見出し画像

アボリジニとウルル その1

 オーストラリアはイギリス人入植者が中心となって形成された近代国家だが、イギリス人が入植するはるか前から「アボリジニ(Aborigine)」が住んでいた。

 オーストラリアがニューギニア島と陸続きだった時期に、アジアから入ってきたと想定されている。考古学的研究によると、アボリジニの起源は4万年前とも5万年前ともいわれている。白人入植当時の人口は約30万人〜100万人(決定的な判断は困難)で、500ほどの言語グループに分かれていた。

 親族を基盤とした集団を形成し、狩猟採集しながら生活を営んでいたアボリジニがこのような生活を営んでいた大陸に、ヨーロッパ人の探検家がやってくるのは16世紀半ばからだ。ポルトガル人やオランダ人にとって、オーストラリアは「不毛な土地」と捉えられた。「フランスとの覇権争い」と「1776年のアメリカ独立」という国際情勢が、イギリスのオーストラリア植民地化へと加速させた。1788年にイギリス人のアー サー・フィリップ(Arthur Phillip)初代総督によって、大陸東部全土の領有が宣言された。

 上記のような歴史的経緯を経て、イギリスによるオーストラリアの植民地化がなされたのだが、イギリスによる植民地化は、アボリジニの悲劇の歴史が始まったことを意味した。

 アボリジニに対する植民地政府の政策は「保護」と「隔離」というキーワードから説明できる。イギリス人が入植した当初は、決して抑圧的な政策を企画したわけではなかった。たとえば、フィリップ初代総督は「アボリジニとの友好を保つように」と指令を受けていたそうだ。しかしながら、現実は「友好」などという甘いものではなかった。

 そもそも「入植」という行為は「無主の土地(terra nullius)」(先住民の土地所有を認めないこと)を前提としていた。入植者たちは、火器を用いてアボリジニを虐殺したり、女性を略奪したりしてアボリジニ社会を崩壊させていった。アボリジニの補縛を試みるが、結局は多くを殺害しただけに終わった。これらの虐殺の結果、白人入植当時約75万人といわれたアボリジニの人口は、20世紀初頭までに約9万人と激減した。

 この暴力的な排除に同情的だった人々やキリスト教各派がアボリジニの「保護」に乗り出し、教育や教化をおこなった。そして、最終的には植民地政府もアボリジニの「保護」政策を開始する。たとえば、ヴィクトリア植民地では1869年に「アボリジニ保護法(Aborigines Protection Act)」を成立させて、植民地政府の管理下に先住民を置いた。「保護」という言葉は聞き覚えがいいだけで、多くの場合、保護政策は隔離政策と「表裏一体」であったという。

 事実、「保護と隔離」政策では「混血」と「純血」のアボリジニを分離して、混血のアボリジニを白人社会に吸収し、先住民を生物学的に抹消しようとするものだったからだ。 実際にはアボリジニが生物学的に消滅することはなく、1930年代までに混血のアボリジニが増加していった。そこで、連邦政府や州政府が「混血のアボリジニ問題」を解決するための施策として同化政策を推進していく。同化政策とは、アボリジニの生活環境を白人市民と近づけることを目的として積極的な介入をしたもので、一見進歩的な政策にみえるが、アボリジニの意見や彼らの独自性が尊重されることはなかったし、先住民文化と西洋文化が共存するというビジョンもなかっ。有名な政策として、親から子どもを強制的に引き離す政策がある。この政策によって成長した世代は、「盗まれた世代」といわれる。アボリジニの子どもを親から拉致まがいで引き離す非人道的な政策は、1950年から1960年になると、「同化」の名のもとに以前にも増しておこなわれてきた。このあたりの過程や白人至上主義の政策が、次回紹介する映画『裸足の1500マイル』で描かれている。

 アボリジニ独自の生活や文化を放棄してのみ社会に参加できるという同化政策は、次第に批判に晒されることになり、「同化」にかわって登場するのが「統合」だった。具体的に、統合政策では、連邦政府による先住民福祉予算の拡大、先住民による自主的なコミュニティの形成・運営などがされていった。そのようなアボリジニの権利を認める背景には、アメリカの黒人による公民権運動の影響が強いという。

私の記事を読んでくださり、心から感謝申し上げます。とても励みになります。いただいたサポートは私の創作活動の一助として大切に使わせていただくつもりです。 これからも応援よろしくお願いいたします。