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承  認  欲  求  ー櫻坂が魅せる承認欲求は主観か客観か

櫻坂46の7thシングルについて、少し前に書いた。

その3日後に、7thシングルが正式に発表された。

実はこの3日間に、新せ界の新しい展示物の中に7thについて書かれているものがあるという話が持ち上がり、自分では到底確認できないものの、行った方によるとどうやら本当らしい、という話に落ち着いていた。

たとえそれがなかったとしても、雰囲気的に7thが制作されているor既に制作が終わっている可能性も含めて、感じ取れてはいたので、個人的にはさほど驚きはなかった。むしろ、Twitter(あくまで私はXなどと呼ばない。永遠にTwitterと言い続ける)のタイムラインでは、年3枚のシングルをまだ驚いているフシがあったことの方が驚きだった。

確かに、年3枚シングルは久しぶりではある。だが、それは欅坂時代の様々な事象であったり、コロナ禍だったりのせいであって、実は本当は年3で出したいのが運営の本音なのではないかと思っているし、結構以前からそう思ってはいた。
ただ、特に櫻坂になってから推し始めた皆様にとっては、初めての経験であり、3枚のシングル発売というトピックの持つインパクトを存分に浴びている様子が窺えた。それは私にとってもとても喜ぶべき光景である。

それはさておき。

7thシングル「承認欲求」。

承認欲求という言葉は、元々は心理学用語で、マズローの欲求段階説の上から二番目に位置する欲求として知られる。

自分のことを他人に認めてほしい、という欲求は、実は結構高度な次元の欲求であり、人と人との関わりの中で生きていく人間にとっては、自然に湧き上がる欲求であると私は認識している。
ところが、SNSの世界における承認欲求というのは、あまり良い意味で用いられない。例えばそれこそTwitterだと、たくさんのいいね欲しさに嘘の投稿をしたり、というところが見られたときに、承認欲求が強いと揶揄される。

正直な話をすれば、SNSをやっている人間にも当然ながら多かれ少なかれ承認欲求があるはずで、微塵もないというのならそもそもアカウントを運営する必要もない。承認欲求のある人間が、誰かに向かって「承認欲求が高いな」などと口にするというのは、実はこんな滑稽な話もない気がするのだ。

みんなそれなりに、自分のことを認めてほしい、自分という存在がこの世にあることを認識してほしい、そう思うこと自体は自然な心理なので問題ないはずなのだ。SNSでは、一体誰が最初にそんな揶揄を始めたのだろう。最初に言った人間とて、お前にも承認欲求はあるだろうが、という話である。ない、とムキになったところで、否定するメリットなど何もない。そのことによってマウントを取ろうとしていたあなたは、承認欲求がなかったと言えるのかと。


というのが、一般的な「承認欲求」という言葉に対する認識だと私は思っているのだが、櫻坂はこの言葉をどう料理するのだろうか。いや、秋元康はこの言葉を彼女たちにどう料理させようとするだろうか。

確かに、欅坂から進化した櫻坂、その路線の元を辿れば人と人との関わりよりも、内なる自分に焦点を当てた歌詞の世界。だとすると、そこにこの承認欲求という言葉をプロットするとするならば、自分には承認欲求などなくていい、でも誰かと関わっていたいというアンビバレントな世界観を描くのか(欅坂の7thシングルこそ、まさにこの「アンビバレント」であった)。

そうではなく、アイドルという立場から、自分のことをみんなに知ってほしい、その知ってもらえているということを理解することで、自分の活力になるのだと、自らのアイデンティティが形成されていくのだという世界になるのか。

はたまた、Anthem timeのように、まさにBuddiesからメンバーに向けた曲なのか。自分というファンがいることを認知してほしい、そのためにミーグリに通い、レターも送り、LIVEではタオルやうちわを掲げることで、自分がそこにいるということを伝えたい、さらにはそれをすることで、ファンとしてのアイデンティティが保たれる、というこの生々しい心理状態を歌詞にするのか。

それとも、私のような凡人では全く予想すらできない曲の世界が展開されるのか。

本当のことを言えば、アイドルやBuddiesのそれは、承認欲求というより、自己顕示欲の強さに関わると思ったりもする。アイドルというか、芸能人全般に言えるだろうが、もちろん個人によって大小はあるにせよ、全く自己顕示欲、つまり自分を目立たせたいという欲がない人は芸能人にそもそもなろうと思わないと考える。
承認欲求というのはそれとは少し違って、何もしていなくても、自分がここに存在するのだと、周囲に認識してもらいたいという欲求のことだと理解している。

だからそもそも、SNSで揶揄するときに使う「承認欲求が強い」という使い方は正しくなくて、それは「自己顕示欲が強い」ということなのだろうと思っている。
まぁ言語の正誤はともかく、おそらく秋元康のことだから、SNSにおける承認欲求という言葉の使い方にアプローチしてくる可能性の方が高いとみている。なにせ、あの「流れ弾」でネットにおける問題点をストレートに櫻坂に歌わせた張本人なのだから。

ただ、欅坂からずっと見てきた私は思うのだ。
この言葉は、おそらく欅坂46時代の「僕」のような、内省的な人にフォーカスする方が、より相性が良いような気がする。


話は振り出しに戻るけれど、承認欲求そのものは決して悪いものではないはずだ。人間の欲求の中でも高次元に位置するもの。自分の存在を認めてほしい、ということの、何がマイナスな意味なのか。
この言葉にマイナスイメージを持たせたのは、それこそネットに巣食う人間どもの、愚かな行動によってその欲求を満たそうとする行為と、それを評価した人間である。誰かの注目を浴びる、それも多ければ多いほど、注目をされることの蜜の味を知る。そんな人間が、さらなる注目を浴びようとして、一線を越える。そんなことが頻繁に起こったがために植え付けられたイメージに過ぎない。


だとしたら、櫻坂はこの言葉をどう料理する。


そしてもちろん。


その言葉の料理を、私はあの人が真ん中で担ってほしいのだ。



もちろん誰が真ん中であろうと、どんなフォーメーションであろうと、勝負曲には違いない7thを応援しないわけがない。



果たして。

noteの中でも、櫻坂46・日向坂46に特化した内容ですので、特に二つのグループの推し活を経て、皆様に文章で還元できるよう努めてまいります! よろしければサポートをお願い致します。