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秘密の桃 #KUKUMU

晩夏の昼。

リビングに仰向けになって寝転がるわたし。時折、芋虫のように伸び縮みをして、フローリング材のひやっこい部分を探して移動する。意味のない蠕動運動を繰り返しているうちに15分も経ってしまった。わたしは眉間にシワを寄せながら思う。

「暑い。ダルい。気が滅入る。夕飯の準備? は? しゃらくせえ。今夜はインスタントラーメンだ、ばかやろう」。

思わず口が悪くなってしまうパッとしない日に、圧倒的に足りていないもの。それは「自分だけの“あそび”の時間」だ。仕事のフタをそっと閉じ、母や妻という役割を脱ぎ捨てて、そのままのわたしの姿であそぶ。自由で、軽やかな、ひとりきりの時間。

「ああ、“あそび”が足りていないなあ」と思うとき、わたしは誰にも秘密で桃を買う。2個で780円とかのちょっとイイやつ。ここだけの話、家計の財布で買ってしまう。

「780円の桃なんて、たいした話ではない」。そう思われる方もいるだろう。

しかしながら、地味な経済観念を持つわたしにとって、780円の桃を家計の財布で買うことは、大きく道を踏み外したインモラル行為に他ならない。

家計の出費は1日2000円まで。フルーツの購入は3日に一度、500円まで。週末のちょっとした贅沢にお気に入りの菓子を買うときは「娯楽経費」として必ず自前の財布から……。
誰に強制されたわけでもない、自分で決めた家計のルール。普段かたく守っている分、背くときには妙な緊張が走るものだ。

会計時。桃がレジに通されて、ピっと音を立てたその瞬間。オットとムスメの顔が脳裏をよぎる。

「ちょっとやりすぎたかも……」。

後ろめたいドキドキ感を、わたしは目をつむって隅々まで味わう。このひとさじの背徳感が桃をいっそう甘くするのだ。

スーパーから戻ってすぐ、部屋着に着替えもしないで、台所に立って桃を洗う。これから「誰にも秘密」で「よそゆきのワンピース」を着たまま「ちょっとイイ桃」をむさぼり食ってやるのだ。家族にも内緒なんだぜ。果汁が服に飛び散るかもしれないんだぜ。ああ、なんとういうならず者だろう。道徳に反したたくらみに胸がときめき、思わずため息がもれる。

静謐なリビングに、桃を置く。

はやく食べたい。いやいや、まだまだ。まずはゆっくり香りを愉しもう。はやる心をおさえつつ、鼻元に桃を近づける。甘やかな濃ゆい香りが鼻孔にトロリと流れ込み、肺の奥にしっとりなじんで溶けてゆく。甘美。

続けざまに、桃の和毛(にこげ)を指先でそっとひとなで。あかちゃんの頬のような手触りに、思わずうっとりしてしまう。

期待に胸がふくらんで、たまらなくなったわたしは、台所へ駆けもどる。両手をていねいに洗いなおすためだ。これから、このうえなく美しい食べ物をいただくわけだから、わずかな不浄も許されない。

清めた手でペティナイフをそっと掴み、刃の中腹を皮と実の間にすべりこませる。果汁がペティナイフをつたって、指、手、腕までもぬらしてゆく。なんてみずみずしいの。

あとは無心に食らいつくだけ。一口大にカットしたほうがいいんじゃないかって? ふん、そんな無粋なことはしないぜ。まるごとガブリと食らいつくのだ。だってわたし、ひとりなんだから。ひとり占めなんだぜ。

ガブリ。むしゃり、むしゃり。果汁が泉のようにわきでる。一滴たりとも逃しはしない。桃のすべてを味わいつくせ! じゅるり、じゅるじゅる。え? 音を立てて食べるなんてはしたない? バカだなあ、わざとだぜ。ズルズル。ジュジュッ。あぁ、おいしい。うますぎる。忘我の境地。のち、恍惚。

ふぅ。

大きな桃を食べきって、大きなため息をひとつ。ぬれた口元、腕、手のひら、指の一本一本まで手ぬぐいでていねいに拭き上げる。満腹のおなかをさすりながら、足を投げ出して寝ころんだ。フローロングが冷たくて気持ちいい。しばし目を閉じ、遠くから聴こえる蝉の声に耳をかたむける。獰猛さが失われて少し優しくなったその声に、夏の終わりを感じる。そしてしみじみと思う。

……しあわせだなあ。

すっかり満ち足りた体で考えるのは、夕飯のだんどり。

今夜のおかずは、オットもムスメも大好きなハンバーグにしようかな。ソースは玉ねぎとにんにくをたっぷり擦りおろした醤油ベース。
デザートは……、残ったもう一つの桃。キレイに一口大にカットして、銘々皿に取り分けて、小さなフォークも添えて出そう。きっとよろこぶに違いない。

秘密の桃をすっかり腹に納めたわたしは、冷静を身にまとう。ペティナイフと皿を淡々と洗いあげ、桃の皮と種は紙袋に包んでゴミ箱へ。仕上げに姿鏡に全身を映す。青色のワンピースを大きく広げ、胸元やひざのあたり、裾までくまなく目を凝らす。「秘密のほころび」はひとつでもあってはならないのだ。
……果汁のシミはどこにも滲んではいなかった。

「よし」

小さく微笑んだあと、何事もなかったかのような顔をして、わたしは日常に戻った。

文・写真:森川紗名
編集:栗田真希

食べるマガジン『KUKUMU』の今月のテーマは、「サマーフルーツ」です。4人のライターによるそれぞれの記事をお楽しみください。毎週水曜日の夜に更新予定です。『KUKUMU』について、詳しくは下記のnoteをどうぞ。また、わたしたちのマガジンを将来 zine としてまとめたいと思っています。そのため、下記のnoteよりサポートしていただけるとうれしいです。

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