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違国日記4巻

その人がいつ何に対して傷つくかというのはその人が決めることであって誰にもそれを咎める権利というのはない。けれどその人がまさに傷ついたという瞬間には立ち会いながらも気づくことはおそらくできない。その人から傷ついたと指摘されるまで、きっとわたしは気づかない。し、その人が傷ついた瞬間、と、その人がわたしに傷ついたと伝えるとき、には必ず時間差があり、やっぱりわたしはその瞬間に立ち会いながらも当事者になれない、なりたくないと思う。

わたしがよかれと思ってやったこと、きっと喜んでくれるだろうと思って言ったことがその人にどんな影響を与えてきたか知る由はない。玉城さんみたいに、あのあと泣いてたよってえみりから聞かされるような事態になったような覚えもないし、いや覚えてないだけだとも思う。ともあれ、朝の言うことはわかる。それで急にわたしが悪者になるのはおかしいという感覚は。だって自分としてはよかれと思って行動し、言ったことなんだもの。「そんなつもりじゃなかった」というのも、それは弁明ではなく本心からそう言ってるんじゃないかと、思う。

けれど「そんなつもりじゃなかった」が許されるのは相手にもよるし、自分の年齢がそれを許してくれるという側面も大いにあるだろう。朝はまだ高校1年生だから。少なくともわたしは、朝のことを「まだ」と思える。それは朝と同い年だった頃のかつてのわたしを、断罪するのがおそろしいし且つ面倒なことだから。それに、何に謝るべきなのか理解していないくせにとりあえず謝っておけば、というのもどうかと。会社の人はしょっちゅう「謝った方が勝ちなんですよ」なんて言うけど謝罪に勝ち負けはそもそも存在しないんではと、そういう考えこそが品性を落としているんではと、わたしだったらそんな風に、謝られたらこっちは何も言えなくなるからという理由で謝られたくはない。暴力、制圧としての謝罪。

だからといってわたしに謝らないでのうのうと、しれっと生きている人間には腹が立つ。今でも、何年経っても、きっと謝られない限りは絶対に許さないと思う。じゃあわたしは節目節目できちんと謝って来たかと言われたら、そうだったときもあれば今でももやもやと、悔いてばかりで謝ってはいない案件もある。だから、そういう人には許されなくたって仕方ないことだ。

えみりはとてもいい子だ。いきなり、そんなに仲良くもない大人から勧められて、貸して欲しいとも言ってない映画をきちんと持ち帰ってきちんと観る子なんだと、書き下ろし「えみりの日記」にぶち抜かれてしまった。勧められたものを素直に見たり、聴いたり、読んだりできるということは素晴らしいことだ。世界には人に勧められたものには一切興味を持てない人だっている。借りるだけ借りといて一生忘れる人もいる。えみりはとてもいい子で誠実だ。あの子に、同級生や親や先生に「わたしはこれでいい」と胸を張って言える日が来たらいいと思う。

あと、はじめて会ったときに好きだなと思ったことをまだ覚えている、ような人、笠町くん、別れてもサポートしてくれるような人、槙生ちゃんにはいい人がいるじゃない…って、やっぱり羨んじゃうような展開になって、それは自分の卑屈のせいで展開としてはいよいよエポックメイキングが!という感じだけど、ああやっぱり、こういう人、心から欲しいなあと思って、おしまい。

#booklog #漫画 #違国日記 #ヤマシタトモコ

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