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渡りわたって __リリー・スイミー『惣治郎』と『星の瞳』

リリー・スイミーさん『惣治郎』『星の瞳』を読んだ。

スイミーさんの作品は昨年冬に買った『びょうびょうたる季節』以来になる。
2017年が明けた1月、「キンキンに冷えている」という言葉がぴったりの冬晴れの日に、当時スイミーさんがやっていらしたカフェまで散歩がてら遊びに行ったのがきっかけだった。
そのとき、わたしはお店のお姉さんがスイミーさんだとは知らず(一体何をしに行ったのかという話である)声をかけられて文字通り飛び上がってしまったのだった。
そこでカウンターにスイミーさんと吉川いと花さんの文芸サークル「花と魚」の本が販売されていたので、過去の文フリにて買い逃していたわたしはこれはラッキーだと一緒にお持ち帰りした。それがスイミーさんの『びょうびょうたる季節』といと花さんの『ミツユメ』だった。
その節はありがとうございました。とんだすっぴんにマスクでお邪魔しまして大変失礼いたしました。
初めて行った長居公園は思っていたより5倍くらい広く、がっつり歩いた一日だった。

さて、『惣治郎』と『星の瞳』の話。
2冊ともとてもスリムで、シンプルでかわいらしい表紙。気軽に手に取れる良いサイズだと思う。
『惣治郎』、タイトルの名前を持つ青年とそのまわりを生きた人たち、これからも生きていく人たちを描く物語。
それぞれがそれぞれに孤独だったし、何かしらを後悔している。
誰もが、誰かとの再会を待ち望んでいる。だけど決して叶わない。会いたい人はもうどこにもいない。
孤独と後悔は数ある人間の感情の中で、心のいちばん深いところに沈んでいくふたつだと思う。多かれ少なかれ誰もがこのふたつを沈めて生きているのだろうけど、重い人はめちゃくちゃに重い。小説の中の人だというのに生身の自分の方が引きずり込まれてしまうこともある。
そういうめちゃくちゃ重い人たちの腕を引っ掴んで光の差す方へ引き上げてあげるのは、だいぶ、しんどい。
しんどいだろうなあと、思うのにこの分量でそれをまとめ上げてしまうのがめちゃくちゃにすごいと思った。
あれもこれもと書きたくなるけど、余計な言葉をそぎ落とした文章によって彼らの孤独にじかに触れる。小説は言葉を読むものだけど、言葉に邪魔されて分からなくなることも往々にしてあると思っていて、スイミーさんの文章は、彼らの心に「触れられる」。
人物たちの背景が、絶妙に「見えない」のもいいなあと思った。こっちに想像のボールを持たせてくれる余裕がすてきだった。それなのにわたしは彼らの心に確かに触れている、という不思議。
終わり方がとてもよかった。あの一言で、わたしも救われたような気がした。

『星の瞳』、「手紙」と「星の瞳」から成る短編集。
個人的には、「星の瞳」の方が好きだ。
丁寧な暮らし方と白さんの日々がとても愛おしくて、きっとこんな日々はいつまでも続かないのだろうなあと思いつつ、いつまでもこんな風にして暮らしてほしいと願わずにはいられない。植物を育て、やさしい夫とご飯を食べ、いつまでも穏やかに幸せであってほしい。
逆に、そういう夫婦だったからこそ、白さんとご縁があったのかもしれない。
わたしの家にも白さんほしいなと思うけれどわたしの部屋は化粧品やら本やら良く分からない小物やらでいつも散らかっていて白さんの大事な家財をいとも簡単に壊してしまうだろうし白さんの寝床の確保すら難しい有様なので、白さんの方から願い下げだろうと思う。
まずはベランダガーデニングから始めてみようか。

スイミーさんの本には歴史にも似た過去の積み重ねというか、長い時間を感じる。近所のおばあちゃんの書斎の片付けを手伝っていたらふと見つけたような、町の長く続く小さな本屋さんの棚でふと見つけたような、まるでスイミーさんの本が何世代ものいろんな人の手に渡り渡って今わたしの手元にあるような気がするのだ。
それは少しなつかしく思う字体だったり、スイミーさんの文章の端々からただよう落ち着き、硬いようでいてやわらかい、ちょっと気難しいかもと思わせておいて実はとてもやさしい、そういう色んな感覚が、この本には何か大きな歴史が…! と思わせてくれているのかもしれない。
かと言って小説の題材が(時代的に)古いということでは全くなくて、どれもごく身近な人たちの日々の暮らしが丁寧に描かれている珠玉の作品たちなのである。

個人的には、どの作品もこの分量できちんと「落とせる」のがすごいと思うし、うらやましい。
いつもだらだら書きたいわたし、見習いたいと思ったのでした。

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