見出し画像

2023.9.10 【全文無料(投げ銭記事)】なぜ日本には“世界一”が多いのか?

今回の記事は、日本美術史家であり歴史家、また東北大学名誉教授である田中英道著『日本史の中の世界一』の文献を基に、『日本の世界一』というテーマで書いていこうと思います。

本記事を読み進めて頂ければ、
・日本に“世界一”が多い理由
・国民参加の日本の歴史
などといったことが分かるかと思います。

全文無料となっておりますので、最後までお読み頂ければ幸甚です。


日本になぜこんなに世界一の事績があるのか

日本列島は世界の陸地面積の僅か0.2%で、しかもユーラシア大陸の片隅にあります。

そこに住んでいる筆者を含む日本人は、世界人口の約1.7%に過ぎません。

それなのに、なぜこんなに世界一が沢山あるのか。
これが、まず『日本史の中の世界一』を読んで感じた疑問でした。

この本には、世界最古の土器から戦後の高度成長まで、世界一と言える日本の事跡が50も紹介されています。

それも単に、それらを並べただけではなく、美術史の世界的大家である東北大学の田中英道名誉教授が編集し、各分野での著名な専門家が、その背景に至るまで具体的に説明しているので、それらを生み出した国柄に関する卓越した日本論となっています。

その国柄の一つとして特に目立つのは、天才的な一個人が現れて世界を作り出したというよりも、多くの国民が参加して、その力を寄せ集めて成し遂げた事例が非常に多いということです。

式年遷宮というシステムの独創性

例えば、伊勢神宮の20年毎の式年遷宮。

各神殿が二つ並んだ敷地を持ち、ひとつの神殿が20年経って古びた頃、隣の敷地に全く新しい神殿が建てられて、神がそちらに遷られます。

第一回の式年遷宮は 持統天皇4(690)年に行われましたが、その時点では、世界最古の木造建築物として今も残る法隆寺は建立されていました。

そのような高度な建築技術を持っていたにもかかわらず、飛鳥時代の先人たちは、その“最先端”の技術を、伊勢神宮の建築には用いていない。
その代わりに、すぐに朽ち果てる弥生時代の倉庫さながらの神殿を、二十年ごとに建て替えるという“神殿のリメイク・システム”を考案したのである。

田中英道著『日本史の中の世界一』

このシステムにより、神宮は古びることなく、1300年以上も後の現代においても真新しいままでいます。

この式年遷宮というシステムの独創性に、私は驚くほかない。
しかし、そのシステムが、はるか千三百年の時を超え、二十一世紀の今日まで“生きている”ことは、さらなる驚きである。
世界史上、このような信仰に基づく、このようなシステムが、このように長く続いている例は他にない。

田中英道著『日本史の中の世界一』

更に驚くべきは、この建て替えが内宮と外宮という2つの『正宮』だけでなく、14の別宮と109の摂社、末社、所管社、即ち合計125の神社全てで行われるということです。

しかも建物だけでなく、神様の衣服である『御装束』やお使いになる道具の『御神宝』も約800種、2500点を全て二千数百人の職人が長い歳月をかけて作り直します。

無数の多くの代々の国民が、力を合わせて続けてきた

御遷宮には1万本以上のヒノキが使われますが、それらは木曽地方などの神宮備林で育てられます。

樹齢2、300年の用材を大量に育てるための人々がおり、用材を切り出す際には神事が行われます。

切り出された用材は直径1m近く、長さ数mのものもあります。
それらを奉曳車に乗せて、長さ100~500mの綱を200~5000名の曳き手が掛け声に従って引く『御木曳おきびき』という行事もあります。

平成18(2006)年から翌年にかけて行われた第62回御遷宮の御木曳行事には、一日神領民という希望者が約7万7000人も参加しました。

当時の映像には、日本全国から集まった人々が地域毎に揃いの法被はっぴを着て、いかにも楽しそうに掛け声に合わせて綱を引っ張っている様子が映し出されていました。

この第62回目御遷宮の総費用は550億円といいます。

神宮を参拝した人々のお賽銭や篤志家、企業などからの寄付、更には全国の神社での神宮大麻(お神札)の販売などによって賄われています。

謂わば国民の多くが御遷宮を支えているとも言えるのです。

このような大規模な御遷宮が過去1300年以上、62回も続けられてきたという事は驚くべき事実です。

御遷宮は“続いてきた”のではありません。
私たちの先人たち、それも無数の代々の国民が力を合わせて“続けてきた”のです。

その努力こそ世界唯一というべきでしょう。

延べ260万余人が参加した奈良の大仏建立

国民参加という点では、天平勝宝4(752)年に完成した世界最大のブロンズ像である奈良の大仏も同様です。

大仏建立を志された 聖武天皇はみことのりを出されて、
<生きとし生けるものが悉く栄えることを望む>
と語られました。

しかし、単に国家権力をもって人民を使役したのでは、その志は果たせません。

ただ徒らに人々を苦労させることがあっては、この仕事の神聖な意義を感じることができなくなり、あるいはそしり(悪くいうこと)を生じて、かえって罪に陥ることを恐れる。
・・・
国・郡などの役人はこの造仏のために、人民の暮らしをおかし、乱したり、無理に物資を取りたてたりすることがあってはならぬ。

田中英道著『日本史の中の世界一』

この詔は現実の政策によって実行されました。

造仏に従事した木工や仏師、銅工、鉄工などの技術者ばかりでなく、人夫や雑役夫などの雇人にも賃金と食米が支給されました。

現場の重労働に従事する工人には、一日約8合の玄米が炊かれ、塩・味噌・醤油・酢・海藻・漬物・野菜・木の実等が副食として出されました。

工事に従事した延べ人数は、金知識(鋳造関係の技術者)が37万2075人、役夫えきふが51万4902人、材木知識が5万1590人、役夫が166万5071人の合計260万余人。

当時の日本の推定人口は約500万人なので、かなりの割合で国民が参加したわけです。

事業に参加する人々には、賃金や食事を支給するばかりではありません。

 聖武天皇は、一人ひとりがこの事業の趣旨をよく理解し、それに主体的に参加することを期待されました。

詔にはこうも言われています。

もし更に人の一枝の草、一把ひとにぎりの土を持って、像を助け造らんことを情願ねがうあらば、ままにこれを許せ。
もし人民が寄進したいというのであれば、どんなに僅かの寄進でも喜んで受けよう。
朕は国民と共にこの大事業を成し遂げたいからだ。

大仏の建立に参加した一般人民は、国家権力者に使役された奴隷だったと考えるのは過ちです。

また、これらの人々が、全て賃金や食事目当てだったと考えるのも表面的に見えます。

ちょうど現代の御遷宮に多くの国民がボランティアで参加しているように、当時の人々は、 聖武天皇が国民全体の幸福を祈って発願された事業に参加できる誇りと喜びを感じていたのではないでしょうか。

百姓は、自ら進んで、老人を扶け、幼児を携えて

多くの国民が喜んで国家的巨大事業に参画するというのは、 仁徳天皇陵の築造においても見られたようです。

この「前方後円墳」と呼ばれる古墳は、全長が486メートル、円の部分は高さ34メートルもある。
取り囲む二重の濠まで含めた総面積は34万5,480平方メートルであり、秦の始皇帝の底面積11万5,600平方メートルの三倍、エジプト最大のクフ王の大ピラミッドの底面積5万2,900平方メートルの六倍以上だ。
大きさだけでなく、その全体の形態は中国にも朝鮮にも前例のない美しい形態である。

田中英道著『日本史の中の世界一』

ある試算によれば、これだけの土を更地に盛り上げるためには、10tのダンプカーで25万台分の運搬が必要であり、これを全て人力で行うためには延べ680万人が必要といいます。

 仁徳天皇は、『民のかまど』の逸話で日本書紀などに聖帝として描かれています。

高台から国を望まれて、かまどから煙が見えないことから、民が不作で窮乏しているのであろうと考えられ、税を免じました。

宮殿の茅葦屋根が破れても修理させず、風雨で衣服が濡れる有様でした。

6年の後、漸く 天皇が宮殿修理の許可を出されると、

百姓は、みずから進んで、老人を扶け、幼児を携えて、材料を運び、を背負って、昼夜を問わずに、力を尽くして競いつくった。
従って、あまり日数がかからないで、宮室がことごとく完成した。
そこでいまに至るまで、聖帝とたたえ申し上げるのである。

田中英道著『日本史の中の世界一』

 仁徳天皇が崩御された際も、多くの民が 天皇の聖徳を偲んで、このような形で力を合わせてみささぎを造営したものと想像し得ます。

国民による国民のための詩集

多くの国民が参加して偉業を成し遂げるというのは、巨大建造物に限りません。

世界最古で最大の選詩集『万葉集』もその一つです。
4516首と言う規模は世界最大であり、且つ7,8世紀の歌を集めています。

規模や古さだけではなく万葉集が特徴的なのは、 天皇から庶民まで、殆どあらゆる階層を含んでいることです。

アメリカの文学史家、ドナルド・キーン氏は
・・・
天皇の国見の歌から、恋の歌、生活の歌まで、その題材の豊富なことは、詩集として世界でも稀なことであると述べている。
作者も宮宮廷の詩人だけでなく、防人さきもりの歌や東人の歌、農民、遊行女婦、乞食まで多様な階層の歌が選ばれているのである。
いかに階層に対する偏見がないか、また平等な世界であったかがよくわかる。

田中英道著『日本史の中の世界一』

西洋やシナの詩集が専門歌人の作品を集めているのに対し、万葉集は、多くの国民がそれぞれの思いを詠んだ詩歌を集めた、正に国民による国民のための詩集でした。

この和歌の伝統は、現代の日本でも皇室を中心に中学生から老人まで、数万の短歌を集める『歌会はじめ』に連なっています。

国を挙げて取り組んだ教育水準の向上

幅広い国民参加による世界レベルの偉業達成というパターンは、近現代でも続いています。

江戸時代の教育水準の高さはその一つです。

トロイの遺跡発掘で有名なドイツの考古学者シュリーマン(1822~1890)は、トロイ発掘の六年前の1865年に旅行者として日本を訪れ、一カ月の間、江戸、横浜などに滞在しているが、
「教育はヨーロッパの文明国家以上にも行き渡っている。シナをも含めてアジアの他の国では女たちが完全な無知のなかに放置されているのに対して、日本では、男も女もみな仮名と漢字で読み書きができる」
と旅行記のなかで書いている。

田中英道著『日本史の中の世界一』

この世界一の教育水準は、日本各地に無数に設置された藩校や私塾、寺子屋によって達成されました。

藩校の最初は、元禄10(1697)年に米沢藩が設立した興譲館ですが、その後、全国に広がり、幕末までに約260の全ての藩が、規模や形態の差はあれ、藩校を設置しています。

私塾は寛文2(1662)年に、伊藤仁斎が京都に古義堂を開設して以来、様々な専門分野で広がり、幕末には全国で1500もあったといわれています。

寺子屋は農民や町民の子供たちに、お坊さんや神主、町のご隠居や武士などが教えていました。

幕末には全国で1万~1万5000もありました。
現在の日本の小学校数約2万弱に匹敵する規模の初等教育が行われていたことになります。

藩校を運営した各藩主から、私塾を経営した各分野の専門学者、更には寺子屋で教えるご隠居さんまで、国民の各層がそれぞれに人づくりの志を持って取り組んだ結果が、世界一の教育水準なのです。

何事か成らざらん

『日本史の中の世界一』には、この他にも、
<江戸時代、268年間の安寧>
<日本の花火の豪華さ美しさ>
<パーフエクト・ゲームとなった日本海海戦>
<戦後日本、奇跡の復興と高度経済成長>
<自然環境との調和、森林の保存の歴史>
と、興味深い世界一が次々と紹介されていきますが、これらも無数の国民が力を合わせて実現したものです。

その最後を飾るのが、
<世界最長の王朝、万世一系の天皇>
で、皇室が2000年以上も続いてきたこと自体が世界史の奇跡なのですが、その陰にあって皇室を支えてきた無数の先人たちがいたことを忘れてはなりません。

「和を以って尊しとす」
とは、聖徳太子の17条憲法の第一条冒頭の一節ですが、これは単に、“仲良くしなさい”という意味ではありません。

第一条は、上下和睦して事を議論する時は、物事の道理が自ずから通うので、
“何事か成らざらん(できない事などあろうか)”
という強い信念で結ばれています。

世界の陸地面積の0.2%しかない、日本列島に住む世界人口の僅か約1.7%の日本人が、これだけの世界一を成し遂げたことを見れば、人々の『和』によって
「できない事などあろうか」
と、断言された太子の確信の正しさが史実として証明されていると思えるのです。

最後までお読み頂きまして有り難うございました。
投げ銭して頂けましたら次回の投稿の励みになります!


ここから先は

0字

¥ 161

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?