見出し画像

「子育て」が「罰」の国:日本 その1

 「日本はなぜ親子に冷たい社会になってしまったのか」、「親子にあたたかい日本に変えていくためにどうしたらよいか」であり、それを「子育て罰」というキー概念を軸に論じている。では、「子育て罰」はどういう意味か。「子育てをすること自体に罰を与えるかのような、社会の厳しい冷たさ」という偏った考え方を感じる。「子育て」という人間の育ちに関わる行為、親が子を育てるといった、まさに「育児」「養育」「教育」という営みにも関わる人間の基本的な行為が、現在の日本社会において「罰」になってしまっている状況とはいったい何なのか。

 「子育て罰」は学術用語としては新しく、日常的にも馴染みのある言葉とは言えないが、その斬新さゆえ、読者を引きつける。「子育て罰」は「child penalty」(チャイルド・ペナルティ)の訳語であり、もともとの意味は、子
育てをしながら働く母親と、子どもを持たない非母親の間にある賃金格差を説明する経済学・社会学の概念である。低所得子育て世帯に対する所得の再分配が上手くいっていない状況を批判するために、2000年以降海外で用いられるようになった。それを「子育て罰」とあえて訳した理由は、「チャイルド・ペナルティ」を「子育て」という関係性の概念で捉えなおすことで、賃金格差の問題を超え、子育て世帯の貧困状況を生み出してきた政治や社会の責任そのものを可視化し、批判的に問うことに主眼があったためである。したがって、「子育て罰」の定義も「社会のあらゆる場面で、まるで子育てすること自体に罰を与えるかのような政治、制度、社会慣行、人びとの意識」と広がりをもつ意味として示されている。つまり「子育て罰」は、従来の子育て環境自体を抜本的に問い直す、極めて戦略的な概念装置として位置づけられているとも考えられる。


 「子育て罰」の意味が「政治や社会が子どもと子育てする親に課す冷たく厳しい仕打ち」であることを確認した上で、「親、とくに母親に育児やケアの責任を押しつけ、父親の育児参加を許さず、教育費の責任も親だけに負わせてきた日本社会のありようそのもの」が「子育て罰」の正体なのだろう。政治によって生み出された「子育て罰」の内容として、①児童手当制度や高校無償化の対象を制限してきた場当たり主義的な対応、②子どもや家族に対する少なすぎる政府の投資、③子どもを親の従属物・所有物として捉え、親の社会的身分(身分)やひとり親か否かといった属性で子どもが受けられる手当や教育に差をもたらす、「子ども」を差別・分断する制度が存在する。さらに、政治だけでなく、社会や企業も「子育て罰」に加担している状況がある。

 政治とともに、一般社会の人々の働き方や日常の意識や行動が「子育て罰」社会を作りあげ、放置してきたことに対する批判がある。そして、貧困対策に係る社会政策を分析したOECDの議論を取り上げ、日本において子どもの貧困率軽減に最も効果的な社会政策は、先進各国で採用されているような「就業率向上」策(=貧困の改善は働くこと)ではなく、「子育てによる社会的不利の除去」策(=「子育て罰」の除去)であり、他国と比べても極めて特異的な状況にある。日本では就労が貧困改善に繋がらないにもかかわらず、政府の施策はひとり親世帯に対して就労を追いやり、結果、日本の就労への「支援」は貧困者を、働く貧困者(ワ-キング・プア)へと誘導している。

 つづく

私の記事を読んでくださり、心から感謝申し上げます。とても励みになります。いただいたサポートは私の創作活動の一助として大切に使わせていただくつもりです。 これからも応援よろしくお願いいたします。