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海へ出るまでのワンメーター ノクチルお金論

もう2021年の話になるんですが、「ノクチルのコミュってやたらお金の話出てこない?」という内容のnoteを書いたことがあります。

当時から「お金」という要素はノクチルのコミュ全体を通底する重要なメタファーに違いないぞ、という直感はあったものの、どうにもうまく言語化ができず、そのままズルズルと今に至る次第です。
というか、シャニマス、特にノクチルについては、登場する様々な比喩表現の意味が一つに定まりにくいというか、あえて色々な見方ができるように幅を持たせているようなところがあると思うんですね。中でも「お金」はその傾向が顕著で、その言葉の持つ射程が広すぎるゆえに、どうとでも言えてしまいそうなところがある。
そういうわけでずっと言語化をサボっていたんですが、直近の名コミュ「絆光記」を読み、感想は自分の言葉で形にせんとなあという気持ちが湧き上がってきたので、(感想コンテストもあることですし)今回改めてチャレンジしてみることにしました。

以下がその自分なりに考えた結果となりますが、いかんせん2020〜2024年の全コミュを対象とするのは大変すぎるので(ていうか最近のカード全然引けてね〜)、『天塵』から『天檻』までのイベントシナリオを中心に、あとおまけとして『ワールプールフールガールズ』『いきどまりの自由』について言及していくことにします。
ある程度納得感のある結論に辿り着けたと思うので、お付き合い頂けると嬉しいです。




商品/非売品

ということで、まずは本noteにおける「お金」の意味を、以下の2つにある程度絞りたいと思います。

  • 交換可能な価値そのもの

  • 交換を繰り返し循環するもの

前者の「価値そのもの」であるという点については、コミュから導かれるというよりは貨幣それ自体の性質ですね。目に見える価値というものを細分化した最小単位が1円硬貨であり、そしてお金は何かと交換可能であるという以上の価値を持たない。1円の価値は?と問われれると、1円です、としか言いようがありません。剥き出しの、価値そのものであるという点が重要で、それを運用するのは共同体・社会の側なわけです。
そしてその共同体のうち、小さなスケールがノクチルであり、大きなスケールがアイドル業界であると見ることができます。


『海へ出るつもりじゃなかったし』
【みずになりかけ】浅倉透

ノクチルのコミュには、ノルマなんか?ってくらいコンビニに行くシーンが頻出します。あとドラッグストアとスーパーも。それらに代表される、スケールの小さい日常的な消費活動は、ノクチルがアイドルという非日常へとダイブしたことに準えると、ただの幼馴染としての「日常」サイドを表していると考えることができます。また、この後例示しますが彼女たちは互いに「奢る」ことがすごく多い。ノクチルは、少額、もしくはお金そのものを直接やり取りしない経済圏にいます。

なんなら、有名な「財布ないわ」も、アイドルになった当初の透が「お金」に頓着しない存在であることを暗喩しているとも見ることができそうです。

【283プロのヒナ】浅倉透


『天塵』

一方で、彼女たちが乗り込んだ芸能界は、巨大な資本が支配する厳然とした商業主義がベースにあります。アイドルは「商品」として常にその価値を値踏みされる存在です。プロデューサーは「彼女たちは、彼女たちなんだけどな」という思いのもと、「商品」に還元されない輝きの届け方を模索しますが、しかし作中での業界人たちは「勝ってるやつのにおい」を敏感に嗅ぎ取り、彼女たちを捕食し、売り物にしようとする。信用のない商品と判断されれば干されるし、場合によっては億単位のお金が動くこの世界の責任に、彼女たちは向き合わされます。

透LP


ここで、日常の小さなスケールの経済圏と、芸能界という大きなスケールの経済圏を結びつけるキーワードとして、『海へ出るつもりじゃなかったし』の「ピース・オブ・エイト」が重要となります。

『海へ出るつもりじゃなかったし』

「ピース・オブ・エイト」はスペインの銀貨であり、海賊と結び付けられる言葉です。芸能界という大海へ出た彼女たちは、海賊として「てめえらの財宝寄越しな!」と戦いを仕掛けます。というのは言い過ぎにしても、『海出』でテレビのカメラに映らない「めちゃくちゃな暴れ」を繰り広げたノクチルは、商業主義の世界の中で回収されないオルタナティブな価値観をアイドル業界に持ち込もうとする存在として描かれていることは確かだと思います。

そうした、「お利口な商品になんてなってやらない」という彼女たちの姿勢は、『ワールプールフールガールズ』の章タイトル「うらない(NOTFORSALE!)」なんて駄洒落で端的に表されています。ノクチルは非売品です。

いきなり少し長くなりましたが、以上のような「幼馴染」と「芸能界」、「日常」と「非日常」、「非売品」と「商品」といった価値観の相剋がノクチルのテーマの1つであり、それが作中でのお金の使われ方に表れている、ということを念頭におくと、後半の文章が飲み込みやすくなると思います。「お金」にはメタファーとしての意味がちゃんとあるのです。

そしてもうお金のもう1つの特徴である「交換を繰り返し循環する」ということについては、以降の章で例を挙げながら説明していきます。

奢る/奢られる

【283プロのヒナ】浅倉透
【しかえし優等生】福丸小糸
【游魚】樋口円香
『さざなみは凡庸な音がする』

ノクチルの4人の中では、奢ったり、奢られたりのお金のやりとりが頻繁に発生します。誰かの頑張りに対する報酬として奢ってあげて、代わりに別の機会には奢ってもらって、また奢って……という流れがループするように繰り返されています。
4人だけのクローズドな環の中で彼女たちのお金はぐるぐると回っていきます。ここに一般的な「売る/買う」でまわっている経済とは距離を置いた、小さな共同体の中で完結した経済圏を見てとることができるでしょう。

『さざなみは凡庸な音がする』

そこを踏まえると、意気揚々とジュースを奢ろうとしたら小糸に「そんなことより次の仕事持ってこんかい」と突っぱねられた(誇張)プロデューサーの描写も味わい深いですね。彼はノクチルを一番近くで見守る立場にいますが、幼馴染4人の関係性に混ざることはできません。

【10個、光】浅倉透
プロデューサーは奢ることはできても、奢られることはできない


貸す/借りる

【洒落】樋口円香
【閑話】樋口円香
【雨情】樋口円香

もう1つよく出てくるお金のやり取りとして、「貸し借り」があります。というか、上記例の通りこちらはほとんど円香の専用技みたいになってます。
貸し借りもまた4人の間でお金がぐるぐる回っていることになりますが、奢る/奢られるよりもキッチリしており、契約として縛るような色が強いでしょう。モノ自体を直接渡したがらないのも円香らしいと言えます。

ちなみに4人の中で円香だけがキャッシュレス派です。これも、表現することを避ける傾向にある彼女らしいと思います。

【Feb.】樋口円香
そんな円香も小糸には貢ぎがち。

さて、このような「奢る/奢られる」・「貸す/借りる」という、一般的な売り買いの経済活動からは離れたスケールの小さなお金の循環が、彼女たちの間では日常的に行われています。これは最初に述べた「幼馴染・日常」の小さな経済圏と違和感なく結びつくものです。
そしてこの「循環」、ぐるぐる繰り返すというキーワードは、透のコミュを読み解く上でとても重要となってきます。


『天塵』
【ハウ・アー・UFO】浅倉透

ということで、のちの議論をより掴みやすくするために、ここで一旦透のシナリオ全体を概観します。

透はずっと、終わらない夏休みだったり、暇でしょうがない正月だったり、ぐるぐると繰り返す日常への飽きを抱えていました。Pシナリオではそれは「てっぺんに着かないジャングルジム」と表現されています。
そこから抜け出せる可能性を漠然とではありますが感じた透は、アイドルになることを決めました。この透が感じ取る非日常への予感のようなものは、もっと遡ると「車を買って海に行こう」という幼い頃の約束だったと言えます。4人で海に行けば、終わらない夏休みが終わるかもしれない。

『天塵』

「車を買う」ということについては後々触れるとして、「海」は『海へ出るつもりじゃなかったし』でタイトル通り改めて登場します。透は海へ出ること自体が目的ではなく、積極的にアイドルをやる理由を持っていませんでしたが、それが「ほんとの世界」、つまり透が求める非日常へとつながることを漠然と感じています。

『海へ出るつもりじゃなかったし』

そしてG.R.A.D.を経て、透は「湿地・潟」という食物連鎖の世界に身を投じることをはっきりと意識します。

透G.R.A.D.

食べて食べられてを繰り返してまわっていく生態系。そして、捕食者たちがひしめく芸能界の食物連鎖もまた、「売る/買う」を繰り返すことで運営される、大きなスケールの「循環」と言うことができるでしょう。『天檻』や透LPで描かれるのはそういう世界です。
「奢る/奢られる」は上下関係のないフラットな間柄じゃないと成立しない相互関係なのに対して、芸能界の「売る/買う」は捕食者と被食者が食い合う縦方向の連鎖と言うことができます。「循環」という視点でも、ノクチルというお金で回っていない小さなスケールと、芸能界という商業主義の大きなスケールがあるわけですね。『海出』の「汽水域」という言葉や「シャケ」の比喩を踏まえると、「潟」が「川の水と海の水が混じり合う河口付近」であるというのは、透の目指す先が2つのスケールが混じり合う場所であると考えることができそうです。

透のシナリオについては本当〜に多様な読み方ができると思うのでこのくらいにして、ここでは大雑把に「透はフラットで小さな循環から、もっとシビアで大きな循環へ向かうためのエネルギーを求めており、最終的にそれらが混じり合う地点に至る」という横串で透のストーリーを捉えることにします。

念の為述べておくと、透は小さな循環の世界に時折退屈を覚えているものの、幼馴染の関係性自体は大切に思っています。透はわりと積極的に奢る方です。

【みずになりかけ】浅倉透

さて、以上を踏まえた上で話をまたノクチルに戻します。先の通り、天塵で示された「車を買って、海へ行く」というノクチルの原風景は透の提案からスタートしました。彼女たちは、理由らしい理由はなくとも、芸能界という商業主義のシビアな世界に漕ぎ出すことに決めたのです。しかし、自分達の車を買おうにも、先立つものはありません。そこで透がとる最初の経済活動は……そう、お金を貯めることです。


貯める

【游魚】樋口円香

天塵の報酬サポコミュでは、車を買う資金として「4人の貯金箱を買う」描写があります。貯金という行為は目先の消費活動とは違い、未来に向けたものであり、これまでの奢ったり貸したりの小さな循環の世界とは方向性が変わっています。大きなスケールの経済圏に向けた第一歩と言えるでしょう。先立って貯金を行なっていたのが実は雛菜だったという点も面白いですね。

稼ぐ

『明るい部屋』

さらに順を追って、次は『明るい部屋』です。
貯金しようにも、収入がなければ立ち行きません。しかしノクチルはアイドルとしては干されていて、待っていても仕事はやってこない。そこで透はアルバイトすることを提案します。透自身はこの動機について「老後やばいらしいから貯金しないと」と言っており、いや車買うためちゃうんかいと突っ込みたくなるところなのですが、目先の小遣い稼ぎのためでなく、未来を志向した行動であるという点で、やはり大きなスケールの経済圏を見据えているところがあったんじゃないかな?という気がします。

売る

そして『海へ出るつもりじゃなかったし』にて、「ピース・オブ・エイト!」の号令と共に、ノクチルは海へと漕ぎ出します。ただし、騎馬戦で彼女たちの組んだ騎馬は最終的にバラバラになるという形で幕を閉じており、おまけにカメラにも全く写っていません。ノクチルは幼馴染4人組の在り方をそのまま持ち込む形で芸能界に攻撃を仕掛けたわけですが、それだけでは何か実際的なインパクトを与えることはできませんでした。「かんぱい」です。

そんな『海出』の報酬サポコミュで透がとっていた行動は、「自分の古着を3人に売りつける」ことです。

【がんばれ! ノロマ号】浅倉透

この発言を受けた一同の「コイツ金取るんかよ…」というドン引きリアクションが面白いです。それもそのはず、既に解説したようにこれまでのノクチルは奢ったり貸したりのお金で回っていない世界にあったわけで、服を「商品」として売り買いするのはどちらかというと商業的な世界の領分と言えます。海へ出て、海賊として生きる世界に繰り出さんとする透の心境の変化が表れた行動と見ることもできそうですし、加えて、自分はこの「自分の服を仲間に売る」という行為から「船員へユニフォームを配る」イメージを連想しました。「幼馴染」から、「ノクチル」という同じ船に乗る仲間として、正式に雇用契約を結ぼうとしているような。

そう考えると、500円という価格設定も興味深いですね。これまで通りの「幼馴染」の価値観ではタダで譲るべきところだけど、かといって「アイドル」浅倉透の私服の価値としてはむしろ安すぎると言える。つまり、「奢る/奢られる」ではなく「売る/買う」の商業主義的な世界に足を突っ込んでいるものの、金銭感覚は普段コンビニで買い物するのと特に変わらない、「日常」のままであるということ。これって、ノクチルがノクチルのまま芸能界で輝きを見せるには、というプロデューサーの思いとそのまま通じていきそうに見えませんか。

この考えを踏まえて、『天檻』を見てみましょう。ここまでずっとお金を貯め込むことに徹してきた透は、いったい何を買おうとしているのか。


買う

『天檻』においてノクチルは、物珍しい、幼馴染のエモい感じのアイドルとして注目を浴びます。冒頭のシーンで、プールに飛び込む姿すら「これがノクチルなんだよな〜」と消費されていく様子にみなさんゾッとしたはず。海に出ていたつもりが、より強大な捕食者に取り囲まれ、いつの間にか生簀の中に閉じ込められたような窮屈さを感じます。

でも、仕事としてアイドルをやるということは、そういう世界に身を置くということなのかもしれません。同じ高校のサッカーでスカウトされている先輩のように、プロになるなら、周囲の身勝手な視線や、大きなお金を動かす責任は避けられない。

『天檻』

透たちは業界人が集まるプライベートなパーティーで、「舞台をあげるからなんか面白いことやって」というオーダーを受けます。ワイン坊やことオーナーは完全に捕食者の立場です。彼が扱うヴィンテージワインは、長く寝かせたものほど価値が高くなる世界。何気なく開けられた50年もののボトルも、きっと数万か、数十万くらいするのでしょう。

対してノクチルは、ここまでで説明してきた通り、そんなスケールの大きな世界には生きていません。透の「50年後」は、今です。ノクチルに注目する人たちは、「透に見えてる世界に、興味がある」らしい。なら見せてやろう。そんな透が選んだステージは———


円香の、歌を、買う!!!! 1回67円で!!!!!!!!!

このシーンを見た時ものすごく鳥肌が立ちました。きっとみなさんも心を動かされたと思います。なにか、とにかくただならぬことが起きている感覚でゾワゾワします。ただ、このシーンの何がすごいのか、パッと言語化できた人は少ないんじゃないでしょうか。

でも、ここまで読んでくださった方ならわかるはずです。幼馴染の歌を、奢ってもらう(無償で歌ってもらう)のではなく、買うという行為のいびつさ。「奢る/奢られる」から「売る/買う」への、価値の「転換」。一方で、アイドルのステージとしてはあまりに安すぎる値段。幼馴染の金銭感覚を、捕食者たちの視線を集める芸能界と接続する。2つのスケールの世界が混じる。川の水と海の水が混じり合う湿地。そういう世界を、透はこの場に作り出してみせたのです。

この時歌われているのが4人にとって懐かしい教育番組のエンディング(童謡)だということも効いてきます。「ほたるこい」の再演でもあります。また、雛菜と小糸のダンスは、踊り方を知らないむちゃくちゃなもの。そしてこの瞬間だけ、かつての「まどか」呼びに戻る透。まるで、全部子供の遊びのようです。でも、ごっこ遊びのままアイドルをやる。ノクチルは、ノクチルのまま輝いてしまう。捕食者たちを飲み込む。それが彼女たちのすごいところです。

『海へ出るつもりじゃなかったし』

もうこの時点で、これまでの集大成すぎていっぱいいっぱいなのですが、事態はこれで終わりません。彼女たちはそのまま……


海を目指して、逃げる。

———タクシーに乗って!!

車を買う

「車を買って、海へ行く」。これがノクチルの原風景でした。天塵では、それは「アイドルの仕事として、プロデューサーの車に乗って、海へ行く」という形で達成されました。円香の【カラカラカラ】Trueコミュ「エンジン」からも、「車」はアイドルとしての「ノクチル」を表していることはわかりやすく示されています。この時点ではプロデューサーの存在がエンジンでした。

【カラカラカラ】樋口円香


『海出』では海賊船、騎馬のイメージがそれに連なります。彼女たちはだんだんとプロデューサーの手を離れて自走していきます。G.R.A.D.シナリオ等を通じて、各々、やりたいこと、進みたい道も少しずつ掴んできました。そしてそれは、常に4人同じというわけではありません。また、非日常をくれるはずの芸能界という海が、存外窮屈なプール、生簀でもあることを知っていきます。『天檻』冒頭の「クジラのおなかの中」は、捕食者に食われ、その胃袋の中でかりそめの自由を生きていると読むことができます。ですが、終盤で再度出てくる「クジラのおなかの中」はどうでしょう。この時の彼女たちは、既に捕食者どもを逆に飲み込んだあとです。いまや彼女たち自身がクジラと言えます。

略奪のかぎりを尽くし、たっぷりお金を稼いで満足した彼女たちは、最後にタクシーに乗って海を目指します。

そう、タクシーに乗る。もう2年前になりますが、『天檻』実装当時このシーンを見た瞬間の私の興奮は、もうとんでもなかったです。何度でも噛み締めたい。
なぜならタクシーは、「お金を払えば、免許を持たない学生でも乗れる車」だからです。まだ自動車は買えないけれど、現時点の彼女たちでも乗ることのできる、メーター制の車。そして、運転手はプロデューサーではありません。行き先を決めるのは彼女たち自身です。こんなに「これしかない」ってピッタリはまる比喩をクライマックスにぶつけられるセンスっていったいなんなんですか。シャニマスにはマジで敵いません。


ですが、一息に海にたどり着くには、まだお金が足りなかったようです。タクシーで行けるのは河原までが限界でした。今回のパーティーはあくまでクローズドな場ですし、芸能界全体を飲み込むには足りなかったのかもしれません。もしくは、まだアイドルとしてやり残したことがあるということかも。
これまでの比喩を参照すると、河原は幼馴染の、日常の世界を表しているでしょう。タクシーを降り、再びただの幼馴染に戻った彼女たちは、川の流れていく方、海を目指して歩いていきます。追いつかれるまで。

やっぱりコンビニに行く

では、もし彼女たちが十分にお金を稼ぎきって、車を買って海に行ってしまう日が来るとしたら、それはどういう時でしょうか。私は、いつの日か彼女たちが「ノクチル」でなくなる時、解散を表していると思います。この世にある「海」は、なにも芸能界だけではありません。透が走り出した先が、たまたまそうだっただけとも言えます。『天檻』に限らず、ノクチルではアイドルを辞めることを示唆するような描写が多いです。円香G.R.A.D.の「22階でエレベーターを降りる」とかもそうですね。

円香G.R.A.D.
名無しの「アイドル」は17階で降りる

今回の「タクシーで河原に行く」シーンは、彼女たちにいつかそういう終わりが訪れることを、シャニマスという時間経過のない媒体で表現する、限界ギリギリを攻めた描写だったのだと思っています。

ただ、今の彼女たちには、別の海に行くことはできません。川を歩き続けるにも、足が痛くなってきます。追いかけてくれるプロデューサーもいます。小糸のオープンキャンパスを始め、やりたい仕事だってまだあるでしょう。だから、今日はここまで。今回のところは、迎えにきたプロデューサーの車に乗って、アイドルの世界に戻ることにしたのでした。


「彼女たちは売り物なのか、売り物じゃないのか」という命題は、私は「どちらでもないし、どちらでもある」が1つの回答だと思っています。2つの世界を混ぜ合わせて、自在に行き来する。「アイドル」でありながら、いつでも「ただの幼馴染だった頃」に戻って遊ぶことができる。「彼女たちは彼女たちである」というトートロジーでしか表せない存在。

報酬サポコミュの【洒落】では、購買のクリームパンを前にお金の貸し借りであれこれ言い合う透・円香と、しれっとラスト1個のパンを買う雛菜がコミカルに描かれます。本noteの前半で書いたような、とても彼女たちらしい日常のワンシーンです。一見なんの含意もなさそうなギャグ描写に見えて、こうした幼馴染の日常にいつでも戻ってこれるということ自体が、とても重要な意味を持っています。

【洒落】樋口円香
まだ欲しいものは買えていない(ので、アイドルを続ける)



……ということで、お金を巡るノクチルの裏テーマに関する話は一旦ここまでです。このnoteは、『天檻』の円香の歌を買うシーンと、タクシーに乗るシーンを読んだ時の自分の興奮を形にしたくて書きました。そのためにはノクチルや透個人のコミュを俯瞰して語る必要があり、おまけにノクチルのコミュにはとにかく比喩が多いので、文章がとっ散らかってしまい、うまくまとめられたかは怪しいところです。ここまで読んで、納得した方もいればそうでない方もいると思いますが、ともかくお付き合いいただきありがとうございました。


ここから先は余談です。ノクチルお金論は『天檻』で1つのエンディングを迎えたと思っていますが、のちの『ワールプールフールガールズ』や『いきどまりの自由』にもそのエッセンスは残っており、別の角度から掘り下げられています。せっかくなので、おまけとしてそれらについても簡単に触れたいと思います。気になる方はどうぞ。


返す


『ワールプールフールガールズ』は、透たちが知らず知らずのうちにもらったり、借りたりしていたものを、返しに行く物語です。

もらう、借りる。さっきからしている話とつながりますね。「奢る/奢られる」、「貸す/借りる」という循環は、ノクチルにとっての日常です。最初は新鮮な非日常だった芸能界という海も、いつの間にか、彼女たちの日常の一部になってしまいました。同じことをぐるぐる繰り返す、フラットで退屈な堂々巡り。もうこれ以上はないんじゃないか。どうしたって「解散」という言葉が過ぎります。

「循環」そのまますぎてキモい背景
幼馴染の間に「売る/買う」を持ち込む行為すら、今や日常になりつつあります

そんな中、彼女たちは4人だけの閉じた循環だと思っていた世界のそばに、他者がいることに気づきます。それは昔の知り合いだったり、応援してくれるファンだったり。借りてることを思い出したなら、返さないといけない。本シナリオは、ノクチルが他者に対しても「奢る/奢られる」、「貸す/借りる」関係を結べることに目を向ける、外側に対するアプローチの話です。

もらったり、借りたりしていたものは、お金そのものではないという点もポイントです。モノだったり、気持ちみたいなものだったり。それがどれほどの価値を持つものか決めるのは、ノクチルではなく他者の方です。彼女たちはそのことと向き合う。

「見返り」

時には、それは相手にとって既に価値のないモノだったり、竜王のように返すこと自体を拒否されることもあります。ファンも、「解散は冗談」という言葉を求めているでしょう。でも彼女たちは、もらったり借りたりしたものを、お行儀よく求められている通りに返すことはしません。勝手に、押し付けるように、ひっくり返す。

飛車を無理矢理返されても、「毎回解散する」なんて言葉を返されても、素直に喜べる人ばかりではありません。でも、そうやって一度終わらせないと、また新しく始めることはできない。もらって、借りて、ひっくり返して、また新しい循環を始める。次の循環はきっと、もっとハッピーになる。

そうやって、循環の環を一つ、また一つ外の世界に広げて、重ねていく。閉じた「プール」の世界から、「ワールプール」(渦巻き)への転換です。『天檻』で示唆された終わりの可能性を、別の角度から捉えようとする試みが本シナリオだったのだと思います。

報酬サポコミュの【THE W♡RLD】でも、そういうあげる、もらうの循環が持つポジティブさを、透母という4人と限りなく近い距離にいる他者が示してくれるのがとても清々しいですね。

【THE W♡RLD】市川雛菜


稼ぐ(んじゃない)

最後に、現時点での最新シナリオ『いきどまりの自由』です。こちらには直接的な「お金」の話はもはや登場しません。ただし、これまで述べてきたことと根っこの部分で繋がっています。

まず現れたのは、インフルエンサーという人。勢い重視なようでいて、引き際をわきまえたところがなんだか印象的な人物です。
若干強引ですが、「知名度アップ」は知名度を「稼ぐ」と読むことができなくもありません。彼は芸能界の中で問題児であるノクチルを同じ「稼ぎたい」側同士と見て、「一緒にビジネスやりましょうや」と肩を組もうとしてくる。

しかし、ノクチルのこれまでの破天荒ぶりは、別に注目を集めて「売れる」ことを狙ってやっていたわけではありません。本noteでは『明るい部屋』でのアルバイトを「稼ぐ」と表現しましたが、あれも別に目先のお金それ自体が目的ではなかった。だから彼は、「ノクチルはそういうのじゃない」と判断しました。

インフルエンサーの言う「そういうのじゃない」は、たぶん「なーんだ、俺と同じ売れるためならなんでもするタイプと思ったけど、ただのお行儀のいい優等生じゃん」みたいなことでしょう。『天檻』でいう「従順な売り物」に近い。

でも、ノクチルは「それでもない」。

今回のノクチルの仕事は、「専門学生が卒業制作で作るショートフィルム」です。仕事である以上もちろんノーギャラではないでしょうが、かといってこのフィルムで何か興行収入を狙うとか、直接利益を産むものではない。「商品」なのかそうじゃないのかの境界がまざった仕事と言えます。
透の自由律俳句と、今回のショートフィルムの仕事は、『天檻』で広告ディレクターが言った、「売り物じゃないなら、じゃあ何?っていう」の答え合わせになっているのだと思います。やっぱり彼女たちは、どちらでもあるし、どちらでもない。ノクチルを、「ノクチル」以外の言葉で捉えることはできません。

透の「スクランブルブルエゴイスト」はちょっと解釈が難しいですね。スクランブル交差点は歩行者が自由な方向に歩いて行ける道路ですから、車の比喩を引き継ぎつつ、道なき道を行く彼女たちのイメージを忍ばせているのかも。

そして報酬サポのカード名は【たすものについて】。明確に透のpSR【まわるものについて】を受けたものです。4人だけの閉じた循環の世界に、「監督」という他者が加わる。5人で写真に映る。このあたりは『ワールプールフールガールズ』の外に向かって広がっていく渦巻きを想起させます。

【たすものについて】浅倉透

『いきどまりの自由』は、「専門学生の監督」のカメラを通し、ノクチルが自身の内面を言葉にして応答することで、これまでのノクチルのスタンスが改めて浮き彫りになったと読むことができそうです。
正直かなりあっさりした話だなという感想で、議論をさらに次へ進めるような目新しさは読み取れなかったのですが、今後実装される新シナリオを踏まえた上で見るとまた見え方が違ってくるのかもしれません。


ということで今度こそ終わりです。いやー長かった…… 1万字を超えたのは初めてかもしれません。

捉えどころのないノクチルのシナリオですが、本noteがそれを読み解く上での一つの導線となっていれば幸いです。

では、解散!

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