そんな救済なんか求めてないよ、と現役の反出生主義的な人達は言いたいかも知れませんが、救済したいのはこちらの都合です。彼らが救済されないことには、SNSに面倒が残るからです。それに、救済が叶わないようなら、いかに焼き払い滅ぼすか、を案じなければなりません。

ある集団を滅ぼすのと救うのとでは、滅ぼすほうが手間が掛かりません。しかしその選択は、滅ぼす側にとっても禍根を残します。滅ぼされる側の持つ、滅ぼされるべき理由と近似したものが、滅ぼす側に全くないとも限らず、だとすれば滅ぼす側の間で互いに滅ぼされる理由に近似したものを持っていないかを探り合い、傷付け合うことになりかねないからです。

救済の道を探ることは、手間が掛かるとしても、互いに探り合い傷付け合うような、更なる面倒を見越して避けるために必要なことです。面倒な人達の救済を望むのは、彼らが何か特別だからではなく、彼らも含めて我々が、誰も特別ではないという点で近似した存在だからです。

もし本当に面倒が憎いなら、彼らを滅ぼし、自分達自身も滅ぼせばいい。いえ、そうするまでもなく、自分だけをさっさと滅ぼせばいい。そうすれば、面倒を感じて煩わされることは、自分に限っては永久になくなります。しかし我々はそれを望まないからこそ、今生きていて、そして互いの存在を確かめ合いながら、色々と面倒を感じて悩みながらも、それをどこかで愛しているのです。

愛するとは、対象をありのまま受け入れるようでありながら、同時に、対象に常に変化を求めるようでもあるような、矛盾した態度や行動のことです。というのも、我々を含めた万物は、時間の流れの中で、否応なく常に変化し続けているからです。

世界に永久不変はありません。その中で永久不変に近いものがあり得るとすれば、変化に逆らった変化をし続ける何かです。我々は、世界のあらゆるものが変化し、自分が変化し、他人が変化していくことを、喜びながらも恐れます。新たに愛しい何かが生まれて親しくなれたり、一方で、愛しく懐かしい何かが壊れて失われたりするからです。

それは、愛しいものだけでなく、恐ろしいものだったり、面白いものだったり、つまらないものだったり、どうでもいいものだったりするでしょう。そしてそれは、自分にとっての誰かだったり、誰かにとっての自分だったりするのです。

我々を含めた万物は永久不変でないから生じ、永久不変でないから壊れて消え去ります。我々が何かを肯定する時、その永久不変でなさを肯定することになります。永久不変でないから、自分が肯定したい何かも、その何かを肯定したい自分も、生じ、存在するからです。

この永久不変でなさ、特別でなさは、変化可能性と言えます。我々はそれを肯定しています。我々は無であるところに新たに善悪が生じる可能性を肯定し、善悪が入れ替わる可能性を肯定し、善にしろ悪にしろ、それがやがて消えていく可能性を肯定しています。愛しています。

それらの変化可能性、永久不変の偽物は、自分であり他人であり、その自分や他人が共に存在し体感する、世界の手触りであり、認識であり、思い込みです。永久不変でなさ、特別でなさこそが、我々の存在の本質であり、我々が愛するもの、我々がものを愛することの、本質なのです。

反出生主義は新たに何かが生まれることを否定します。我々は、そんな思想が新たに生まれてくる可能性も肯定し、その思想がやがて変化していく可能性も肯定しているのです。反出生主義は新たに何かが生まれることを否定しながら、自分達が生まれてしまったことは否定しようとしません。それが反出生主義の限界です。

人は新たな何かとして生まれてしまった以上、そのことを、新たに何かが生まれてしまうことを、肯定するしかないのです。その意味に於いてのみ、我々、人は生まれてしまってからでは、何もかもが手遅れなのです。